98.『あっちの世界』の父と子と
“戦士の護り紋”には祖先の霊が宿り、力と加護を与えるという――……
いつかマグニが、誇らしさに頬を赤らめて、教えてくれたことだ。あたしは、それを日本人にも親しみ深い祖霊信仰だと理解したけど、刺青の力は魔除け願掛けではなかった。彼らの祈りは、信仰ではなくもっと実際的な魔術だった。
「ど……どういうことだよ。あんた、本当に“雷神”ナントカって人なのか? 自分の子どもに、いったい何をしたんだよ……?」
混乱するあたしに、マグニの姿を借りた者が口を開く。その声を聞くほど、あたしははっきりと、喋っているのがマグニではないと感じた。
「この子は、この刺青のことを、何か話しませんでしたかな?」
「マグニは……祖先の霊が宿ってくれるって、嬉しそうに言――……」
あたしは目を見開いた。“祖先の霊”が“宿る”……それは、仏さんが守ってくれる的な意味じゃなくて、文字通りそうだと?
「待ってくれ、冗談だろう……?」
「あんた達は、そのために自ら命を絶ったってのか?」
マグニ/トールは黙ってじっとあたしを見つめた。沈黙こそ雄弁な答えだった。
何て戦い方をするんだよ、北方の戦士。
彼らは、自分自身が“祖先の霊”になるために、自決したんだ。父は死を選び、我が子の体に憑依する。あどけない姿で油断を誘い、虎視眈々と隙を狙って、最後のひと太刀を浴びせるがために。
何で、そうまでして戦うんだ、狂戦士達よ。
「それは、“雷神”……勝つための戦いじゃないだろう……?」
虜囚として朽ち果てるのではなく、戦士として散るために。
「あんたはそれで良くても、マグニはあんたの道具じゃないだろう!」
「ああ、この子は道具ではないさ――……」
マグニ/トールは冬の海のような瞳で、あたしを見据えた。
「この子らは、誇り高きオーディンの戦士だ」
“雷神”の語気は異名に違わず、雲間を走る雷光のように鋭さを帯びる。
「アスガルドの子らは戦士だ、それは否定してくださるな。おつもりのないことは承知しているが、彼らを侮辱することになる」
重々しい言葉は、まるでひとつずつがハンマーのひと振りだ。
「我らは無理に彼らの体を奪ったのではない。我らと子らは護り紋を通じ、多くを語り合った。彼らは十分に理解し、覚悟を決め、そして定めを受け入れた」
「それは――……だけど、子どもだ」
「されど、戦士だ」
マグニ/トールは鉄槌を下すように、断固言い放った。でも、あの子達は……あたしは、あの子達を……
「子どもだッ! 大人の勝手で連れて行くな、“雷神”! 死んで終わらそうとすんな、残して行け、生かしておけ、“雷神”――……」
「できんッ!」
ついに――……“雷神”トールの雷が落ちた。
「それはソレラの考えだ。それは教会の考えだ。それは女の考えだ。それはカルーシア人の考えだ。それは勝者の考えだ。それは、我らの考えとは違う」
「アスガルドの民には、誇りは死よりも重い。ここにいれば、いずれ子らはカルーシアに与することを強いられるだろう。娘達とて同じこと。理解してくれとは申さぬ、だから、そちらも理解せよと言うてくださるな」
「我らは、相容れぬ。故に、愚かにも100年をいがみ合うているのだ」
「断てませんか、“雷神”……?」
「断てませぬ。このわしも愚か故に」
そう言って笑ったトールは、とてもマグニに似ていた。マグニの顔で笑ってるんだから、当然なんだけど、その笑い方はやはり父子なんだと思った。
ルードヴィク所長は言っていた、北方の子らは狼の子。北の狼、はぐれ狼。狼の引いた一線を、人は軽々しく越えてはいけない。
「ソレラもカルーシアの民ではないでしょう……その髪と目は、東方の民だろうか……いずれ、我らの間に遺恨はありませぬ。私が孤児院でそなたを待ったのは、言い争うためではない、ただひと言、礼を言いたかったがため」
「孤児院で待てばお会いできると、この子らが言ったがためだ」
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“雷神”がそう言葉を閉じると、すうと護り紋様の光が薄れ、少年の首ががくりとうな垂れたかと思うと、静かに顔を上げた。
「マグニ……」
気づけばあたしは手燭を取り落とし、少年の肩を抱き締めていた。少年の小さな手が、少し躊躇いがあってから、あたしを抱き返した。
「ソレラ……」
「何を……やってんだよ……?」
「ごめんなさい、ソレラ」
「ナリ、お前もこっち来いっ!」
「え? お、おう……」
暗がりの少年が、びくっとして、それからおずおずと近づいて来た。あたしが捕獲して、頭を抱え込むと、悪戯小僧は形ばかり抵抗して、すぐ大人しくなった。
「お前ら、バカヤロー……こんなことしろって、あたし、教えたかあ……?」
「ごめんなさい、ソレラ……」
「ソレラ……な、何かいつもと感じ違うな……」
「うるせーな、これがあたしの素だよ、バカヤロー……」
「……あたしが止めても、行くんだな?」
「……はい……」
「自分達で決めたことなんだな?」
「……はい……」
「そうか……」
「そうか――……だったら、仕方ねーよな……」
もう、あたしは涙で何も見えなかった。だから少年達が泣いていたとしても、あたしには判らなかった。
「ソレラ、本当にごめんなさい」
「今までありがとう」
「さようなら――……」
あたしは袖で、涙を拭った。
少年達は、笑っていた。
先生、さようなら。みなさん、さようなら――……
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戦士の護り紋が再び輝きを取り戻し、マグニとナリは、行ってしまった。もう二度と、あの子達に会うことはないだろう、たぶん。
「ソレラ、我が子らが……いや、私自身も、そなたと会えて良かったよ」
戻ってきた“雷神”は、深くあたしに頭を下げた。
「娘のことも礼を言う。最期まであなたは、スルーズの傍にいてくれたと聞いている。あなたのおかげで、あの子の魂は救われた」
あたしは拳を握り締めて、もう外聞もなく顔をぐしゃぐしゃにしていた。
「誰も……救えてねえよ……あたしは、誰一人助けられなかったよ……」
“雷神”は静かに首を振った。
「いや、救うてくださったのだ」
「この北の果て、この石の建物では、温もりとは得難いものなのだから」
それを最後に、“雷神”とその息子はあたしに背を向けた。
「さらばだ、心優しき戦場の乙女よ」
ああ、行ってしまう……戦士達が逝ってしまう――……
「“雷神”――……!」
「それは、自分の子を犠牲にしてまで、しなければならないことなのかよっ?」
北方の戦士が足を止めた。
「その問いには、部族の長としてか、父としてかで、別の答えを返そうよ」
振り返って朗らかに笑って、部族の長は去って行った。
「そなたに、フリッグ神の加護のあらんことを――……」
“雷神”を腕組みして見送ったナリが、にやっと笑った。
「あんた、どことなく俺の女房に似てんだなあ。ウチの坊主も、最後に母ちゃんに甘えられて、嬉しかったと思うぜ」
そう言って、ナリは自分の細い胸板と腰をぱんぱんと叩いた。
「俺ァもちっと、この辺りがどっしりとしてる方が好みだがねえ。ま、嬢ちゃんも後10年くらいしたら、脂の乗ったいい女になるだろうさ」
実年齢からだと20年後かよ……そこまで若く見えるか、日本人。
「“悪神”ロキ……あたしは砦にも大切な人がいる。あんたの武運は祈れねえ。けれど……あんたの魂に、救いが訪れるように祈るよ」
“雷神”の右腕と呼ばれる男は、実に稚気に溢れた笑顔を広げて、
「ありがとよ。ついでにひとつ頼まれてくれるか?」
「何だ?」
「ナリの代わりに、ジェネの親父に謝っておいてくれ――……」
“悪神”ロキは身を投げるように陰に飛び込むと、溶けて消えた。
そしてあたしと、存在する意味を失った孤児院が残された。
いや、ソレラ・クララベルも、もう存在する意味はないだろう。
手燭の火は落とした時に消えていた。僅かな灯りと静寂の中で、目を閉じると薄闇は暗黒に塗り潰され、半ば予想した通りに――
あたしはまた、アプコ・オース側を離れた。
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けれど、猪ノ口病院側に戻った訳でもなかった。
あたしが来たのは、あの白日夢の”世界”、赤い目の少女と出会った、明るいとも暗いともつかない、曖昧で朧気で胡乱な場所だった。少女は前のように、足元に大きな犬を寝そべらせて、佇んでいた。
柔らかく被った黒頭巾から、薄い白銀の髪を覗かせて、深い赤色の瞳が覗いて、じっとあたしを見つめていた。
ねえ、異世界監視人さん。”世界”って、辛いね。
「るああ。そうかい?」
うん、あたしは、何もできなかったよ。
「そんなことないだろう」
ううん、できなかった。
元の“世界”ではさ、あたしは死にかけててさ。あっちの“世界”じゃあ、みんなが死にかけててさ。なんか、辛いことばっかだな。意味がないよなあ。どっちの“世界”にもイヤになっちゃうよなあ。
異世界監視人は、少し悲しそうな目であたしを見ていた。その目をあたしは知っていた。その唇が動いて、綴った言葉も知っていた。
「あの子らと過ごしたお前の時間に、意味がなくなんてないよ」
でも、あたしはあの子達の命を助けられなかった。
「あの子達の心は助けたよ」
「るああ。結果だけじゃないだろう? 結果だけなんだったら、いずれみんな死ぬ、いつか全ては消える……だとしたら、アタシは何のために――……」
理解るけど……理解るけど、けれど、空っぽの部分が大き過ぎるよ。
「“半分”だよ」
“半分”――……
「“グラスに半分の葡萄酒”、いつだってそれは“半分”なんだよ」
そう……なんだろうか。そう、なんだろうな。そう、思うしかないよね。
「お前の“世界”にも、お前を待っている奴がいるぞ」
あたし、こっちの“世界”に戻っても死なない?
「死なないよ、すぐにはね。こっちの“世界”には葡萄酒は半分」
あっちの”世界”で、また子ども達に会える?
「別の子達、にね。先生ってのは、出会って、別れて、見送る仕事だろう? あっちの“世界”にも葡萄酒は半分」
「さあ、スズ。お前はどっちの“世界”を選ぶ――……?」
そうだね、あたしが選ぶのは――……




