97.『あっちの世界』の戦士の刺青
またも、猪ノ口病院側に引き戻される。
今度は、頭を掴まれて吸えない空気の中へ突っ込まれることへの心構えがあったから、前ほどの打撃は受けなかった。
薄く目を開くと、奇妙にわざとらしく見える、人工的な光に目が眩んだ。こっちの“世界”のあたしには、この“痛み”がある。
息を喘がせながら、浮かび上がれない。あたしはこれまでにない苦痛の深みに、沈み込んでいく。やがて、意識せざるを得なくなる。この苦しみの底にあるもの、そこに待つモノ……それはたぶん、二度と光の当たらない場所……
そのことを、きちんと胸に刻んで――……
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……――あたしは、アプコ・オースに戻ってくる。
両方の“世界”が、あたしに決断を迫る。それぞれの“世界”のグラスの、葡萄酒の注がれていない空の部分を突きつけて。だったら、あたしはその空の部分を、ちゃんと覗き込まないといけない。
その結末がどうであれ、見届けないといけない。
(おっちゃん、御免よ……)
カピタン・ジェネ・ビーヴに心の中で詫び、あたしは肩掛け毛布を胸元でしっかり留め、意を決して扉を開けた。
職員区画と孤児院区画を隔てる3枚の分厚い扉は、全て鍵の開いたまま捨て置かれていた。カルーシアの兵士とも、その、襲撃者……とも、ここまで出くわしはしなかった。何が起きているか判らないけど、事態はおそらく軍部の区画を舞台に展開しているのだと思われる。ここは言うなれば舞台袖……
だとすると、おっちゃんはわざわざ、あたしを心配して来てくれたのか。
こんな時だけど、ちょっとキュンキュンするな。
足を踏み入れた孤児院区画は、しんと人気がなく、僅かな灯りが申し訳程度に闇を緩めている。日中は子ども達がそれなりに賑やかにしているから、放課後の校舎に似た落差の大きな寂寥感が漂い、まるで見覚えのない場所のように錯覚する。
結局、今の時刻はいつぐらいなんだろうか。
ふと、風邪引きスルーズの看病に来た、あの夜のことを思い出した。
「ソレラ……ソレラ・クララベル?」
その時不意に薄闇から声がして、あたしは喉から心臓が飛び出しそうになり、慌てて後退って、挙句躓いて尻もちをついた。
「お……おお、大丈夫ですか、ソレラ?」
暗がりの向こうの声も慌てた。くそ、大丈夫じゃねーよ。下手しぃ椋田鈴ちゃんだったら、心臓止まってんぞ。
「だ、誰です、そこにいるのは?」
左手を床に着いて身を起こしつつ、右手の手燭を突き出す。乏しい灯りに浮かび上がった、思いの外小柄なその人影は――
「マグニ……!」
傍らのテーブルに掴まって立ち上がり、灯りを差し出すと、少年が顔の前に手を翳して目を細めた。マグニの後ろには、もうひとつ知った形の影がある。
「そこにいるのはナリですね? 良かった、二人とも無事だった……?」
二人に駆け寄ろうとしたあたしの肩を、追いついた違和感が引き留めた。
いったい何が――……二度目を瞬いて、はっと見開く。
マ……マグニとナリが光っとる……?!
ほう、美少年もこのレベルだと、ついには光るか……? いや、んなわけあるかい。落ち着け、ソレラ・クララベル。眉間に皺を寄せて睨むと、仄かな光を放つのは、少年のはだけた上着から覗く“戦士の護り紋”――マグニの肩から胸を覆う呪術の刺青だった。
曰く祖先の霊が宿るという神聖文字のひとつひとつと、入り組んだ飾り線が、夜光塗料のような朧火に闇に浮かび上がっている。
正直ちょっと驚いたけど、あたし的にはカルーシアはファンタジー寄りの世界だと思っているから、腰抜かしちまうようなことはなかった。現にあたしだってショボイながら魔法が使えんだ、そりゃお前、ショタだって光りもするだろーよ。
映画やゲームの特殊効果みたいだな、と思えば、これくらいの非現実は横に置いとける。そんなことより……
「二人とも、無事だったのですね。良かった」
あたしにとって今大切なのは残りの孤児達の安否、それに況して――……
(ソレラ……砦を襲っているのは、どうやら孤児院区画の子ども達らしい)
ジェネのおっちゃんの言葉、第一のことはその真偽だ。そして、マグニとナリの二人が孤児院区画に留まっている。この二人は年長の男子であり、部族の長達を父に持つことから、自ずと孤児達の中心にある。マグニとナリがここにいるなら襲撃者は別だ、あたしの心配は杞憂だったってことになる。なってくれる。
と、マグニとナリを見つめるあたしの、“眼”が――
“魔女の薬草学”を発動させた。
なぜ、今……? 困惑する持ち主を無視して、あたしの“異世界能力”は少年達のステータスを読み取る……――“異常”だった。
怪我や病気があるのではない、具体的な数値が“視”える訳じゃないけど、身体能力が大きく底上げされているのが判別できる。言うまでもなく“戦士の護り紋”、光る刺青に因るものだ。
護り紋は単なる魔除けやお呪いではない。“強化魔法”の効果を持つ象形術式だ。けれど、そんなことは重要じゃない。全ッ然、重要じゃなかった。
「あなた達は……誰なの……?」
“魔女の薬草学”は“視”る。ステータス異常を。マグニとナリの肉体に起きている異変を。その精神状態がどうあるのかを。その器を満たしている、魂の形が、マグニとナリのものではないことを。
「ソレラ・クララベル……」
マグニが口を開く。あたしの知っている声で、あたしの知らないアクセントで、あたしの名前を呼ぶ。お前は……?
「ひと目でお気づきになるとは、異民族の子らに、それほど真摯に向き合ってこられたか。それとも、神々の番人の目と耳をお持ちなのか」
マグニの姿をしたそいつが言うと、背後からナリの声の含み笑いがした。あたしは、手にした得物にもならない手燭を、二つの影へと突き出す。
「お前は、誰だ?」
暗がりで、ひゅうとナリの形の者が口笛を鳴らした。
「これはこれは、勇ましいな。どうやらそれが本当のあんたらしい。まるで北方の女だ。実に結構、お会いできて光栄だよ」
「おい、この方に無礼を申すな」
揶揄い混じりのナリの声を、マグニの声が咎める。この二人、まるで……
子ども達の声を借りて、大人が喋っているようだ。
「お前ら誰だ、あたしの子ども達に何しやがった?!」
後先も考えず、あたしは二つの影に叫んだ。奴らがどうにかして子どもらの体を奪ったのだったら、自分はもちろんマグニ達も危険に晒しかねない軽挙だったが、相手は喉の奥で小さな呻きを鳴らした。
「“あたしの”……“あたしの子ども達”、とはね……」
後ろの方の影がぼそりと呟いて、少年の視線を陰へと逸らした。
前の方の影が、おもむろに足を踏み出した。燭台を身構えると、掌を肩まで差し上げる。敵意はない、というのだろうが、信用できない。
彼我の距離が少し縮む。
あたしの光源の範囲に達した影は、金色の髪、冬の空の色の瞳、あたしでも折ることのできそうな華奢な首、何て儚い、まるであなたはお人形さん――……
けれど、その顔に浮かんだ微笑みを、あたしは知らなかった。
「ソレラ・クララベル。あなたが囚われた異民族の子に、如何様な時間をお与えくださったか、今のひと言で何より雄弁に語られました。私は一族の長として、下げる頭が見つかりませぬ」
マグニはそう言うと、映画の任侠さんのお辞儀のように、両膝に手を置いて腰を落として背を丸めた。
あたしは言葉の意を酌めず、きょとんとしてしまった。
確かに、部族の大人達がみな命を絶った今、族長の子たるマグニは、事実上の新しい長であるのだろう。そういうことを言っているのかと、あたしの困惑した推測は、しかし次の言葉に容易に覆る。
それは、まさしく稲妻に打たれるような衝撃をあたしに与えた。
マグニは静かに口を開く。護り紋の光が、僅かに強まって見えた。
「我が名は、トール――……北方部族の長“雷神”トール。そして、こちらに控えるは我が片腕、ロキ……」
ナリがあたしの振り返り、にっと笑って軽く会釈した。は……? おい、マグニ……お前、何を言ってんだ……?
二人の子どもは、幼い顔に、老成した表情を浮かべて、あたしに語り掛ける。
「今この魂を宿すマグニとナリ、私らはこの子らの父親なのです」
全く意味の理解らねえ、聞きたくもねえバカげた話を――……




