96.『あっちの世界』の混乱の砦
“転移”は、とりあえずカルーシア側で一旦落ち着いた。
あたしは急いで服を着替え、簡単に身繕いして、手燭を取って、部屋の扉を開けた……――しん、と静まり返っている。もう相当遅い時刻なのだろうか。部屋から一方踏み出そうとして、
(……?)
あたしはアプコ・オースが、完全な静寂に包まれてはいないことに気づいた……かなり遠く離れた足音を、騒めきを、石壁の反響が運んでくる。
あたしは首だけ廊下に突き出して、息を潜め、耳に全神経を集中した。しばらくして、足音のひとつが、こちらに向かって近づいてくるのが聞こえた。
どうしよう、このまま部屋を出ようか。それとも戻ろうか。優柔不断な者がするのは、常に選ばないという選択だ。上半分は廊下、下半分は室内という、いかにも今のあたしを象徴した体勢でいるうちに、相手は角を曲がって姿を現した。
「ソレラ! 目を覚ましたか!」
足音の主は、ジェネのおっちゃんだった。槍を抱えたジェネ隊長が、薄暗い廊下を小走りに駆けて来た。
「ああ、良かった。心配しておりましたぞ、ソレラ」
「……! ジェネ様、血が……!」
あたしに笑顔を向けたおっちゃんは、しかし、人の心配してる場合じゃなかった。左の二の腕から、だらだらと血が流れている。
「ああ。こんななァほんの掠り傷……」
「お見せください!」
あたしは有無を言わさずオンクを腕を取ると、目を固く閉じ、ぱっと見開いた。
“魔女の薬草学”――あたしが唯一持っている“異世界能力”は、薬学全般に通じる知識に加えて、対象の体調や怪我の具合をステータスとして見ることが出来る。あたしの目で診たところ、ジェネさんの傷は幸い深手ではないが、かと言って唾つけておきゃあいいって訳でもない。
あたしは大きく息を吸うと、小さく治癒魔法の呪文を詠唱する。
「こ……これは……」
「私の力では、血止めが精一杯ですが……」
怪我した腕を取る手から、癒しの力を注ぎ込む。魔法の光に淡く照らされるあたしの顔を、おっちゃんは目を丸くして見つめている。
あたしが手を離すと、ジェネのおっちゃんは腕を矯めつ眇めつした。
「こいつは驚いた……まさか、魔法をお使いになるとは」
「信仰の力です」
あたしは天使の猫被りで、抜け抜けとぶっこいた。
「……子ども一人救えない、つまらない力です」
「ソレラ……」
「ああ、触ってはいけませんよ。血が止まっているだけですから、きちんと手当はしないと。部屋にお入りください。幾らか薬を置いてあります」
「いや、もう平気だ。血さえ止まれば、後は……」
「カピタン・ジェネ・ビーヴ!」
「うむっ?!」
孤児達を叱る時の声音を出すと、髭のおっちゃんがびしっと姿勢を正した。
「兵職にあるお方が、自分の体を蔑ろにして何とされます。つべこべ言わず、あたしの言う通りになさい」
隊長様は目を白黒させて、
「ううむ……しかし、何だその、娘御の部屋に、わしのようなむくつけき男が立ち入る訳には、その……」
真面目か、おっちゃん。
あたしは尻込みするジェネさんを、半ば無理矢理部屋に引きずり込んだ。
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椅子に座らせたおっちゃんの腕に包帯を巻きながら、
「それで、私はあれからずっと……?」
そう訊いてみた。手当と言ってもティートリーとゼラニウムを調合した、精油を塗るのが関の山だけど、あたしの“眼”で診る限り、炎症さえさせなければすぐに良くなるだろう。
「何やら、ご婦人の香水のような匂いの薬ですな」
ジェネさん、トップはウッド系、ミドルにフローラルのアロマが漂わせ。
「孤児院区画で気を失われて、失礼ながら、わしが部屋まで運ばせてもらった。んっ、その、着替えは、雑用の婦人方にさせたから、まあ、心配せんで宜しい」
お前こそ気にせんで宜しい。おっちゃん、意外とそーゆーとこ紳士だなあ。
「大変お世話をお掛け致しました。お礼を申し上げます、ジェネ様」
「何の。警備兵の務めですわい」
「それで、ジェネ様……」
「そのお怪我は、いったい……?」
ジェネさんの顔色が変わった。椅子から立ち上がり、壁に立てた槍を手に取ったには、おっちゃんではなく、部隊長のジェネ・ビーヴだ。
「襲撃――……のようなのだが」
襲撃?! ……はいいが、いや、良くはないがカピタン・ジェネ、何とも歯切れが悪い。腕に怪我まで負っていて、「ようなのだが」もないもんだ。するとあたしの心の声が漏れたか、ジェネさんは腕を摩り摩り、
「その、はっきりせんことを申すのは、表立った襲撃ではなくてな。どうやら砦に何人か、潜兵が紛れたようなのだ」
潜兵……つまりアプコ・オースで、ゲリラ戦が始まったってか、これ? それとも暗殺者的なのが潜入した? ゲームだと“敵地への潜入工作”すんのはプレイヤー側だろ。いや、ゲームと一緒くたにしてる場合じゃないけれど……
困惑が顔に表れたのだろう、ジェネさんは左の手当てした方の腕を伸ばし、あたしの肩にごつごつ節くれた手を置いて、
「おお、有り難い。ソレラのお蔭で、すっかり痛みが引きましたわい。これならこのジェネ・ビーヴ、三人前の槍働きをしてくれましょうぞ」
少し無理の見られる笑顔を浮かべた。と、顔を引き締め、
「ソレラ、とにかく今は部屋から出んでくだされ。敵は玉砕覚悟の少数兵、立て籠もった非戦闘員に構っている余裕はない。ここにいれば安全だ」
「はい……いえ、ですが、ジェネ様」
厳密には修道女は部外者、非常時の兵士の指示は絶対だ。
けれど、あたしには、ある意味自分の身より大切なものがある。
「子ども達は? あの子達は無事なのでしょうか?」
孤児院区画の子ども達、あの子達を守るために、あたしは今一度だけソレラ・クララベルであることが許されたんじゃないのか。ジェネ・ビーヴはあたしに背を向けて、扉へと足を踏み出した。
「あの子らは……大丈夫だ。状況を見るに、敵は北方国の手の者の他にはありえない。ならば孤児院の子らに危険が及ぶことはあるまいよ」
おっちゃんの声は頼もしく、あたしはほっと安心しそうだった。
おっちゃんが振り返る前の一瞬、歪む表所が見えていなければ。
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何か判らないけど、おっちゃんは隠し事をしている。なぜか判らないけど、おっちゃんは嘘をついている。ってことは、子ども達は大丈夫じゃないんだ。
「ジェネ様、やはり私は孤児院区画へと参りま……」
「いかんッ!」
思わず身が竦むほど、カピタン・ジェネは鋭く怒鳴った。顔色を失くしたあたし、声を荒げてしまったジェネさん、顔を見合わせ重い沈黙が流れる。
と、ジェネさんは鼻から深く長く息を吐き出し、目を閉じた眉間を、人差し指と親指で揉んだ。そして開いた目は、はっきりと苦悩が刻まれていた。
「ソレラ……既に何人か、こちらに犠牲が出ておる。かく言うわしも、ほれ、恥ずかしながらこの通りですじゃ」
「…………」
ジェネさんは腕の包帯に目をやり、薄く苦笑いした。
「しかし、このジェネ・ビーヴ。己に傷を負わせた相手の顔も判らんほど、不覚を取ることはありはせん」
おっちゃんはそこで口を噤み、ひとつ吸って吐いて、また口を開いた。
「ナリだったよ――……」
「……――えっ?」
単語の意味を飲み込みかねて、ぽかんとするあたしに、
「あの悪ガキめ、暗がりからいきなり切りつけてきおって。気配にゃ気づいたものの、驚いて、避け損のうてしまったわい」
ジェネさんは努めて軽く言おうとして、あまり上手くいかなかった。
「ソレラ、孤児院区画の扉が破られた。内側からだ。孤児達は全員区画から姿を消して、まだ誰も見つかっておらん……」
「ソレラ……砦を襲っているのは、どうやら孤児院区画の子ども達らしい」
これまでにも……何回も経験があった。この、耳から言葉は入って来んだけど、すぐに意味が理解出来ない、この感じは。
自分の体のせいで、あることを諦めないといけないと告げられた時。悪意のない元気な子に、悪意のない、だけど悲しい言葉を投げつけられた時。病院で出来た友達が、ある朝、もう会えないところへ行ってしまったと知らされた時。
そういう時、言葉は拒む心をすり抜けて、じわりと頭に沁み込んで来るんだ。
たぶん、あたしが我に返ると面倒だと察したのだろう。
「信じられんと思う。信じたくないと思う。理解るよ。わしだって、そうさ。だから信じんで構わん。だが指示には従ってもらう。ソレラ・クララベル、部屋から出てはいかんぞ。良いな?」
ジェネのおっちゃんは有無を言わさず、返事も待たずに部屋を出て行った。
がちゃん――……取り付く島もない音で扉が閉まると、部屋では、窓の外を過ぎる風の恨みがましい声しか聞こえなくなった。一人取り残されたあたしの頭に、じわり、ジェネのおっちゃんの言葉の意味が沁み込んできた。
孤児達が……?
言葉が沁み込んだ頭が返してきたのは、「まさか」と「まさか」。ひとつ目は、
「まさか、そんなことある訳がない!」
で、二つ目は、
「まさか、本当だったらどうしよう?」
吹雪の吹き荒れる声を聞きながら、否定と焦りの感情に板挟まれて動けない。
……――孤児院区画に行けば。
そう、いずれにしても、あの子達に会わないと、何も判らない。ジェネさんの言いつけは破ることになるけど、やっぱりあたしは孤児院区画に行かなくてはならない……と、またもあたしは、不意の眩暈に襲われる。
ちくしょう、嵐に揉まれる船に乗っているようだ。立ってる場所が覚束ない、確固と寄り掛かれるものが何もない。
この難破船は、いったいあたしを何処へ連れてこうってんだ……?




