95.『こっちの世界』と『あっちの世界』
その子は、コトレットさんと同じ銀色の髪、銅色の頬、赤く釣り目がちな大きな瞳をしていたけど、年恰好はちょうどあたしと同じくらいだった。その子の足元には、狼みたいに大きいけど、もふもふで優しい目をした犬が寝そべっている。
「るああ……」
その子は、口癖もまたコトレットさんと同じだった。
「スズ……なーふ、それともソレラ・クララベルと呼んだ方がいいか? やっぱり、もっかいあっちに――カルーシアに行きたいかい?」
あ……あなたは誰?
「アタシはお節介な異世界監視人さ。いいんだよ、アタシのことはどーでもさ。今は、お前にあっちの“世界”に行きてーのかって訊いてんだよ」
行きたい。あたしは、あそこで、あの子達に……
すると少女は、手をきゅうと丸めると、猫みたいに頬っぺたを擦った。
「うーぷす。スズ、人間には”世界”を幾つも持つことは出来ないんだよ。今のお前は、結構不安定な状態なんだ。アタシとしては、心残りはあるだろうけど、このまま元の“世界”であっちのことは思い出にしちまった方がいいと忠告しておくぞ。今ここで、こっちを選んでも、それだって自分で決めたことになるだろ」
「それとも……“カルーシアを選ぶ”という選択肢もあるっちゃあるけれど、こっちの“世界”は捨てるには失うものが大きいし多いだろう? それにあの“世界”の“あの場所”は、やっぱりスズには過酷に過ぎる場所だよ」
あたしの心にマグニやナリ。孤児院の子ども達の顔と、史緒さんに和音に柚子ちゃん、そしてお父さんやお母さん、友達と家族の顔が交互に浮かんだ。
「るああ。言っておくよ――……」
「どっちの”世界”にも、たくさんいいところがある。そして同じくらい、辛かったり苦しいこともある。こちらの“世界”でお前はそれを感じてきただろうし、あちらでも見てきたはずだ。いいかい、もしもう一度あっち側に行くってのなら、お前は最後の選択をする前に、両方の”世界”の、葡萄酒の注がれていない空っぽの部分の現実と向き合うことになるだろうよ」
「だけど、それでも、行きたいと言うのなら――……」
あたしは――……
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「それでも、行きたい」
目を開くと、眩暈はもう去っていて、それとともにあの少女の姿はなく、傍らにいるのは元通りコトレットさんだった。
……何だったんだ、今のは。よもやどこかに“転移”したかとも思ったけど、だったらコトレットさんが驚いてるはずだから、主観ほど意識の空白はなかったようだ。
じゃあ白日夢だったかと言えば、あの赤い目の少女の存在は現実的で、語り掛けてきた言葉は、はっきりと覚えてはいなかったけど、あたしが妄想で紡ぐには、あまりに暗示的であったような気がする。
いずれにせよ、あたしの発言は、コトレットさんには意味不明だっただろう。
けれども異国のばーちゃんは、この突発性情緒不安定のアホの子を見つめ、古い木の枝がさわさわと葉を鳴らすように、
「行っておいで」
そう言って、笑った。
「るああ。スズさんなら、きっと大丈夫さ」
やっぱりコトレットさんの「大丈夫さ」は、あたしを安心させてくれた。笑ったコトレットさんの赤い目は、だけど、憂慮とも苦悩とも取れる色を隠し切れていなかった。その表情は私の中で……
あの赤い目の少女の寂しげな笑顔と重なった。
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その日の夕食の後、あたしは何日かぶりに、和音達と共用スペースのテレビを見て過ごした。番組はどっかのファミレスのメニューを順にタレントが食うだけとゆー、まさしく内容がないよーの60分CMだけど、不思議な白昼夢の中で決めた心を、コトレットさんに後押ししてもらって、また足を踏み出せそうな気がして、あたしにようやく、心配掛けた友達と一緒にいる余裕が戻った。
明日から、何か始まりそうな気がしていた。
もしかすると、今夜ベッドに入ってすぐにも。
あたしは予想もしていなかった。“その時”は、今だということを――……
丸ごとCMみたいな番組が、CMに入り、あたしはお茶を注ごうとソファから立ち上がった。サーバーへ向かって、二歩進んだその時――
「…………ぁ……」
突然、胸が締めつけられ、息を吸うことも吐くことも、出来なくなった。これは……この呼吸に来るのは今までにも何度も経験してきたけど、今回のこれは、“爆弾”だ――……
あたしは平べったい胸を押さえて、膝から床に崩れた。手からカエルちゃんマグカップが離れ、床でかこーんと軽い音を響かせる。
「スズ……?!」
誰かがあたしに気づいた声がした。あたしはただ、床に《うずくま》蹲ることしかできない。
「スズ、おい、どーした? おい、スズ?」
「す……スズねえっ?!」
「おい、和音、看護婦読んで来い! スズ、大丈夫か、しっかりしろ、スズ」
史緒さんが床に這って、あたしの肩の下に腕を差し入れてくれた。僅かに開いた目で、横にみた廊下を、おろおろする柚子ちゃんと、ナースステーションに走って行く和音が見える。そして、和音の背中の向こうに――……
コトレットさんがいる。
小児病棟に、ぽつんと佇んでいる異国のばーちゃんを、気に留める人はいない。コトレットさんの白銀色の髪に、火災報知機の赤い淡いランプが色を差す。コトレットさんは床に横たわるあたしに遠くから、ゆっくりと口を動かした。
(しっかり、選んでおいで)
コトレットさんは声を出さなかったけど、その声はあたしの耳に届いた。
そしてあたしの意識は暗闇へ、あの“世界”へ、最後の“転移”をすべく吸い込まれていった。
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目を開ける前に、馴染みのある寒さに気づいた。目を開けると、見覚えのある石造りの天井と剥き出しの梁が見えた。
アプコ・オース側だ……! はっとして寝台から跳ね起きたあたしは、さっきまでの呼吸困難の苦痛を思い出し、恐怖に身を強張らせた。が、一瞬前までの苦しさが嘘のように、あたしの体は平穏を取り戻していた。ただし、長い間ベッドにいたようで、肩と背中の筋肉に痛みがあった。おそらくこっちに来られなかった4日間、あたしは眠って過ごしていたらしい。
窓の外では冬の女王、つまり吹雪が金切り声を上げている。はっきりとは分からないけど、日のある時間帯ではなさそうだ。寝間着の上に毛布を引っ掛け、素足で床を探り、
「冷た……」
履物を探り当てる。書き物机の手燭に火を入れる。さて、どうしよう……
その時、あたしはまた眩暈に襲われ、咄嗟に机に手を着いて体を支える――……
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……――吐いた息を、肺が吸い込むことを拒む。
あたしは誰かに抱きかかえられて、運ばれていた。周囲で何人もの気配が、慌ただしく動き回るのを、まるで何百メートルも向こうのことのように感じる。
「スズ、しっかりしろよ、おい……」
「スズねえ! す……スズねえ……」
「落ち着けよ、柚子~。大丈夫だから、お前まで泣くなって~」
聞き覚えのある声がしたけど、誰かは判らない。あたしは、ただひと呼吸分の空気を求めて、喘いで、また気が遠くなって――……
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……――書き物机に手を着いて、肩で大きく息をした。清澄ながら如何せん冷え過ぎの空気を思う存分吸い込んで、胸の奥がきゅっと痛んだけど、自分の心臓に裏切られんじゃないかって不安は、今の体には感じなかった。
今、ほんの一瞬、元の世界に“帰って”いた。
その意味は、言わんとするところは、何となく察せられた。
”世界”が、あたしに何を突きつけようとしているのか、は……




