94.『こっちの世界』の背中を押す声
アプコ・オース砦に行けなくなって、4日が過ぎていた。
あの目を覚ましたままの“転移”を最後に、眠りはあたしを異世界に運ぶことはなくなった。マグニとナリ、フォルセティにフノス、ブラギ、ヴィーザル、ヘルモード、ホズ……孤児院の子ども達を思って気が気でなく、あたしは無闇に焦り、心ここに在らずで、何だかどちらの“世界”にも属していないかのようだった。
あたしはせめて寄り掛かる樹を求めるように、病院の裏庭の指定席、木陰のベンチに何度も足を向けたけど、あいにくいつ行っても、そこにコトレットさんはいなかった。あたしは彼女の病棟、病室がどこか、知らないことに気づいた。
その4日間、あたしは赤い目をした異国の賢者にも会えずにいた。
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「スズ~、お前ここ何日、何をふらふらしてんだよ~」
小児病棟の共用エリアのソファで、垂れ流しのテレビから床にぼんやり目を背けていると、ぞんざいであって気遣わし気な声が、背後から降って来た。振り返ると、コンビニ袋持った史緒さん、和音、柚子ちゃんの3人組が、よれたジャージやトレーナー姿で立っていた。
史緒さんは高1、和音は同いで、柚子ちゃんは小6。この病院で知り合い、年齢と大雑把な性格が似ていてよくつるむよーになった仲間だ。
「何かあったのかあ、スズ?」
年上でリーダー格の史緒さん、通称“フミねえ”の口ぶりは文字に起こすと乱暴なようだが、実際このメンバーの間ではお互い言葉遣いが“素になる”を通り越え、“ほとんど脳内がまんま口からだだ洩れる”だけで、耳にはキツくないのだ。
こんな口調の姉ちゃん、どんなギャルかヤンキーよ、と思いきや見た目はひっ詰め髪に眼鏡の、何か美化委員とかやってそーな感じだしな。
病院内で「何かあった?」は割とデリケートなひと言なんだけど、それが口にできるのがこの4人の距離感だ。
「うーん……学校の方のことでさ、ちょっとさ」
この3人にも、さすがに“異世界転移”の話はちょっと出来ない。当たり障りのない方向に誤魔化す……
と、最年少の柚子ちゃんが、
「学校かあ。そう言や、私はもう随分娑婆には出てねーや」
この子は一番齢の開きがあるせいか、姉貴分のフミねえに憧れがあるようで、だいぶ口調に感化が見られる。
小6にしても目立って小柄だけど、猪ノ口の子で、すくすくと健康的ってのはあんまりいない。
「もお、外の学校は行ってなさ過ぎて、私にはちょっとした“異世界”みたいなもんだなあ。スズねえは、時々異世界転移するけど」
一瞬どきっとしたが、柚子ちゃんの言うのは入退院を繰り返しているって意味だ。
「あはは、これが本当の“異世界転院”だなー。私なんて、教室に席はあるらしーけど、中学は一回も行ったことないぜ」
和音が他人事のように言った。このすくすくと健康的に背の高い少女は、あたしと学校は違うが同い年で、実は3人の友達の中で一番病歴が長い。
たぶん誰より体が辛いだろう天然娘は、いつも誰より呑気そうに笑ってる。
「カズ~、お前わたしと同じガッコーにしろよー。後輩になれー」
史緒さんは単位制高校に進学している。
「そーだなー。今度いろいろ教えてくれよ、史緒さん」
和音がにへらっと笑った。普通校への進学や通学に不安のあるあたしらにとって、史緒さんは良き先達であり、相談役だ。
「お~、いつでも何でも訊きなー。スズもだぞ~」
「悩んでることあったらさー、何でもわたしらに言えよな~」
そう言って、「肉まん食えよ」とコンビニ袋から中華まんの紙袋を差し出した。全部焼き鳥まんという攻めのチョイスは史緒さんらしかったし、それを肉まんと括ってしまうのも史緒さんらしかった。
「ありがとう、史緒さん」
あたしは少し温い“肉まん”を引っ繰り返し、台紙を剥き、付いていった薄皮を歯でこそぐ。目を上げると、4人とも同じことをしていた。
あたしは吹き出し、4日ぶりに笑った。
笑うことで、がちがちに固まった心が、少し解れた気がした。
あたしは焼き鳥まんを潰れない程度に握り締めて、
「あたし、ちょっと行ってくる」
ソファから立ち上がった。
「へえ?」「ちょ、スズねえ、何ね急に?」
和音と柚子ちゃんはぽかんとしたけど、史緒さんはへらりと笑って、
「お~、何か知らねーけど、行っといで~」
紙袋の口をあたしに向けた。
「もう1個持ってくか?」
あたしは首を振る。
「ううん……ひとつでいいんだ、ひとつで」
あたしは小児病棟を出て、裏庭へ、あの木陰のベンチへ急いだ。
今なら会える、確信めいた思いがあたしにはあった。
建物の角を回ると、植え込みの向こうに思った通り――
コトレットさんの、銀色の髪が風に靡いていた。
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「コトレットさん……!」
「るああ、スズさん。どうやら、ここ何日は行き違いになってたようだねえ」
薄い銀色の髪、明るい褐色の肌、深い赤い目をした異国の老女の微笑みは、柔らかな日差しの中で、とても長い年月大地に根差して立ち続けている大樹を連想させた。あたしの貧困な発想の中で、それは例の“気になる木”であったけれど。
「なーふ。ここ数日は、病院もバタバタしてたねえ。バスの事故だそうで、高校生が何人か運ばれてきたそうだよ。嫌だね、年寄りならいいってんじゃないけど、やっぱり若い人が大きな怪我をするってのは……」
あたしは半ば小走りで、その大樹の陰に駆け寄って――
コトレットさんに焼き鳥まんの半分を差し出した。
ベンチに並んで、二人、すっかり冷めた中華まんを頬張った。
「美味しいねえ。この国は、食べるものが美味しいからアタシは好きだよ」
温かかったら、もっと良かったんだけど。あたしは焼き鳥まんを二口で押し込んで、飲み込んだ。
「ねえ、コトレットさん……」
あたしは靴の爪先を見ながら言った。
「あたし、“逃げちゃった”かもしれない」
コトレットさんは以前に言った。何か二つのものを選ぶとして、どっちを選んでも結果的には後悔するかもしれないけど、どちらかを選んだんじゃなくて、どちらかから逃げたとしたら、どんな結果が出ても、必ず後悔が残るだろう、と。
あたしが“異世界転移”できなく――カルーシアに行けなくなったのは、孤児院での出来事にショックを受けたあまり、心があっちの”世界”を拒絶してしまっているからなのではないだろうか。
それってつまり、あっちの“世界”がイヤになって、こっちに逃げ出してしまったってことじゃないだろうか。
コトレットさんはあたしの横顔をちらっと見て、それからゆっくり中華まんを愉しみ、食べ終わると指先を擦り合わせた。
「別にいいんじゃないかね。“逃げちゃって”もさ」
顔を上げると、ばーちゃんはいつもの「にっ」とした笑顔だった。
「いい……の?」
「いいのさ。前に言ったのと違うじゃないか、と思うかもしれないけどね」
「三十六計、逃げるが勝ち。何も正面からぶつかるばかりが能じゃない、勝ち目がないと思えば、逃げるのだって立派な手段のひとつさ。嫌なことから逃げ回りながらでも生きてはいけるし、そうしたからって必ずしも不幸せになるとは限らないのがサヴィ――人生だ。その時はそうとは思わなくて、後になって『あの時自分は逃げたんだなあ』って気づくことだって、いっくらでもある」
「自分で決めて逃げた時と、知らない間に逃げてた場合の違いは、結果への心構えがあるかとうか、ってことだけさ」
「心構え?」
「そうそう」
コトレットさんの指が、あたしのショートボブを軽く撫でた……すいません、いいように言いました。“おかっぱ”です。お洒落じゃなくて、シャワーの後が楽であることを主眼にした髪形です。
「覚悟って言い換えてもいいね。自分が選んだ結果なら、そいつが不本意であっても、勝手にそうなったように思えることよりゃ多少諦めもつくもんさ。まあ、自分で決めたからこそ、悔いも一入って場合もあるけどね。どうしたって人生は“ケ・セラ・セラ”、なるようにしかならないし、なるようにはなるのさ」
「それが、“グラスに半分の葡萄酒”……?」
「ああ、“グラスに半分の葡萄酒”さ」
「だから、大丈夫さ、スズさん」
コトレットさんは、そっとあたしの肩を抱き寄せてくれた。やっぱりコトレットさんは大きな木のようで、寄り添うと安心し、大丈夫と言われれば本当に大丈夫だという気がした。
だから、あたしは――……
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この時、あえてコトレットさんから身を離した。
「コトレットさん、あたし、自分で決めたい」
コトレットさんは、あたしの顔を覗き込んだ。表情は穏やかなまま、赤い瞳だけどこか厳しく、あたしの内側を覗いて“何か”を探しているような目だった。それはたぶん、あたし自身が自分の中に見つけたいと思っている“何か”だ。
「あたしは、たぶん自分でも意識せずに、辛いことから逃げて来ちゃったんだ。けど、このままじゃ嫌なんだ。もしかすると、もうカルーシアには戻れないのかもしれないんだけど……」
「このまま終わらせたら、たぶんダメなんだ……!」
あたしは思わず立ち上がって力説していた。いや、コトレットさんはあたしが何言ってるか理解らないだろうし、判ったところでどーしよーもないだろう。けれど、コトレットさんは、
「るああ。大丈夫だよ、スズさん。チャンスはまだある」
当り前のように、そう答えた。
と、その途端、あたしはくらっと目が眩むような感覚を覚えた。
(まさか、“異世界転移”が……?)
と一瞬思ったけど、孤児院区画で襲われた感覚とは、少し違うようだ。
ただ視界が狭まるように感じ、目を閉じて――……
目を開くと、目の前に知らない子が立っていた。




