93.『あっちの世界』のグラスのもう半分
アプコ・オース孤児院であたしは、子ども達に教義と勉強を教える以上に、多くのことを教えられて過ごしている。
これでも子どもの扱いだって、結構上達してしてきたんだぜ。
例によって修道女の聖なるお尻にタッチし、不敵なナリに、あたしは天使の微笑を湛えながら呼吸を計り――少年が息を吐いた瞬間、一気に距離を詰めた。
「あっ?!」
はい、捕獲―。細い手首と肩を取って、
「ナリは女の人のお尻が好きなのねー、だったらお胸はどうかしらー?」
歌うように言いながら、豊かな……まあ、14歳と比べりゃ多少は成長の見られる胸に、少年の頭を抱き寄せてやる。
「わふっ?!」
「もー、赤ちゃんみたいねー、先生に甘えたかったのかしらー?」
そう言って少年の耳元に口を寄せ、小声で低く、
「諦めな、小僧。このまま絶対に逃がさんぞ」
囁いてやると、ちょっと動きに迷いが伝わってきたが、くぐもった声で、
「ま、参った……ごめんってば、ソレラ……」
悪戯坊主が降参した。
「おっおぅ……ロキの息子が負けた」
「すごい、先生。“雷神”より強いかも」
フォルセティとフスンが、目を丸くして顔を見合わせた。
ジェネ隊長に聞いた話では、ナリの父のロキという人は、マグニとスルーズの父親である“雷神”トールを長とする部族の軍師、知略策謀に長け、“雷神”の右腕、或いは“悪神”ロキの名で恐れられていたのだそうだ。曰く、
「“雷神”トールの雷が轟くところ、“悪神”ロキの影が走る」
しかしカーサ・オルバの子ども達が言うには、ロキはかなり稚気に溢れるおっちゃんらしく、子どもにしょーもない悪さを教えたり、酒飲ませたり、勝手に狩りに連れてってトールを呆れさせるのが常だったそーな。曰く、
「“悪神”ロキのおふざけが過ぎりゃ、“雷神”トールの雷が落ちる」
どんなことにも二面性がある。ルードヴィク所長に教えられたことだ。
ナリはそんな“悪神”の血を引く、生粋の悪戯小僧、ふざけ者のサラブレット。ここの他の子ども達と同様、ナリも父親のことをとても誇りにしていて、父親のような戦士になることを夢見ている……今はもっぱら、“戦いではない方の才能”を伸ばしているよーだが。
まあ、まだまだチッコに負ける椋田鈴ちゃんではないがな。
何つーか、ここんちの母ちゃん大変だったろうな。息子も悪ガキ、親父も悪ガキなんだもの。けれど二人との日々は、彼女にとってグラス半分の葡萄酒だったはずだ。彼女が今どうしているかは知らないが……
確かなことは、彼女の傍には夫も息子ももういない。
”雷神“も”悪神“も、今はもう囚われの神々だった――……
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グラスから急に手を離して、床に落とせば、当然割れてしまう。
怖いのは、手にしているものが、壊れ物だと気づいていない時。
グラスを持っているのに気づいてなくて、急に背中を押された時だ……
さて、その日、目が覚めて――病院側の“世界”からカルーシアに来てすぐに、砦内の落ち着かない様子に気づいた。兵隊さん達が、朝っぱらからこうもバタバタしてるのもいつにないことだし、表情は暗く、声は低く、どうにも只事でない雰囲気が漂っている。
が、砦の中の軍の問題は国教会が口を突っ込んでいい領域ではない。気にはなったけど、向こうから知らせてくるまでは、とりあえずこっちは通常営業だ。身支度を整え、孤児院区画に入る。
厳重な扉3枚で外と隔てられた孤児院は、今はまだ、普段と変わらない空気が流れていた。ただ、今朝はまだ朝食が運ばれてきていないらしい。いつもなら食事当番の兵士が運んできた質素な食事を、子ども達と一緒に取ることになっている。あれ、今ふと気づいたんだけど、あたし、一日6食メシ食ってねーか?
しかし子どもらには本日一回目のメシ、育ち盛りだ、無いじゃ困る。
みんな困惑してるし、マグニは考え事に沈むように自分の手に目を落としてている。フォルセティもフノスも、ブラギ、ヴィーザル、ヘルモード、ホズ……どの子も問いたげにあたしの顔を見つめるが、あたしにも状況は判らない。ナリが耳慣れない北方国の言葉で悪態を吐き、テーブルに頬杖をつく。
「先生え、腹減っちったんだけどぉ? 何なの、カルーシア人は時計が読めねーのか、それともビンボーで捕虜のメシの用意も出来ない訳?」
“悪神”の息子は、弓の弦を引く仕草で、見えない矢を天井に飛ばした。
「ソレラ、俺に弓貸してくれない?」
「この時期でも、カオリンチュくらいだったら御馳走するよ」
「駄目よ、カオリンチュは」
あたしは半分くらい上の空で、悪ガキを窘めた。
「カオリンチュは教会のシンボルだから、先生は食べられないわ……」
野生動物のくせに警戒心のまるで足りないカオリンチュは、あまりに軽食感覚で捕食される様子から、自己犠牲精神を買われて国教会で神聖視されている。
(このパンをカオリンチュの肉、葡萄酒をカオリンチュの血を思いなさい、てか)
いずれにせよあたしは、あのデカいビーバーみたいな奴、食うのは抵抗あるな。
そんなことを話していると、遅ればせに孤児院区画の分厚い扉が開いた。
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けれど入って来たのは朝ごはんではなく、我が愛するおっちゃん、警備隊長のジェネ・ビーヴ。数人の部下を連れたジェネさんは、いつになく険しい顔で子ども達を見渡し、私に言った。
「申し訳ない、ソレラ。少々問題が起きましてな。孤児達を部屋に戻し、先生もご自分の部屋で待機して頂きたい。あー……子ども達よ、聞いての通りだ。腹が減っているかとは思うが、済まんが朝メシは今少し待ってもらいたい」
「あの……何かあったのでしょうか?」
あたしは兵士達の只ならぬ様子に、思わずそう問うた。思えば、この質問はあたしが下手を打った。ジェネ隊長が躊躇した一瞬に、傍らにいた大柄な若い兵士があたしの問いに答えた。
「はっ! ソレラ、昨夜捕虜の集団自決がありまして――」
飛び出した言葉の意味が染み渡ると、あたしの息が、子ども達の顔が、孤児院の空気が凍りついた。
この砦において、捕虜とは北方国人の戦士――……つまり、この孤児院に収容されている子ども達の、父親達を指す。
ジェネさんは若い兵士の肩を掴んで振り向かせると、いきなり床に殴り倒した。孤児達から息を飲む音、小さな悲鳴が上がる。
「馬鹿野郎。少し考えてから口を開け」
ジェネさんが低い声で言うと、
「……! も、申し訳ありません!」
若い兵士は己の失態に思い至り、身を起こしながら詫びた。その頬は、早くも腫れ上がりつつある。
子ども達は。幼い子達は何のことか判っていないものの、ある程度の歳の子は驚き青褪めている。特に族長トールの子・マグニと、ロキの子・ナリは、唇を血の気を失うほど結んだ、痛々しい顔をしていた。
カピタン・ジェネは沈痛な面持ちで奥歯を噛んでいたが、顔を上げ――
「全員……敬礼ッ!」
空気を震わせるような声で、号令を飛ばした。殴られた兵士も跳ね起きて、隊長以下4名、胸を張り、曲げた肘を内に向けるカルーシア式敬礼の姿勢を取る。
「諸君!」
ジェネ隊長は、背筋を反らせるほどぴんと伸ばし、孤児達に向かって叫んだ。
「諸君のお父上達は、偉大な戦士であり、その誇りを貫き、立派な最期を遂げられた! 我々はアスガルドの誇り高き戦士達に、敬意を表する!」
兵士達はそのままたっぷり10秒姿勢を崩さず、子ども達に真剣に、そして一人の人間として礼を尽くした。
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それからジェネさんは、部下達にそれぞれ指示を与え、自分は孤児院区画に残った。副隊長のペピートさんが立ち去り際、
「ジェネ隊長、捕虜に敬礼は軍律違反ですなあ」
そう言って、苦笑いをした。
「何だ、ペピート。お前、俺と一緒に営倉でイモの皮を剥きたいのか?」
「なァに、黙っとりゃ判りませんで。まあ、隊長が来いと申されるなら、私はどこへなりお供致しますが」
ジェネさんも苦笑して、「さっさと行け」と追い払う。ペピートさんはあたしに軽い敬礼をして、残りの兵を連れ部屋を去った。
孤児院区画は……子ども達は静まり返っている。
「ソレラ――……」
部下達が行ってしまうと、ジェネさんは隊長の顔からおっちゃんになって、
「まことに面目ないことだ。まずは先に先生にお伝えするつもりだったんだがな。若いのに釘の刺し方ぁ足りなかったようだ。済まん、俺のせいだ」
「いえ、そんな……」
上手く言葉が出て来ない。あたしは……ソレラだから、今、子ども達を……守らなくちゃならないのは、あたしなのに……
「髭のおっさん……」
いつのまにかナリが傍らに来ていて、ジェネさんを見上げていた。
「おっさん、俺の親父も死んだのか?」
ジェネさんは敵国の少年の目を、じっと覗き込んだ。
「……ああ。お前の親父さんも死んだ」
ナリは敵国の兵士の目を、じっと見返した。
「そうか。親父は立派に死んだか?」
「ああ。“雷神の右腕”の名に恥じない最期だったよ」
少年と兵士はじっと見つめ合い――……少年は、笑った。
「そうか。だったら良かった」
「何がっ! 何が、良かったの!?」
気づけばあたしの口から叫びが飛び出していた。ナリも子ども達も、ジェネのおっちゃんも、普段は温厚柔和な先生らしからぬ、感情的なあたしの声に驚いた視線を集めた。
「しまった」と思ったけど、気持ちはすぐには静められなかった。肉親の死を知ったばかりの子ども、その死に直接的にしろ間接的にしろ関わっている男。どう考えてもあたしが一番蚊帳の外なのに、たぶん一番動揺してしまっている。
死というものへの覚悟が、誰よりも足りない。
戦士を父に持つ子ども達、兵を活計にする男、この厳しい“世界”に生きている彼らは、多かれ少なかれ、“死”というものの扱いを学んでいるのかもしれない。けれど、本来はあの平和な”世界”に生きているあたしは、病院という普通よりは少し“死”の身近な場所で多くの時間を過ごしていても、それでも目の前に突きつけられたこの死を受け止めるには幼過ぎた。
本当のあたしは、孤児院の先生なんかじゃなくて、ナリやマグニとは二つ三つしか齢の離れていない、ただの中学生なんだ。
(そうだ、マグニ――)
びっくりした子ども達の中から、青い目のマグニの顔を探す。そうだ、マグニは、ついこの前、妹を失くしたばかりだ。
また、じゃないか。本当に、独りぼっちになっちゃうじゃないか。
神様、何でこの子から、取り上げてばっかなんだよ。
マグニを見つけた。マグニは、静かで、どこか思い詰めたような顔をしている。それは……いったい、どういう感情なんだ? あたしは少年に問い掛けようと、一歩足を踏み出す――
と、その視界が唐突に、ぐにゃりと歪んだ。
同時にふっと音も遠ざかった。何かこう、頭がぐらんぐらんするような感覚だけど、眩暈とは……気を失いそうなのとも違う感じ……意識ははっきりと保ったまま、自分の体を離れるような、これは、まさか――……
あたしは初めて、目を覚ましたまま、“異世界転移”しようとしている……?
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あたしは目を開いた。気持ちの悪い浮遊感を引きずり、ほんのしばらく見当識を失ったけど、長くは続かなかった。
ほぼ真っ暗に近かったけど、頭側の壁付けライトを点ける前に、自分が病院のベッドに寝ているのは判った。常夜灯を灯すとオーバーテーブルの、愛用のカエルちゃんマグカップと目覚まし時計が見えた。
午前3時半――……
あっちで夜ベッドに入ると、いつもは朝方にこっちで起きる。今回はイレギュラーな“転移”が起きたから、おかしな時間にこっちに戻って来てしまったようだ。
そこであたしは、“転移”前の孤児院の状況を思い出した。
戻らなくちゃ――
向こうの自分が今どんな状態でいるか判らないけど、たぶん気を失っているんじゃないかと思う。そんな場合じゃないのに。
情けない14のガキだけど、今は、ソレラ・クララベルがあの子達の傍にいなくちゃいけないんだ。
頭から布団を被り、目を固く閉じる。昂った神経に、眠りはなかなか訪れなかったけど、やがてあたしは黒い闇の中へ落ち込んでいき――……
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……――時計のアラームの音で、目を覚ました。
「え……?」
目を開けたあたしが見たのは、朝の光、真っ白なシーツ、薄ベージュのカーテン、オーバーテーブルの時計とカエルのマグカップ……
「ここ……こっちの“世界”……?」
あたしは今……この夢を見始めて、“異世界転移”が始まって以来初めて……二つの“世界”を行き来することなしで目を覚ましたのだった。




