91.『こっちの世界』で雨が降る
幼い少女の体は、あたしの目の前で、ゆっくりゆっくり時間を掛けて、やがてアプコ・オースの石壁と同じ温度になった。
コトレットさんと出会った日の夜――つまり、カルーシア側の昼になっても、スルーズの容態は変わらず……いや、じりじりと、確実に悪い方へと進んでいった。
あたしは朝も晩もつきっきりで何とかしようとはした。精神的な疲労からだろうか、猪ノ口病院側では体調を崩し、その数日をベッドで過ごしたが、うつらうつらしている浅い眠りの時間も孤児院側で費やした。けれど薬も孤児院の設備も、元から十分とは言えない食事を与えられていた少女の体力も、何もかも足りなかった。
そして小さな命は、あっさりとあたしの指の間から零れ落ちた。
アプコ・オースで人死にが出ると、兵士は故郷に送り返されるが、捕虜は砦近くに作った北方国人墓地に埋葬される。孤児達も同じだ。ただし、地面の凍りついたこの時期には、死者は簡易的な祈祷で魂を天に帰し、残された体は屋外のそれ用の倉庫に雪解けまで保管される。
国教会の思想では、肉体とは魂の容れ物に過ぎないので、カルーシアではそれほど遺体を重く扱わない。けれど日本人であるあたしには、スルーズがずっと寒いところに置き去りにされている、窓の外の風の音を聞くたびそう感じられた。
猪ノ口病院から薬を、せめて解熱剤でも持って来られていたらという思いが、ずっと頭を離れない。
あたしの“異世界転移”では、モノを持ち込み持ち出すことは出来ない。身に着けているものどころか、肉体さえも、それぞれの“世界”に専用のものが用意されている。だから、アプコ・オースに薬を持ち込む手立ては、現実問題としてあたしにはなかった。
けれど、頭では理解っていても、モノが豊かにある“世界”と砦を行き来しているから、そこにあるじゃないか、手が届くところにあるじゃないかと思って、だから納得できなくて、あたしは……
この“世界”のグラスには、半分も葡萄酒は入ってないよと思った……
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ちっちゃなスルーズの死から、目が覚めて――……
あたしは薬も世話も行き届いた病院のベッドの上で、歯を食いしばっていた。
止めようもなく涙をぼろぼろと、声も出せずに拳を握りしめて流した。
その日も体調が優れないと、あたしは布団を頭から被り、食堂で入院仲間と朝と昼を取ることはしなかったし、院内学級にも出なかった。心配して様子を見に来た友達も、しんどいふりで追い払った。
もちろん病院にいるのは、みんな病気の子達だ。それぞれ辛くて大変で、苦しくて、それでもそれぞれに闘っている子達だ。それは理解っている。それでも今のあたしには、みんなが、十分な治療を受けていられる恵まれた子ども達に見えて、悔しかった。
のうのうと治療を受けている、恵まれた自分自身も憎かった。
だから、あたしは誰にも会いたくなくて。
でも、誰かに傍にいて欲しくて。
昼過ぎこっそりと病院の裏庭、あたしの指定席、木陰のベンチにいくと――
コトレットさんは、そこにいてくれたんだ。
コトレットさんは私に気づくと、にっこり微笑みを浮かべた。
「やあ、こんにちは、スズさん。良くなったんだねえ。具合が悪いと聞いて、心配してたんだよ」
あたしはコトレットさんの笑顔を見ると、何だか安心して、ほっとして――
「う……うえええぇぇ……」
「うええぇぇえぇん……うわああああん、うああぁぁああん――……」
あたしは、その場に立ったまま、大声で泣き出してしまった。
コトレットさんはびっくりした顔をしたけど、すぐ立ち上がって、私の頭をそっと胸に抱いてくれた。しゃんと背を伸ばしたばーちゃんは、あたしよりだいぶ背が高かった。
「おやおや、どうしたんだい、スズさん? おかしいねえ、まるで子どもみたいじゃあないか」
そう言いながら、ゆっくりと髪の毛を撫でてくれた。
「何か、辛いことがあったんだねえ」
そうだ。辛いことが、とても悲しいことがあったんだ。けれどソレラ・クララベルは子ども達の前では泣けなくて、椋田鈴もみんなの前では泣けなくて、だけど、とても辛いことが……本当に悲しいことが――……
コトレットさんの服をいいだけハンカチにして、あたしはようやく泣き止んだ。
知り合って何日の人の前で号泣したことに、恥ずかしさはあるけれど、いっそ開き直れば、ほんの少しだけ気持ちに整理がついた気がした。
あたしはコトレットさんに、ある問題があって、自分は出来る限りのことをしたのだけれど、それはとても残念な結果に終わって、でも、自分はもっと出来ることがあったように思えて、それがとても悔しくて悲しいのだと、そういう意味合いのことをゆっくりと時間を掛けて訴えた。
コトレットさんはあたしの取り留めのない話を、黙って、時々頷いて聞いてくれて、やがてあたしが話し終えると、
「そうかい。そんなことがあったんだねえ」
ただそれだけしか言わなかった。
ただそれだけだけど、あたしにはコトレットさんがあたしが言いたかったことをちゃんと理解ってくれていることが判って、コトレットさんに劣らず真っ赤だろう目で、少し笑うことが出来た。
「おやおや、やっとお日様が顔を出したようだよ」
コトレットさんも例の、歯を覗かせるにっとした笑みを浮かべた。
「るああ。自分でそれだけ判ってるなら、ばーさんが言うことは何もないね。ひとつだけ言えるとしたら、今は辛くて悲しいことも、いずれ時間がそれを葡萄酒に変えてくれることもあるのさ。ま、年寄りの経験ってやつだね」
そうか……いずれ、いずれ。時が過ぎれば、いつか――……
だったらあたしは、悲しみも涙も、心の樽に入れてずっと大事にしていよう。
そしてあたしは空を見上げて、あの青い目のお人形さんの少な過ぎた葡萄酒が、少しでもあの子の口に入りましたようにと、神様に祈った。
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「……っ?! 誰ですか、ナリ?」
身を屈めて子どもの勉強を見ていたソレラ・クララベルの神聖なるお尻を、ちっちゃな手がぱちんと叩き、ちっちゃな足音が駆け抜けた。振り向くと、北方国人の天使のような造形の少年――ナリが、
「へへーん! 隙だらけだなあ。北方国の戦士の前で、油断し過ぎだぜ」
悪戯坊主ここに極まれりっつう顔で舌を出していたが、それでいて目はきょろきょろとあたしの顔色を探り、怒っていないか確かめてる。つまるところ少年は、あたしの愛情を量っているんだ。
あたしが字を教えていたフォルセティがくっくっと笑うと、
「まったく、呆れちゃう。“悪神”ロキの子ども、ナリ!」
隣のおしゃまな少女、フノスが大げさな仕草でため息をつき、肩を竦める。
小さなスルーズの死から、ひと月が過ぎて――
アプコ・オース孤児院では以前と変わりない日々が送られている。マグニ少年から笑顔が減り、あたしにも思うところが増えたけれど。スルーズのささやかな葬儀に参列した子ども達は涙を流し、悪童のナリでさえ悲しみに打ち沈んだけれども、夕食の頃にみんな早くも元気を取り戻していた。
死というものを深く理解するには、幼過ぎるからかもしれない。
それとも……誰か友達が不意にいなくなってしまう――……彼らにとって、それほど特別なことではないのかもしれない。病院で暮らす私には、少しだけ、理解るような気がした。
悲しみには心を閉ざし気味にしていないと、悲しみに心を壊されてしまう。だって、あそこはよそよりも辛いことがたくさんある場所だから。
けれどもマグニは……あたしには、少年悲しみを扉の内に招き入れて、一緒に閉じ籠ってしまったように思えた。
マグニには、力の及ばなかったことを詫びた。アグニからは、力を尽くしてくれたと礼を言われた。あたしを責める言葉はなく、マグニは痛々しく微笑んで、
「ありがとう、ソレラ。スルーズのために、本当に一生懸命になってくれて。だからスルーズのことは、きっと神様が決めたことなんです」
そう言った。それが国教会と北方国、どっちの神様のことなのか、あたしには聞けなかった。
元々大人しい子だったけど、あれ以来マグニは一人で物思いに耽っていることが多くなった。話し掛ければ返事もするし、笑顔も見せるんだけれど……
ニフォンの神様のことを話す約束は、まだ果たせずにいた。




