90.『こっちの世界』でコトレットさんには華がある
しばらくあたしと新しい友達は、「いつからここに?」とか「病棟はどちら?」とか、お互い病気や家族には触れない、当たり障りのない病院トークで午後を過ごした。病院というのは場所柄やっぱり、話題のあちこちに地雷が埋まっているので、初対面から踏み込み過ぎると爆死する。
コトレットさんが国の名前は口にしなかったけれど、若い頃に遠い国から日本に来たそうで、下手しぃあたしより日本語が上手い。口癖らしく時々「るああ」と呟くのが、耳をくすぐって心地いい。
やがて、ふと話題が途切れ、二人とも何となくベンチの本に目を落とした。
コトレットさんとの仲を取り持ってくれたのはありがてーが、何とも、“齢の離れたお友達”にゃあ、何とも説明し辛いイラストだな……あたしは本を手に取ると、ぱらぱらと捲ってみた……おう、表紙絵より挿絵の方がおっぱいがはみ出とる。
「えーと、ですね。これは“ライトノベル”というやつでして、何と言いますか、中高生向けの冒険物と言いますか、ファンタジーな感じの」
しどろもどろの説明を試みると、
「ああ、青少年向け小説だね。さすがはアニメ文化のニッポン、表紙の絵も奇麗で可愛らしいよ」
青少年向け小説! モノは言い様だな。覚えておこう。
第一関門、表紙はとりあえず突破したよーなので、ううむ、じゃあもう一歩踏み込んで、今度は少し中身に言及してみよーか……
タイトルは『俺の能力が異世界でチート過ぎる』。
お察しの通り、“異世界転生”して大賢者になってチート無双で姫騎士やら神官っ娘だの何人もの女の子にモテまくるという、どーしよーもない“異世界モノ”だ。こいつを何とか“好意的”に説明するとなると……
「えー……主人公の少年がですねー、ある日現実の世界から、ファンタジーの世界に飛ばされてしまうんですね。そこで魔法の力を身に着けて冒険を……」
いや、無理ゲーだろう。外国人のおばーちゃんに異世界モノを理解させるのは……と、思ったら、
「るああ、あれだね。“果てしない物語”とか“ナルニア国物語”みたいな」
コトレットさんは思いがけない方向から納得して頷いた。
目からウロコだった。
言われてみれば、あの二作品も“異世界モノ”というか、原点か? 特にエンデの方は、主人公がチートだってことも、なろー系に通じるところがある気がする……と、思ったら、
「るああ、あれだね。今のアニメとか小説、流行りらしいからね、異世界モノは」
コトレットさんは思ったより、正確に理解しておられた。
コトレットさんは、またにいっと歯を見せて笑った。その顔は少女っぽくも見えたし、なぜか、急に齢を取ったようにも見えた。
「私の国に“ヴァン・ヘミシュ・オー・ルヴェル”という言葉があってね」
コトレットさんは、見えない盃をひょいと掲げてみせた。
「るああ。“グラスに半分の葡萄酒”って意味さ。聞いたことないかい? ワインがグラスに半分注がれているのを見ると、ある人は『まだ半分残っている』と喜ぶ、けれど、ある人は『もう半分しかない』と嘆く……」
あ、知ってる……確か、“刑務所のリタ・ヘイワ―ス”って小説だったかな。楽観的か悲観的か、人それぞれの人生観を語り手がちくりと風刺する言葉だった。
まあ、あたしみたいな子にはいろいろ考えさせる言葉だよ。
コトレットさんは微笑んで、少し顔を上げた。木漏れ日が、銅色の顔をレースで飾った。遠い記憶に目をやっているようだった。
「なーふ。長く生きているとねえ、ここじゃないどこかに行きたい、自分じゃない誰かになりたい、やっぱりあるのさ、そう思う時がねえ。スズさんにはないかい、そう思ったことは?」
そりゃあ、あたしみたいな子は……と、言いますか、実際に“どこかに行って、誰かになってる”訳だしな、あたしは。
「……ええ、あります」
「そうかい。まあ、そうだろうね、誰だってそうさ。今だって私ゃ、スズさんみたいに若くて可愛い子になりたいんだからねえ、いっひっひ……」
コトレットさんは、魔女みたいに笑って、にやっとウインクした。ばーちゃん、何か時々すごく子どもみたいだ、この人。
コトレットさんは、悪戯っ子の顔のまま続ける。
「るああ。だからねえ、理解らないでもないね。スズさんくらいの歳の子らに、別の“世界”に行くようなお話が流行るのは。“世界”が二つあってね、自分が二人いてね、あっちにこっちに行ったり来たり、活躍したり冒険したりする“物語”は、そりゃあ夢中になるだろうさ」
と思うと、微笑めば何百年も生きているよーな、超然とした顔になる。
「でもさ、ばーさんは思うんだよ。何か二つのものを選ぶとして、どっちを選んでも、上手くいくかもしれないし、もしかすると結果的に後悔するかもしれない。こればかりは蓋を開けてみないと判らないからね」
「だけど、どちらかを選んだんじゃなくて、どちらかから逃げたのなら、どんな結果が出ても、必ず後悔が残るだろう、ってね――……」
それはあたしに向けての、警句に思えた。
あたしの中に、漠然とした思いはあった。今いるこちら側の“世界”は、ゲームにマンガ、それに本があって、お菓子もあって、中学校と院内学校にちゃんと友達がいて、何だかんだ言って幸せだ。
片やあっちの“世界”だって、私は別の自分になって経験していることは、大変だけど楽しいし、やりがいもある。
だけど、立つ場所を変えて見てみると――
こちらではあたしは向こうでほど元気ではないし、向こうの世界はこちらほど平和ではない。どちらの世界も、やっぱりいいことだらけではなくて――
ああ……それが、“グラスに半分の葡萄酒”、なのか……
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コトレットさんの顔を見ると、ばーちゃんはにっと笑って、丸めた手の甲で銀色の前髪をすっと払い上げた。
「いひひ。ばーさんは、どうも話が説教臭くていけないねえ」
微笑と笑みを行ったり来たりするたび、コトレットさんの赤い目は、ばーちゃんと子どもがくるくると入れ替わる。
「るああ。ま、アタシが言いたいのは、何か選ぶならどっちがマシかじゃなく、ちゃんとどっちがいいかで選びなね、ってことさ」
コトレットさんが言ったことは、もちろん一般論としての“おばーちゃんの人生訓”だったのだろう。目の前の緊張感のねぇ顔した中二女子が、まさか本当に“異世界転移”をしてるとは思うまいよ。
けれど、コトレットさんの言葉は、あたしがあたしの“異世界転移”で、ちゃんと見えていなかった幾つかのことに気づかせると同時に、漠然と持っていた不安を払って気持ちを楽にしてくれた。
それはまるで、闇の中に光る灯火のような言葉だった。
あたしの顔を見て、コトレットさんは微笑み、立ち上がった。
「るああ。話が長くなったねえ。こんなばーちゃんの相手をしてくれて、ありがとうよ。オーリ・アーチェ、スズさん、今日は楽しかったよ」
言われてみると、あたし達はもう1時間以上も話し込んでいた。コトレットさんには礼を言われたけど、ほんと、言いたいのはこっちの方だった。
「コトレットさん、また、会えますか……?」
そう問うと、コトレットさんはにっと笑って、あたしの頭をぽんぽんと撫でた。
「アタシも当分は入院してるからね、いつだって会えるさ」
「本当ですか、良かっ……」
言い掛けて、あたしは言葉を飲み込むことも出来ず、固まってしまった。コトレットさんは怪訝そうにして、それから人差し指で頬を掻いた。
「Oops、そういうことかい。まあ……病院だからねえ、長くいるってことは、お互いあまりいいことではないかもしれないねえ」
やっちまった、失言……ポロリが許されんのは小学生まで、とト●ブる枠だけだっつーんだよ、ちくしょう。
けれどもコトレットさんは片目を瞑り、
「けどねえ、その入院が伸びるとアタシはその分、新しくできた可愛いお友達とお喋りが出来るってことでもあるのさ。言ったろう、スズさん? 良いことと悪いことは、いつだってコインの裏と表――」
そう言って、コトレットさんの口元で白い歯が光る。あたしも釣られて、普段は人前では見せない、素のニヤリを出してしまう。
「“グラスに半分の葡萄酒”、さ」
「“グラスに半分の葡萄酒”ですね」
そして、二人顔を見合わせて笑った。
これが、私のコトレットさんとの出会いだった。
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こうして、素敵で不思議なコトレットさんと友達になったあたしは、その日一日をご機嫌で過ごした。心なしか体の調子も良くて、だから私はベッドで石膏天井材の並んだ穴を見上げて、
(明日は何か、いいことがありそうだ)
そう思いながら目を閉じた。
けれど、明日の手前では――……
……――とても悲しいことが待っていた。
それは、青い目をしたお人形さんとのお別れだった。




