07.真っ白なアクシデント~ブラン・ドロワーズ~
この感情は……この感情は久しく忘れていた。
「真言に関する、ことだろうか?」
可愛らしい褐色ロリ顔に対峙して、声が止めようもなく震えた。
俺は“異世界転生”をしてからこちら、“善い人”であろうとしてきたし、あったと思っている。真言の力も、自分のためではなく、誰かを助けることに使ってきたつもりだ。
そりゃあどうしたって、物事の判断は俺基準になるし、感謝されたいとか、称賛されたいとか、そういう“対価”を求めていないとまでは言わない。けれど、誰かを傷つけたり、踏み躙ったりはしてこなかったはずだ。
俺は、あいつらとは違うから……
しかし、異世界管理局――“世界”を管理する者にとって意図の良し悪しに関わらず、世界構造を書き換えること、真言の存在そのものが彼らの禁忌に触れるなら。
俺が知らない間に罪を犯していたのだとすれば。
知らなかったという罪を、黒頭巾の少女は裁きに来たのだろうか。
「うぅーぷす」
出会ってからジトったり、蔑んだり忙しかった黒頭巾さんの瞳が、きょろきょろと泳いだ。それから、俺から顔を背けて、少し頬を赤くして唇を尖らせる。
「るああ。まあ……真言そのものは、別に問題じゃねーんだよ」
「……?」
「アレは、何てーか……“僕の考えた最強魔法!”って感じで、アタシはその、カワイイと思うぜ?」
「う……」
このタイミングでデレんな。
確かに真言は、“最強設定”として作ったものだけれど。やめて、気を遣うのは。死にたくなるから。
少女は例の「るああ」を呟きながら、指先で両の頬をくいくいと擦った。
「るああ……えーと、その、問題は真言の性質云々ではなくて……」
「お前の周りで魔法的なエントロピーが増大していることなんだよ」
「元々的には、この世界は“それほど魔法の要素の強くない世界観”の世界だ。ところがシュマフのこの辺りには、“魔法が日常的に遍在する世界観”が独自に派生している。なーふ。何だか、穏やかじゃない」
コトレットさんは言葉を切り、小さく首を傾げた。俺がどのくらい話を理解したか、伺っているようだ。
……もちろん全く理解できない。
けど、かつてはラノベやゲームに漬かり込んでいた俺だ。話が半分も飲み込めないし、ほとんど消化できないけど、とりあえず口に含める程度の下地はある。
俺が頷くと、黒頭巾さんは巻いた皮紙を振り振り、話を続ける。
「フツウはさ、ひとつの“世界”に複数の“世界観”は同時に存在できるんだよ。魔法のない国の隣に、竜の棲む山があっても、そういう矛盾は“世界”がちゃんと帳尻合わせてくれるんだ。けど、お前の周りでは、どうも安定しねー」
そう言うと、コトレットさんはひょいと柵から飛び降りた。
拍子に、お約束のようにスカートの端が杭に引っ掛かる。
結果、結構上の方まで捲れ上がった。
「るああっ?!」
コトレットさんが大きな声を出すのを、初めて聞いた。
少女の健康的な脚線美もさることながら、赤銅色の頬を一層紅潮させ、慌てふためく姿もまた良いものだ。できれば動画で残したい。あっちからスマホを持ち込んでおけばよかった。
「Oops……」
スカートとの格闘を終えると、少女はちょっと潤んだ目で睨みつけてきた。
「これもお前が悪い」
何でだよ。
コトレットさんはスカートの裾を払い、取り澄まし切れない顔で、、
「ううーぷす! お前が元の世界とカルーシアを安易に行き来するから、因果係数がおかしくなっちまうんだろー!」
非難たっぷりそう言った。
ああ……やっぱり問題はそっちの方か……
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きっかけは些細なことだった。
慣れない羽ペンで書き物をしていて、紙にぽたりとインクが落ちた。ふと思ったのだ。ボールペンがあったらなー、と。
「……持ってくれば良くね?」
そう、元の世界から。
思い付きからだが、きちんと検討してみると、どうも案外難しくなさそうだったのだ。真言で世界構文を幾つか誤魔化して、時間軸と座標の整合性を保ちつつ……理屈はどうでもいいな、とにかく俺は異世界から現実世界に戻る魔法を創り上げた。そいつが“扉の法”だ。
異世界転生して実に一年、俺はついに、再び生まれ育った世界の地を踏んだ。
そしてコンビニでボールペンとポテチを買って帰った。
以来、俺はしばしば里帰りならぬ世界帰りをしている。深夜にラーメン食いたくなった時とか。
前の世界は“価値のない場所”だった、その言葉を翻すつもりは微塵もない。ただ技術や文化の水準は、当然元の世界が上だ。こちらはいいところ近世代、まだ存在しない物も多いし、品質だって遥かに劣る。
魔法はあっても、魔法のような食べ物はないのだ。
だから俺は、ちょっくら買い出しくらいの感覚で、元の世界からカルーシアへいろんな物を持ち込んできた。
異世界に大きな影響を与えかねない軽率な行為である可能性は、今の今まで頭に過ったことさえなかった。“賢き者”を自任している、俺なのに。
ショックが顔に出たか、コトレットさんがにやっと笑った。
「るああ。やっぱ良くねーんだ、別の世界のモノとか、技術やら知識を、ほいほい持って来ちまうのはな。ああ、そうだ。ああいうのは別にいいんだけどなー」
コトレットさんは空中で、巻いた皮紙に何かを組み立てるような身振りをした。
「お前が考えて図面引いたさー、パーツにバラして、槍にも弓にもなる武器あったろ?」
“無限槍弓”のことか?
「あと、食って時間経ってから爆発して、群れごとやっつけるヤツとかな」
“時限炸薬式疑似餌爆弾”……
「なーふ。ああいうお前が自分で考えた、面白兵器みたいなのはOKだし、カワイイからアタシは割と好き」
待って、ちょっと心臓が痛い。少女に悪意がなさそうなのが、余計辛い。
コトレットさんはそこで、ちょっと表情を引き締めた。
「けど、あっちの進んだ技術を持ってくるのは禁忌だ。それと、もういっこ」
ぴんと人差し指を立てる。
「質量保存の法則……化学のやつとは意味は違うけど、“世界”の質量の総和ってのは決まっててなー。二つの世界であっちのモノこっち」
小さく前に倣えのポーズで、紙筒を掲げて上半身を腰から右へ。
「こっちのモノあっち、ってするのも基本ダメな」
今度は右から左へ、くいっ。それから少女は拳を腰に当て、胸をぐっと張った。まったく、目のやり場に困……
……――らぬ。これはいいものだ。
なんちゅうもんを見せてくれるんや……なんちゅうもんを……スマホ持ち込みを禁止されたところだから、心のフォルダに保存しておこう。
「片方の世界から質量が減るだろー。帳尻合わせんの面倒くせーんだ」
ちょっと上の空だった俺に、コトレットさんは渋い顔をした。
「なーふ。とにかくやめて欲しーのが鉄とかの金属鉱石の類な。それと金や銀やらの貴金属、宝石なんかは経済価値を含めて処理がクソ面倒い」
そう言って黒頭巾さんは、下からじろりと睨め上げてきた。
「お前、この前シジュオク村に釘やらネジやら、しこたま持ち込んだろ。それと、トンカチとかノコギリとかもさあ」
よくご存じで。
あれは村に大きな火事があったので、元の世界のホームセンター何軒も回って、相当な量の資材を買い入れた。その資金に、こっちの貴金属類を換金もした。もちろん、その時は善意100%からの行動だったのだけど……
異世界管理局側の観点からすると、やはり問題なのだろう。
「なーふ。道具なんざ“質量”な上に“技術”なんだから最悪だぞ。そーゆーことして世界の理をおかしくするから、さっきみてーにアタシがパンツ丸出しになるよーなハメになるんだ」
いや、それは関係ないだろ……バタフライ・エフェクトなのか?
「るああ。食い物ならな、それほど問題はねえ。有機物はサイクル速いからな。ほら、食っちまえばウンコになるだろ?」
可愛い顔してウンコ言うなよ。
「うーぷす……ウンチになるだろ、だから……」
言い方の問題じゃねえよ。
「ケイジャン・チキンだったら持ち込みOKだ。あとは……」
何でメニュー指定なんだよ。で、あとは?
「お前らだな」
「るああ。人間も、自分から来る分にはいい。いずれ有機物になるからな」
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少し理解が遅れた。しれっと黒いことを言う。
「なーふ。何だよ、その顔? 異世界転移した人間だって、そりゃ遅かれ早かれいつかは死ぬぞ?」
「それは……そうだろうけどさ」
コトレットさんは髪と同じ銀色の眉を顰め、赤い目を細めて俺を見た。
「なーふ。お前さー、異世界転移って誰も彼もさ、最強の力身について、言葉も通じて、都合良過ぎっと思わねえ?」
確かに。いわゆる異世界の七不思議、ご都合主義という奴だ。まあ、そういう仕様だと言えば、身も蓋もないという気もするが。
そう言うと、黒頭巾さんは心底呆れたような顔と口調になった。
「なーふ。違えよ、バーカ」
「チートついて言葉も通じた奴だけが、生きてるんだよ」
それは――……ちょっと思いもしなかった観点に、俺は言葉を失くした。
コトレットさんがにっと笑う、その笑みに、不意に翳りが差した。
「なーふ。あのさ、この領域に“世界”が幾つあって、召喚も転生も含めて、どんだけの人間が転移してると思ってんのさ。誰もが主人公になる訳じゃねーぞ?」
拳を丸めて左の頬から右へ、猫の毛繕いのように三度撫でる。
「誰もがお前みてーに、準備万端で転生に臨む訳じゃねーからな。たいていはスタート地点で詰んじゃって、アタシらがお片付けするんだから」
お片付け……お片付けか。
「うーららぁ。一人の英雄の足の下にゃ、名もなき死体が山と積まれてるってこったな。案外お前の足元にも、幾つか埋まってんじゃねえ、賢者様あ?」
コトレットさんは皮肉っぽく笑った。
「るああ。別の誰かにも言ったけど、お前はガチで“可愛い奴隷”をペットにするタイプだからなー」
「か、可愛い奴隷……?」
「乞食に金貨恵んでやるみたいな、虚栄心の満たし方のことさ」
「気分いいのは理解るけど、ほどほどにしとかねーとな」
俺が異世界でしていることは、そうだと言いたいのか。
俺は今までこの世界で、自分の持てる力で、多くの人を助けてきたつもりだ。そこに“与える者の愉しみ”を見出さなかったと言えば嘘になる。しかし、それを“全て虚栄心でしかない”と断じられると、それはそれで納得がいかない。
異世界監視人は意地の悪い笑顔を浮かべる。
「るああ。とにかく、“勧告”の方はこんなとこかなー。以後もう少しお気をつけください、以上、カルーシア地区異世界管理局からの“お願い”でした――と」
コトレットさんはたぶん険しい顔になっているだろう俺の胸元まで歩み寄り、
「るああ。後でこれにサインかハンコくれなー」
皮紙の筒でぽんぽんと肩を叩いた。
軽い口振りに、俺は却って呆気に取られる。
「え?その……真言とか、“扉の法”を使った罰とかは……?」
「るあ?何だよ、そっちの方でも叱って欲しーのかあ?」
真っ赤な瞳が眦を上げて、ほぼ真下からジトりと見上げてきた。
「い、いや、そういう訳では……」
口ごもりながら、俺は真上からのルシウの姿に目を奪われかけたが――
「……“そっちの方”……?」
辛うじて残った理性で、コトレットさんの言葉を聞き咎めた。
少女はぺろりと舌先を覗かせると、
「なーふ。これまでは“勧告”、ここからは“お知らせ”さ――……」
そして少女は手をきゅうと丸めて、少しの間目元に当てて沈黙した。