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赤い色の花

作者: さばみそに

 それは町に帰る馬車を待っているときだった。

 前を横切る男の持っていた鳥かごが揺れたのが見えた。鳥かごを覆う布がひらりとめくれて、ほんの一瞬だけ中身が見える。まさにその一瞬、鳥かごの中のすずめと目が合った。そんな気がしたのである。ただそれは本当にほんの一瞬の出来事で、その直後に到着した馬車に乗り込むころには、わたしは鳥かごの中のすずめのことなどすっかり忘れてしまっていた。

 前日はひどい雨が降った。土砂崩れが起きて通れない箇所も出ているらしい。乗り込んだ馬車が進む道もひどくぬかるんでいる。そのせいで馬車の揺れがいつもより激しいな、と思っていると、突然馬車が大きく傾いた。乗客の悲鳴が聞こえる。

 わたしはといえば、悲鳴を上げる間もなく後頭部に激痛が走ったかと思った次の瞬間に意識を失った。

 意識を失う直前に頭をよぎったのは、忘れてしまったと思ったあの、すずめの目だった。






 目が覚めたときわたしの目に飛び込んできたのは、なにか枯れた植物のようなものが敷き詰められている光景だった。

 それがわらだと気付いたのは体を少し動かして、かさと音を鳴らしたからだった。体は、動くようだ。けれど全身を襲うこの違和感はなんだろう。いつもと視界が違う、いや、それだけではない、体の感じも変だ。手足がもがれたような感覚、けれどたしかに動かせるそれはあって、でも、どこか勝手が違う。そうだ、声は、出るだろうか。

 しかし声を出したことは、わたしを、ますます混乱に陥れることになる。



―チュン



 それはまったくわたしの声ではなくて、でも紛れもなくわたしの口から出た音で。

 どうして。なんで。どう、なってるの。それは実は混乱というよりは、恐怖だったかもしれない。もしかして夢を見ているのだろうか、いや、そうだ、そうであるはずだ。だから、だから目を閉じてじっと耐えて、夢が覚めるのを待とう。そうしたらきっと。

 しかし、いくら目を閉じても、じっと耐えても、この夢が覚めることはなかった。





 あれから、何日が経ったのだろう。四方を壁に囲まれたこの場所では日付の感覚がわからない。

 じっと耐えている間にわたしはいくつかのことを知った。ここはたぶん、小さな巣箱のようなものの中であるということ。出入り口だと思われる丸い穴からは光の他にもえさのようなものが入ってくるから、たぶん、だれかに飼われているのだということ。

 それからもうひとつ。

 この巣箱がある空間にはわたしのほかにもうひとつのなにかがいる、ということ。

 なにかの正体はわからない。わたしは、あの丸い穴から外へ顔を出す勇気さえないのだ。ただそのなにかはジャラリと金属のすれ合うような音を立てる。それから、岩の間を風が吹き抜けるような音を立てて呼吸をする。そして時々あの丸い穴から、金箔をはりつけた金細工のような色をした、穴と同じくらいの丸い目で覗き込んでくるのだ。ぎょろりとしたその目があの穴から見えたときわたしはいつも、怖くて、顔をわらに押し付ける。そうして少しするとまた金属のすれ合う音がするので顔を上げれば、目はもう、そこには居なくなっているのだった。


 それからまた、たぶん、数日して、ついにわたしは巣箱の外へ引きずり出されていた。わたしの体を片手ですっぽりと包み込むのはまちがいなく、人間の手だった。人間は全身を白い服で包み、頭も口元も白い帽子とマスクで隠してしまっている。わたしの体を掴む手もまた、ぴっちりとした白い手袋で覆われていた。

 わたしを巣箱から引きずり出した理由はなんとなく想像がついている。わたしが、よこされた餌を食べないからだ。小さな体が弱ってきているのはわかっていた。ああ、ついに処分されるのだろうか。そうしたら、こんなわけのわからない夢から解放されるのかもしれない。死んでしまう恐怖よりも、夢から覚めることができるかもしれないという、その期待の方が大きかった。

 しかし、わたしの期待はすぐに打ち砕かれる。

 口に、なにか細い管のようなものが差し込まれた。奥まで、入ってくる。苦しい。けれど体が押さえつけられているから暴れることもできない。なに、と思っている間にその管から何かが流し込まれたようだった。直接、のどの奥まで。

 管は数秒で抜かれた。お腹のあたりが重たいような気がする。ああ、殺されるのではなくて、生かされたのだとわかった。生かされてしまうというのなら、ご飯ぐらいは、自分で食べよう。またこんな苦しい思いをさせられてはかなわない。

 たとえこれが、夢だと、しても。





 人はお腹が空くと悲観的になるという。残念ながら今のわたしは人ではないけれど。

 つまりお腹を満たすようにしたわたしはわずかながらも気分が上向いてきて、そしてほんの少しだけ、巣箱の外に興味を持つようになっていたのだった。巣箱の外とはつまり、まだ姿かたちのわからない同居人のことである。

 怖いと思っていた、あの丸い穴からこちらを覗き込む金細工のような丸い目。けれど目をそらさずにじっと見ているとそれは次第にキラキラと輝きだして、まるで七色の輝きを放っているように見えることを知った。ちかごろではわたしがじっと見ていると、向こうの方から目をそらすことが増えたように思う。あんまりじっと見てるから、ケンカ売ってると思われたかな?けれど思い返してみても、この同居人から敵意を向けられたことは一度も無かった。わたしが勝手にあの丸い目を怖がっていただけで。そしてやはり今も変わらず、あの丸い穴から覗く目からは、敵意というものはひとつも感じられないのである。

 まあ、かといって、何を考えているかはわからないのだけれど。

 そうして巣箱の外にいる同居人への興味は少しずつ、けれど確実に募っていくのだった。





 ある寒い朝のことだった。

 わたしはあまりの寒さに目を覚ましたのだった。ぶるりと体をふるわせて、羽と羽の間に空気を入れ込む。この体で生活しているうちに自然と会得した知恵だ。そうして防寒を済ませてからもう一度眠りに着こうとした、そのとき。

 何かを吐き出そうとしているような、苦しそうな音。それにガシャリ、ガシャリと激しく金属のすれ合う音がする。

 同居人が、苦しんで、いる?

 どうしよう、様子を見た方がいいのかな。けれど、あの穴から自分で外へ出たことは、一度も無い。でも金属の音が鳴りやまない。どうしよう、どうしよう、どうしよう。悩んでいる間も金属のすれ合う音は鳴りやまなかった。

 けれどその音が突然、ぴたりと止んだ。

 どうしよう、わたしが悩んでいる間に、もしかして、なにかあって、手遅れになってしまったのでは。そう思うともう、いてもたってもいられなくなってしまった。もしかするともう遅いのかもしれないけれど、更に後悔をすることになるのかもしれないけれど、それでもわたしはあの丸い穴から、巣箱の外へと飛び出したのだ。

 そして途端に、落ちた。

 思えば巣箱がそんな低い位置にあるわけがない。思えば、わたしはこの姿になってから一度も飛んだことがない。落ちてしまったのは当然のことだった。幸い落ちたところにも巣箱と同じようにわらが敷き詰められていたおかげであまり痛くはない。それよりも、同居人に何があったのか。

 勢いよく顔を上げると、そこには居た。


 あの丸い穴から覗いた金細工のような丸い目。

 わらの上に横たえた長い首。体が赤いうろこで覆われた、それは、一匹のドラゴンだった。


 その首には重々しい、真っ黒な首輪がはめられていて、そこから伸びた鎖は天井につながっている。

 ドラゴンはわたしが巣箱から落ちたのに気づいてこちらを見たようだった。金細工のような目がわたしをとらえる。けれどその目にはいつものような七色の輝きはなくて、わたしは思わずチュンと鳴いてしまった。だいじょうぶ?と言いたくて出た声がそれだったのだ。ドラゴンは見るからに”だいじょうぶ”ではないというのに、けれどそんな言葉しか出てこなかった。いや、言葉にすら、なっていないけど。

 ドラゴンはぐるる、と低く唸るような声を出した。怖い、と思った。けれど直後、頭の中に響いてきた声に恐怖は、またたくまに困惑へと変わる。



「…お前こそ、今巣箱から落ちただろう、平気か」



 わたしを、心配した?

 どうして、自分の方が明らかに大変なのに。それに、お前こそってことは、わたしの言葉が通じたのだろうか。いや、それも重要だけれどそれよりも、どうして。



「もしかしてどこか痛めたのか?巣箱に戻れないのなら、俺が戻してやろう」



 ドラゴンのそんな言葉が頭に響いたと思うと、ドラゴンがまたぐるると唸って体を起こそうとする。苦しそうに、辛そうに。どうして、自分の方が辛いのに。それは困惑というよりも、怒りだったかもしれない。


―やめて!わたしはだいじょうぶだから、わたしよりあなたのほうが辛いんだから!無理に体を動かそうとしないで!お願いだから、やめて!


 そう言いたかったわたしの口からはやはり、けたたましい鳴き声しか出なかった。ドラゴンに通じたのかはわからない。けれどドラゴンは、たぶんだけど驚いたような顔をして、立ち上がろうとするのをやめた。それでもわたしは気が収まらなくてドラゴンのそばへ行こうとする。走ろうとするのだけどうまく走れない。飛ぶのがいいかと思ったけれど飛び方はわからない。そこで跳ねてみるとうまく前に進むことが出来たのでわたしは跳ねて、ドラゴンのそばへ行くことにした。

 近づいてみると改めてドラゴンの大きさがわかる。地面にいてはドラゴンの目を見ることもできない。この体を、のぼるしかないのかな?考えて、わたしはドラゴンの鼻に乗ることにした。金細工のような丸い目がわたしをとらえる。



―お願いだから、わたしより、自分の心配をして



 そんな言葉を込めてチュンと鳴いた。かつて兄に言ったそんな言葉を。

 それがドラゴンに通じたのかはわからない。けれどドラゴンはぐるると唸ると、たしかに、こう言った。



「…ありがとう」


 それからドラゴンはわたしに少し眠ると告げて、その金細工のような丸い目を閉じた。

 わたしは、自力で巣箱に戻ることもできないのでとりあえず今立っている場所に座り込むことにした。この場所はドラゴンが呼吸をするたびにゆっくりと上下に揺れる。その揺れはまるでゆりかごのようで、不思議と気持ちが安らぐのだった。それになによりこの場所は、あたたかい。ドラゴンは体温が高いらしい。ぽかぽかとおしりから伝わるあたたかさはあっというまにわたしの全身を包み込み、さらにゆりかごのような揺れはわたしの眠気を誘うのには十分すぎるものだった。

 ああ、もう、まぶたが、重い。



 目が覚めると、あの金細工のような目がわたしを見ていた。驚いて思わずピッと高い鳴き声が出てしまった。そんなわたしの鳴き声に驚いたのか、ドラゴンがぱちくりと一度、まばたきをする。

 また、頭の中に声が響いた。


「驚かせたか、すまない」



 例えるなら、大人の余裕が出始めた三十歳前半あたりの男性のような声。これが、ドラゴンの声。わたしが首を横に振ると―ドラゴンにどう見えたかはわからないけれどわたしは横に振ったつもりだ―ドラゴンの金細工のような、七色に輝く目が、安どの色に光った、気がした。

 それからドラゴンは、巣箱まで連れて行こうと言うとわたしを鼻に乗せたまま立ちあがる。狭い部屋の中をドラゴンがその四本の足で一歩、二歩と歩いて立ち止まり、首を少しだけ上へとのばす。たったそれだけであっという間に、私の目の前に巣箱の入口が現れた。ぴょん、と跳ねてその丸い穴の中へと飛び込んで、それから顔を出すとドラゴンはまだそこにいてくれた。


―ありがとう


 そう言いたくてチュンと鳴いてみた。

 ドラゴンの金細工のような七色に輝く目は、たしかに優しい色に光った。






 あれからまた、たぶん、数日が経った。巣箱から出てもやはり四方を壁に囲まれたこの場所では、日付の感覚がわからない。

 あの日の出来事で同居人の事はわかったものの、ここがどこで、どうして閉じ込められているのか、それはまだわからなかった。それというのも同居人のドラゴンが、なにも教えてくれないからだ。ドラゴンに聞いてみても、お前は知らなくていいことだとしか言わない。しかもそれを言うときは必ず、七色に輝くはずの目になんの輝きもないのだ。ドラゴンが話さないのは理由があるのだろうけれど、きっと、いい理由じゃないのだろうなということはこの無機質な壁に囲まれた狭い空間を見ればわかる。それに、ドラゴンの首にあるあの重苦しい、首輪も。

 ここがどこなのか、どうしてここに連れてこられて、どうして閉じ込められているのか。わからないことは多いけれど、ただこれだけはわかる気がしていた。ドラゴンは、それを知っている苦しみをひとりで抱え込もうとしているのだということ。そしてそれは、とても、辛いことだということ。

 ドラゴンがひとりで抱え込もうとする理由はわからない。けれど想像することはできる。言ってもどうにもならないから、言わない。言って、わたしを不安がらせたくない。言うほど、わたしのことを信用していない。でも、どんな理由にしろドラゴンは苦しんでいる。その苦しみに押しつぶされて、それで自分の身の破滅を招いたら、意味が無いから。そんなのは、誰にとっても、悲しいだけだから。できることなら話してほしい。もしも言ってもどうにもならないことだとしても、ひとりで抱え込む苦しさだけは和らげることができるはずだから。

 けれど苦しいことをひとりで抱え込む人に何を言ってもなかなか聞き入れてもらえないことをわたしは知っている。そしてそんな人に対してできることはただひとつであることも、わたしは知っているのだ。まあ今の相手は人じゃなくてドラゴンだけど。


 わたしが巣箱から顔を出して、チュンと鳴くのが合図。

 ドラゴンが伏せていた体を起こし、こちらに向かってきてくれるのが見える。ジャラリ、と鎖の音がするのは、まだ少し慣れない。ほんの一、二歩で巣箱の下にたどり着いたドラゴンは首を伸ばして、鼻先を巣箱の穴にちょんと添える。そしてわたしはその鼻の上にぴょんと跳んで乗るのだ。

 わたしはなるべく、ドラゴンのそばにいようとすることにした。ひとりじゃないのだと、思い知らせてやるためだ。わたしの自己満足に過ぎないかもしれないけれど、それでもドラゴンの金細工のような、七色に輝く目が、明るい色に光って見えるようになったのはきっとわたしの気のせいではないはず。

 そんな中でふと、気になったことがあった。ドラゴンにも、名前はあるのだろうか。


―ねえ、あなたの名前は?


 そう聞きたくて、チュンと鳴いた。わたしの問いにドラゴンは、困惑したように見えた。

 ところでこの数日で分かったのだけど、やはりわたしの言葉はドラゴンに通じているらしい。頭の中に響くドラゴンの言葉とわたしの言おうとした言葉がしっかりとかみ合っているから、たぶん、間違いない。



「名前は、ない」



 ドラゴンの七色に輝く目は特にその輝きを変えることなく、ぱちと一度まばたきをした。何を当たり前のことを、みたいな態度で。どうやら困惑するべきなのは、わたしの方らしい。思ってもいない答えにどう返していいかわからないでいると、またドラゴンの声がする。


「お前には、あるのか?」



 名前が。

 わたしの、名前は。

 わたしは静かに、チュン、と鳴いた。わたしの言葉はドラゴンに通じたらしい。ドラゴンがわたしの名前を呼ぶ声が、頭に響く。それからドラゴンの七色に輝く目が、穏やかに、優しく光ったのが見えた。



「…なるほど、名前というものは、なにか特別な響きを持つようだ」



 ドラゴンがもう一度わたしの名前を呼んだ。嬉しくて、でも少し恥ずかしくて、くすぐったい感じ。


―名前がないなら、わたしがあなたに、名前をつけてもいい?


 そう聞きたくて、チュンと鳴いた。

 ドラゴンは驚いたような顔をしたけれど、すぐにその目を、穏やかに光らせた。ドラゴンの声が、頭に響く。



「それでは、頼むとするか」



 その言葉に、胸が躍るのがわかった。


―じゃあ、何にしよっかな、どんな名前がいいかなあ


 あまりにわくわくしたせいでチュン、チュンと口から鳴き声がもれる。ドラゴンはそんなわたしを、たぶん、優しく見つめながら、お前に任せると言うのだった。ううん、どんな名前がいいかな。

 ドラゴンは、金箔をはりつけた金細工のような、七色に輝く目がキレイで。でも、キレイなのは目だけじゃなくて。ドラゴンの全身を包む赤い色をしたうろこ。赤銅色よりは鮮やかで、でも緋色というほどの鮮やかさはない。七色に輝く目と同じくらい不思議な色。見たこともない色のはずなのだけど、その赤をじっと見つめているとわたしの頭にはある花が浮かぶ。それは、わたしの知っている花。赤い色の花。

 わたしはチュンと鳴いてその花の名前をドラゴンに告げた。

 ドラゴンは金細工のような、七色に輝く目を優しい色に光らせたままこう言ってくれた。



「いい名前だ」



 ドラゴンの声は、たぶん、喜んでくれているように聞こえた。

 それはきっと、気のせいじゃ、ない。







 また、寒い朝のことだった。

 ドラゴンの、何かを吐き出そうとするような苦しい声で目が覚めた。

 ドラゴンが、苦しんでいる。今度こそわたしはいてもたってもいられず、すぐに丸い穴から外へ飛び出した。そして、また落ちた。わたしはいまだに飛び方を知らないのである。いや、今はそんなことはどうでもいい。ドラゴンの苦しむ声はまだ続いているし、金属が激しくすれ合う音も続いている。ドラゴンに、いったい、なにが。

 顔を上げた瞬間、それは見えた。

 ごぽりという音とともにドラゴンの、大きく裂けた口からなにか黒くて丸いものが吐き出されたのが。

 それを吐き出したドラゴンは力尽きたのか、その長い首と大きな体をわらのしかれた地面にたたきつけるように倒れ伏した。

 わたしは思わず声を上げてしまった。声といっても、やはり甲高い鳴き声でしかないのだけど。それから倒れ伏したドラゴンのもとへ急ぐ。行って、何ができるわけでもない。でも、でも今こそドラゴンに、ひとりじゃないのだと思い知らせてやるべきだと、そうしなくてはと、そう思ったから。

 ドラゴンは近づくわたしに気づいていないようだった。今自分が吐き出したあの黒いものを、怒りに光らせた目で睨み付けている。ドラゴンの怒りに光った目は、正直、怖い。ぐるるといつも以上に低く唸るその声もやっぱり、怖かった。ドラゴンの全てが怒りに満ち溢れている。その怒りが、ドラゴンがひとりで抱え込もうとしているものなのだろうか。だとしたらわたしは。



「…っだめだ!来るな!」



 いよいよドラゴンの口元までたどり着いたとき、頭の中にドラゴンの声がとても大きく響いた。それにびっくりして思わず飛び上がってしまったわたしはうまく着地ができなくてしりもちをついた。



「今の俺に、触るな…!」



 視線をずっと上へあげると、ドラゴンの七色に輝く目が、ひどい焦りの色に光ってわたしを見ていることに気が付いた。そしてまた、ドラゴンの声が頭に響く。



「俺がいいと言うまで、そこで、じっとしていろ…」



 なぜ、どうして、と聞きたい気持ちはあった。けれど見上げたドラゴンの目が、わたしを見る目が切実な色に光っているのがわかったから、わたしはただ黙ってこの場所にじっとしていることにした。

 背後から、ぎい、と重たいものが動く音がする。じっとしていろ、と言われたけれどそれが気になって首だけを動かして後ろを見てみた。どうやらあの無機質な壁の一部が開いた音だったらしい。あんなところに扉があったのか。そしてそこから、全身を白い服で包み、頭も口元も白い帽子とマスクで隠してしまった人間が入ってきた。二人いるそれは、見覚えがあった。与えらえた餌を食べずに衰弱したわたしを連れ出した人間だ。

 人間たちはわらをざくざくと踏みしめてこちらに近づいてくると、さきほどドラゴンが吐き出した黒いなにかを回収しようとしているようだった。人間の顔ほどあるそれは、卵のような形をしている。

 ドラゴンが、ぐるると唸る音が聞こえた。見るとさきほどまでわたしを見ていた目が、また怒りの色に光って人間たちを睨み付けている。そしてそれはやはり、怖かった。

 人間たちはてきぱきと黒い卵を回収すると、重い扉の向こうへと消えていく。扉が閉じたところはまた無機質な壁に戻っていた。

 ドラゴンが、大きくため息をついたのが聞こえた。

 だいじょうぶ?と声をかけるのもなにか違う気がするし、人間たちが回収していったあれは何だったのかと、今はとても聞ける状況ではない。わたしがなにも言えずにいると、ドラゴンの声が頭に響いた。



「…少し、眠らせてくれ、お前はもう、動いても、いいから」



 ドラゴンはそれだけ言うと、ぐるると唸ってその金細工のような目を閉じた。

 わたしは、どうしようと思っていると急に寒さが襲ってくる。さっきまでは無我夢中だったから気が付かなかったけれど、そういえば今朝は寒い。もう、ドラゴンに触っても平気だろうか、動いてもいいとは言われたけれど触っていいとは言われていない。いやでも、寒い。

 少し考えて、またあの日のようにドラゴンの鼻に乗ることにした。ああ、この場所は、やっぱりぬくいなあ。







 この頃は朝の冷え込みが和らいできた。

 とはいえ一度味わってしまったぬくもりを我慢することはできなくて、わたしは相変わらずドラゴンの鼻の上で暖をとるのを楽しみにしていた。ああ、今日もこの場所はぬくい。



―ねえ、ここに来る前はどんな場所で暮らしてたの?



 ドラゴンの鼻の上で暖をとりながら、ふと気になってそんなことを聞いてみた。この無機質な壁と床一面のわらに飽き飽きしていたせいかもしれない。翼を持つドラゴンが見ていた、外の世界が知りたかった。

 金細工のような、丸い目がきょろと動いてわたしをとらえる。



「俺たちは、ドラゴンはあまり一か所に留まることはない、常に飛び続けて、泉があればそこに降りて休み、森や洞窟を見つけてそこで眠る」



 じゃあいろんな場所のいろんな景色を知っているんだ、それは、うらやましい。思わずチュンと鳴くと、ドラゴンの七色に輝く目は満足そうに光った。そうだな、とドラゴンが言って目をぱちとさせた。何か考えはじめたようだ。



「いつか見た、星空の映った泉は美しかった、そこに口を付けて水を飲むとまるで、星を飲んでいるようだと思ったのを覚えている」



 ドラゴンの言った景色を想像して、思わずほうとためいきが出る。ためいきだけではなくて、いいなあ、という本音も一緒に出ていたらしい。控えめなチュン、が聞こえた。紛れもなくわたしの口から出た鳴き声だ。



「見て、みたいのか?」


 ドラゴンがそう聞くので、素直にチュンと鳴いて答える。ドラゴンの金細工のような、七色に輝く目が、少しだけ輝きを変えたように見えた。



「だったら、いつか…」



 いつか。

 七色に輝く目を複雑に光らせたドラゴンは、その次に言葉を続けることはなかった。








「お前は、どこで暮らしていたんだ?」



 また別の日、ドラゴンはわたしにもそんなことを聞いた。わたし、わたしは。



―わたしは、街の中で生まれて、ずっと、街の中で暮らしてた



 それは今のわたしではない、わたしの話。



―石畳の道がずうっと伸びててね、その両脇には家やお店がたくさん並んでるの、わたしが生まれたのはそこにある宿屋、宿屋って、わかる?旅をしている人を休ませてあげるところ



 ドラゴンはうなずく代わりに金細工のような目を一度、ぱちとさせた。



―おかあさん、宿屋のオカミサンはなんていうか、とても心の大きな人でね、本当の子どもじゃないわたしのことも大切に育ててくれたの、それにお兄ちゃんも、本当の妹みたいに、優しくしてくれた



 おかあさんやお兄ちゃんのことを思い出して、心がきゅうと切なくしめつけられた。それをごまかすために、話題を変えることにする。


―それに宿屋にはいろんな人が来るんだよ、目的があって旅をしている人、目的を探すために旅をしている人、そういう人が旅のことを話してくれるのを聞くのが好きだった、行ったことがないところに自分が行った気がしてすごく楽しかったんだ、それでいつかは本当に、そこに行くんだって思いながら毎日眠ってた



 ふとドラゴンが何度もまばたきをしているのに気づいた。つまらなかった?と聞くとドラゴンは、いや、と言った。



「俺は人間というと、ここにいる人間たちのことしか知らない、だからお前の言う、人が、そんな人間が、本当にいるのかと思ってな」



 そう言ったドラゴンの目は、少しだけ、不安の色に光っていた気がした。

 わたしは、わたしはドラゴンに信じてもらいたいから、できるだけ力強く鳴いた。



―本当にいるよ、いい人間はいるから、だから、人間全部を嫌いにならないで



 お願いだから。そう伝えるとドラゴンは少し困ったような色にその目を光らせたけれど、わたしをじっと見ると、たしかにこう言ってくれた。



「わかった」



 それはたぶん、まだわかっていない”わかった”だったけれど。いつか、いつかそういう人間に会わせることができたら、本当の”わかった”を言ってくれるのかもしれない。そういう人間って、たとえば、おかあさんとか。いつか、会えば。



―いつか、私の生まれた町に来れば、わかるよ、きっと



 いつか。

 わたしの言葉にドラゴンの七色に輝く目は、なにかの感情に光った。それがなにか、はっきりとわかることはできないけれど、きっと、きっと前向きな感情だろうということだけはわかる気がした。きっと、気のせいじゃ、ない。







 いつかはその時が来るだろうということを、忘れていたわけではない。ただその時が来なければいいのに、と思うことがあるだけだった。

 けれどその時はたしかに、迫っていた。この夢が覚める、その時が。

 ちかごろのわたしは起きている時間より眠っている時間の方が多くなっていた。ドラゴンの唸り声に起こされてようやく巣箱の外へ連れ出されるのだけど、あのぬくいドラゴンの鼻の上でまた眠ってしまうのだ。

 それから、体を動かすのがひどく億劫になってきた。できることならぴくりとも動きたくない。そんな調子だから当然、与えられた餌を食べることもできないでいた。食べずにいたらまたあの白い手袋をはめた手に連れて行かれて、喉の奥に管を差し込まれるかもしれないのだけれど、それはわかってはいるのだけれど、でも与えられた餌を口にしたところで飲み込める気がしないのだ。もう、思うように、体を動かすことができなくなっている。

 この体は、もうすぐ、死んでしまうのだな。

 そう思い始めたころ、ドラゴンはわたしを自分のそばに置くようになった。いつものように巣箱に戻さず、両足の間に置いて閉じ込めるように。ドラゴンがどうしてそうしてくれるのか、理由はすぐにわかった。

 重たい扉が開く音がして、人間が入ってきたのがわかる。するとぐるる、と、いつもよりも低いドラゴンの唸り声がした。人間に向かって、威嚇をしているのだ。ドラゴンは卵を吐き出していない。だとするとあの人間たちが回収しようとしているのは、わたし。

 もう用済みになろうとしている、わたし。

 ドラゴンは、わたしを守ってくれているのだ。それは、とても、嬉しい、ことだなあ。

 あれ以来、人間はこの部屋に入ってこない。



「この時がくるのは、わかっていた」



 頭に、ドラゴンの声が響く。落ち着いた、大人の余裕というものを感じさせ始める年齢の、男性の声。今は少し、悲しみの色を濃くしている。



「ただ、この時が来なければいいのにと思っていた、こんなのは、初めてだ」



 ああ、なんだか、わたしと似たようなことを考えている。ちょっと、いや、だいぶ、嬉しい。



「いつか、お前を星空の泉へ連れて行きたい」



 それは、あの日言いかけた”いつか”の続きだった。嬉しい、と伝えたくてチュンと鳴こうとしたのだけれど、声が出なかった。



「いつか、お前の生まれた町へ行ってみたい」



 さっきよりも力を込めて鳴いてみた。チュン、と弱弱しい鳴き声が出た。ドラゴンが鼻をすり寄せてくる。ぬくいそれにすがりたくて、思うように動かない体だけれど力を振り絞って、顔をすり寄せた。



「わかるか、お前がいなければ、意味が、ないということだ」



 ドラゴンの、金細工のような、七色に輝く目が見えた。今は揺れる水面のように、ゆらゆらと輝いている。悲しいのだろうか。悲しくさせてしまった。これからもっと、悲しくさせてしまう。

 ああ、だからわたしは、その時が来なければいいのにと思っていたのだ。この夢が、覚めなければいいのにと。そうしたらドラゴンのそばにいられる。ドラゴンをひとりにしないですむ。きっと悲しい顔だって、させないのに。

 ごめんなさい。

 それから、それからね。



―ありがとう



 それがすずめとしてのわたしの、最後の言葉だった。










 ぱち、と目が覚めた。

 見慣れた天井。懐かしいにおい。手足が戻ってきたような感覚。ぎゅう、と手を握りしめてみる。そこに、手があった。

 ぎい、と扉の開く音がした。あの重々しい音ではなくて、もっと軽い、木の扉の開く音。音のした方に顔を向けると、かん、となにかが床に打ち付けられたような音もした。女性の震えた声が、わたしの名前を呼ぶ。何度も、何度も。そして駆け寄ってきた女性に私の体はぎゅうと抱きしめられた。心配かけて、とか、よかった、とか、温かい言葉がたくさん聞こえる。

 おかあさん、おかあさん、おかあさん…。

 わたしもおかあさんのことをぎゅうと抱きしめた。ごめんなさい、ただいま、それらはちゃんと言葉になってわたしの口からあふれ出た。わたしとおかあさんは、互いの存在をしっかりと確かめるようにしばらくの間ずっと、互いをぎゅうと抱きしめ続けていた。


 おかあさんの教えてくれたことには、わたしは馬車の事故に巻き込まれてずっと、意識を失ったままだったらしい。わたしも含めて乗客のほぼ全員が軽いけがで済んだらしいのだけど、わたしだけが、意識を取り戻せずにいたということだ。

 あれは、夢だったのだろうか。それとも。

 わからないけれど、あの夢のことを思い出すとただ、ただ、悲しくなるのだった。

 夢だったのならそれでいい。でも、本当だったなら?今でもこの世界のどこかに、ドラゴンが、ひとりぼっちでいるとしたら?もしかするとこの世界じゃないのかもしれない、それでも、どこかにひとりぼっちの、囚われのドラゴンがいるのだとしたら。

 わたしは、わたしはドラゴンをひとりにしてしまった。悲しませてしまった。苦しませてしまった。

 ごめんね、ごめんなさい。

 ごめんなさい。





 それから2日経った日の朝。

 わたしはベッドの上でおかあさんが持ってきてくれた新聞に目を通していた。その一面記事は、わたしのこころをざわつかせた。おかあさんがカーテンを開けながら、ひどいことをする人がいるもんねえ、信じられない、とぼやいている。

 新聞の一面にあったのは、ドラゴンの違法養殖が摘発されたという記事だった。

 まさか。もしかして。

 わたしは急いで、記事の中にドラゴンという文字を探した。いつわかった、どこで行われていた、そんなことはどうでもいい。ドラゴンは、ドラゴンはどうなって。心をはやらせながら、わたしはついにそれを見つけた。

 見つけた箇所には、ドラゴンは行方不明、という旨が書かれていた。

 行方不明。ドラゴンは、あの場所から飛び立っていけたということ、なのだろうか。

 ドラゴンは一か所にとどまらない、常に飛び続ける。もう囚われの身ではないドラゴンは、あの場所にとどまることなく、どこへでも飛んでいけるのだ。どこへでも飛んでいくことができるならドラゴンはきっともう、ひとりぼっちにはならない。

 よかった。

 よかったと、思わなければいけないはずなのに。

 どうしてわたしは、悲しいのだろう。

 ドラゴンはもう囚われの身ではない。卵を吐き出す苦しみもない。ひとりぼっちでも、ない。ドラゴンをひとりにしてしまったことが悲しかった。苦しませてしまったことが、悲しかった。けれどそれだけでは、なかったというのだろうか。

 ぽたりと音がして、新聞に黒いしみができた。

 ああ、ああ、わたしは、わたしが、ドラゴンに会えなくなってしまったことが、悲しいのだ。本当は人間だと、伝えることができなかったことが、悲しいのだ。すずめのわたしは死んでしまった。すずめではないわたしのことをドラゴンは、わからない。だからわたしは、ドラゴンには、二度と、会えない。

 やっぱりあれは夢じゃなかった。ただの夢だとしたら、こんなにも、悲しくなるはずがない。夢だとしたら、叶わないとわかっているのに、こんなにも気持ちが止まらないことが、あるはずがないから。

 会いたい。

 彼に、会いたい。


 おかあさんが、あら、と言う声が聞こえた。

 季節外れの雪かしら、と。見るとおかあさんは、窓の外を見ている。窓の外にはたしかに、白い何かがひらひらと舞い散っているのが見えた。キラキラと光るそれがどうしても気になって、わたしはまだうまく歩けないのにベッドから降りた。案の定、立ち上がろうとした瞬間に膝がかくんと折れて床に座り込んでしまう。気づいたおかあさんが駆け寄ってきて、肩を貸してくれた。窓のそばに行きたい、そう告げるとおかあさんは何も言わずにわたしを窓のそばへ連れて行ってくれる。

 窓を開けると途端に突風が吹いた。空気を叩きつけるような音が聞こえる。それが大きな翼が羽ばたく音だとわかったのは、空を仰いだからだった。

 仰いだその空は、青色ではなかった。

 空を覆うのは、赤い色。赤銅色よりは鮮やかで、でも緋色というほどの鮮やかさはない、不思議な色。太陽の光に照らされた今は透き通って、紅梅色にも見えた。

 大きな翼を持ったそれはだんだんと空から降りてきて、ついに石畳の道に降り立つ。おかあさんがわたしを窓から離そうとしたけれど、わたしはおかあさんの腕に手を添えて首を横に振った。おかあさんは何も言わずに、わたしを窓から離そうとするのをやめてくれた。

 ぐるる、という唸り声が聞こえる。気が付けば窓の外は、赤い色で満たされていた。それだけじゃない。黒い鼻先。金箔をはりつけた金細工のような丸い目。わたしをとらえた七色に輝くそれが、にじんで見える。

 どうして、と思う気持ちは声にならなかった。それよりもただ、ただ、嬉しくてたまらなくて。その黒い鼻先に手を触れると、ふしゅうとくすぐったそうな吐息が聞こえた。鼻先に触れた手が、じわりじわりと温まるのがわかる。この鼻は、やっぱりぬくい。

 ああ、今、あの声で、名前を、呼んでくれた。わたしの名前を。

 わたしは、わたしも、ふるえる声で名前を呼んだ。わたしがつけた名前。


 赤い色の花と同じ、その名前を。









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