馬車
真達五人を乗せた馬車がエル・アーシアの中を伸びる街道を進む。土を踏む馬蹄の音が一定間隔で小気味よく聞こえてくる。
進んでいる方向は、アクレスに続く道とは反対方向で、この方向は以前までであれば、封鎖された現実世界に繋がる道だ。
街道はよく整備されているとは思うが、土がむき出しになっている道なので凹凸があり、木でできた馬車の車輪は衝撃を吸収するような構造でもなく、車内はがたがたと揺れる。そのため、座席には布が重なって敷いてあり、ある程度緩和する役割を果たしてくれている。
この馬車もゲームの一部なのだから、移動手段として揺れることなく快適に乗れればいいものを、こういう細かいディテールに拘らなくてもいいのにと真は嘆息する。それでも、歩かなくて済むことにひとまず満足していた。
早朝からウィンジストリアを出発し、数時間おきに休憩を取りながら順調に街道を進む。馬車から見える景色はいつもと変わらず高原の美しい景色。山と草と土と木が見える景色のほとんど。たまに川を渡る橋を通ったり、湖のほとりの道で休憩をとった時に水辺の景色を楽しめるくらいだ。
都会に住んでいた真でも何カ月もエル・アーシアに滞在していれば、感動するような景色はもうない。
馬車の旅の一日目はこうして何事もなく、ただ馬車の中で揺られるだけで過ぎて行った。
次の日も昨日と同様に早朝から街道を馬車が進む。数時間も馬車に揺られているとエル・アーシアと現実世界の境界線に辿り着いた。真っ直ぐ機械で線を引いたように唐突に高原の大地からアスファルトで舗装された道路へと変わる。
「えっ!? 進めるのか!?」
真が思わず声を上げた。ゲームの馬車が現実世界の道路を進んでいる。木でできた車輪とはいえ、アスファルトで舗装された道ではほとんど揺れがないことに対して、改めて現代の都市建築に感銘を受けるが今はそれどころではない。
インターチェンジから高速道路へと入り、馬車は黙々と進んでいく。制限速度は80km/時だが、馬車を引く馬は淡々と歩いている。
「ハンスさん、この世界に入れるんですか!?」
馬車の御者台に顔を出した美月が質問の声を上げる。現実世界の人間がゲーム化した世界と現実世界を行き来できるのは当然のこととして、ゲーム化した世界の住人が現実世界に入ってくることができるとは知らなかった。
「ははは、順調に進んでるよ」
ハンスはにこやかに声たえる。
「え、あ、そうですね……」
質問に対して的がズレたことを返してきたハンスに美月が腑に落ちない表情をしている。
「ねえ、おじさん! 順調なのは分かったんだけど、現実の世界にも入ってこれるの?」
美月の横から翼が顔出してハンスに質問を投げかける。
「馬車の旅もいいだろう? 私はこいつの母親とも一緒に仕事をしてたんだよ」
ハンスは再びにこやかに答える。
「なんか、おじさんおかしくない?」
翼が不可解だとでも言いたげな様子で馬車の席に顔を向けた。
「やっぱり、ゲームの世界の住人なんだろう。現実世界のことを聞かれても答えられないんだよ。試しにウィンジストリアのことを聞いてみろよ?」
不思議そうな顔をしている翼に真が応える。さっきから会話がかみ合ってないことから、ゲーム化した世界の住人が現実世界のことを知っていてはおかしいので、その矛盾を生まないための措置なんだろうと予想していた。
「おじさん、ウィンジストリアで一番好きな物はなに?」
「やっぱり、山羊乳酒だろうな。高原ならではの酒さ。この仕事をしてたら、色々なところに行くけどな、ウィンジストリアの山羊乳酒は絶品さ」
翼の質問に対してハンスが何の違和感もない自然な回答を出す。
「ねぇ、おじさん。ここは高速道路なんだからもっと早く走ってもいいじゃないの?」
いつの間にか御者台に顔を出した華凛が現実世界のことを絡めて質問を投げた。
「ははは、お嬢さん達に山羊乳酒はまだ早いか」
華凛の声には反応しているようだが、返答がまるで的を得ていない。
「おじさん。もっと早く馬車を進めてもいいんじゃない?」
華凛が『高速道路』という単語を消して同様の質問を投げる。
「そう焦るなって、あまり馬を酷使すると潰れちまう。これくらいの速度で進んだ方が結果的に早く着くんだよ」
今度は的確な返答が返ってきた。急がせて馬が潰れてしまっては、馬車を引くことができなくなってしまうので、ハンスの言っていることはもっともだった。
「なんか、私、妙に納得してしまいました」
御者とのやり取りを聞いていた彩音が一人合点がいった顔で言った。いや、彩音だけでなく真も同様に合点がいった顔をしている。
「まぁ、何にしても普通の会話ならできそうだしな。特に問題はないだろう」
席の背もたれに体重を預けながら真が呟く。
「そうだね……なんかしっくりこないけど」
美月が馬車から見える景色と御者のハンスを見比べながら、何とも言えない表情をしてる。
「変な感じするよね……」
華凛も美月と同様の顔をしている。
「そもそも、現実世界にもモンスターがいるんだから、入って来れても不思議じゃないだろ」
まだ腑に落ちない様子の美月や華凛に対して真が言った。
「そうだけどさぁ……なんていうか、モンスターと人は違うし……。こっちに入ってくることができるんだって驚いたっていうか……真だって最初は驚いてたじゃない!」
美月が不平のような声を出す。達観したようなことを言っている真だが、最初に驚きの声を上げたのは真だ。そのことを思い出していた。
「いや、そ、そうだけどさ。普通に高速道路に入っていったから、面喰っただけだよッ!」
真としても違和感を感じなかったわけではない。ずっとゲーム化した世界の中を進んでいくものだと思っていたところに不意打ちのように高速道路がでてきて驚いただけだ。冷静になったところで、NPCが現実世界に入って来れても不思議ではないと思うようになっただけ。
そんな乗客が感じている違和感はともかくとして、現実世界の高速道路をゲームの世界の馬車が歩みを進めていく。高速道路だが、そこを走る車は一切なく、ただ馬がアスファルトを打つ馬蹄の音と木の車輪が擦れる音がするだけ。実に順調な旅と言える。
高速道路を馬車で進むというのはかなり時間がかかる。そもそも自動車が迅速に長距離を移動することを主目的に作られた道路であるから、馬車で進むと延々と同じ景色が続く。長いトンネルだと、一つ越えるにしても馬が歩く速度だと数十分かかる。
当然のことながら、休憩も高速道路の真ん中であり、サービスエリアに入るわけではない。
「高速道路の真ん中でご飯を食べるのって、なんか凄いよね」
昼食のバケットサンドを手にしながら、美月がまだまだ続いている高速道路の先を見つめる。
「だよな……。コンビニの床で一晩過ごしたことより、こっちの方がよっぽど凄いよな」
干し肉を齧りながら真も美月が見つめる道路の先に目をやる。
「世界がこんなになってなかったら絶対にできないわよね……」
翼が複雑な表情で呟く。普通であれば絶対にできないことができるというのは貴重な体験なのかもしれないが、それはそれであり、世界がゲーム化の浸食を受けていることを許容できるに足るかと言われれば、まったくそんなことはない。
「高速道路に馬車が入ってきたら絶対事故になるよね」
特に心を揺さぶれられるような思いもない華凛が冷淡に言葉を漏らす。
「まぁ、そうですけどね……」
華凛の言葉に取りあえず合わせておく彩音だが、『そういうことじゃないんだけどなぁ』というのは心の中に閉まっておいた。
「客人ら、そろそろ出発するぞー。あと少しでトライゼンだ」
「はーい!」
ハンスの呼びかけに翼が元気よく応えると、真達も慣れた様子で、速やかに馬車に乗り込んだ。
そこからの道中も変化らしい変化はなかった。長く続くアスファルトの高速道路を馬車が歩みを進める。エル・アーシアの街道よりも凹凸がかなり少なく、揺れも少ないので快適に馬車の旅を堪能することができる。
途中で休憩も挟みながら進むこと数時間。西日が強くなってきた頃だった。御者台に座っているハンスが真達に声をかけてきた。
「おーい。トライゼンが見えてきたぞ」
「えっ! どれどれ!?」
真っ先に反応をしたのは翼だった。御者台に顔を出し、ハンスが指を指す方向に目をやる。
まだ距離はあるにしても、レンガ造りの街が見えていた。はっきりとは見えないが、この先に街があることは間違いなかった。
「あれがトライゼンか」
真も御者台に顔を出して前方に見え始めた街並みに目をやった。おそらく、唐突に高速道路がなくなって、ゲーム化した世界の街が現れるのだろう。真はそう思いながら、もうすぐ到着する街に視線を向けていた。