歪な者
死の大地 シン・ラース。そこは常に黒く分厚い雲が空を覆い、日中でも影を落としたかのように暗い。頻繁に発生する落雷や、大地を割って噴出するマグマ。硫黄のガスに、強酸性の池が闇色に堕ちた大地を覆っている。
人間どころか、如何なる生物をも寄せ付けない死の大地。それがシン・ラース。
そこに、かつてない程の生命が溢れていた。ドラゴンの大群だ。生きる者を全て拒絶するかのような大地と空を無数のドラゴン達が飛び回っている。
死の大地とも言われるほど過酷な環境でも、ドラゴンの強靭な肉体なら活動をすることができる。それは、シン・ラースにとっての唯一の例外だろう。
そこにいる全てのドラゴンは深淵の龍帝と呼ばれる最強のドラゴン、ディルフォールの子供たちだ。
その死の大地シン・ラースの中心部には現実世界の建造物群があった。広い敷地に様々な建造物が建てられており、中央に位置する場所には古風な城が建てられている。ゲーム化の浸食を免れた場所だ。
見た目は古城だが、鉄筋とコンクリートで組み上げられ、ペンキで塗装された現代建築物。古い石材特有の凹凸や質感も忠実に再現されている。一目見ただけではそれが塗装であるとは分からないほどである。
そんな現代建築が作り上げた模造の古城に二人の女性がいた。
一人は褐色の肌と豊満な肉体。銀色の髪と金色の瞳をした美しい女性。
もう一人は紫色の肌に金色の髪と赤い瞳、特徴的なドラゴンの角と羽、そして尻尾を生やしたドラゴニュートの女性だ。
「イルミナよ。汝は遊びが過ぎるのではないか?」
ドラゴニュートの女性が不満げに口を開いた。仰々しい玉座に座り、頬杖を突きながら、目の前の女を見ている。
「ふふふ、そんなにカリカリしないのディルフォール。ヴァリアはちゃんと落としたでしょ?」
イルミナと呼ばれた女は面白そうに答えた。
「そのことではない! アグニスまで貸してやったというのに、どうしてかの国を落とさなんだ?」
ディルフォールの口調には苛立ちも混じっていた。目の前の女はただの人間だ。それなのに、自分を恐れてはいない。まるで対等であるかのような振る舞いが気に食わなかった。
「そんなにすぐに落としたら、次の遊び相手はどうするの? センシアル王国まで落としっちゃったら、残ってるのは雑魚ばかりになるわよ。それじゃあ、つまらないでしょ?」
あくまでイルミナは軽口で答える。話をしている相手が、最強のドラゴンであるかどうかなど、イルミナが気にすることではない。
「なら、アグニスまで行かせる必要はなかろう! 途中で放り投げて帰すとはどういう了見だ?」
ディルフォールは威嚇するようにイルミナを睨んだ。縦に割れた瞳孔が、気味の悪い人間を見据える。
「だから、遊び相手にも真剣になってもらわないと面白くないでしょ? アグニスを見て、センシアル王国も危機感を持ったはずよ。そうしたら、もっと抵抗して、足掻いて、苦しんでくれるじゃない。それを蹂躙してこその愉悦なのよ」
「我の望みは殺戮だ。汝の言う愉悦などに興味はない。そこに人間がいるなら、殺してしまえばいいだけのこと」
ディルフォールにとって、イルミナの趣味など興味はない。ただ、そこに敵がいるから殺すだけのこと。
「本当にそうかしら? あなた、本当に強い者と戦いたくはないの?」
イルミナが微笑みながらディルフォールを見た。ねっとりとした感触の悪い笑みだ。
「何が言いたい?」
「かつて、古の時代に存在した全ての魔物の頂点。そのあなたが、人間ごときに敗れた。さぞ悔しかったでしょうね。どれだけの数の人間が挑もうが、虫けらのごとく踏みつぶしてきたのに、逆に討たれたんですから」
「口の利き方に気を付けろ人間! 今この場で、あの時の憂さを晴らしてもよいのだぞ!」
ディルフォールは怒りを露にしながら立ち上がった。何かのきっかけがあれば、すぐさまイルミナに襲い掛かる勢いだ。
「だから、その憂さ晴らしをするのよ」
「憂さ晴らしだと? それなら、何故かの国を滅ぼさなんだ?」
ディルフォールが聞き返した。憂さを晴らすのなら、今やっていることはまさに憂さ晴らしも含まれている。かつて、自分を討った人間の国を一つ滅ぼしたのだ。まだ強大な人間の国は残っているのに、イルミナは滅ぼさずに帰還してきている。その意味が分からない。
「センシアル王国にはね、本当に強い者がいるのよ。それこそ、太古の昔にあなたを倒した英雄よりもね。どう? 直接戦ってみたくない?」
「あやつより強いと?」
「ええ、そうよ。でもね、いくら強くても、人間は一人じゃ生きていけないの。だから、センシアル王国を滅ぼしたら、その強い人間も生きていけなくなるのよね……。そうなったら戦えなくなるでしょ?」
イルミナが面白そうに言った。そもそもドラゴンと人間では時間の感覚が違い過ぎる。短命種のドラゴンであっても寿命は数百年だ。深淵の龍帝ともなれば、永遠ともいえるほどの命がある。
だから、単に国を滅ぼしてしまうと、強者と戦う機会を失ってしまう恐れもあった。
「…………」
ディルフォールはイルミナを見ながら黙した。何を考えているのか分からない女だ。その真意はどこにあるのか。それを見定めなければならない。
「殺戮があなたの本能であることは理解してるのよ。でも、それって闘争本能よね? じわじわと甚振って殺すことが私の趣味だけど、あなたは単に戦いたいんでしょ? 結果として虐殺という行為に至っているだけ。私は、その純粋な闘争本能を満たしてあげるって言ってるのよ」
「知ったような口を……」
イルミナの言葉を否定することはできなかった。ディルフォールにとって命を奪うことは使命でも何でもない。ただ、殺戮だけがディルフォールの存在理由だからだ。
では、戦うことはどうなのか。殺戮という自身の存在理由を全うするための手段として闘争がある。自分の存在を肯定するための行為が闘争と言ってもいいだろう。
そこには欲望があった。戦いたいという欲求。強い者と戦うほどに自らが満たされていくことを実感している。
逆に言えば、いくら弱者を殺しても満たされることはなかった。子供たちの餌にしてしまえば、殺戮という目的も達成できる。だから、ヴァリアを攻め滅ぼした時には動かなかった。敗戦国などに興味はないからだ。
「それとね、アグニスを退かせたのにはもう一つ理由があるのよ」
「挑発以外に理由があると?」
「そうよ。あのままアグニスを戦わせてたら倒されてたでしょうね」
「何ッ!? 戯言も大概にしておけよ、イルミナ・ワーロック! アグニスが敗れるだと!?」
何を言い出すかと思えば、アグニスが倒されるときた。この発言でディルフォールの怒りはさらに上がる。ここまできたら侮辱そのものだ。
「私の言う人間の“強者”が、あの場所にいたのよ。その人間なんだけど、アグニスとどうやって戦ったと思う?」
イルミナはセンシアル王国襲撃の時も同行していた。離れた位置からアグニスの戦いを眺めていたのだ。適当なところで退かせることも目的だったが、本当の目的は、イルミナお気に入りのベルセルクを引きずりだすことだった。
その目論見は見事に的中。最初から真の姿を確認できて、イルミナは非常に満足していた。そして、真とアグニスの戦いを見ることができ、頃合いを見て撤収させた。
「汝の問答に付き合うつもりはない!」
「あら、冷たいのね。まあ、いいわ。教えてあげる。一人でアグニスと戦ったのよ」
イルミナはニヤリと微笑んだ。自分が上に立っているとでも言いたげな嫌味な笑みだ。
「一人で戦っただとッ? ハッ! 何を言うかと思えば、汝の虚言など聞く耳持たぬわッ! 今すぐその口を閉ざさなければ、この場で八つ裂きにしてくれようぞ!」
よりによってイルミナは、火竜王アグニスを人間ごときが一人で応戦したと宣った。
太古の昔にディルフォールが敗れたのも、英雄と大勢の人間が力を終結させて、ほとんど相打ちに近い形でのことだった。
それなのに、深淵の龍帝に最も近い力を持っている二匹の竜王の一角に、一人で挑んだと言うのだ。しかも、そのまま戦っていれば、アグニスが倒されるとまで言っている。
「本当よ。でなければ、あなたと戦うためのお膳立てなんてしないわ」
イルミナは笑みを消して言った。ディルフォールが放つ強烈な殺気に微塵も動揺していない。
「……アグニスを単独で倒せる力を持っているというのだな?」
人間の嘘など、ディルフォールが『本当のことを言わなければ殺す』と脅せば、恐怖に屈して簡単に吐かせることができる。だが、イルミナは恐怖を感じていない。それどころか、心がまるで読み取れない。それでも、今のイルミナが嘘を言っていないことは間違いないと言い切れる。それほど、イルミナの言葉には真実味が込められていた。
「ええ、間違いないわ。私はその人間を何度も見てきたの。私の配下の魔人も、その人間に倒されてる。強さは本物よ。あなたを満足させてくれるだけの力は持っているわ」
「……イルミナ。汝の目的はなんだ?」
何故人間であるはずのイルミナが、ドラゴンである自分にここまで協力しようとするのか。最初は単なる個人的な復讐かとも思っていたが、どうもそういう訳ではなさそうだ。
ディルフォールにとって、人間など踏みつぶすだけの存在。何を目的としているのかなんて、どうでもいいことだったが、このイルミナ・ワーロックという女だけは何かが引っかかる。
「私はね、この世界を綺麗にしたいの」
「世界を綺麗に……だと?」
やはりと言うべきか、訳の分からないことを言ってきた。最初からまっとうな人間ではないことは分かっていたが、考えていることも理解の範疇外だ。
「この世界は歪んでしまっているの。何もかもが歪んでいる。特に人間なんて、歪みの最たるものよ。だから、調和の取れた、綺麗な世界にしたい。それだけのことよ」
イルミナは無機質に微笑んだ。
「……好きにしろ。汝の答えを聞いて興味が失せたわ」
ディルフォールは再び玉座に座りこんだ。ここに来て、またイルミナのことが分からなくなった。どこまで本心で語っているのか分からない。矮小な人間の考えることなど簡単に読み取れるはずが、やはりこの女のことだけは読むことができなかった。