破滅の足音
ヴァリア帝国、皇城。その玉座の間には、黒い大理石が敷き詰められ、幾本の柱が高い天井を支えている。床には細かく綺麗な細工が施された白い絨毯が敷かれており、その奥にヴァリア帝国皇帝ブラドが鎮座していた。
「皇帝陛下、失礼いたします……」
そこに一人の衛兵が入ってきた。年は30代後半といったところだろうか。鍛えられた肉体に、衛兵用の鎧を装備している。
「…………」
ブラドの目は虚ろだった。衛兵が入ってきたかどうかも、ブラドには分かっていないように思える。
「皇帝陛下、至急お伝えしなければならないことがございます……」
衛兵の男は、それでも話を続けた。聞いているかどうか以前に、聞こえているのかどうかさえも怪しいが、報告しないわけにはいかない。
「…………」
やはり、ブラドの反応はない。ただ虚空を眺めているだけ。息をしているのは分かるが、生きているようには見えない。まるで屍と話をしているかのようだ。
「皇帝陛下。急ぎの案件ゆえ、報告させていただきます……。先日のセンシアル王国への侵攻……。我らがヴァリア帝国の敗北となりました……」
衛兵の男は断腸の思いで敗北の報告をしにきた。しかも、ヴァリア帝国黒騎士団を投入してでの敗北だ。常勝無敗の帝国黒騎士団がいて負けてしまったという事実に、衛兵の男も心中穏やかではいられない。
「……左様か……。下がってよいぞ……」
ブラドは衛兵を見ることなく呟いた。まるで感情が感じられない。ブラドは冷酷な人間だが、感情は豊かな方だ。主に怒りという点でのことだが。
「へ、陛下……?」
だから、衛兵の男は面を喰らったような顔になった。昔のブラドなら怒り狂っていたであろう報告だ。だが、その怒りを報告に来た衛兵や近くにいる使用人に向けることは絶対にしない。怒りの矛先は常に敵に向いているからだ。
皇帝ブラドの逆鱗に触れたものは、絶対にその報いを受けることになる――のだが……。
「…………」
ブラドはそれ以上何も言ってこなかった。その目はどこを見ているのかさえも分からない。
「ブラド皇帝陛下……。我らがヴァリア帝国が敗北を期しました……。黒騎士団は全滅。ゼール卿も戦死されたとの報が入っております……」
衛兵の男はもう一度報告した。ブラドがどうなってしまったのかは衛兵の男も知っていた。イルミナという女が来てから、廃人のようになってしまった。だが、ヴァリア帝国がセンシアル王国に敗北したという事実に加え、黒騎士団が全滅したということを知れば、怒りに我を取り戻すに決まっている。そう信じていた衛兵の男の儚い期待もまるで届いてはいない。
「……左様か……」
ブラドは虚空を見つめたまま動くことはない。息はしている。心臓も動いている。だが、まるで覇気を感じない。ただ虚ろな老人でしかない。
「ブラド皇帝陛下……。私よりの報告は以上になります……」
これ以上言うことのない衛兵の男はそう言うと、恭しく一礼をしてから、玉座の間を後にした。
衛兵の足音が消えると、再び玉座の間には無音が戻ってきた。一人の老人が豪奢な玉座に座って虚空を眺めている。ただ、それだけの空間に戻った。
「主様、少しばかり術が強すぎたでありんすかえ?」
玉座の間の柱の陰から長身の女が姿を現した。ドレス姿につば広の帽子。顔には鉄仮面をつけた上級魔人の一人シャンティだ。
「これくらいの術をかけておかないといけないのよ、この男は」
反対側の柱からは褐色肌の女が現れた。長い銀髪に豊満な肉体。金色の目をしたサマナー、イルミナ・ワーロックだ。
「もはや意思というものが見当たりんせんが?」
玉座に座るブラドにシャンティが近づいて顔を覗き込む。それでもブラドは反応を示さない。
「この男はまだ抵抗しているわよ。さっきの反応、シャンティも見たでしょ?」
「ええ、あちきも見ておりんしたが」
「これだけ強い精神破壊の術がかかってるのに、返事をしたのよ。ふふふ、流石は帝国を統べる皇帝陛下ってところね。精神の強さは異常よ」
イルミナはそう言いながら、ブラドの頬をそっと手で撫でる。それは自分のお気に入りの人形を撫でているかのような手つきだった。
「でも、主様……。この状態で計画に支障はないのですかや?」
「シャンティって案外心配性なのね。私の計算に疑問でもある?」
イルミナがいたずらな目でシャンティを見る。顔は笑っているが、獲物を前にした捕食者の目だ。
「ぬ、主様、申し訳ございません――あぁ、その目でありんす! あちきが主様を疑うようなこと、決してござりんせん。これからも主様に魂も捧げると誓うでありんす!」
イルミナとシャンティの関係はいわば、食う側と食われる側の立場に似ている。イルミナがその気になれば、いつでもシャンティを殺すことができる。イルミナの目はそれをシャンティに直接伝える。それが、シャンティにとってはこの上ない悦びなのだ。
「ふふ、いい子ねシャンティ。そうね、今の状況をシャンティにも教えておいてもいいかもしれないわね――ゴルドーいらっしゃい」
イルミナの声が広い玉座の間に響いた。この場にいるのは、イルミナとシャンティ、それに皇帝ブラドだけなのだが――
「はっ。イルミナ様、お呼びでございましょうか」
イルミナに呼ばれて、どこからともなく現れたのは祭服姿の魔人だった。長身で落ち着いた出で立ち。顔には白いデスマスクをつけている。
「ゴルドー。追跡を任せておいたネズミの件。どうなったかしら?」
「はい。ヴァリア帝国魔道将軍ロズウェルは、開戦当初より消極的な動きをしており、クオールのゾンビとザーザスが戦局を変えたあたりから、魔道軍を率いて戦線を離脱。想定通り逃亡を図りました」
ゴルドーは片膝を付いてイルミナに報告した。
「そう。ほんと、頭の良い子は扱いやすくて助かるわ」
「今のところ、イルミナ様の描いた通りに事が運んでおります」
「ということよシャンティ。後はロズウェル坊やが勝手に動いてくれるわ。でもね、皇帝にはもうちょっとだけ頑張ってもらわないといけないの。それに、この男は素体としては凄く良い物なのよね。このまま捨てるのは勿体ないから、最後に役に立ってもらおうと思ってるのよ」
イルミナは面白そうにブラドの頬を撫でた。貴重な宝石でも見つけたかのような目つきをしている。
「イルミナ様の仰る通りでございます。これだけの素体は私も初めて見るものです。どんな結果になるのか、今から楽しみでございます」
物静かだったデスマスクの下からゴルドーの笑みがこぼれた。
「ゴルドー、それほどの素体を使うのは過剰なのではありんせんか? 相手が壊れてしまっては元も子もんないでありんす」
シャンティがゴルドーに対して疑問を呈した。
「問題はありませんよ、シャンティ嬢。それよりも、この素体がどうなるのか、あなたも楽しみではありませんか?」
若干高揚したような声でゴルドーが答える。
「まぁ、それはゴルドーの言う通りでありんすが――」
「ねえ、シャンティ。センシアル王国には義勇軍がいるのよね」
イルミナがシャンティの言葉を遮って入ってきた。
「はい……」
義勇軍のことはシャンティも知っている。ヴァリア帝国が負けたのは、この義勇軍が原因と言ってもいいくらいだ。
「センシアルの騎士団なんて、あなたたち魔人の敵じゃないのよ。でもね、義勇軍はクオールとザーザスを倒してるの。その意味は分かるわよね?」
「はい。主様の計算通りでありんす」
「そういうことよ。だから、この素体を使ったとしても私の計算では問題ないの。ちゃんと私の思った通りの結果を出してくれるわ」
イルミナは不敵に笑った。全てのことがイルミナの掌の上で進んでいる。面白いくらいに計画に支障がない。怖いくらいに上手く行っている。だが、それは偶然ではない。イルミナが計算をした通りの結果になっているだけ。最初から分かっていた結果が、後からついて来たにすぎなかった。




