帝国側
ヴァリア帝国の皇城にある玉座の間。広く雄大なその玉座の間には、黒い大理石の床と複雑に織り込まれた白い絨毯が敷かれている。
その最奥にある玉座には一人の老人が座っていた。黒い生地には豪華に編み込まれた金糸と銀糸。首からは大きな宝石が付いたネックレスが光を放っている。
壁に掲げられたヴァリア帝国の国旗を背にして、その男、皇帝ブラドは虚ろな瞳で虚空を眺めていた。
ヴァリア帝国の現皇帝ブラドは、長いヴァリアの歴史の中でも非常に才覚のある人物だった。帝国の内政や軍事、経済に至るまで全てを掌握し、外交にも長けている。
ヴァリア帝国の黄金期をもたらしたのは皇帝ブラドの手腕と言われている。だが、帝国の民からの評判は実績よりも良くなかった。
その理由は、皇帝ブラドのやり方が力によって押さえつけるというものだから。
皇帝ブラドの意にそぐわない者は、その力によって徹底的に排除する。邪魔になるような者は、邪魔になる前に消してしまう。帝国の治安を乱す者、反抗しようとする者は、見せしめのために公開処刑される。
まさに暴君とも言える皇帝ブラドの代に帝国が大きな発展を見ることができたのは、皇帝ブラドが潔癖なまでに合理主義者だったからだ。
皇帝ブラドは、私利私欲で権力を行使しない。あくまで帝国の発展に寄与するための権力行使だ。例えば、ブラドが皇帝に即位した際に、ある貴族と商人が賄賂を贈ってきた。これからよろしくお願いしますという言葉を添えて。
それに対して皇帝ブラドは、収賄罪を適用し、その貴族と商人を斬首刑に処した。皇帝ブラドが初めて行った公開処刑である。
収賄罪だけで斬首にするという行動に権力者たちは戦慄した。今までのやり方が全く通用しない相手が皇帝になったことを実感した。
これが皇帝ブラドのやり方だった。その溢れんばかりの才覚で、帝国の重要事項は全て皇帝自身の独断で決定する。その判断は帝国の利益という点でいえば間違いなく益となるもの。
その反面、切り捨てられる人達もいた。帝国内にいる社会的弱者達だ。皇帝ブラドは帝国にとって利益とならない者は救おうとしない。自らの力で這い上がれない者は、それだけの者。手を差し伸べてやる必要はないという考え方だ。
さらには、植民地に対する圧政があった。帝国は植民地に対して権利の一切を認めない。帝国のために働くことを強制される。重い税を課し、払えない者は広場に吊るされ、滅多打ちにされることも珍しくはなかった。
結果として、この皇帝ブラドの政策は帝国を発展させることに成功した。
ヴァリア帝国が最も弱体化したと言われている祖父の代には、隣国センシアルの台頭を許してしまったが、ブラドの代になってから、急速に力を取り戻したと言える。
それほどの男、皇帝ブラドが今はただ虚空を眺めているだけ。まるで生気を抜かれてしまったかのように、かつての覇気は見る影をなくしている。
皇帝ブラドがそうなったのは数カ月前から。皇城にある女が訪れてからだ。その女は美しい顔と体を持っていた。健康的な褐色の肌に、絹のような白い髪。見る者を魅了する金色の瞳を持ったサマナーだ。
イルミナと名乗ったその女は、一瞬のうちに皇帝ブラドに取り入った。
徹底的な合理主義者であり、私利私欲といったものを潔癖なまでに嫌う皇帝ブラドが、どこの馬の骨とも分からない女に取り入られたのだ。
皇城内では水面下で色々な憶測が流れた。以前であれば。皇城内で憶測が流れることはありえなかった。それは、皇帝ブラドが不確実な噂を嫌ったためだ。事実無根の噂が流れれば、その根源を突き止めて、処罰する。それが、貴族であろうがなかろうが関係ない。
だが、今は水面下とはいえ、荒唐無稽のものから、まことしやかな憶測まで、様々な噂が流れていた。そして、その状態が放置されている。
当の皇帝ブラドは、一日中玉座の間で虚空を眺めているだけ。
そんな皇帝ブラドがいる玉座の間に、一人の騎士がやってきた。
「皇帝陛下。突然の謁見、ご無礼をお許しください」
やってきたのは初老の騎士。黒い鎧に赤いマント。巧みな装飾が入った剣を帯びている。長い金髪は後ろで束ねられ、顎に蓄えた髭は綺麗に整えられている。
「……何者だ?」
皇帝ブラドが虚ろな声で答えた。
「ヴァリア帝国黒騎士団、団長のゼール・ヴァン・ヘイムにございます」
ゼールと名乗った騎士は恭しく膝を付き、頭を垂れた。
「……あぁ。ゼールか……何用だ?」
名前を言われて思い出したかのように皇帝ブラドが返事をした。
「はっ! 本日は皇帝陛下に陳情いたしたく参りました」
ゼールは頭を下げたまま声を張った。
「……陳情とな?」
「はっ! 何卒私の話を聞いていただきたく、無礼を承知の上で陳情に参りました」
「ふむ……申してみよ」
「私の言葉に耳を傾けていただける、皇帝陛下の寛大さに改めてお礼を申し上げます」
ゼールはそこまで言うと、一呼吸置いてから、まっすぐ皇帝ブラドの方を見た。
「お話とは他でもありません。センシアル王国への侵攻。これを直ちにお止めいただきたいのです!」
切実なゼールの声が玉座の間に響く。その強い目線は皇帝ブラドを貫くようだった。
「センシアル王国への侵攻を止めろと?」
そこで皇帝ブラドの目が変わった。虚ろだった瞳は獲物を見る鷹のような目に変わっている。これこそが帝国を掌握した覇者の目だ。
「は、はい! センシアル王国への侵攻は帝国にとって痛手にしかなりません! いかに現帝国が栄華を極めていようと、相手はセンシアル王国。元は小国といえども、その力を侮ってはなりません!」
ゼールの額から冷や汗が流れた。もはや見る影もなくなったと思われていた皇帝ブラドだが、その逆鱗に触れるようなことがあれば、かつての覇気を取り戻すのだ。
「ほう、言うではないかゼール卿。そなたの考え聞かせてみろ」
皇帝ブラドはまっすぐゼールを睨んだ。それはまるで首に刃物を突き付けられているような感覚。
「はっ! 恐れながら申し上げます。センシアル王国軍だけであるのなら、我が帝国が遅れを取るようなことはありません。ですが、センシアル王国は冒険者による義勇軍を揃えているとの情報があります。特に、この義勇軍というのがかなりの手練れとのこと。未知数の戦力に対して、我が帝国が痛手を負うこともあり得ると愚考いたします」
実際の国力でいえば、ヴァリア帝国とセンシアル王国はほぼ互角といったところ。お互いの国がそれを分かっているからこそ、手を出さなかった。
「我が帝国がセンシアルに負けると言いたいのか?」
「いえ、決してそのようなことは……。ただ、今の状況でセンシアルと戦う理由がございません! お互いに傷を負うだけの戦争に何の意味がございましょうか!」
皇帝の手前負けるとは言えないゼールだが、相手はほぼ互角のセンシアル王国。本音から言えば負ける可能性もあると思っていた。
「この戦争の意味とな?」
「はい! この戦争に大義はございますでしょうか!」
ゼールは殺される覚悟で言った。以前の皇帝ブラドであれば、自分が反論をするようなことはなかった。皇帝ブラドが判断を間違えるということがなかったからだ。この男についていけばそれでいい。それが皇帝ブラドだった。
「この戦争の――」
「大儀ならあるわよ!」
皇帝ブラドの言葉を遮ったのは妖艶な女の声だった。綺麗な声なのだが、どこか不快感を覚える、そんな声だった。
「イ、イルミナ……様」
ゼールが驚きに目を丸くしていた。いつの間にか自分の後ろにイルミナが立っていたのだ。帝国黒騎士団に入ってから数十年。武人として数々の武勲を上げてきたゼールが、気配を感じることができなかった。声がするまでその存在に気が付かなかった。
「おおー! イルミナ! どこへ行っておったのだ?」
イルミナの姿を確認した皇帝ブラドの目からは、先ほどまでの覇気は消えていた。その眼は年老いた老人の目そのもの。
「ちょっと、宝物庫へ。前に陛下から教えていただいた、ゴーゼスの魔書を探しておりました」
イルミナはそう言いながら、すっと一冊の本を出した。それは古い本だった。茶色い表紙には魔法陣が描かれている。
(ゴ、ゴーゼスの魔書だとッ!? 国宝の一つではないか!? なぜそれをこの女が!?)
ゼールは腸が煮えくり返る思いだった。ゴーゼスとは、ヴァリア帝国の歴史の初期に現れたサマナーの名前だ。
ゴーゼスは召喚した悪魔と契約を結び、自らも悪魔となったサマナーだ。そのゴーゼスが使っていた魔書がヴァリア帝国の国宝の一つとして保管されている。
「おお、そうか、そうか。ゴーゼスの魔書か。無事見つかったようだな。好きに使ってよいぞ」
「なッ……!?」
皇帝ブラドの発言に、ゼールの口から思わず声が漏れた。まさかとは思っていたが、本当にゴーゼスの魔書をイルミナに与えたようだ。
「ふふふ、ゼール卿だったわよね? そんなに驚かなくてもいいじゃない。これは心優しい陛下が、私にプレゼントしてくれただけのことなのだから」
笑っているイルミナに対してゼールは歯噛みするだけだった。イルミナがいる以上、皇帝ブラドに何を言っても無駄だということは分かっている。
「……して、イルミナ様。先ほどのお話、続きを聞かせていただいてよろしいでしょうか……?」
ゼールはぐっと堪えて話を変えた。国宝の一つを女狐に取られるのは癪だが、今はそれよりも大事な話がある。
「続きって……? ああ、大儀があるっていう話?」
「はい。そうです」
「大儀ならあるわよ。ヴァリア帝国はこの世界の覇者となるべき国。その帝国の近くに、調子に乗ってる国があったら、潰すのは当然のことでしょ? これ以上の大儀が必要?」
相変わらずイルミナは笑いながら言ってきた。イルミナも分かって言っているのだとゼールは勘づく。大儀などないということを。
「ははは、イルミナの言う通りだな。そうだ、ヴァリアこそこの世の覇権国家。センシアルなどという、田舎者に好き勝手されるわけにはいかんのだよ!」
イルミナにつられるようにして皇帝ブラドも笑った。
「陛下! その田舎者を侮ってはいけないのです! センシアルと戦う理由はないのです! 何卒お考えを改めてください!」
ゼールは半分諦観しながらも、必死で声を上げた。イルミナが傍にいなければ、まだ話ができたかもしれない。だから、イルミナが留守にしているタイミングを狙って来たのだが、ここまで早く戻ってきたということは、どうやらこちらの手は読まれていたようだ。
それでも、ゼールは声を上げた。無理だと分かっていても、陳情を止めるわけにはいかない。センシアル王国への侵攻の準備は着々と進んでいるのだから。もう残された時間はない。
「くどいぞゼール! イルミナが言った通りだ! センシアルへの侵攻は決定事項だ!」
皇帝ブラドはまるで聞く耳を持たなくなっていた。そのことが悔しくてゼールは奥歯を噛み締める。
「まあまあ、陛下。そんな目くじらを立てなくてもよろしいじゃないですか。ゼール卿もタダで陳情に来たわけではないのしょうし」
イルミナのその言葉にゼールが訝し気な顔を見せた。そして、イルミナはこう続けた。
「ヴァリア帝国が侵攻を決めたことを覆すなんて、普通はそんな大それたことできません。当然のことながらゼール卿は覚悟を持ったうえで陳情に来ていらっしゃいます。そうよね?」
イルミナが面白そうにゼールを見た。まるで獲物を前にした蛇のような目だ。
「は、はい……。当然、覚悟の上でございます」
言い知れぬ嫌な予感がしながらも、ゼールは肯定の意を示す。
「その覚悟を見せてほしいのよ」
イルミナはそう言いながら、ゼールが帯びている剣に手をかけ、すっと引き抜いた。
(なるほど、ここで自害しろということか……。これも帝国のためであれば仕方あるまい……)
ゼールは武人だ。帝国のために命を捨てる覚悟はいつでもできている。
「この剣であなたの妻と娘の首を持って来なさい」
「なっ……なんと……!?」
イルミナの発言にゼールは我が耳を疑った。自分の剣で愛する家族の首を斬ってこいというのだ。
「覚悟はできてるんでしょ? あなた、たしか一人娘がいるわよね? なかなか子宝に恵まなかったから、さぞ大切に育てられたでしょうね。その娘ももう結婚する年。黒騎士団から婿養子を迎えるそうね。でも、残念ね、卿の覚悟を示すために、その首を差し出さないといけないのだから」
イルミナは面白そうに笑っていた。確実に楽しんでいる。
(この女……なぜそれを知っている……!?)
ゼールにとって恐ろしかったことは、家族構成やもうすぐ婿を迎えるという情報をイルミナが知っているということ。これはもはや人質を取られているようなものだ。ゼールがここで引き下がったとしても、今後、何かおかしな真似をしたら家族の命がどうなるか分からない。
「……陛下。私が間違っておりました……。この度の非礼及び愚行の数々……どのようにしてお詫び申していいか分かりません……。このゼールの首を差し出せというのであれば、喜んで差し出しましょう……。ですから、妻と娘だけは、何卒お許しください……」
ゼールは深々と頭を下げた。もうゼールができることはない。いや、最初からなかったのだ。イルミナという女の恐ろしさが分かっただけのことだった。
「イルミナよ。こやつの処遇、どのようにする?」
(ここでもイルミナか……)
自分で判断しようとしない皇帝に対して、ゼールは情けない気持ちでいっぱいになった。
「陛下、ゼール卿は武人です。武人は戦うことでしか許しを請うことはできません。ですから、ゼール卿には黒騎士団を率いて、センシアルと勇敢に戦っていただくことにしましょう」
「そうだな。イルミナの言う通りだ。ゼール卿よ、聞いていたか? イルミナの寛大な処置に感謝し、此度の戦いで相応の成果を上げるのだ!」
「はっ……。陛下とイルミナ様の寛大なお心に応えられるよう、この命をとして尽力することを誓います……」
ゼールはヴァリア帝国の歴史がもうすぐ終わるのだと確信していた。だったら、その最後をヴァリア帝国の武人としてともに沈むことが本望だ。ゼールはそう思いながら、生涯最後となる誓いを立てた。