異変 Ⅰ
雲一つない快晴の空。澄んだ空気は爽やかな風を運んでくる。岩砂漠に囲まれたタードカハルと違い、王都グランエンドにある宿の窓を開けていても、砂埃が入ってくるようなことはない。
だから、少女は数日前から宿泊している宿の窓を開けて、入ってくる風に頬を撫でられていた。3階にある部屋の窓を開けていると良い風が入ってくる。
この少女は非常に美しい顔をしていた。ショートカットの赤黒い髪に気の強そうな顔立ち。一見して誰もが美少女だと思うであろうその容姿なのだが、実際には少女ではない。蒼井真という名前の男であり、実年齢は25歳だ。
世界がゲーム化による浸食を受けた際に、見た目をボーイッシュな美少女に変えられた。そのことに真は今でも強い不満を持っている。
強い男になりたいと望んでいる真からすれば、この見た目のせいで色々と苦労をさせられる。だが、今はそんな見た目とはまた別のことで苦労をしていた。
「なぁ……そろそろ、行かないか?」
時刻は正午前。普段ならもう昼食を摂りに出かけている頃だ。現実世界と違い、12時になったら一斉に昼休みになるというわけではないが、日本人の習慣だろう。12時頃になると、どこの店もすぐに一杯になってしまう。
そのため、真としては、早い時間に動いて席を確保しておきたいのだが、あることが原因で女子連中が動こうとしなかった。
「ごめんね、真。もう少しだから」
申し訳なさそうに美月が返事をする。美月はあどけなさが残っているが、かなりの美少女だ。そんな美月から言われると真は弱かった。
ただ、問題は、真には『もう少し』がどれだけの長さなのか分からない。いや、分かっていた。かなり長いということが。
それもそのはず、真がマスターを務めるギルド『フォーチュンキャット』の女子連中が昼になっても動かない理由は、装備が新しくなったことだった。
つい先日、シークレットミッションをクリアしたことで、アドルフ宰相から褒美が送れらてきたのだ。褒美の内容は『宮廷騎士団』装備一式。それも全員分。
以前、ここ王都グランエンドで大金をはたいて購入した『王国騎士団式』装備よりもさらに格上の装備。金で買える『王国騎士団式』とは違い、非売の特別品だ。
その見た目のもかなり良い一級品。そう、見た目は一級品なのだが、一級品であるが故の問題があったため、『フォーチュンキャット』の女子達は試着を繰り返していた。そのせいで、真は待ちぼうけを喰らっている。かれこれもう2時間になるだろうか。
「ちょっと派手ですよね……」
『宮廷騎士団』のローブを纏った彩音が恥ずかしそうに口を開く。彩音が装備しているのはソーサラー用のローブ。紺色の生地に銀糸で刺繍がされており、スカートは片側に大きなスリットが入ってる。
彩音はメガネをかけた黒髪のロングヘアー。地味な印象を受けるが、地顔はかなり良く、身なりをきっちりしたらかなり化けるタイプだ。だが、当の本人は大胆な格好をしたくない。
『宮廷騎士団』装備の見た目は確かに良い物だ。問題はその大胆さ。良い物であるが故に、社交場に出て行くような大胆なデザインになっている。
「たしかに、街中をこれで歩くのは少し抵抗あるかもね……」
彩音と同じく『宮廷騎士団』のローブを装備した華凛が言う。華凛はハーフでシルバーグレイの長髪をしている。顔立ちも奇麗な美少女であるため、『宮廷騎士団』のローブも高レベルで似合っていた。
「私はこれでも良いわよ。っていうか、これが良いかも」
快活に口を開いたのは翼だった。装備しているのは『宮廷騎士団』の戦闘服。紺色の軍服には銀糸で刺繍がしてあり、黒いミニスカートとブーツ姿だ。肩まで伸ばした癖のある髪と、活発そうな顔立ちから、今の装備はよく似合っていた。
「翼はそれでいいかもしれないけどさ……。私のは。ちょっと大人っぽ過ぎるし……」
美月が恥ずかしそうにローブのスカートを押さえていた。美月が装備しているのはビショップ用の『宮廷騎士団』ローブだ。彩音と華凛が装備している攻撃職用のローブとはまた違った形状をしている。基本的な構造は似ているのだが、問題はスカートに大きなスリットが二つあること。そのせいで、油断すると両太ももが露わになってしまう。
「たしかに美月にはまだ早いかなっていう感じはするわね……」
口元に手をやりながら翼がまじまじと美月の姿を見る。美月は顔もかわいいし、スタイルだって悪くない。だが、如何せんまだあどけなさが残っている。こういう露出の多い服装はまだ早いように思える。
「そうだよね……。スリットも深いし……。やっぱり止めておこうかな……」
装備には男女によってデザインに差のある物がある。低レベルの装備やノーマルやレアなどのグレードの低い装備は男女でデザインを分けていない若しくはほとんど差がない物が多いが、宮廷騎士団装備のグレードはレジェンド。上から二番目に高いグレードの装備だ。しかも非売品。こういった特別な装備だと男性用と女性用でデザインが変わる。そのため、女性陣の装備は男性用と違い、露出が多めなデザインになっていた。
「でも、良いんじゃない。少しくらい背伸びするっていうのもさ。それに、スリットは真もガン見してるんだから、好評だってことよ!」
にんまりとした表情で翼が言う。それに対して真がすぐに反応をした。
「べ、別に俺はガン見してたわけじゃねえよッ!」
美月の太ももをじっと見ていた真が慌てて声を上げる。美月も慌ててスリットから覗く太ももを隠した。
「そうなの? でも、真だって男なんだからこういうの好きでしょ?」
翼はそう言うと、自分のミニスカートの横をクイッとたくし上げた。見えたのは太ももの側面の付け根。奇麗な肌をした柔らかそうな太ももだ。真は思わず目が釘付けになってしまう。
「ちょ、ちょっと、真ッ!? 何見てるのよ!」
美月が顔を赤くして声を上げた。
「み、見てねえよ! っていうか、これは翼が悪いだろ!」
理不尽に怒られた真は納得がいかないと言う様子で翼の方を指さす。
「すっごい見てたくせによく言うわよね!」
しっかりと翼の太ももを見ていたくせにと、翼が反撃を繰り出した。
「別に見たくて見たわけじゃねえよ!」
「そうなの~? だったらさ、ホレ」
翼は真を挑発するように、もう一度ミニスカートの横をたくし上げた。チラリと見えるのは奇麗な太ももの側面。真の目は無意識に翼の太ももへ吸い寄せられた。
「ッ!?」
ハッとなった真が慌てて目を逸らす。一瞬だが、お尻の方まで見えてしまったため、完全に目を奪われてしまった。
「ほら、やっぱり見たじゃない!」
面白そうに翼が言う。
「つ、翼!? 何やってんのよ!?」
真を揶揄う翼に対して、美月が抗議の声を上げた。真も真でいいように翼に遊ばれているのが情けない。
一連の翼の行動を見ていた華凛が黙ってローブのスリットを広げた。
「華凛さん……張り合わなくていいですから……」
頬を染めたまま、真に向けてスリットを広げた華凛だが、肝心の真は華凛の行動に一切気が付いていない。そんな華凛の肩に彩音がそっと手を添えた。
「えッ!? な、なに? わ、わた、私は何も張り合ってなんか……い、いないから!」
耳まで真っ赤になった顔で華凛が弁明をしてくる。こうすれば真の注目を集めることができると翼が証明してくれた。それを華凛も実践したのだが、完全に失敗に終わっている。
そういったやり取りをしている時だった。空から大音量で声が聞こえてきた。
― 皆様、『World in birth Real Online』におきまして、本日正午にバージョンアップを実施いたします。 ―
その声に対して、真達に緊張が走った。
「この前、ミッションをクリアしたばかりだろう……。もう次のバージョンアップかよ……」
真が呻くような声を出す。ゲーム化した世界のバージョンアップのタイミングは本当に予想が付かない。実際のゲームであれば、バージョンアップ前には必ず告知があり、いつバージョンアップがされるかも明示されているのだが、このゲーム化された世界ではその常識がない。バージョンアップ実施の直前に告知してくるのだ。
― 繰り返します。本日正午を持ちまして、『World in birth Real Online』のバージョンアップを実施いたします。バージョンアップの内容につきましては、皆様それぞれにメッセージを送付いたしますので、各自でご確認ください。 ―
再度、空から大音量で声が聞こえてきたそのすぐ後のこと。
【メッセージが届きました】
真の頭の中に直接声が響いた。これはバージョンアップが実施され、その内容を示したメッセージだ。内容を確認しないと、どんなバージョンアップが実施されたのか分からない。
「確認するぞ……」
真がギルドメンバーを見渡して言った。バージョンアップが実施されたら、まずはギルドマスターである真がその内容を確認するというのが暗黙の了解になっていた。
【バージョンアップ案内。本日正午を持ちまして、『World in birth Real Online』のバージョンアップを実施いたしました。バージョンアップの内容は以下の通りです。
異界より魔人が召喚されました。
異界の扉が完全に開くまで、残り時間 35時間59分】
真がメッセージを確認したのと同じタイミング。晴れ渡っていた空が一変。急に紫紺色に染まっていった。