本当の目的
深い深い夜の闇を、欠けることのない満月が煌々と照らす。この日は風が強かった。木々は揺れ、雲は流されていく。この時間にもなると、人口の多い王都グランエンドでも、外を出歩く者はいない。
そんな夜更けにも関わらず、センシアル王城の地下には6人の人間が集まっていた。全員がローブを纏っている。その6人の中の5人は呪術用の杖を手にしていた。その風格から高位の術者であることが見て取れる。
石壁で囲まれたセンシアル王城の地下では、外でどれだけ月が照らそうが、風が吹こうが、無縁のものだった。
まるで外の世界から隔絶されたような地下室の奥には祭壇がある。石材を加工して作られた立派な物だ。その祭壇には一体のミイラが祀られていた。ミイラは白いローブに、金糸を織り込んだ黒いストラを身に着けている。すでに死んで干乾びているというのに、このミイラからは異様な威圧感が放たれていた。
「始めてくれ」
低い声が地下室に響く。声の主は長い白髪に白髭を蓄えた初老の男。名前をアドルフという。センシアル王国の宰相を務める男だ。そのアドルフの声にはどこか緊張があった。
「かしこまりました」
アドルフの言葉で5人の術者達が動き出した。二人がかりでミイラを地下室の真ん中に運ぶと、他の二人が指輪と古い本を持ってきた。
「命の指輪を嵌めます」
指輪を持った術者がそう言うと、ミイラの左手に赤い宝石の指輪を嵌めた。これはゼンヴェルド族という狼の原生種が代々守ってきた宝だ。
「イルミナの魔書を持たせます」
次に本を持った術者が、ミイラの右手に古い魔書を持たせる。かつて伝説のサマナーと言われたイルミナ・ワーロックの魔書だ。
そして、5人の術者たちはミイラから一定の距離を取ると、円を描く様に囲んだ。
「始めます……」
術者の内の一人が言った。おそらく術者達のリーダーなのだろう。顔に刻まれた皺が、これまで積んできた研鑽を物語っている。
「…………」
アドルフは無言でその様子を見つめていた。緊張から汗が出てくる。センシアル王国で内政のトップとして、汚い駆け引きや危険な相手との交渉もやってきたアドルフだが、目の前に鎮座しているミイラは今までのそれとはまったく異なる存在だった。一言で言うなら経験したことのない類の恐怖。それがアドルフの心に巣をつくっていた。
「ザーラ ザーラ アンソ ナーダー ザーラ――」
術者たちが呪文を唱えだした。すると、ミイラの左手に嵌められた命の指輪が赤く光だす。まるで炎のように真っ赤な光が指輪から放たれる。
「バルダ ガラザス サンドス――」
術者たちはなおも呪文を唱えると、今度は右手に持ったイルミナの魔書が青白く光りだした。不気味なその光に術者達の緊張も高まる。
「…………」
その様子をアドルフは固唾を飲んで見守っていた。大丈夫、問題ない。細心の注意を払って準備をしてきたのだから、失敗するはずがないと自分に言い聞かせる。
「――エン ドゥ ランダ エイム!」
術者達の詠唱が完成すると、命の指輪とイルミナの魔書が一際大きく輝いた。暗い地下室の闇を一瞬で消し炭にしてしまうかのような深紅と蒼白の光にアドルフは目を開けていられない。
「五芒緊縛術式発動ッ!」
リーダーの術者が大声を張り上げた。同時に他の術者たちが別の呪文を唱え始める。その術式はほどなくして完成した。ミイラを囲む5人の術者がそれぞれ起点となって、五芒星の魔法陣を描く。
魔法陣の中心には若く美しい女性がいた。白いローブ姿に、金糸が織り込まれた黒いストラ。褐色の肌と銀色の美しい髪。左手に嵌めた指輪は赤く輝きを放っている。
つい先ほどまでいたミイラの姿はどこにもなく、代わりに生命の溢れる肌をした女性が魔法陣の中心にいた。
「く……ッ!?」
魔法陣の中心にいる女性から苦悶の声が漏れる。強い力で無理矢理上から押さえつけられているような圧迫感に身動きが取れないでいるのだ。
「精神支配、かかれ!」
リーダーの術者がさらに声を上げる。相手を拘束するための術式は既に発動したため、次の段階に移る。
術者たちはまた別の術式を組み上げると、五芒星の魔法陣が光り出した。緊縛のための術に使った五芒星の魔法陣を精神支配の術式に転用する。
「がっ……あ……ぁ…………」
魔法陣の中心にいる女性の目が虚ろになると、手と首をだらんと下げた。気力の一切を失った人形のように、女性は魔法陣の上に座っていた。
「成功です!」
リーダーの術者がアドルフに報告した。その声には安堵が混じっていた。額から流れる汗をぬぐうとアドルフの方へと目線を送った。
「そうか! よくやった!」
アドルフも恐怖と緊張から解放されていた。目の前の女性からは何の威圧感も感じない。精神支配の術が完全に入っている。この状態になれば、術者の意のままに動く傀儡となる。センシアル王国でも最強の術者5人が精神支配の術式をかけたのだ、相手が強大な悪魔であったとしても、逃れる術は欠片も残されていない。
「お目覚めの気分はいかがですか、浄罪の聖人。それともイルミナ・ワーロックと呼んだ方がよろしいか?」
余裕を取り戻したアドルフが魔法陣に座り込んでいる女性に話しかけた。
「あ……あぁ……わた……は……」
「おい、術が強すぎるのではないのか?」
相手がまともに返答できない状態にアドルフが術者達を睨み付けた。
「いえ、ご心配なく。かなり強力な精神支配をかけましたので、返事もできなくなってはいますが、こちらの命令には何でも従います」
リーダーの術者がアドルフに返答した。こうなることは想定済みだ。予定通りにことが運んでいるに過ぎない。
「意思の疎通が難しいだけで、人形としては問題ないということだな?」
「その通りです」
「そうか……。かつて浄罪の聖人と言われ、伝説のサマナーとまで呼ばれたイルミナ・ワーロックもこうなってしまっては形無しだな」
アドルフがイルミナを睥睨する。姿こそ美しい女性ではあるが、今は精神支配の術式により、返事も碌にできない。本当にただの人形のように成り下がっている。憐れみすら感じるほどだ。
「イルミナ・ワーロック。お前は私の所有物だ。これかは私のために働いてもらう。生きることも死ぬことも私が命令する」
「…………」
アドルフがイルミナに話しかけるが何も反応はない。
「意思の疎通ができないというのも厄介なものだな……。まあ、いいだろう。立て、イルミナ・ワーロック」
「……」
アドフルに立て命じられたイルミナはすっと立ち上がった。言葉を返すことはできなくても、命令には服従する。
「ふっ、命令はちゃんと聞くようだな。これなら問題はないだ――」
「そうかしら?」
アドルフの声を遮ってイルミナが言ってきた。人形ではない、はっきりと意思のある声でイルミナが言った。
「なッ!?」
突然返事を返したイルミナに対してアドルフの顔が驚愕の色に染まる。イルミナは正気を取り戻していた。金色に輝く瞳がアドルフを嗤うかのように見ている。
それは、毒蛇とカエルの関係だった。喰う者と喰われるものの関係。圧倒的な力の差。
「ば、馬鹿な!? 精神支配の術式は完璧だった! も、もう一度術式――がはッ!?」
リーダーの術者が声を荒げた時だった。その腸を喰い破って異形の怪物が現れた。それは爬虫類にも似た姿。ドラゴンの様な頭部に長い手と爪。甲殻に包まれた黄土色の肌は術者の血で赤く染まっている。
「な、なんだ……ッ!?」
リーダーの術者は内臓を食い破られて絶命する。残った4人の術者達に一斉に動揺が走った。王国でも最強と言われた5人の術者が本気でかけた精神支配の術式がまるで効果を発揮していない。
「あなた達はこういう怪物を見たことはないでしょうね。教えてあげるわ。こいつはね、異界の住人。こいつを召喚するためには生きた人間の内臓が必要なの。本当はもっと若い人間の内臓があれば他のも呼べるんだけど、爺が触媒だとこの程度。残念ね」
鮮血がまき散らされた地下室でイルミナが微笑んだ。久々の血の匂いがイルミナには堪らなく心地良い。
「う、動きを封じろ! 動きさえ封じれば――が……ッ!?」
残った術者の内の一人がそう言った矢先。その術者の腹から血が噴出すると、二体目の怪物が這い出てきた。
「私の言ったことを理解していないのかしら? あなた達は私が召喚する怪物の触媒なの。下手に動くと触媒としての役割を果たしてもらうわよ」
噴き出す血を見ながらイルミナが言い放つ。そこに慈悲はない。
「ど、どうして……どうして、精神支配から脱した……?」
残った3人の術者の内の一人が恐る恐るイルミナに質問をする。
「実戦経験の差よ。あなた達は術式を組むのが遅いのよ。私を復活させてからの手際が悪すぎる。緊縛術式を破る術式も精神防護の術式も簡単に組めるくらいの時間があったわよ。ついでに異界の怪物を召喚する術式をあなた達に組み込むこともね。気が付かなかったでしょ? 自分の術式だけにしか目が行ってないから、私からの攻撃に気が付かないのよ」
「あ、あんな僅かな間に、緊縛術式を破り、精神防護と召喚術式を組んだというのか……!?」
術者の声は震えていた。長い間術式の研究とその技術を磨いてきた経験と常識。その全てが崩壊した。考えられるものではなかった。強力な術者5人の同時術式を防ぎきることができる術式を一人で組んだことだけでも規格外なのに、人体に召喚の術式を組み込む攻撃までしてきたというのだ。実際に目にしていても信じられないほどだ。
「そうよ。種明かしをしてあげると、私が組んだ術式は緊縛術式が発動したら、それを感知して破る術式よ。その後は、精神支配でもしてくるだろうなと思って準備しておいたのが当たっていうわけよ」
「そんな……そんなことが……」
そんなことが本当にできるのか。話の通りだとすると、イルミナは復活した直後から術者達の攻撃に対応したということになる。
「戦場ではね、常に敵からの攻撃を意識していないと生き残れないの。自分が優位に立っていると勘違いした時点で死ぬのよ。こんな風にね」
「ま、待て――ぐあーーッ!!」
イルミナは残った3人の術者の腹から異形の怪物を一斉に召喚した。血が雨のように地下室に降り注ぐ。真っ赤にそまった血だまりの中心には、銀色の髪と金色の目をした美女が嗤っている。
「あっ……あっ……」
アドルフは口をパクパクとさせていた。恐怖でまともに呼吸ができない。脳がまるで動かない。体は震えているだけ。
「あ、そうそう。あなたにも異界の怪物を召喚する術式は組み込んであるわよ。でも、あなたって偉い人なのよね? 身に着けてる物が他の奴らとは違うもの。私の役に立つなら生かしてあげるわよ」
「なっ……!? ほ、本当か……?」
「ええ、本当よ」
「わ、分かった……い、言う通りにする……」
アドルフはイルミナの提案を受け入れた。殺されると思ったが、首の皮一枚で繋がった。
「ふふ、お利口さんね。そういう風に素直になれば長生きできるわよ」
「あ……ああ……。あ、あの。浄罪の聖人様……」
「イルミナよ。浄罪の聖人っていう呼ばれ方は好きじゃないの」
「は、はい……。イルミナ様……」
「なに?」
「い、今のが……魔書の力なのでしょうか……?」
「まさか。これくらいの怪物を召喚するのに魔書の力は必要ないわ。手足を縛られていてもできる」
「そ、そうですか……」
「ふふふ、あなた面白いわね。こんな状況でも私がどんな力を使ったのかを探ってる。隙あらば殺そうとでも考えているのかしら?」
興味を持ったイルミナがアドルフの目を覗き込んだ。金色の瞳が初老の目を抉るように見つめる。
「け、決してそのようなことは……。た、ただの興味本位で訊いてしまいました……。申し訳ありません……」
例えようのない恐怖の中でもアドルフは何とか返事をした。小刻みに震える口からはガチガチと歯がぶつかる音が漏れる。
「ハハハハハッ! 興味本位で訊いた? この状況で? あなたも相当頭がおかしいわね! 良いわ。気に入った!」
イルミナは満足げに笑うと、異形の怪物たちを引き連れ、アドルフに王城の中へと案内させた。