握る手
1
美月はきつく閉じた瞼の間から流れる涙が止まらなかった。真っ暗な闇の中で閉じこもるようにしてしゃがみこんでいる。そこに聞こえてくるのは怒号のような轟音と、悲鳴のような奇声。
何度か聞こえてきたその騒音が、突如止んだ。唐突に訪れた静寂に美月の心臓が恐怖で跳ね上がる。何が起きているのか想像ができた。戦闘が終わったのだと。敵は30体以上に対して真一人。戦闘が終わったということはつまりはそういうことだ。だが、美月は決して目を開けない。力の限り目を閉じる。溢れ出す涙はもう止めることはできない。
真が『いい』と言うまで絶対に目を開けない。美月ができることはそれだけだった。それだけが、唯一の抵抗だった。だから、真の声を聞くまでは絶対に目を開けない。たとえ何が自分に襲い掛かってきても、たとえ自分の身に何が起きようとも、理不尽を前にしても、絶望を前にしても、その抵抗だけは止めないと決めた。
「美月……もう、いいよ」
力の限り固く閉ざして、身を丸くしている美月に真が声をかけた。美月の涙は流れるままだが、声を出さないように、歯を食いしばって必死になって耐えている。
「……っ!?」
真の声に一瞬美月がピクッと反応を示す。だが、まだ歯を食いしばって必死に耐えようとしていた。
「美月……もういい。終わったんだ」
真が屈んで、丸く閉ざしている美月の肩に手をやった。静かに、ゆっくりと美月の細い肩に手を置く。
美月の食いしばった口は緩み、少しずつ両目を覆っていた両手を離した。きつく目を閉じすぎたせいで、しばらくは視界がぼやけたが、顔を上げた視線の先に真の姿を見ることができた。
「………………」
美月が呆然とした表情で真を見つめる。奇麗な顔は涙でぐしゃぐしゃの状態。
「美月……もう、大丈夫だ……」
「……」
美月が真の顔を真っ直ぐ見つめる。他のことは何も考えられないかのように、ただ、真っ直ぐ見つめてくる。
「立てるか?」
真が手を差し伸べてきた。
「……」
美月は何も言わずに真の手を取り、立ち上がる。そして、周りを静かに見渡した。きつく目を閉じていたが今は視界がはっきりと見える。あれだけいたゾンビ達がすべて消えていた。そこにあるのは半壊した教会とその周りにある倒れた墓石が放置されている墓地。
「すまない……俺には、これしか方法がなかった……」
真は目線を斜め下に下げて、呻くように声を吐き出した。悲痛のような声と顔。辛そうなのは一目瞭然だった。
「……ごめんなさい」
美月の喉から振り絞るようにして声が出てくる。
「美月……?」
真が美月の泣きそうな声に顔を向けた。
「……ごめんさない……ごめんなさい」
美月の瞳から再び涙が溢れ出す。ボロボロと流れ出す涙とともに嗚咽交じりの声が漏れてくる。
「私が……私が……」
真の胸にしがみ付く様にして美月が涙を流した。真に謝らないといけない。ただ、そのことだけが美月の頭の中を掻き回して上手く言葉が出てこない。謝らないといけないというよりは、謝りたいという気持ちだった。それが言葉として出せない。
「……ごめん……なさい……私が……」
真に手を汚させた。十字架を背負わせた。自分は何もできなかった。ギルドの仲間を助けることもできず、ただ貝のようにじっと惨劇を見ないように閉じていた。
「……ごめんなさい」
全てを真に背負わせた罪悪感。できることは謝ることだけ。少しでも真に背負わせた十字架を軽くしないといけない。それなのに、言わなければならない言葉が出せない。仲間を失った喪失感と何もできなかった無力感から、『ごめんなさい』の一言を絞り出すことで精いっぱいだった。
「美月、ここは危ない。一旦街に帰ろう……」
真の声にも泣きじゃくるだけの美月だったが、コクリと頷き、声にならない声で『ウン』と応えた。
2
キスクの街に戻る頃にはすっかりと人通りがなくなっており、民家の中から漏れてくるランプの明かりも疎らになっていた。
キスクの街の入口から入って、中央の広場に向かう途中に何件かの宿屋がある。遅い時間でも開いてる店は玄関の明かりを灯しているため分かりやすい。真は街の入口から一番近いところにある宿屋に部屋を借りて、美月を休ませることにした。
比較的安い部屋が空いていたので、取りあえずそこにした。選んでいる余裕もない。安宿の部屋と思っていたが、意外としっかりとした作りをしており、テーブルや椅子、ベッドも安定したもので、木の床が軋むようなこともなかった。
開けた窓から入る風が、吊るされた暖色のランプを揺らし、部屋の景色も揺れる。真は黙ったまま部屋の窓を閉じた。横目でベッドの上に座る美月を見るが、表情は暗く、話ができる状態かどうかは判断がつかない。涙は止まっているが、赤く腫らした目の周りが痛々しかった。
「……美月、俺はこれで、行くよ……。今日はゆっくりと休んで……」
真はそれしか言えなかった。他に何と声をかけていいか分からない。今日、美月が仲間を失った。目の前で仲間を失う経験は美月にとってこれが二度目になる。だから、失う瞬間を見せないようにした。
美月がしきりに真へ『ごめんなさい』と繰り返していた。その声が頭から離れない。
(謝らないといけないのは俺の方だ……)
そうするしかなかった。それを美月も理解していることは分かっている。それでも、真が美月の仲間を斬ったという事実は変わらない。だから、美月に何と言えばいいか分からない。奪った男が奪われた女にかける言葉なんて知っているわけがない。
「……待って……」
部屋を立ち去ろうとしている真の背中に美月が細い声をかけた。
「美月……」
真が部屋のドアに手をかけようとしているところで止まり振り返ると、美月は立ち上がってこちらの方へ顔を向けていた。
「お願い……私も一緒に……連れて行って……」
真は美月の意外な一言に面を喰らっていた。何も返事することができずにいると美月が話を続けてきた。
「私……もう、弱いままは嫌なの……真と一緒に行けば……私も……」
再び流れようとしている涙を美月は着てるローブをきつく握りしめて必死で堪えている。
「真の力のことは誰にも……言わないから……お願い……私を一緒に連れて行って……」
これ以上失いたくないという意志の強さが涙を止める。流すまいと耐える表情は決して弱い者の顔ではない。
真はゆっくりと美月に近づいて、すっと両手を出し、掌を上にして美月に見せた。美月もその手を見つめる。
「俺の手はさぁ……こんなにも細いんだ。だから、俺が守れるのはこの手の中だけなんだ……」
真の話を美月はじっと聞いていた。
「だから……えっと、その……だから、俺の手が守れるのは……」
真の言葉が途切れ途切れになっている。美月は不思議そうに真の顔を見ていると、顔がしどろもどろになっているのが分かった。
「うん……だから、俺の手の中だけだから……俺の手を離すんじゃ……ないぞ……」
真は途中でどう言えばいいのか分からなくなっていた。気持ちとしては力強く言ってやりたい。それでも、口下手で思うように言葉を紡ぐことができない。言いたいことは分かっているのに、上手く伝えるとができない。
美月は俯いてじっと真の手のひらを見つめた。そして、その手を取り、ぎゅっと握りしめた。
「真……」
「うん」
「私が……私が、弱いから……」
「うん」
「私が弱いから……真に背負わせた……。ごめんね……、辛いよね……、苦しいよね…………。私のせいで、ごめんね……」
堪えていた涙がポタポタと流れ落ちていく。真と美月の手の上に涙の滴が落ちていく。強く強く握りしめた手の上に止めようのない涙が落ちていく。