第八話 七月三日(三)
矢を使い果たし、クックが作ったエンドウ豆のスープを飲み干してから三階に移動した。夜になるまで矢を作り、そして眠りにつく。
ディナは夢を見ていた。それはときおり訪れる繰り返し見る夢だった。
彼女は鳥になり、空から世界を展望している。しかし視界に広がる光景は目覚めているときの色彩豊かな世界とはまるで違っていた。空に昇る太陽、漂う雲、そよぐ草木も、さらには人も家も、その釜戸から立ち上がる煙さえも、すべてが青白く光り、上から下へ流れる微小の文字列で形作られていた。
それらは、まるで意味を成さない羅列にすぎなかったが、意味は分からずとも全てが理解できた。太陽の大きさも、雲の行き先も、草木の中の水の流れも、人の心も、何もかもがディナの胸に落ちる。そして、もはや自分に不可能なことはないと思えるような万能感に包まれた。
鳥は世界を廻り、そして宿り木を見つけるのだ。
男の伸ばした腕にディナは留まった。
男は抑揚のない声でディナに語りかける。男に心はなかった。彼はあらかじめ定められた言葉をただ口にしているだけなのだ。そして、その言葉さえも声ではなく、文字の羅列によって表現され、頭の中に滑り込んでくる。
――愚か者の子よ。ここには決して戻ってくるな。愚か者の私たちのもとから、お前たちは巣立ったのだ。振り返るな。繰り返すな。そしてお前たちに与えた力を忘れるな。飛び立つがいい。
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ディナは夢から覚めた。窓から覗く空はまだ暗く閉ざされていた。もう一度眠ろうとしたが寝付けなかった。壁にもたれかかり、まどろみながらか弱く光る灯火の明かりをぼんやりと眺めた。
グイムは眠ることを知らないのか、塔に爪を立てて耳障りな音を鳴らし、獲物であるディナたちを求め続けた。
反対側の壁際の影がのそりと動く。その影はディナの隣に腰掛けて話しかけてきた。
「眠れないのか」
「ナウルも?」
「これの効き目がないみたいでね」ナウルは首を傾け、側頭部を軽く叩いて耳栓代わりにしていた豆を取り出す。「クックはぐっすりみたいだな。彼は耳が聞こえないのか?」
クックは毛皮に包まって、いつも通り兜をつけて身動きせずに眠っていた。
「悪いかもしれないけど聞こえているとは思う」
「じゃあ、ただ無口なだけか。戦場では勇猛でも、人付き合いは苦手なのかな。話しかけても素っ気無くあしらわれる」
「付き合いがそんなに長いわけじゃないから分からない」
クックが近寄りがたい雰囲気を持っているのは理解できる。それは決して脱ぐことのない独特な兜と寡黙さのせいだった。しかしディナはクックの寡黙さをむしろ好んでいた。饒舌な人間よりずっと信頼できる。そして何より、ディナは無言の関係に慣れていたし、その行動は全て彼女の助けになっていた。彼がいなければ、おそらく東の地で、あるいはダウドに殺されていただろう。
いつかクックに報いなければならないと思いつつも、金も地位も持ち合わせない彼女には何もできなかった。それどころか、ありがとうを言う機会さえも逃してしまっていた。
「君たち二人は長いこと相棒をしている風に見えたけどね。どちらかというと、姫と騎士って感じだ」
「私は姫なんかじゃない」
例えだよ、と言ってナウルはディナの反応を楽しむように鼻で笑った。
彼の態度にディナは少しばかり腹を立てた。しかし鳴り止まない雑音が、そんな苛立ちを瞬く間に打ち消し、彼女たちに押しつけられている現実が肩にズシリとのしかかって陰鬱にさせた。
「グイムって何者なんだろう?」
ディナが始めてグイムを見たのは三日前の東の地での戦いのときで、それまで海を渡ってきた異民族の蛮人だとしか聞かされていなかった。彼女たちはもちろん、異民族である北部民とも海の向こうのガリア国の人間とも根本的に違う。人を喰らい、子どもが母の腹を裂いて生まれ出る。彼らは果たして人と呼べるのか、ディナには疑問だった。
「人は霊的に完全だが、肉体を得て不完全なものとしてこの世界に産み落とされた。快楽、物欲、暴状。結果、より不完全な存在に落ちていく。グイムは人間の成れの果てなのかもしれないな」
ナウルの言葉は教会で司祭が道徳を説くときのそれだった。人は善行を積むことで霊的な存在に近づくことができる。
「そんな教会の教義を信じる気にならない」
「ラメッドの子が、そんなことを言うのか」
信じられないと言わんばかりにナウルが頭を振った。
好きでそんな子になったわけじゃない、と思いながらディナは黙った。ナウルの論争するつもりはなかった。信仰を持たないディナと、信徒であるナウルとでは教会に関して話しが合うわけがない。
いくばくかの沈黙の後、ディナは口を開いた。
「こんなことに巻き込んでごめんなさい」
ディナが雑音にかき消されそうな小さな声で言うと、ナウルは肩を竦めた。
「戦うことができない弱き人々を助けるのが騎士の使命。ディナのために戦っているわけじゃない」ナウルは薄明かり中、切れ長の目で瞬きもせずに彼女を見つめた。「でも、君がいたから戦っている」
「男に生まれて騎士になれればよかった。そうすれば自分がどうして戦っているのか、分からなくなることもないのに」
ディナの言葉を受けて、ナウルは戸惑いとも何ともいえない表情をした。彼女がその意味を問いただすと、ナウルは「まあいいさ」と少し投げやりに答えた。
「今は気持ちに余裕がないから仕方がない。ここから抜け出せたら改めて言うよ」
ナウルが何を言っているのか理解できなかった。ただ、ここから抜け出すのは難しいだろう。援軍は望めない。第二次討伐隊ですら各地の戦力をかき集めたのだ。こんな所に割ける兵力は残っていない。
「長い篭城戦になりそう」
「東の砦はたった四十人で篭城して、八ヶ月もグイムの進入を防いだんだ。きっと今だって戦っている。こちらも、それぐらいの覚悟をしておこう。それで、昼の話なんだが……」
何の話かディナは一瞬分からなかった。しかし、すぐに自分の言葉を思い出す。
『望めば国を救えることも、滅ぼすこともできるとすればどうする?』
ずいぶんと不用意に喋ったものだと自分自身に呆れた。戦いを前にして弱気になっていたのかもしれない。
ディナはナウルに話すべきかどうか、しばらく考えてから口を開いた。
「賭けをしたの、私が十七歳の誕生日まで生き延びたら、どんな願いも一つ叶えてくれるって」
「おとぎ話か?」
ナウルが怪訝そうに言った。
「違う。二ヶ月前のあの日、王城が崩壊した日、私はそこにいたの。王城が崩れて瓦礫に潰された死体がいくつもあった。私とその子は無傷だった。その子は夕陽を背にして、崩れた王城の上に立って、その賭けを持ち出した」
「何でそんな賭けを?」
「私が十七歳の誕生日を迎えられないって言ったからだと思う。一年前に、王都の教会からラメッドの子に召集があって、軟禁状態だった母は、それでようやく家から出ることを許されたの。それを知ったのは、母が死んで代わりに私が呼び出された後だった。そのとき思ったの、ああ私も母のように死ぬんだなあって。どうして母が呼び出されたのか分からないけど、何かさせられていたんだと思う」
ナウルは視線を落として何度か口を開きかけては、また閉じた。言葉を選んでいる様子だった。
「その賭けをした子は、男?」
ディナが「そう」とうなずくと、彼は「そうか」とだけ返した。
「君の母上、きっと綺麗な黒髪をした人だったんだろうなあ」
「知らない」
「知らないだって?」
ナウルは驚きの声をあげた。
「だって一度も会ったことがないから。母はずっと離れで軟禁されていて会うことも許されなかった。だから母がどんな人で、どうして私を産んだのか、どう思っていたのか、知っていることは一つもない。父は何も教えてくれなかった。兄すらも。だから私も聞かなかったし、気にもしなかった。でも、どうして私はここにいるんだろうって思うこともあった。ずっと子どものころにね。母が死んだ今となっては、何もかもどうでもいいことだけど」
ふいにずっと鳴り響いていた音が止んだ。ディナとナウルは息を止めて耳を澄ます。外のグイムたちに何かあったに違いない。二人はそっと立ち上がって窓に寄って塔の裏手を探った。
暗がりの中、グイムが集団で砦柵の丸太にしがみ付いてゴソゴソと動いていた。それはクックが脱出用に土を掘って、すぐに柵を壊せるようにしていた箇所だった。グイムは左右に、あるいは前後に揺すり、ほどなくして丸太が傾き、土煙をあげて倒れた。
今ごろ、柵を壊してどうする気だろう。ディナは懐疑に思いながらも彼らの行動を注視した。
グイムの一人がギャアギャアと甲高い奇声を上げて手を振り回した。それは、これでまで耳にしてきた、喚き散らすだけのものとは違い、明確な意思があるように思えた。そのグイムに促された数名が倒れた丸太を小脇に抱えると、塔の壁の前に陣取った。そこでディナは彼らのやろうとしていることに気づいた。
「破城槌だ!」
ディナは叫んだ。