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第七話 七月三日(二)

 ディナがグイムの接近を下にいるクックに知らせた。彼は豚脂の溜まった油壺と豚の肉片を片付け始める。


 見張り台から圧倒的な数で村に寄せて来るグイムの群れを見下ろす。少なく見積もっても五百はいるように思えた。すぐに殲滅できるような数ではなく、選択肢は篭城以外にないのがはっきりした。彼女はクックに塔の扉に閂をかけるように大声で指示を出す。


 グイムは自分たちを眺めるディナの姿を認めたのか、急に歩みを速めて両手を振り回して向かってきた。

 不意に視界の端に家の間をうろつく人の姿がよぎった。


「子どもがいる!」


 ディナは叫んだ。もうグイムは村の入口まで来ている。このままでは確実に殺される。彼女は柱にくくりつけた状態で丸めて置いてあったロープを掴んで下に放り、それを伝って下りはじめる。


「駄目だ」


 ナウルの悲鳴のような制止をディナは無視した。大地に足を着け、全力で子どもの下へ向かう。全員の避難を確認したつもりだったが、取りこぼしがあったに違いない。それは自分の落ち度だとディナは歯軋りする思いで自戒した。敵の足音がもうすぐそこまで迫っている。


 乱雑に建てられた民家の間の細い路地を、まだ五、六歳のボロ着た金髪の少年が天を仰ぎながら泣きはらし、よろよろと歩いていた。


 息も絶え絶えになりながらディナが少年に手を伸ばした瞬間、横合いから突如として現れたグイムに攫われた。グイムは少年を小脇に抱え、そのまま押し倒して横腹に噛みついた。少年は恐怖に我を忘れたのか悲鳴も上げなかった。


 ディナがグイムの顔面を蹴りつける。吹き飛ぶグイムと共に少年の腹の肉が引き千切れた。少年の横腹を手で押さえ付けて中身が飛びなさないようにしながら抱え込む。彼は小さな体を小刻みに震わせて喘ぎ声をもらしていた。ディナの指の隙間から生暖かい血がこぼれる。


 血の匂いを嗅ぎつけたのか、グイムの大群が路地を回りこんでくる。

 ディナは塔に向かって走った。しかし少年を抱えながらでは逃げ切れそうもなかった。背後から迫るグイムが次第に近づくのがはっきりと分かった。彼らの獰猛な息づかいを、恐怖で逆立つうなじで感じる。錯覚かもしれないが、それを確かめるために振り返る余裕さえない。


 呼吸さえもままならず、朦朧となり始めた意識にクックとナウルが駆け寄って来る姿がおぼろげに浮かんだ。


 クックは油の入った鍋をディナの後方にぶちまけ、続けてナウルが穂先に火がついた槍を投げた。そしてディナは二人に両脇から支えられて塔に転がり込んだ。ナウルは手早く扉に閂をかけ、クックと共に体重をかけて背中で扉をおさえた。


 激しい衝突音が響いて閂が歪んで扉が軋みあげる。衝撃でナウルの体が浮き上がってよろけながら前に出た。すぐに体制を立て直して元の位置に戻る。グイムが扉に向かって体当たりをしているのだ。


「お前は上に行け」


 ナウルが目を見開き、歯をむき出しにして怒鳴った。

 まだ息も整わない状態でディナは少年を肩に担いで、力を振り絞ってハシゴを片手で上った。少年の血が首筋を通って胸に流れた。二階に出て少年を下ろす。その呼吸は浅く短く、目は上向いてうつろだった。


 少年を抱きかかえて、ベッドの湿気ったシーツを丸めて傷口に強く押し当てて止血を試みたが、白いシーツがどんどんと赤く染まっていく。このままでは助からない。いや、ディナには分かっていた。もう助からない。助けられない。

 クックとナウルが二階に上がってきた。クックがハシゴを引き上げて床に置いた。


「くそったれ」


 ナウルが何かを罵りながら、ハシゴのために床に開けられた穴に蓋をして、タップリと中身が入った水がめを引きずってその上に置く。

 床下が騒がしくなり、家畜たちの甲高い断末魔が耳を裂かんばかりに響いた。グイムに扉を突破された。

 今度は壁が鳴り始める。塔の外側を誰かが爪を立てて削っているようだった。それは次第に上へと移動して行った。


「縄は?」


 ディナの疑問にナウルは口をわずかに開けて彼女の顔を見やった。何かに気づいた様子だった。


「くそっ」


 ナウルが急いで屋上に向かう。

 少年の体を横たえてディナも、それからクックも続く。

 見張り台に出たときには、すでに十数人のグイムが縄を伝ってそこにいた。クックは剣先を左手で支えて剣を横に持って力任せに押しやって突き落とす。その間にも次々とグイムが這い上がってきていた。


「縄を切るんだ!」


 ナウルが自分の鎖帷子に噛みついていたグイムを両手で放り投げながら言った。ディナはすぐさまそれを実行した。切れた縄は一瞬で下へと滑り落ちていく。


 グイムをどうにか掃討し、ディナとナウルは肩で息をしながら、お互いの顔をほとんど無表情で見合った。計画は破綻した。塔から逃げようにもその手立てがない。それに溜めていた豚脂もほとんど使ってしまった。外ではディナを逃がすために撒いた油がまだ燃えていた。家畜を餌にしたグイムは、またその数を増やすだろう。


 見張り台に残っていたグイムの死体を投げ落としてから三人は二階に戻った。用心のために三階と屋上を繋ぐハシゴを取り除いて蓋を閉めた。二階では蓋の上に置かれた水がめがガタガタと揺れて、その淵から水がこぼれている。


 ディナは少年に駆け寄った。彼はもう息をしていなかった。血で白と赤の斑模様になったシーツで名も知らぬ少年の死体を包んで、その傍らに力なく座った。


「全部、私のせいだ」


 否定はしない、とナウルははっきりと告げた。


「でも、この子を見捨てるような君と一緒に戦おうとは思わない。いいじゃないか、こういうのも。食料も水もある。まだ戦えるさ」


 ナウルは弓を取り出して窓から外を覗いた。そして矢を射始める。ディナも手をついて重い体を引きずるようにして立ち上がり、彼にならった。

 クックは豚毛のブラシを取り出して、それで指の爪先の汚れを落とし、平然と釜戸に火を入れた。それから鍋に水と豆を投げ込んで食事の用意を始めた。


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