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第六話 七月三日(一)

 グイムの姿は、まだ村からは確認できなかった。しかし、南の空を覆う黒くうねった雲が、近づきつつある脅威を暗示しているようだった。

 村はひどい喧騒の中にあったが、混乱している様子はない。ナウルとクックで村民を誘導して、順調に避難は進んでいる。もちろん、いざこざがなかったわけではない。


 代官は歩みの遅い三頭の牛を全て置いて行くように指示し、それに一部の小作人が反対したのだ。牛を諦めるとなると、それに牽かせる荷車も諦めなくてはならなかった。荷車には彼らの財産――といっても多くが村の共有財産の農機具に鶏と豚が載っていた。人力では荷車を長距離牽くのは無理だ。


 代官は穏やかに説得していたが、小作人が贖罪金を寄越せと言い始めると、彼は顔色を一変させた。帯剣していた代官は剣を抜いて見せた。


「黙って言うこと聞くか、ここで私に斬られるか、どちらがいい」


 小作人は俯いて黙り込んだ。代官は剣で牛と荷車を繋いでいたハーネスを切り落として、揉め事に決着をつけた。支えを失って荷車は前方に傾いて、乗っていた豚と鶏が飛び出した。


 代官の妻が御者を務める唯一の馬車には司祭から回収した金、四人の赤ん坊と乳母が一人、それからナウルの兄が押し込まれるようにして乗り、先頭を走って行った。それにぞろぞろと村民が続いた。馬車を除けば彼らの行進はひどく遅かった。


 死者の行列も同然だった。

 彼らは王都を目指すことになっていたが、通常四、五日の行程も倍はかかるだろう。間違いなくグイムに追いつかれる。

 村民を送り出し、ディナとクック、ナウル、代官の四人は最後まで残って家を回り、全員の避難を確認した。


「私たちも急ぎましょう」


 確認を終えて代官が言うと、ディナを除く三人が歩き始める。彼女はその場を動かなかった。


「私はここに残る。こうなったのも私の責任だから。グイムをここで防ぐ」

「無駄に死ぬだけです」

 代官の抗議に「死にはしない」とディナは即答した。代官が早口にその行為の無意味さを説いたが彼女は聞き入れなかった。彼女とて、まったくの勝算もなしに一人でグイムに立ち向かうほど無謀ではない。それなりの算段はつけている。


 四人の足元を落ち着かない様子で豚が鼻を鳴らして動き回り、それに釣られるように雌鶏が「クァークック」と鳴き始める。

 代官は肩をすくめて、黙っているナウルとクックに助けを求めるような視線を送った。


「何か作戦はあるのか?」

「あれ」


 ナウルの質問に、ディナは塔を指差して答えた。

 塔は朝日を受けて細部まではっきりと見えた。塔は木タールが塗られているために艶のある黒色で、丸太を積み上げて作られた比較的新しいものだった。一階部分には窓はなく、二、三階には長細い窓が作られている。屋上は柱に支えられた板張りの三角屋根があって見張り台になっていた。塔を囲う身長ほどの高さの砦柵があり、その外側には浅いが堀がある。


 以前は戦闘訓練を受けた小作人が二階に住んでいたが、第一次の討伐隊に出たきり帰らず、一年ばかりの間は倉庫としての役目だけを果たしてきた。


「塔にグイムを誘い込んで閉じ込める。それができなくてもあそこには十分な防御力がある。それに食料も。篭城に耐えられるでしょ。みんなを逃がすにはそれしかない。このままだと全滅する。二、三日耐えられれば、それでいい」


 ナウルは考え込むように視線を落とした。それからしゃがみ込んで足元をうろつく鶏を小脇に抱え、塔の方に向かって歩き始める。


「何をするつもりなの?」

「塔の中に入れる。こいつらを放っておいたらグイムが増えるだろ。誘き出すのに使えるだろうし、篭城するにしても肉は必要だ」


 ナウルは振り向きもせずに言った。

 クックが彼に続くように牛を引っ張る。

 君も酔狂だな、とナウルが笑いながらクックの背中を叩いた。

 二人の背中を複雑な気持ちでディナは眺めた。「ありがとう」と「すまない」という気持ちが同時に胸の中にあった。


 彼らは一人でならば余裕で逃げ切れるだろう。にもかかわらず、彼らは残留の意思を示した。グイムの戦力が多ければ塔に封じ込められず、さらには篭城したまま塔から脱出できない可能性もある。


「申し訳ありませんが」と代官が淡々と言った。「私は領民について行かなければなりません。彼らだけだと逃亡民として懲罰を受けてしまいますし、指揮をとる者が必要です。塔にはまだ武器がいくつか残っているはずです。使ってください」

「本当にありがとう」

「私には、もうそれぐらいしかできませんから」

「そうじゃなくて」ディナは勢いよく頭を振った。「昨日の夜、私を励ましてくれたでしょう?」

「さあ、どうでしたかね」


 代官は笑顔で答え、そっとディナを抱擁した。

 ディナは少しもそれが嫌ではなかった。彼に最初に会った時の嫌悪感はすっかり消えていた。今なら分かるが、彼の頭の良さが人をイラつかせる原因になっている。裏を返せば、彼は尊敬に値するのだ。


「また会いましょう。お二人にもそう伝えてください」


 遠慮がちの短い抱擁からディナを解放し、代官はくるりと体を翻して足早に村民たちを追いかけて村を出て行った。



 *********************



 塔の各階はハシゴで繋がっていて、顔がどうにか入る程度の細い窓から差し込む陽光は頼りなく、中は薄暗かったがひどく賑やかだった。一階に集めた家畜たち――三頭の牛、豚が三匹に十羽の鶏が落ち着かず、ずっと鳴き続けたのである。お互いの声に反応してそれは連鎖し、まるで下手な賛美歌のようだった。


 代官の言ったとおり、塔の二階には一人分の武具があった。木製の紋章も描かれていない無地の楯と鎖帷子、弓と槍、それから矢が数十本あった。

 朝、南にあった暗雲は、いつの間に全天に広がっていた。冷えた風が吹き始め、雨の気配が漂い始める。

 クックは外で豚を解体して火であぶり、豚脂を鍋に溜めていた。豚脂はよく燃える。それで閉じ込めたグイムを塔ごと燃やすつもりだった。


「敵が少なければ、すぐにでも塔に誘って殲滅する。三階まで一杯にすれば百やそこらは入るはず。入りきらない数なら塔に篭って敵を減らす。扉は外から鍵が掛かるようになっているから、頃合を見て屋上から縄で下りて鍵を掛けよう。どちらにしても私たちは見張り台で待機だ」

「矢がもっといるな」


 というのが、最初にディナの作戦内容を聞いたナウルの感想で、今は見張り台の手すりを背にしてディナと並んで座り、せっせと矢を作っていた。


「上手く行くと思う?」

「行くさ。何もかも」


 少し気弱になってディナが作戦の成否について聞くと、ナウルは子どもをあやすように言った。彼はさきほどまで身につけていた鎖帷子を脱いで、原色の麻の上着と黒革のズボン、その上から五芒星の書かれた外套を被っている。

 ナウルは顔を上げてディナに向いた。彼の青い瞳がディナの横顔をとらえ、ふいに細められる。


「ラバン卿の娘だったのか」

「ええ」


 ディナは否定せずに素直に答えた。


「私は隣の部屋にいて、代官との話が聞こえたんだ。盗み聞きしてすまない。ディナには伝えておこうと思って。ラバン卿のことだ。私は同じ右翼にいて、ラバン卿は多分、彼の息子と先頭近くにいた。グイムの戦列に突撃すると同時に先頭はあっという間に、グイムの集団になぎ倒された。私はその後、兄を連れて逃げるのに精一杯で、正確にどうなったか分からないが……」


 ディナは「そう」とだけ消え去りそうな声で呟いた。ラバンが死んだとナウルは教えてくれている。しかし何の感情も湧いてこなかった。代わりに込み上げたのは、その戦いでグイムに押し倒されて死を覚悟した瞬間の絶望感だった。


 ディナが参加した第二次討伐隊は東の砦近くの平野で敵と遭遇し、一瞬で崩壊した。ディナは後方で弓兵として配置されていた。最前列では王の近衛兵でもある傭兵団が号令と共に楯を隙間なく並べて壁を作り、グイムと対峙しながら少しずつ前進する。両翼には騎士団が突撃の好機を見計らって待機していた。


 討伐隊千五百人に対して、グイムの数は倍以上だった。しかし、グイムは甲冑どころか、ろくな武器さえも持たず、せいぜいその手にしているのは棍棒か石。統率もなく、もちろん指揮官もいない。誰も負けるなどとは思っていなかった。


 結果は惨敗だった。グイムの猛烈な突撃を、最前列の楯の壁は抑え切れなかった。楯の壁は中央から食い破られて、後方にいたディナの所まですぐに迫ってきた。彼女は弓から手斧に持ち替えて構えた。その時のディナは初陣で、初めて敵を前にして錯乱状態に陥った。斧をただ振り回すだけで何も考えられなかった。


 三人のグイムに飛びかかられ、ディナは押し倒された。痩せこけて、骨の形が浮き出た体の彼らからは信じられないような力で押さえ付けられ、ディナは身動き一つできなかった。グイムは不揃いな歯が糸を引いて剥く。まるで死人のように白濁したその目で捉えられ、ディナが恐怖で目を閉じようとした瞬間、グイムの首が飛んだ。


 クックは剣を横に一振りするだけで、ディナに群がっていたグイムの首をはねた。そして彼女はクックの肩に抱えられ、逃げ出したのだ。生きながらグイムに腹を割かれ、肉を引き千切られた仲間たちの悲鳴が木霊する戦場から。クックがいなければグイムの餌食になっていただろう。


 敵の追撃を避けるために、潰走した多くの味方が西へと来た道を戻る中、彼女たちは北の山へと逃げたのである。

 ナウルがディナの癖のある黒髪を片手ですくい上げた。


「黒色の髪は珍しい。こんなときでもなければ、綺麗に洗ってあげたいよ」


 ナウルがあまりにも優しく微笑んだので、ディナは思わず視線を外した。彼は少しの間、片手で弄びながら、しげしげと彼女の髪を見つめた。ディナが何となく気恥ずかしくて、うつむいて黙っていると、それに気付いて彼は髪から手を離した。


 すまない、ついやってしまった、とナウルは謝った。

 一瞬、二人の間に気まずい空気が流れる。もしかすると彼には妹かそれに近い誰かがいるのかもしれないとディナは思ったが、口にはしなかった。


「そうだ」と、ナウルが雰囲気を変えるように声を高めて言った。「ディナは最初の(ラメッド)三十人の子なんだろう。噂で一年前くらいから、ラメッドの子が王都に集まって何かしているって話があったんだ。彼らが自分の教区から出て集まるなんて、聞いたことがない」


 ラメッドの子とは彼らの直系の子孫のことで、教会ではそう呼んでいた。その血統は希少であっても価値はない。ラメッドの子の多くは地方の司祭に就くのがせいぜいで、教会の中心部には皆無だった。結局の所、教会で物を言うのは金であり、金に付随した権力なのだ。血統はただの飾りにさえもならない。

 ディナは答えなかった。


「何か知っているのか?」


 沈黙したまま矢を作り続けるディナを見つめ、ナウルはうめくようにして言った。彼としては単に気まずい空気を断ち切るために持ち出した、他愛もない話の一つのつもりだったに違いない。しかし、それは非常に繊細な話題だったのだ。

 しばらくしてディナはその手を止めて顔を上げる。


「……たとえば、私が何かを知っていて、望めば国を救えることも、滅ぼすこともできるとすればどうする?」


 今度はナウルが沈黙する番だった。

 そしてナウルが口を開くよりも先に彼らはやってきた。

 狼の遠吠えのような叫び声をあげ、グイムは街道の向こうから姿を現した。土色の街道が、瞬く間に赤褐色のグイムによって埋め尽くされ、それは濁流のようになって雪崩れ込んでくる。

 ナウルは素早く立ち上がり、ディナを見下ろした。


「ディナの話は後でゆっくり聞かせてもらう。今は生き残ることに集中しよう」


 そう言って彼は弓を構えた。

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