表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/29

第五話 七月二日(五)

 館の居間にいたのは代官だけだった。

 ディナしか戻らなかったことに彼は何も言わなかった。彼女が顔に強い疲労感を漂わせ、両手に持っていたズタ袋を持ち上げて食卓に置いた。それから長椅子に座って長い溜息をついてうなだれた。

 代官はズタ袋を開けて中を覗き込み、食卓の上にぶちまけた。それから彼は銀貨を一枚ずつ手早く数え始める。

 数え終わったときにはクックが戻ってきていた。


 クックはディナの肩を撫ぜるように叩いて、突き出たクチバシ状の兜を静かに縦に揺らした。全て片付いた、と言わんとしているようだった。ごめんなさい、と小声でディナが謝ると、いつも通り彼は何も話さず、彼女を見守るように少し離れた場所に座った。


「銀貨三千二百二十一枚、銀の延べ棒二本、金の装飾品。多少足りませんが、この情勢下であれば王都の財務官を黙らせることもできるでしょう。お世話様でした」


 麦一粒まけないと言っていたはずだが、それを問い詰める気にもなれず、ディナは黙って代官が数え終わった銀貨を戻すのを見つめた。彼は何か言いたそうな彼女の視線に気付いたのか、手を止めて顔を上げた。ろうそくの火に炙り出されるように闇の中に右半分だけ浮き出たその顔は、どこか不気味だった。


「百姓というのは甘やかすと、どこまでも堕落する生き物でしてね。彼らの要求をすぐに認めれば、必ずや次の春にも繰り返し要求してくるでしょう。その次の春には逆に金を寄越せと言ってくる。予想外だったのは、彼らの鬱憤が相当量、溜まっていたことです。異民族に東の地を奪われて以来、戦時特別税をかけられ、馬も取られ、食料も当然。二ヶ月前に前王が崩御されたとき――行方不明でしたかね? 少しはマシになると期待していたんですがね。国はもう庶民の信用を失っている」


 一年前にグイムがやってきてから、彼の言う通り国内情勢は悪くなる一方だった。重税に耐えかねて農民が蜂起した所もある。北の地では北部民が反乱を画策しているとの噂もあった。


 北の地は三年前まで、異民族の北部民が部族ごとにその長が王を名乗り、いくつもの小国に分かれていた。それをディナたちの国が平定したのである。これにより島は統一されたが、その支配を逃れて海賊となった北部民が陸に残った同胞と呼応して、北の地を取り戻そうとしている、という噂が王都にまで流れている。


 その王都では、王城の崩落事故に巻き込まれて前国王と王太后が行方不明だった。

 第二次討伐隊も敗退し、国は音を立てて壊れ始めている。


「どうして、あなたは私たちみたいな傭兵くずれを信用したの?」


 ディナが疑問をぶつけると、代官は首をひねった。


「なんのことですか?」

「私たちが司祭の金を持ち逃げするとは考えなかったのかってことです?」


「信用していましたから」代官はあっさりと言った。「あなたは最初、ここに来たときに偵察を買って出た。敵が来るようなら領民の避難が必要だと言って。どこの世界に百姓の心配をする傭兵がいますか? それにクックは綺麗好きだ。長椅子に座る前に必ず埃を払う。そんな傭兵を私は知らない。その兜は海の向こうの代物で傭兵が買うには少々値が張りますし、その長剣は騎兵が使うものです。実に二人は傭兵らしくない」


 代官の説明を、ディナはすっかりと飲み込めなかった。彼が鑑識眼に優れていたとして、それだけで誰かを信用できるものだろうか。


「私たちは何に見えるの?」


「迷子の子犬と言ったところですかね」代官は意地悪く笑って見せた。冗談めかしていたが、あるいは本気だったのかもしれない。「種を明かすと、私はあなたことを知っていた。エウリシのラバンの娘ディナ。ディナのベルトに刺繍された熊の紋章を、私は見たことがあった。私がまだ騎士団にいたとき、ラバン卿のご子息がいまして、その紋章を見たとき彼のものだとすぐに思い出した。王国興隆の立役者、騎士の中の騎士であるラバン卿の息子として、彼は色々と有名で、同時に期待されていた。彼にはそれに応える能力があった。その彼に会いに来て、兵舎に迷い込んだ七、八歳の妹がいた」


「一度だけ、会いに行ったことがある」


 記憶を掘り起こしながら、ディナは呟くようにして言った。兄に会いたくて、王都の市場へ行く下働きの馬車に潜り込み、騎士団の兵営に行った。騎士団員に見つかって追いかけられ、泣きながら兄の名前を叫んだ。団員に捕まり、呼び出された兄にしがみ付いて離れず、彼を困らせたのだ。その日のうちに下働きに引き渡されて連れ戻された。


「最初、あなたはここへ来たとき、ラバン卿の娘とは名乗らなかった。だから私も尋ねなかった」

「私は不義の子だから。父とは血の繋がりはない。私が本来、名乗るべき名前じゃない。みんな知っていることです」


 ラバンは四十歳の時に妻を亡くし、その悲しみから立ち直るために教会に入信した。そのときには彼はエウリシの町の世襲代官として就任していた。代官は本来、一代限りであったが、三人しかいない世襲代官に彼は認められたのである。そして、最初の(ラ)三十(メッド)人と呼ばれる、この地に教会の教えを広めた三十人の聖人の直系で、十六歳になったばかりの娘を妻に迎えたのだ。それがディナの母だった。


 妊娠した彼女が双子の兄弟を生む前に、ラバンは北の地から侵入した北部民との戦いの指揮をとるために出征した。体力が落ち始めてはいたが、彼は有能な指揮官であり、希代の戦士だったのである。ラバンは北部民を追い払い、追撃して北の地深くまで進攻して散々に敵を蹴散らし、国境に長城を築いた。


 母はラバンが帰ってくる数ヶ月前から館の奥に篭り、誰とも会おうとしなかった。四年後にラバンが帰郷したとき、出迎えにも来ない妻の部屋へ行って見たものは、臨月に入った妻の姿だった。おそらく母は、あまりに帰って来ない彼が死んだという噂を信じていたのだ。彼は怒り狂っただろうが、幸いにして生まれたディナを狼の餌にするような狂気にまでは達していなかった。


 母は軟禁され、不倫の相手とされた若い騎士は自分の潔白を主張したが、その後に文字通り姿を消した。

 妻を寝取られたラバンは、騎士の中の騎士であっても、男の中の男ではなかった、そう周囲は囁いた。彼は妻の不倫の存在自体を認めなかった。ディナは公式にラバンの子であったが、誰もがそうではないと知っている。


「どうあがこうと、あなたについて回る問題です。私にはあなたがどんな生まれでも関係がありません。そのことを、とやかく言う連中を気にするのは無駄ですし、そんな連中しか周りにいなかったとすれば不幸なことです。まあ、時には優しさがすれ違って、とんでもない不幸を呼んだりもしますが。とにかく、あなたが出自に関して負い目を感じる必要はありません。ふむ、説教臭くなってきましたね。一つ教えてもらえますか、どうして傭兵に?」


「女は騎士になれないし、父が私のために騎士団に口を利いて仮にでも戦列に入れてはくれないだろう。戦うには傭兵になるしかなかった。戦うことしか、私には考えられなかったから」


 そうですか、と言って、それ以上のことを代官は聞かなかった。彼は銀貨を全て袋に戻し終え、それから「さて」と言って立ちあがり、ディナとクックに明日の朝すぐに避難を始めると告げて館を出て行った。


 ディナは代官が自分を励まそうとしていたのだろうかと思ったが、その真意を確かめるには直接彼に聞くしか術がなかった。それとは別に、兄が騎士団にいたころの話を聞いてみたかった。避難の道中、その話を聞く時間もあるだろう。


 そっと形見のベルトに触れて、ディナは兄のことを想った。兄と一緒に故郷のエウリシの草原を、馬に乗ってウサギを狩った日々が頭を掠める。彼はラバンの前妻の子で、腹違いの兄であり、実際には全く血の繋がりはなかった。その彼が誰よりも優しかった。


 母との一件の後、ラバンは気難しくなり、ディナを視界に入らないように日々を過ごしていた。兄が死んでからは彼の気性は酷くなり、あらゆることに言葉にはしなかったが威圧的な態度をとるようになった。血の繋がった双子の兄たちは、ディナを事あるごとに折檻し、罵った。彼らはディナを憎み、同じくらい母親を憎んでいた。


 その母親も一年前に軟禁を解かれ、その数ヵ月後に死んだ。

 ラバンは第二次討伐隊に双子のどちらかと参加しているはずだが、その生死を確かめようがなかったし、ディナにはあまり興味がなかった。もはや、お互いを憎むか無視するかでしか維持できない関係なのだ。


 ディナは頭を振って思考を中断した。気が滅入りそうだったのだ。彼女は立ち上がって代官の後を追った。

 その日、村はいつもより長い夜を過ごした。避難の準備に追われたのだ。


 ディナもそれを手伝い、せっせと食料と豚と鶏を牛車に乗せる。食料は全て奥にある塔の中にあり、ほとんどは収穫して乾燥させたばかりのエンドウ豆で、壷から麻袋に移し替えては何度も往復しなければならなかった。全てを持ち出すには量が多く、他にも保管されていたビール樽や毛皮には手をつけなかった。


 クックはいつの間にか姿を消していて、誰も行方を知らなかった。

 準備を終えたときには空が白み始めていた。


 その間、村の東のはずれでずっと煙が上がっていた。暗闇にまぎれていたために、ディナは明け方まで気付かなかった。気付いたときには勢いを失っていて、一筋のか細い煙が南風に吹かれてなびいているだけで、村民たちも、その煙の存在を認めていたが、誰も気にかけず、それはディナも同じであった。睡魔と疲労に襲われ、少しでも早く寝台で横になることしか考えられなかったのである。


 その煙の正体を知ったのは、その日の朝、グイムの襲来を知らせに来たナウルの口からだった。


 いつの間にか戻っていたクックとディナが納屋の麦藁の上で夢も見ない深い眠りに落ちている間に、彼はまだ微かに立ち上る煙を確認しに行った。そこで彼が見たのは、ほとんど灰になって燻る薪と、すぐ傍に何かを埋め立てた跡、その上に供えるように置かれた棘のついた焼けた鉄球だった。そして街道の向こうにグイムの一団を見たのだ。村のはずれで火葬が行われ、その肉を焼く煙が敵をおびき寄せたみたいだと彼は語った。


「昼前に奴らはここに来るだろう」


 なるほど、とディナは感心した。罪にはきちんと罰が下るらしい。

 クックはダウドを火葬にした。戦士の名誉を守るために。ダウドの遺体が荒らされぬように、彼の愛用の得物と共に灰に返したである。それは戦士を弔う際の古来からの様式だった。


 しかしダウドは許さなかった。ディナたちに罰を与えに、彼の魂はグイムを引き連れて帰ってきたのだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ