第二十九話 九月十五日
ディナは奥方に言われたとおり、夢で定められた道筋から外れ、世界を巡る訓練から始めた。夢は毎夜、訪れるわけではなく、大抵は一、二日おきで、場合によっては丸々一週間も見ないこともあり、その度に気持ちをやきもきさせた。
それでも一ヶ月も経たずにディナは自由の翼を手にした。奥方は「私は三十年もかかったのに」と、口では嘆いても顔はほころんでいた。
文字列で埋め尽くされ、目も眩む輝きに満ちた世界を羽ばたき、雲を追いかけ、木々に触れる。時には碧空を抜け、漆黒の空で燃え盛る太陽の熱さに、驚嘆とも官能ともつかない肉体を貫く震えるような感覚に溺れもした。
あらゆるものを記録した情報の渦に身を浸し、あらゆるものが真実を伴って体の中に染みこんでいく。同心円を描く波紋のごとく感覚が広がり、全てが満たされて世界と一つになる。それはこれまで体験したことのない、神経を焼き尽くしかねない快楽だった。
そして最後には必ず男の元に戻り、彼はこう語りかけるのだ。
――愚か者の子よ。
目が覚めれば全てが失われていた。あふれ出すほどの快感も、曇りのない真実も、何もかも。あるのは、己さえも知らない愚かな自分だけだった。それでも回を重ねるごとに、ディナは夢からいくつかの文字の意味を持ち出せるようになっていった。
日のほとんどを奥方と半球状の地下室で過ごし、翻訳作業に没頭した。奥方の言う知の探求は確かに楽しかった。それは兄と平原を馬で駆けた、一時の幸福に満ちた記憶に勝るとも劣らないものだった。
全てを解き明かしたとき、夢の中で得た感覚を取り戻せるかもしれないと思うと、一層、前のめりになった。しかしある一瞬、男が言った「振り返るな。繰り返すな」の言葉が頭を過ぎり、胸を締め付ける背徳感に囚われて筆を持つ手が止まる。
そんな葛藤の中で時間が足りないほどの忙しさに追われるディナとは違い、クックは暇な日々を過ごしていた。
彼は急ごしらえの守備隊の戦闘訓練を任されて、ろくに剣も触れない小作人や避難民に忍耐強く付き合っていた。ディナもときおり、気分転換を兼ねて訓練に参加した。剣に槍、それに楯の扱いから隊列の動き方。言葉はなくとも彼は優れた教師だった。
しかし弓だけは教えようとしなかった。どうしようもなく下手なのか、あるいは黒皮の手袋に隠された左手に、何か問題を抱えているのか。剣も右手でしか持たなかったし、バラクも彼の手がおかしいと言っていたのをディナは思い出した。
王都で火の手が上がり、暴動が起きたらしいと斥候からの報告が上がってきたのは、残暑もとうに過ぎ去った頃だった。
情報が二日前であることを考えれば、王都が陥落したとしてもおかしくない。モエルランも、いよいよ戦火に巻かれるときが近づきつつある。
さらにディナにとって、もっと重要で危険を伴った代物を斥候は引き連れてきていた。
居館で報告を受けて地下室に戻ってきた奥方はディナに内容を伝え、その最後に聞き覚えのある名前を口にした。
「異変審問官、というのを知っておるか? 何やらお主を探しているようなのだが。見るからに裏がありそうな笑い顔の男だ」
「カルコル、ですか」
ディナがぎこちなく答える。彼の王都脱出を喜ぶ気には当然ならなかった。
モエルランまで偶然に辿り着いたとは考えにくい。彼はどこからか北へ向かうこちらの姿を確認していたのだろう。
「旧知であるのだな」
「はい。王城の崩壊について調べているようです。教会と王太后が深い関係にあったと言っていました。いずれは儀式の存在に辿り着くかもしれません」
奥方は思慮深げに目を伏せ、しばらくしてから顔を上げた。
「なるほど、国王は教会と王太后に王城崩壊の咎を背負わせるつもりなのだな。この苦況に権力闘争とは浅ましい連中じゃ。異変審問官殿には早々に退去願うが、すまぬがお主は少しの間、ここから出ぬように」
「彼はクックのことを知っています」
クックの存在を知られれば、自分がここにいると露見する。
奥方は渋々と彼を地下室に呼ぶことを了承した。
「それとも別々のほうがよいか?」
「いえ、大丈夫です」
「お主の連れ合いは大した戦士じゃな。彼の胆力の一割でもあれば、シェマルにも使い道はあったろうに」
半ば独白とも思える憂いの篭った言葉に、ディナはどう返したものか判断に迷った。仮に彼を庇ったとしても、奥方にはすぐに嘘だと見抜かれてしまうだろう。
ディナの目から見てもシェマルは気力に欠け、彼が農家に生まれていれば、ごく潰しと言われて家を放り出されてもおかしくない。日々をのらりくらりと過ごし、町娘の尻を追いかけては誰にも相手にされずにふて腐れて酒を煽った。
一度、城でディナはシェマルに呼び止められたことがあった。彼は泥酔して足元も焦点も定まらない様子で、フラフラと廊下の向こうから現れた。むくれた瞼にほとんど塞がれた目で、はっきりと彼女を睨みつけた。
「あの女を信用すると後悔するぞ」不自然なほど明瞭にシェマルは言った。「あいつは永遠に満たされない飢えた狼だ。何もかも喰らい尽くして飲み込んじまう。お前も食い殺されないように気をつけるんだな」
足取りも怪しくディナの横を過ぎて、町へと出て行った。
シェマルが代官の地位を得ているのは、それが世襲であって、能力を買われたわけではない。この町を動かしているのは奥方であり、住民の誰もが知っていた。彼が醜態を晒しても無事でいられるのは、母親のお陰なのである。
「食事は運ばせよう。ここにおれば、憂鬱にはなっても暇を持て余すことはあるまい。連れ合いにとっては、どうかは分からんが」
そう言い残して奥方は部屋を出て行った。
彼女の言うとおり、かつて儀式のために主塔に閉じ込められたときのような、ただ時間が過ぎるのを待つ苦痛はないな、とディナは眼前に積み重なった本を眺める。
翻訳作業は一歩一歩確実に進んでいた。不明な語句も前後の文脈からある程度、推察できるようになっている。今、読み解いているのは「エディンバラのシールドから連絡は途絶えた」から始まる日記、もしくは手記というべきものだった。他のものに比べれば格段に読みやすく、平坦な語句で綴られている。
そこには彼女たちが置かれている状況と同じく、徐々に切迫した様子が書かれていた。この地下室にいた彼らは、あるいは何かは仲間を失っていき、孤独を深めていった。このまま作業が進展すれば、いずれはその理由に行き当たるだろう。
それを妨げるのは時間であり、ひいては異民族の存在である。彼らが攻めてくれば作業は中断せざるを得ない。場合によっては永遠に。
今すぐにでも本を担いで北に行くべきだとディナは奥方に進言した。北には父であるラバンが築いた長城があり、容易に攻め落とされはしないだろう。しかし奥方は受け入れなかった。
となれば、このモエルランで敵と対峙するほかにない。翻訳の合間を見てディナは町周辺の地図を眺め、地形を頭に叩き込んでいた。こちらは数も少なく、士気も錬度も低い。せめて地の利ぐらいなければ、勝利は無理にしても戦うことさえもおぼつかない。
しばらくしてクックが昼食を片手に入ってきた。やけに量が多いのは夕食の分だろう。パンに塩漬けの豚肉が乗った盆を、置き場所を探した挙句に床に置いた。それからインク瓶に刺さったペンを取り上げて、本の余白を見つけて走らせる。
――カルコルと一緒に赤毛が来ている。
「どうして!」
ディナが驚きのあまり立ち上がる。
どういう経緯でカルコルと赤毛が行動を共にしているのか、まるで想像がつかなかった。昔からの知り合いだったのだろうかとも思ったが、年齢も離れているし、性格も合いそうもない。
二人の接点は何だ?
兜のバイザーを一瞬だけ上げて、出来た隙間からパンを押し込むクックにディナは目を向ける。執念深い赤毛は彼に殴られた恨みを晴らすつもりなのかもしれない。
自分を追うカルコルに、復讐に燃える赤毛。目的は違えど、自然と行き先は同じになる。
彼らとの戦いを避けるには、もはや奥方の手腕だけが頼りだった。




