第二話 七月二日(二)
ディナは身を固くして動けずにいた。鳥肌が立つような危機感に襲われながらも、目を開けられずに、どうしようもできなかった。ふいに襟首を掴まれて後ろに引かれる。つかの間の浮遊感の後、体を強かに打ちつける。体のどこを、何に打ちつけたのか彼女には全く分からなかった。
止めどなく流れる涙を拭って必死になって目を開けた。地面が見える。ディナは腹這いになって倒れていた。顔を上げると数歩先にはクックが立っているのが見えた。
体液と贓物にまみれた五人のグイムがクックに覆いかぶさり、鎧を歯で引き裂こうとしていた。それでも彼は微動だにせずに、肩をすぼめて身を守るように両手を胸の前で交差させている。彼の長剣はなぜか足元に落ちていた。
クックが自分の身代わりになったのだと、ディナはすぐに理解した。
ディナが起き上がると、今度はクックのすぐ横に転がっていた首なしのグイムの死体が膨れ上がり、腹を突き破って何かが飛び出してきた。腕だ、それも十本の腕。それは蕾から花開くように死体を引き裂き、中から五人のグイムが飛び出した。
ひょろりとした長身で五人とも同じ顔だった。見開かれた白く濁った目は虚ろで何も見ていないように思えた。
彼らは空を見上げて歓喜に満ちた獰猛な叫びを上げる。それは森の中からも連鎖して聞こえた。
常識では考えられない事態を目の当たりにして、ディナは呆然とした。しかし、それは長い時間ではなかった。いまや十人となった敵に取りすがれ、クックが片膝をつくのを見て彼女は手斧を握った。
クックを救わなくては。そして生き残らなくてはいけない。その思いが彼女を奮い立たせた。
クックに纏わり付いていたグイムを蹴りつけて引き離し、地面に転がったところを手斧で止めを刺す。ようやく三人片付けた時には、いつの間にか森から姿を現したグイムたちが、すぐ側に、それも手を伸ばせば届く距離にいた。もはや避けることも迎撃することもできそうになかった。
激しく大地を蹴る馬蹄の音にディナはずっと気づいていなかった。
彼女に飛びかろうとしたグイムが胸に槍を受けて吹き飛んでいった。
ディナとグイムの間を一騎の騎士が塞いだ。
騎士は鎖帷子を頭まで被り、五芒星が描かれた外套をまとっていた。跨る葦毛の馬には、胸元を守るために鉄のプレートがぶら下がっている。騎士は手にした槍を振るって飛びかってきたグイムを払い、馬の腹を鐙で蹴って敵の群れに突撃した。
騎士が敵の相手をしている間に、ディナはクックを助けに入る。しかし、その必要はあまりなかった。彼はグイムの頭を右手で鷲掴みにして引き剥がし、地面に叩きつけて一人一人よどみなく頭を潰した。
問題はむしろ騎士の方だった。彼はあっという間に馬を失っていた。
グイムに集団で飛びつかれて騎士は落馬し、馬は引き倒される。倒れた馬に群がって、彼らはまさぐるようにして腹を引き裂いて中身をほじくりかえす。目に指を突き入れて馬の首を何度も揺さぶり、最後には捻じ切った。そして、くちゃくちゃと音をたてて喰らいつく。
騎士は尻餅をついて立ち上がることもできずに、足をばたつかせてじりじりと後ろに下がりながら槍をむやみに振り回して、にじり寄るグイムたちを牽制していた。
その背後からディナは手斧を両手に持って力の限り振るい、一人目の首のほとんどを切り落とした。そのままの勢いで体を回し、二人目の横腹から胸の半ばまで肉をえぐった。肉に食い込んだ刃を引き剥がすのに、何度も手斧を左右に揺さぶっている間に戦いは終わった。
全てクックが片付けた。後ろから敵の首をはねて騎士を救い、さらに夢中で馬を貪る彼らを、魚に串でも通すようにして心臓に剣を突き立てる。
騎士は飛び上がるようにして体を起こし、死んだグイムの腹を次々と槍で引き裂いて穂先で臓物をかき混ぜる。
「こうしないと、また増える。こいつらはエサを食べると食べただけ増えていく。さあ早く君たちも」
微かに震える声で騎士が手を休めずに指示を出す。
ディナは手斧で彼の行為を真似るのは抵抗があった。いや、手斧でなくても彼女にはできなかっただろう。結局、騎士とクックで手早く済ませたのだった。
騎士は胸をなでおろして鎖帷子のフードを取った。金髪の青年で、ディナとたいして歳が変わらないように見えた。一つか二つ上といったところだった。汗と埃で汚れていたが、切れ長の目をした凛とした顔立ちで、美男子といってよかった。
「助かりました」
ディナが礼を言うと、騎士は「助けられたのはこちらの方だ」と謙遜し、ナウルと名乗った。
「参ったな」と言って、彼はただの肉塊になった馬を見やる。「馬がないとなると」
ケガをした兄を道の向こうに残して加勢に来たとナウルが語った。
「ケガってどの程度です?」
「兄は足を噛まれてしまって……ないんだ」
「それなら私たちの馬を乗っていけばいい」
反射的に言葉が出た。自分たちのために馬を失った彼に馬を貸してやりたいが、そうすれば偵察の目的が果たせずに困ったことになる。そう迷うよりも先に言葉が出ていた。そもそも馬は村の所有物で、彼女に貸借の権限はないにも関わらず。
今さら発言を取り消すわけにもいかないし、それにナウルには馬が必要なのだ。貨さない選択肢を選ぶことはできない。どちらにしても彼が来た方向を考えると目的は達するような気がした。
実際、その通りだった。
ディナが自分たちは東の地まで敵を探りに行く途中だと伝えると、ナウルは状況を教えてくれた。
「敵はこっちに向かっている。相当な数だ。二百か三百か、それ以上か、正直、分からないくらいだ。多分、まだ途中で増えていくだろう。二日もすれば、このあたりも奴らで一杯になる」
になる」