第一話 七月二日(一)
敵を視界に捉えた。
ディナは身を低くして、木漏れ日が揺れる森の中を駆けた。緑色のジャケットとズボンが、保護色になって彼女の姿を隠す。泥と汗で艶を失った黒髪を後ろでまとめ、手には弓、背中には矢筒、ベルトに手斧を差している。彼女は十六歳にしては小柄で、その手に握る弓は身長よりも大きかった。顔にはソバカスが残り、土埃で薄汚れていてもはっきりと頬の赤みが見てとれる。
雨も降っていないのにぬかるんだ街道に敵はいた。数は六人。かつては味方の戦士だった、今ではただ土に返るだけの死体を、それは貪っていた。彼らは赤褐色の肌、衣服をまとわず、長身で痩せて貧相だった。頭髪も眉もなく、目元は窪んで黒い影が落ちている。反面、薄い唇から覗く不揃いな歯は白かった。六人が六人とも似たような風貌をしていて見分けがつかない。四つん這いになって死体から肉を引きちぎり、血で染めた口から、ときおり地の底をはいずるような低い唸り声を上げた。
彼らは一年前に大陸から海を渡ってきて、この島国の東の地を奪い取った異民族、グイム。それが彼女の敵の名前だった。
ディナは彼らの側面に回って弓を構えた。死体を漁る彼らに悪寒と嫌悪感を覚えながら弓を絞る。
街道を挟んだ向こう側の森に仲間のクックの姿を確認する。鳥の頭に似た鼻先がクチバシ状に尖った珍しい兜を被った彼は、その大柄の体格に相応しい幅広の長剣を構えていた。
ディナは落ち着けと自分に言い聞かせて高鳴る鼓動を押さえ付けた。それから静かに息を吐きながら標的に目を見据えて矢を放つ。
吸い込まれるようにグイムのこめかみを矢が射抜く。仲間が噛んでいた死肉を吐き出しながら横に倒れても、気づきもしないのか関心がないのか彼らは食事を続けた。
ディナが続けて二射目を打ち込み、今度は後頭部を貫いて二人目を仕留める。矢の勢いに押されて貪っていた死体の上に覆いかぶさった。
ようやく残る四人のグイムは食事を止めて立ち上がった。彼らは体を一度震わせると、一斉に振り向いて草木に紛れたディナに目を向けた。彼らは何の感情も示さずに、ただ呆然と立ちすくんで無機質で空虚な視線を彼女に投げた。そしてディナが三本目の矢を番えて一つ呼吸をしたとき、グイム達は不揃いな歯をむき出しにして、両手をぶらりと垂れ下げたまま走り出そうと体を前に傾けた。
彼女はすぐに射られる状態で三射目を待った。というのも、クックが山猫のような素早さでグイムたちの背後に滑り込んだのだ。下手に射れば彼に当たってしまう。
クックは纏った亜麻色のローブを翻し、その大柄な体をひねって右手で剣を横に振るった。
首が一つ飛んだ。頭部を失った胴体は力なく崩れ落ちて、根元が微かに残った首から黒ずんだ血がじわりと浮かんで地面に染みた。
クックを無視して三人のグイムはディナに向かって来る。その隙を見逃さずにクックは肉薄し、後ろから剣を叩きつけて頭を一つ叩き潰した。
ディナは張りつめていた弓弦を弾く。
左肩に矢を受けたグイムは足をふらつかせて、何度か地面に手をついて体勢を戻そうとしたが、しまいには前のめりになって倒れこんだ。そこにクックがすかさず駆け寄って、背中に剣を突き立てる。肩を足で踏みつけ、ねじりながら剣を引き抜く。
ディナは弓を放り投げた。それからベルトに差した手斧を取り出して、緊張の汗で濡れた両手で握り締める。彼女の手斧は両手でも扱えるように少し柄が長めで、刃先は薄く鋭い反面、柄の周りの斧腹は重量を持たせるために分厚く作られている。こうして敵を前にして斧を構えるのは二度目だった。最初のときはただうろたえるだけだったが、今はいくらか冷静になって相手の動きを捉えることができた。
敵はもう眼前に迫っていた。突き出された爪が鋭く伸びた武骨な両手を、ディナは身を屈めて避けて手斧で足を払った。
グイムが宙で体を一回転させて落ちる。背中を打って息ができないのか、喉を鳴らして喘いだ。
ディナは悶えるグイムの頭を踏みつけて押さえ込んだ。
「お前たちの本隊はどこだ」
答えはなかった。代わりにグイムは顎を突き出し、歯をカチカチと鳴らして必死に頭の上のディナの足に噛みつこうとした。
もう一度、繰り返し問いかけたが結果は同じだった。
もはや尋問は無駄だと悟り、手斧を頭上に振り上げて首に叩き込んだ。手ごたえがあり、首の骨を半ば砕いて刃が止まった。首に食い込んだ斧を無理やり引き剥がす。
最後の異民族は喉を手で押さえて口を何度も開閉させた。指の隙間から血が滲み、指先から数滴こぼれた。それで血は止まった。異民族の体には血がほとんど流れていないのではないかと思える出血量だ。次第に口も動かなくなって息絶えた。
その様子をディナは一歩下がったところから見守った。彼女がしばらく動かないでいると、クックが彼女の肩を叩いた。彼は兜のクチバシを使って街道を指し示し、無言で急かした。
彼は決して声を出さない。話させないのか話さないだけなのか、それは分からない。二ヶ月ほどの付き合いだったが、彼女自身も含めて彼の声を聞いた人物にあった会ったことがない。さらには名前さえも分からないので、彼の兜の形にちなみ、鶏の鳴き声であるクックと誰かが名付けたのだった。小さな金属プレート繋ぎ合わせた鱗のような鎧を身につけ、左手には黒革の手袋をはめ、唯一、肌が見えるのは右手だけだった。その手は爪の先まで綺麗で肌にも艶もあり、年齢はまだ若いように思える。
今となっては数少ない――正確にはたった二人の仲間だった。あと一人は村の納屋でまだ寝ていることだろう。
ディナは少し緩んだ腰ベルトを締めなおし、手斧を戻した。兄の形見である三日月を仰ぐ熊の刺繍が施されたベルトは、分厚うえに固くて最初は居心地が悪かったが、今では体に馴染んでいる。十五歳年上の兄は三年前に戦死して、結局、このベルトしか故郷に戻ってこなかった。
「馬を取りに行こう」
放り投げたが弓を回収して背負いながらディナは言った。
馬は少し街道を戻ったところに留めてあった。村に一頭だけ残っていた貴重な馬だ。それに二人で乗ってきたのである。
二人の目的は偵察だった。途中、発見した敵が六人と少なかったので、ディナが奇襲をかけて排除しようと決めたのだ。これから東の地に向かって敵の動向を探りにいかなくてはいけない。
一昨日、第二次討伐隊は東の地でグイムに敗れた。その戦いに傭兵として参加したディナとクックはどうにか生き残り、辿り着いた先の村から、ただ一頭しかない馬を借り受けて偵察に出たのだった。敵が北に動いて村の方に来るならば村民を避難させなければいけないし、西の王都に向かうならば戻って戦わなくてはいけない。すでに太陽は真南に差しかかり、できることなら日没までには目的を達したかった。
森から街道に出て、ふと目に入った最初に放った矢がまだ使えそうに思えた。補給が見込めない現状では矢は貴重品だ。
グイムの死体に近寄り、側頭部に突き立った矢に手を伸ばす。
矢を掴むのとほぼ同時に、その死体の腹が急激に膨れて、最後には裂けて肉片が飛び散った。
慌てて顔を逸らせたが、目に肉片が入り込んでディナはうめいた。視界が失われ、瞼の奥の暗闇に閉じ込められる。すぐ側で、いくつもの雄叫びが上がるのを聞いた。それはまるで産声のようにも聞こえた。そして凶悪だった。