破局旅行
北海道はたのしいよ。
お姉ちゃん今日から数日破局旅行で帰らないから、と弟に言うと、なにそれ、と困惑された。三泊四日で別れにいくの、もうあの人とも会えなくなるだろうから言いたいことあったら伝えとくよ、と言うとなおさら意味がわからないという顔をされたので、そのままリビングに放置した。自分の部屋から荷物を取ってきて玄関に行こうとすると、我に返った弟がバタバタと出てきた。
「姉ちゃん武さんと別れんの?!」
「だからそう言ってるじゃない」
「なんで」
「なんでって、まあ……音楽性の違い、とか?」
「はあ?」
結局困惑したままの弟を置いて、私は待ち合わせ場所の駅に向かった。
音楽性の違いというのはあくまで冗談だ。恋人と別れる直接的な原因は彼の県外転勤だったけれど、転勤がなくても結局は別れることになっていただろうなと思う。お互いに一歩引いたまま、特に燃え上がることもないぬるい恋だった。向こうもそう思っていただろう。
彼の勤め先は転勤の前一週間お休みをくれる会社だったので、その中の数日間に合わせて私も有給休暇をとり、私たちは北海道に旅行に行くことにした。そして帰りは別々の飛行機に乗って、きっともう二度と会うことはない。
「向こう、天気悪くないといいね」
「うん」
これが一緒にいられる最後の機会だと思うと、何を話せばいいのか急にわからなくなる。初めてのデートのときだってもっと自然だった。空港に向かうバスの中で、たぶん四回くらい天気の話をした。バスの窓から見た空は絵の具を均一に伸ばしたように明るく曇っていた。
バスが遅れたので、空港についてから飛行機に乗るまでは慌しかった。一息つく間もなく荷物を預けて搭乗手続きを済ませ、気がつけば機内だった。席に落ち着いて、横を見ると恋人はもうすやすや眠っていた。こういうところ、と思った。飛行機や新幹線に乗ると一瞬で寝てしまうところ、かわいいと思っていたこともあったはずなのに、いつのまにか何の感慨も起きなくなっていた。多少のいらつきを覚えることさえあった。
一人で旅行ガイドをめくりながら、こうやってだんだん好きなところが減っていくなら今のうちに別れておくのがお互いのためによかったのかもな、と考える。まだ、お互いに対して好意が残っているうちに。
「ね、私アスパラ食べたいな。採りたてのやつって美味しいんでしょ」
寝ている肩を揺らしておかまいなしに話しかけるところも、きっと彼にとっては疎ましいだろうと思う。それをわかっていても話しかけるのをやめないんだから、もう嫌われることをなんとも思わなくなってしまったんだろうなと、どこか俯瞰した自分がいる。彼は曖昧な返事をして、目を開けることはなかった。
千歳は新潟よりも暗く、着陸態勢に入る前から飛行機は少し揺れた。
「雨が降ってないだけましか」
揺れで目が覚めたらしい彼が窓の外を見下ろしてつぶやいた。
「まあ降ってたっていいよ」
閉じていたガイドブックをもう一度開こうとして、やめる。この揺れで本を読んだら気分が悪くなりそうだ。
「でも運転怖いから、霧はいやだなあ」
鹿とかにぶつかったら高確率で車が大破しちゃうんだって、と教えてやると、彼はうえっと顔をしかめた。わたしたちはレンタカーで移動するのだ。でも鹿は見てみたいなあとか、俺は熊のほうが見たいとか、熊は怖いから嫌だとか。そんな馬鹿みたいな話をしていたら、シートベルト着用ランプが消えた。
レンタカーは海色のデミオだった。恋人が嬉しそうな顔をした。
「ひとつ古いモデルの車だ。俺、最新のデミオよりこっちのほうが好きなんだ。カクカクしてない丸っこい感じで形はかわいいのに、全体的なイメージとしてはスマートでかっこいい。色もいい色に当たってよかったな」
こういう話にはついていけないけれど、確かにいい色だと思った。じゃんけんに負けたので、私が運転席に座る。普段ワイパーの横にシフトレバーが付いている車に乗っているので手が少し迷ったけれど、動きは上々だった。
広い道に入ってナビが必要なくなると、彼はカーオーディオに自分のスマートフォンを繋いで私の好みの音楽を流してくれた。広くて真っ直ぐな道は走りやすく快適で、私はじゃんけんに負けてよかったと思った。
「こういうことするの、いつぶりだろうね」
付き合いだして一年くらいたった頃から少しずつ、お互い相手に費やす時間がだんだん少なくなっていた。旅行の記憶も、たぶん二年前くらいまで溯らないといけないはずだ。
これは、フェードアウトするくらいなら最後に思い出を作ってきっぱり離れようというだけでなく、これまで掛けてくれなった分、掛けてあげられなかった分の時間をここで全部清算するための旅でもあった。
札幌、帯広、門別競馬場が今回の目的地だ。彼は堅実なギャンブラーだった。金を賭けるのが好きで、競馬も競艇も競輪もやった。ただ、ちゃんと専用の財布を作って無茶な賭け方をしないようにしている。破滅的なギャンブラーではないので好感が持てたし、県内にあった競輪場はたぶんデートの中でも最も行った回数が多かっただろう。
札幌競馬場に着いたときにはもうメインレースに出走する馬がパドックに出揃っていた。普段競馬はやらないからよくわからないが、馬は好きだ。
「絵美もこの金使って賭けていいよ。プラスになったら明日は高速に乗ろう」
そういって彼が首からぶら下げた財布を指したので、私もにっと笑った。空港までのバスでの気まずさは、もうどこかへ飛んでいた。
馬券の買い方を教えてもらっていると、付き合いだした頃のことを思い出した。初めて競輪に行ったときも、こんな風に教えてもらったものだった。といっても札幌のほうが弥彦よりずっときれいだし、周りの客も若いカップルや家族連れが多いけれど。逆ならよかったのに、と少し思った。
「がんばれ馬券ってのがあって、単+複ってのを選択して一頭選ぶと馬券にがんばれって印字されるんだよ。予想とかわからなければ、見た目の気に入った馬でがんばれ馬券買えばいい」 面白いシステムだ、と思った。言われたとおり、馬場に入っていく馬を眺めて気に入った馬を探す。
「これにする」
選んだ馬は、十三頭立ての十番人気だった。あんまり勝てそうにないけれど、まだらに赤茶けたたてがみが一時期髪を染めていた頃の彼に似ていた。彼は三連複や馬単を千円分くらい買っていた。「まあ一つくらいは当たるでしょ」そう言って笑う。
芝を走るのかと思ったら、レースは芝コースのさらに向こう側のダートで行われた。今にも雨が降りそうだったので、少し離れるけれど屋根のついた自由席から観戦した。遠いのでどれがどの馬かぜんぜんわからないけれど、枠番を示すヘルメットの色が競輪と同じパターンだったので枠だけは理解できた。
ファンファーレが鳴る。私の買った馬はスタートのときにゲートの中で暴れてしまい、他の馬から遅れをとってスタートした。馬群がコーナーを曲がって向こう側に行ってしまうともう競馬がどうなっているのかはモニターでしか確認できないが、「あちゃー」という声から彼の買った馬も思わしくない位置にいるのは理解できた。
地響きのような鈍い音とともに馬が正面の直線に帰ってくる。黄色い帽子がずいぶん前に来ていたので私は驚いた。周囲にあわせて、がんばれー、差せー、と私も馬の名前を叫ぶ。五番はぐんぐん伸びて、一着には遠く及ばなかったが三着に入った。
「わ、すごいじゃん」彼が私の手元を覗き込む。「たぶん二千円はプラスになるよ」えへへ、と笑って彼の手元を見ると、全滅だった。次のレースは私がはずれ、彼が五千円の当たり。占めて四千円のプラス収支になり、私たちは機嫌よく宿泊予定のホテルに向かった。
ホテルはきれいで、すぐ近くに道産食材をたくさん使った美味しい居酒屋があったので夕飯はそこで食べた。何を頼んでも美味しかった。アスパラは茹でたのと揚げたのがあったので両方食べたが、今までこんなアスパラ食べたことないと言って私より彼のほうが喜んでいた。酒は安いだけあってアルコールが薄かったけれど、話を弾ませるには十分で、まだ真っ暗にならないうちに入店したのに、気がつけば周りの客がまばらになっていた。
彼は珍しく饒舌だった。付き合いだしてからかれこれ四年間、この間に彼が話した量の十分の一くらいは今日話した分なのではないかというくらい。家族の近況から昔話から、職場の噂話やら友達の破局話やら。早口で喋っているわけではないし、一方的に聞いてばかりだったという記憶もないのだけれど、なぜか彼がやたら喋っていたという印象だけが残った。
ホテルの部屋はツインだった。以前ならダブルかセミダブルにしていただろうけれど、最後にあまりベタベタして情を残すよりは……というわけではなく、単にツインしか空室がなかったからだ。ダブルしか空室がなければダブルに宿泊しただろう。
遅くまで外で飲んでいたせいで温泉つき大浴場はほとんど貸切状態だった。もちろん風呂は男女別なので、一人で広い風呂に浸かっていると、無性に心細くなった。さっきまでああだこうだと喋っていた声がなくなったからかもしれない。最後だからと思って何も話し残さないように、あんなに饒舌だったんだろうか。案外好かれていたのかもしれないなと思うし、案外好きだったんだなとも思う。ふっと口元がにやけた。
部屋に戻ると、彼はもうベッドに突っ伏して寝息を立てていた。疲れているのもあるだろうけれど、とにかくよく寝る男だ。風邪を引かないように一旦起こしてベッドの中に入らせた。私も電気を消して、少しの間小さい音でテレビを見て、眠った。
出張で北海道に来たことは何度かあったけれど、札幌・千歳近郊から出るのは私も彼も初めてだった。翌日の高速道路では駆動音が負けるくらいの大音量で音楽をかけるのが彼の趣味なので、会話の声もそれに負けないように自ずと大きくなった。
「やっぱり豚丼とか食べるべきなのかな」
「あなたが食べたいならそれでもいいけど」
有名なお店なんてどこも混んでるだろうし、食べるために並ぶまでの執着は特になかった。「まあ、十勝なら何でも美味しいんじゃないの。昨日の居酒屋のメニュー表、十勝産って単語だらけだったし」
そう言うと彼はなるほど、と納得した様子だった。
「でも俺運転してるから、昼食べるとこは絵美が探してな」
占冠の休憩所でソフトクリームを食べていると、さっきまで雨が降りそうなどんよりした空だったのが少し明るくなった。
「このまま晴れるといいね」
「うん」
雲の隙間から覗いた太陽を浴びると、デミオの海色がきれいに輝いた。
高速を降り間違えてしまったので、帯広に着いたときには十四時近くなっていた。ごはんも競馬場で食べちゃおうかと、真っ直ぐ競馬場に向かう。帯広競馬場の前にはいくつかの飲食店や産直市場があって、ここは札幌で感じた以上に家族連れや女性の割合が多かった。
昼食はカフェレストランのワンプレートランチ。芋のピクルスが出てきたのには驚いた。肉は彼にとっては少なかったかもしれないが、丁度いい火の通り方で味付けも絶妙だった。普段あまり野菜を食べず、私の手料理で野菜を食べさせるときは調理や味付けに散々工夫していた彼が、北海道に来てから美味しい美味しいと言ってサラダやソテーの野菜を食べているのを見ると子供みたいで面白くもあり、少し悔しくもあった。
帯広で行われている競馬はばんえい競馬といって、昨日見た中央競馬とは馬もレースもぜんぜん違うものだった。重りを積んだソリに騎手が乗って、それを馬が曳いて走る、不思議な形式だ。農耕用に飼われていた馬の力比べを発祥に始まった競馬であると場内のパネルに書いてあった。頭数も少ないし、距離も短い。札幌と比べて何もかも規模が小さいなという印象だったが、レースが始まると何もかもではないことがわかった。
スタートしてから一つ目の山に向かう馬たちは昨日見た競馬に比べてもずっと遅いのに、同じくらい以上の迫力があったし、そもそも馬の大きさがぜんぜん違った。直線二百メートルのコースには小さい山と大きい山が一つずつあって、スピードに緩急をつけたり周りの様子を伺う駆け引きをして他の馬より早くゴールに着くのがばんえい競馬だ。というのはわかっていたのだけれど、大きい山の手前に来て馬たちがみんな止まってしまうのには驚いた。
「なんで? 止まっちゃったよ?」
二人で困惑していると、横にいたおじいさんがこれも緩急の一環であり、ここで力を溜めないと次の山を登れないんだと教えてくれた。溜めないと上がれないし、溜めすぎると他の馬において行かれてしまう。これも駆け引きなんだと。
登るのに苦労している馬を応援しながら大きい山の前で立ち尽くしていると、先に行ってしまったほかの馬たちを追いかけて観客が叫びながら走っていった。人間が走って追いかけてもついていけること、これもこの競馬の特徴であるようだ。
次のレースからは馬券を買ってみることにしたが、彼も地方競馬は初めてらしく、マークシートの書き方に慣れず一緒にあたふたした。二人で一度だけ行った、オートレース場を思い出した。あのときは買った選手が落車で大怪我をしたので私たちも損したし選手もかわいそうだしで後味の悪い感じになり、それからもう行っていないのだった。彼も同じことを思ったのか、「今日は誰も落馬とかしないといいな」と言ったが、ばんえい競馬の落馬ってなんだろう、ソリから落ちることかな、なんて想像するとなんだかわりと間抜けな絵面が浮かんだので少し笑った。
がんばれ馬券がないんだねと言っていると、隣にいた身なりのいいおじさんが手製のがんばれ馬券を見せてくれた。
「単勝と複勝を買ってな、がんばれって手書きすりゃいいのさ」
手製のがんばれ馬券は去年のものだった。
「うちの娘は牧場に嫁いだんだ。そこの生産馬が出ていたから買ったらちょうど一着になってね。でもその馬はそのレースが引退レースで、勿体無くて換金できずに今も持ってるんだ」
人のよさそうなおじさんだった。素敵ですねと言うと、嬉しそうに鼻歌を歌ってどこかへ行った。私たちも彼を真似て、換金しないでとっておくための手製のがんばれ馬券を買った。当たってもとっておこうねと言っていたが、どちらの買った馬も三着以内には入らなかったので不要な心配になった。
オッズと新聞を見ればばんえいは比較的当てやすい競馬だった。しかし、当てやすいだけあって配当も低く、金儲けには向いていなさそうだ。収支はぎりぎりプラス。レースは夜の九時近くまであるけれど、私たちは七時ころには競馬を切り上げてこの日のホテルに入った。夕食はネットで評判のいい豚丼屋が空いていたのでそこで食べた。顔を見合わせて、なるほどね、とつぶやくと、どちらともなく笑いが零れた。
翌日、門別までの運転は私がすることになったが、せっかくなので近隣の観光をしようと訪れたのは幸福駅。
「これから別れるのに恋人の聖地とか、なんか変な感じ」と言いながら訪れたがその通りで、なんだか微妙な空気のまま二人で鐘を鳴らして写真を撮って車に戻り、戻ってから顔を見合わせて笑った。
「なんか、悪いことした気分」
門別は大きなコースにこぢんまりとしたスタンドがかわいらしい競馬場だった。入場門が競馬のゲートのようになっているのもユニークで面白い。札幌や帯広ほど家族連れは多くなかったが、家族連れでも十分遊べそうな雰囲気。天気も良くて、広場の芝生が青空とよく映えた。
タイミングを逃して昼食を食べられずにいたので、昨日と同様少し遅いけれど、スタンドの食堂で私はドライカレー、彼は山菜蕎麦を注文した。もう一レースが始まりそうだったけれど、最初の数レースくらい見逃してもいいかと言って私たちはゆっくりご飯を食べた。容器こそチープな使い捨てだが、地域の人気店による出店というだけあって、盛り付けも味も思っていた以上だった。彼も満足そうに太さの不揃いな蕎麦を噛んだ。
食べ終わって、パドックに移る。誘導馬がまるでダルメシアンみたいでかわいらしかった。帯広もそうだったし、人の量の問題かもしれないけれど、パドックもレースも札幌と比べて馬との距離がすごく近く感じた。門別競馬は中央競馬のようにサラブレッドのレースだったけれど、昨日サラブレッドの倍くらいある巨大な馬をたくさん見たあとだとみんな子馬のように見えた。
マークカードは地方競馬で共通らしく、こんどは最初から迷わずに埋めていくことができた。天気のわりに気温はそんなに高くなく、スタンドで座って見るのもコースの目の前で立って見るのも気持ちよかった。
この日は彼の調子が良くて四万円のプラス収支。四万円は札幌に戻ってから白老牛のフルコースに消えた。最後のディナーで格好つけられて彼は少し誇らしげだったが、最後と思うとやっぱり寂しくなった。
最後の朝、私は手持ちの服のなかで一番かわいい服を着て、二十分かけて化粧をした。この数年で、私は化粧が上手くなった。彼と出会ったころの私よりも、今の私のほうがもしかしたら美人に見えるかもしれない。こんなにかわいい私と別れることを悔しがらせてやろうと思った。
「どしたの、そんなかわいくして」
期待通りに目を丸くしてくれる彼に、ちょっと自慢げな顔をしてみせる。
「別になんでもないよ」
ホテルを出てから小樽に行ってお土産を買ったりして少し遊んだけれど、最後だと思うとなんだかお互い会話がぎこちなかった。ぎこちないまま、空港についてしまった。
「楽しかったね」「うん」というやりとりを五回くらいした。海色のデミオを返すと、本当にこれで終わりなんだと実感した。
「ほんとさ、好きだったよ」
「うん」
「元気でね」
「あなたもね」
飛行機は私の便のほうが先だった。私は彼に見送られて搭乗口へ向かった。無言で手を振った。案外好きだったんだなと思ったのは、この旅の中で二回目だ。何か言ったら涙も出てきそうだから、それは悔しいから、口は開かなかった。
ぬるま湯みたいな恋だった。ぬるま湯みたいでも、恋だった。でも、それも終わりだ。帯広で買った手製のがんばれ馬券が、数年間の思い出の墓標になるだろう。
ありがとう、と呟いて、携帯から彼の連絡先を消去した。
みんな競馬行こう