剣士 vs ボクサー
一瞬動きが止まった。
風が通る。
ポニーテールを辿るように、桜吹雪が舞い落ちる。
薄桃色の花びらが地面に落ちるより早く、正宗は始動していた。
目覚めた獣は、我慢ができない。
目の前の獲物に飛びついた。
足首、膝、股関節の関節を同時に緩め、体重を一瞬だけ増やす。
増加した重力に身体が沈み、その反動でもって動く。
無起こり(ノーモーション)からの始動。
縮地と呼ばれる剣術の歩技である。
そのゼロからに始動、リズム感の無い動きに、人は反射神経が使えない。
動くには、逆方向への反動が一般的な、また人間工学的な、理にかなった動きだ。
それが無い。
動きのコマが一つ欠けたような、脳味噌が理解不能にフリーズする。
見慣れれば瞬間移動的な動きだと、大ざっぱに反応できるようにはなる。
しかし、リズム感を重視するボクシングには、全く必要ない動きだった。
連撃で相手を倒し、また打たれないように動くことを重視するボクシングでは、まったく使えない動きだった。
単一的で連続性がなく、リズムが無いので連続して動きにくい。
だが、剣術においては違う。
一撃必殺の威力を持つ鋼の刃は、連続性など求めない。
一太刀浴びせるだけで、勝負は決まるのだ。
相手の命を奪えるのだ。
真剣同士の戦いでは、それはお互い様なのだ。
倒されないように動いて、倒す。
全弾回避は現実的ではない。
数発の被弾は織込み済みの、ボクシング。
殺されないように、殺す。
全弾回避は現実的ではない。
撃たれれば被弾の可能性は上がる。
なので、相手にはそもそも撃たせない、撃たせる間を与えない。
数発の被弾? 一発で終わりだ。
一太刀でも斬られれば、戦闘の継続は不可能だ。
完封勝利しか生き残れない、真剣剣術。
その違いだった。
正宗の身体が、生き生きと動いている。
静かな心のまま、身体が勝手に動いている。
刃合わせの震えや硬直など、全くない。
獣を鎖から解き放ったからだ。
今まで抑えつけていた自分を、自分の中にある何かを、いや自分自身の一部分である、それを解放する。
それだけで正宗は身震いした。
背筋に電流のように、高揚と恍惚が走る。
獣は、笑みを浮かべていた。
さあ、牙を鳴らせ。
爪を立てろ。
今こそ獲物を狩る時だ!!
勝負は一瞬で付いた。
正宗は鞘を包んだ袋ごと掴み、刀を抜いた。
乾きと飢えに耐えきれず、獲物に一瞬で早く食らいつくために、袋ごと鞘を投げ捨て走った。
刃を上に抜き身を真っ直ぐ前に向け、副主将へと突進した。
副主将は、正宗の縮地に戸惑う。
いつの間にか詰められていた。
パニックを起こしながらも、線で突っ込んでくる正宗を中心に見立て、回ろうとする。
相手の利き腕から遠い方、相手から見て左側、自分から見て右側に回ろうとする。
だがダメだ。
右側は直ぐに、建物の壁だった。
ここは袋小路だ。
リングのように相手を中心に旋回できるほど、横幅が無い。
それに気付かず、条件反射で回り込もうとした副主将の右肩が、コンクリートの壁に触れる。
自らを死地のロープ際に追い込んでしまう。
チッ。
失態を舌打ちに乗せ、吐き出す。
気持ちを切り替える。
どうせコブシに相手に震えていた剣だ。
何とでもなる。
何とでも。
そう侮っていた副主将の顔が、恐怖に歪む。
日本刀を抜いた女委員長の表情が、嬉々に満ちていたからだ。
コブシの時のように、青ざめていない。
むしろ嬉しくてたまらないように、口角を上げ歯をむき出しにしている。
全開に剥き出された列歯からは、今にも涎が垂れそうだった。
そこには何の躊躇いも、躊躇も、戸惑いも、迷いも無かった。
副主将は思わず、一歩下がってしまう。
だが下がれない。
背後は斜めの壁なのだ。
真っ直ぐには下がれず、壁に真紅のジャージの肩が擦れた。
逃げられない。
どうする?
落ち着け。
女にビビるなど有り得ない。
副主将は、そう自分を鼓舞した。
とにかく基本に戻る。
慌てる必要はない。
練習どおり基本に立ち返る。
俺は高校生王者で、四天の一人で、コブシの左腕(ボクシングには左を制するものは世界を征する、と言う格言があるため、あえて右腕でなく左腕の表現)だ。
女に遅れを取る訳が無い。
そう自分を落ち着かせる。
シュッと軽く息を吐く。
軽いステップで前後の足を入れ替える。
右足を前に、左足を引いて構える。
左手は折り畳んで顎先をガードする。
右手は肘の角度を直角に保って、根元の胸鎖間接から、だらりと下げる。
下げた拳を、感触を確かめるように、肩関節で左右に動かす。
利き腕でのフリッカージャブの装填を完了する。
自分の技で一番射程距離が長くて、一番速い拳打だ。
それで正宗の顔を数発殴る。
痛めた手の甲はバンテージをきつく巻くことで、補っている。
女の顔を殴るには十分だ。
数発も殴れば、泣いて謝るだろう。
鼻の軟骨が折れようが、前歯の二、三本が飛ぼうが知ったことか。
女が男に剣を向けるなど、懲らしめる必要がある。
副主将は、そう自分を取り戻した。
正宗が低い姿勢のまま突っ込んでくる。
元々身長差がある。
高低は問題ない。
フリッカーは、下から突き上げ気味に打つ拳打だ。
下から、顎先をしっかり捉える。
相手は、切っ先を真っ直ぐに突っ込んでくる。 変化の無さに、その猪突猛進ぶりに、副主将は鼻で笑った。
虚仮威しか。




