自慰
翌日から三日間ほど、正宗は寝込んだ。
高熱を出し、うなされた。
破傷風などが疑われはしたが、病原体検査では異常が見られなかった。
心的ショックによる発熱と診断され、解熱剤が処方された。
四日目には熱も治まり、上体を起こせるようにはなった。
寝込んでいる間も毎日美子は、お見舞いに来ていた。
寝汗でぐっしょり濡れた下着と肌着と寝間着を着替えさせ、全身を湿布で拭いた。
自分の生徒会会長業務、正宗の剣道部主将業務、風紀委員長業務、助太刀筆頭業務は、全て放棄した。
正確には、副会長、副長、副頭に生徒会長権限を行使し、正宗が回復するまで全権を委譲した。
職務放棄に意を唱える声もあるにはあったが、
「長に頼るだけの組織など、末期状態だ。破滅一歩手前である。先人からの叡智を引き継いだ私達には、組織を継続するだけでなく、さらに発展、発達させるだけの力がある。今なぜそれを使わないのか? 今回の長の不在は、神が与えた試練である。神はそれを乗り越えられる者にだけ、試練を与える。それに私達は応える義務と力を持っている。今こそ、その力を見せよ。各々の輝きで、組織と世界を照らし出す時だ!!」
との宣言で封殺した。
確かに、長に頼り切りだったのではないか?
長も同じ人間だ。
迷う時もあれば、選択を間違える事もあるし、疲れが溜まれば精度が低くなる。
笑いもすれば、泣きたくもなる。
そんな長の弱さを埋めるため、自分は副長、幹部に就任したのではないか?
その誓いを忘れ、いなくなった喪失感にオロオロするなど、言語道断。
恥を知れ。
恥を知った後は、勇気を持て。
力なき勇気は無力なり、勇気なき力も無力なり。
美子に心酔していた副会長は、副将、副長、その他幹部を、そう鼓舞した。
元々長の役目は、決断である。
有事の際でなければ、歴史のある学院活動だ。
前例はいくらでもある。
判断はそれに習えば良い。
それでも逆らう者には、副会長は心に鉄拳制裁を食らわせる。
長が不在など、千載一遇にチャンスだ。今下克上せずして何時するのか? 権力を奪うぐらいの気概と働きを見せてみろ。上に頼るだけの文句を言うだけの愚図として生きるか、拙くとも自分の力で選択して生きるか、今が決め時だ。
と心をぶん殴った。
長不在は決定は遅れたが、合議制が取られたことにより、情報の平等か均一化が図られた。
怪我の功名により、相互連携の絆が深まったのである。
正宗は二週間ほど入院した後、復学した。
不思議と事情聴取は行われなかった。
体制側に付く謀殺組織、中村の屋号が、それを行わせなかった。
代わりに、汚職の嫌疑がかかった議員の第一秘書の自決、インサイダー取引の嫌疑がかかった企業役員の失踪など、三件の処理と等価交換が成された。
正宗の休学の原因は、対外的には過労による貧血、ならびに検査の際に発覚した肺結核となってている。
そのための手筈は整えている。
と初めてのお友達が、正宗にそう答えるよう助言した。
何もかも、全てを知っているのか?
正宗はそう聞きたかったが、美子は曖昧な笑顔でそれを受け流した。
口を開こうとしても、それより先に唇を指先で塞がれた。
お帰りなさい、主将、委員長、筆頭。
副将、副委員長、副筆頭は、復帰した長を温かく迎えた。
不在と心配を詫び頭を下げた正宗に、幹部達は笑って答えた。
これからは長だけに任せません。長はただその席にどしっと座っていて下さい。
その宣言通り、正宗のやることは劇的に少なくなった。
今まで大小、精度など考慮せず、全てを上げていた案を、松竹梅の三つにランク分けし、出来るだけ削って長に報告。
全網羅の手間を省いた。
また業務においても、長の要否を切り分け、否に関しては、幹部以下で処理。
全業務の手間を省いた。
長は、それ未満でどうしようもなくなった時に、組織の存亡がかかった有事の際に、対外的な頂上会見、会談の場合のみに、必要とされた。
それ以外は、宣言通り、主席の座に座っているだけで良くなった。
だが、学院も一枚岩ではない。
「ねえねえ、知ってる? 塚原正宗の休んでた理由?」
「肺結核でしょ。嘘臭いよねえ。あの女が吐血してるところなんて見たことないし」
「でしょでしょ。これは噂なんだけど」
「何々」
「男に襲われたんだって」
「ええ、マジー!?」
「声が大きいよ。なんでも複数で襲われて、犯されて、妊娠させられて、堕胎したらしいよ」
「ええ、コワーイ」
どこで情報が漏れたのか、憶測なのか、人の不幸は密の味が、詳細不明を都合良く解釈していく。
玲瓏学院高等部には、秘密があった。
風紀委員の副委員長と、生徒会の副会長だけが墓場まで持って行く事を誓約に知る事実がある。
それは、自動言輪収集機械装置の存在である。
学院内のあらゆる会話は盗聴され、自動的に記録されている。
学院内に無数に設置された盗聴装置と、電脳部で使っている超高速演算装置が、それを可能にしている。
端末に、
塚原 正宗 入院 理由
などとキーワードを打ち込めば、それに関する会話が膨大な情報の中から取捨選択され、会話内容、会話数、何時、何処などが出力されるのだ。
盗聴。
長の汚れ役を一手に引き受ける副だからこそ、可能な所業だ。
電脳部の部長は、個人の音声データさえ確保してくれれば、これに誰が発言したのかさえ特定できると訴えが、これを副二人は却下した。
匿名性まで外してしまえば、電脳による完全な監視体制になる。
完全は、必ず行き過ぎた歪みを生む。
そんな独裁、弾圧、不平等、選民主義、排他主義などを防ぐために、副を好んでやっているのだ。
副二人は生徒会長にだけ、変な噂が流れていますよと、お伝えした。
エシュロンを知らない生徒会長は、察しの良さで直ぐに行動を開始した。
芸能科に働きかけ、人気絶頂との男性歌手に、サプライズ・コンサートを学院で開かせた。
男性は噂好きではない。
噂好きの女性さえ抑えれば良い。
不幸も好きだが、華やかさはそれ以上に大好物だ。
移り気な女性は、内容より鮮度にこだわる。
目新しい情報さえ与えれば、前の情報など直ぐ風化する。
会長の狙い通り、サプライズ・コンサートの余韻と、二ヶ月後に予告された次回のコンサートの話題で、変な噂など一瞬にして消え去った。
正宗自身も、平穏な日々を取り戻す。
あれは夢だったのだろうか?
周りも、病として扱ってくれている。
警察病院に運ばれたのも、貧血で倒れているのを発見され救急車で運ばれるも、受入先がそこしか空いていなかったからだ。
警察に事情聴取を受けなかったのも、事件性が無かったからだ。
返り血を浴びた服は、泥に汚れていたからと破棄され、身体もきれいさっぱり洗われていた。
刃についた血糊も、刃門がピカピカになるまで磨かれていた。
水たまりに濡れたため、目釘を抜いて全解体し天日干しのあと、磨いたとのことだ。
事実を証明するものは、何一つ無い。
記憶が都合良く変わる。
曖昧だ。
だが、あの日以来、正宗は真剣を握れなくなっていた。
正確には人を相手に向ける事ができなくなった。
手が震えてしまう。
身体が硬直し、切っ先が不規則に揺れてしまう。
あの日まで行えていた、刃合わせ(真剣と言う刃物に慣れるための、二人一組で真剣を持って行う稽古。実際に刃を合わせず、寸止めをゆっくり行う型稽古)が、出来なくなってしまった。
あの日も刃合わせの帰りだった。
手入れのため、自宅に持って帰ろうとしていたのだ。
巻き藁などの器物相手なら問題は無かったが、
人相手にはできなかった。
動いてもいないのに汗が流れ、息が乱れた。
日を置いて、何度試しても結果は同じだった。
試した日は必ず、眠れなかった。
目を閉じても、身体が火照って寝付けなかった。
不意に意識が深いところに沈んだとしても、あの日の光景がフラッシュバックした。
のしかかる暴漢、酒臭い息、嫌悪感と怖気が蘇る。
だが直ぐにそれは、潰した眼球、断ち切った肉と骨の感覚に変わる。
嫌悪が高揚に埋め尽くされる。
怖気が恍惚に凌駕される。
喘ぐ。
身悶える。
身を捩る。
どうしても眠れなくなった。
一度だけ、初めてのお友達に相談したことがある。
「身体が熱くて眠れないんだ」
「ウフフ、むねちゃんもお年頃ね」
笑いの意味は分からないが、電話向こうの親しい声に、正宗の力は抜けた。
脱力できた。
「そう言うときは、好きな人の事を想って触るのよ」
「触る? 何を?」
「本当は自分でするより、好きな人にしてもらいのが良いんだけど、むねちゃんならいきなりはショック死しそうだから、自分で予行演習しておくと安心ね」
「だから何を触るって?」
「あらら、むねちゃん天然? それとも言わせたい趣味?」
「いいから、何を触るっての?」
「うふふ。あそこよ、ア、ソ、コ」
「アソコって?」
「うふふ。アソコと言えば、アソコ。親指と親指の間よ」
正宗はその間を確かめるように、両手をヒラヒラさせる。
それを見透かしたように、美子は説明を継ぎ足した。
「うふふ。手の指じゃないよ。足の親指と足の親指の間よ」
正宗はその間を確かめるように、足首の回転で足裏をヒラヒラさせる。
足首につられ、膝が、股関節が開閉を繰り返す。
「うぷぷ。その中心にある身体の部分よ」
美子の最終ヒントに、正宗の顔が真っ赤に染まっていく。
アソコとは何か?
その正体にようやくたどり着く。
「バカ」
正宗は言うなり、携帯電話を切って放り投げる。
電話の向こうで、笑い転げる美子の姿が容易に想像できた。
初めてのお友達との話により、その日はそれからはぐっすり眠れた。
再度刃合わせを試しても、結果は同じだった。
今日も布団の居心地が悪くなった。
美子に電話しても、留守番電話に直ぐに切り替わった。
話す相手がいない。
気を紛らわせるには、何かが必要だった。
音楽? 映画? 正宗の部屋には映像機器も、音響機器も無かった。
壁と襖に閉ざされた、布団だけがある殺風景な部屋だった。
純粋な寝室である。
有史以来、剣術道場を営む塚原家は、敷地内に道場を構えているためか、平屋で長屋作りだ。
敷地は広いため、その部屋数は多い。
その一つを正宗は自室としている。
玄関の手前が着替えなどをする生活空間で、奥を何も置かない純粋な寝室として使っている。
目を開けて、天井のシミでも数えるか?
いやいや、視覚が神経の疲労の七割を占める。
眠れなくても、目を閉じて身体を横にしているだけで、疲れはある程度は取れる。
正宗は目を開けたい衝動を抑えた。
身を横に丸め、両手を太股で挟み込む。
またあの日が、あの出来事が、あの瞬間だけがフラッシュバックする。
暴漢の体重、口臭などは、もうおぼろげだ。
逆にはっきりしているのは、眼球と肉と骨の手応えだけだ。
思い出すだけで、息が荒くなる。
身体が火照る。
身体の芯から熱くなる。
苦しい。
何かが身体に詰まったような苦しさ。
吐き出せない苦しさが、正宗を襲う。
唇を噛んで、身を捩る。
初めてのお友達の言葉を思い出す。
そういう時は。
頭を振る。
理性で衝動を吹き飛ばす。
ダメだ、そんな破廉恥な真似は。
だが欲望が、手を伸ばす。
これは治療だ。親友の言葉は試す価値がある。
ゆっくりゆっくりと、正宗の手が、指先が自身へと伸びていく。
行き過ぎた指先が、膝頭に触れる。
忘れていた金的の薄い感触が蘇る。
身体がピクリと跳ねる。
その快楽に、正宗の手は正直に上がっていく。
太股に沿って上がり、下着の端に触れる。
ピクリが来ない。
快楽を求め、指先が下着の上をさまよう。
上から恥毛に触れる。
眼球の潰れた感触が蘇る。
ビクン、ビクン。
正宗の背筋が二回跳ねた。
電流にでも打たれたかのように、何かが走った。
初めての経験だった。
頭が真っ白になりそうな、浮いた感じがした。
浮遊感に怖くなる。
息が整うに時間がかかった。
だが逆にその怖さが、怖いもの見たさで後押し
してくる。
正宗の指が降りていく。
足の親指と親指の間にある、身体の中心部分。
そこに伸びていく。
軽く跳ねそうになるのを、正宗は空いた片手で敷き布団を掴んで耐える。
声が出そうになるのを、唇を噛んで抑える。
自分の意志とは裏腹に、指があそこを触ろうと伸びていく。
自分の中に自分ではない、自分では制御し切れない、何かが存在する。
正宗はこの時、これを痛感した。
指先がその何かのスイッチに触れる。
皮膚を破き、肉と神経の繊維を切り裂き、骨を割った感触。
熱い返り血の色と、鉄のような臭いと味。
正宗の身体が大きく、長く跳ねた。
頭が真っ白で埋め尽くされた。
身体が雲にでも乗ったように、ふわふわしている。
正宗はこの時、生まれて初めて自分で果てた。
その日は、死んだように深く眠れた。
再度刃合わせを行っても、結果はまた同じだった。
息が乱れ、身体も硬直する。
稽古にならない。
前回と同じだった。
だが一つだけ、今回で異なった事があった。
正宗は、硬直する理由を、そうなる正体を掴んだ。
先日の自分の中に自分以外の何かが、ヒントになった。
ただ硬直しているのではない。
葛藤で硬直しているのだ。
自分の中で、斬りたい衝動を理性が抑えているのだ。
無理矢理抑えているため、身体が硬直しているのだ。
自分の中の何か、それはあれを再現したい、また体験したい欲求だった。
急所を蹴り、眼球を潰し、腕を切断する。
人体破壊を行いたい、悪魔の欲望だった。
倶楽部で防具の上から竹刀を打っても、風紀委員で生身を竹刀で打っても、満足できなかった。
その乾きと飢えは、血と肉を求めていた。
真剣を振るえば、それは可能だ。
真剣を握ると、貪欲な獣が目覚めた。
人と相対しては、獣は涎を垂らした。
だから震えた、硬直した。
怖かった。
何時の日か、自分が食欲に負け、剣を振るってしまうことを恐れた。
正体が判明して以来、獣を抑えるために刃物合わせは行わなかった。
眠れない日は、掛け布団を噛みしめ耐えた。
なのに今日はどうだ?
コブシが、真剣を持った私に挑んで来た。
眠っていた獣が目覚めた。
あの男が、私でさえ我慢している骨割りを無数に行った。
獣が飢えに牙を慣らせた。
また同族の出現に遠吠えを上げた。
仲間の登場に、歓喜に震えていた。
あの男なら、こんな私を受け入れてくれるかも知れない。
そうしてまた獲物が、真剣を持った私に敵意を剥き出してくれている。
目の前でシャドーボクシングを始めた副主将に、正宗の口角がつり上がった。
端から涎が垂れそうなのを、正宗は精一杯の自制心で抑えた。




