地の龍
「先輩、もう少しだけ下です」
触り易いように、腰を浮かす。正宗の目は真剣だ。手の動く気配に、オウマは喉を鳴らす。いよいよ天国に旅立てる。自分がどうなってしまうのか? 制御不能の快感へ、いざ参る(レッツラ・ゴー)。
「お兄様、お待たせ致しました!!」
勢い良く保健室の扉が開いた。元気な声と陽気な笑顔が、室内に飛び込んでくる。庶務の説明を受けたユウヤだった。あの後、会計、書記から親衛隊一号と共に庶務の業務説明を受けていたのだ。
兄を心配する妹に対し、生徒会は兄専用を何度も言葉に出す作戦で、引き留めた。
兄専用だから、これは兄専用でしかできない、ユウヤさんだけが直接オウマさんだけから報告を受けるの。
その甘言?の度に、妹は顔を赤らめた。初めは内心苦笑していた会計と書記だったが、あまりのその頻度と深度に、これは本物だと戦慄。しかし最後辺りでは、繰り返される健気さに同調が始まり、心情的に応援したくなっていた。そもそもユウヤは、同性の女性にさえ羨まれる容姿と体型だ。羨望は自分の理想への自己投影である。外見への憧れは、未見の中身さえ引きずり込む。
美しいは罪深く、可愛いは大正義なのだ。
姫様、応援致します。
会計と書記は内心声を揃えていた。織田優弥親衛隊二号、三号が誕生していたのである。
生徒会執務室から、第一保健室は遠い。二階降りて、三区画進んで、三階上がる。その距離を走ってきたユウヤは、息一つ乱れず、汗一つかいていない。愛は無限の活力なのだ。
出入り口にユウヤは立っている。第三者の出現に、正宗は我に返る。自分の手がいつの間にか、殿方の下腹部に触れている。治療とはいえ、やりずきだ。一線を越えている。恥ずかしさに、その手を引く。手のひらがオウマから離れる。
あっ。
大切なものを何か失ったような喪失感に、オウマは襲われる。まだ間に合う。慌てて離れていく正宗の手を掴もうとする。
ドン!
ユウヤが、片足で床を叩いた。臍下丹田から地の龍脈に働きかける。契約済みの地龍が主の命に応える。地の龍脈が開き、龍が咆哮。物体の吸引力が流れる。ユウヤの足下から床を走り、オウマのベッドへと登る。
ビリビリビリビリビリ。
電流にオウマの動きが止められる。掴もうとした手は伸びず、正宗の手は離れてしまう。手どころか、正宗は素早い動きで、後方に飛び退いてしまう。
触っていた手を押さえ、愕然とした表情を浮かべている。
わ、私は、な、何て事を。
正宗は自分のしでかしたしまったことに、顔を青ざめている。始まりからおかしかった。気を失っている後輩の身体を、盗み触るなど。
正宗は猛省する。唇を噛む。だが、自責と自省の中に一点、触れた、触れられた幸せを感じてしまっている自分がいる。正宗は、自分を怖いと思った。得体の知れない何かが、もう一つ、自分の中にいる。
ちっきしょう。もう少し、後少しだったのに。
悔しげに血の涙を流すオウマ。入った時の二人の距離。完全に開けた上半身。ユウヤの顔から表情が消える。
「ユウヤ、ちょっと待て。これは違うんだ!!」
ユウヤの能面モードに、慌ててオウマが起き上がる。出入り口から下半身も少し見える。パンツとトランクスがズリ下げられている。際どい位置まで下がっていた。無表情のユウヤの顔が、絶対零度に凍り付く。冷静に対処する。
「正宗先輩、ごきげんよう」
正宗に振り向き、にこやかな笑顔を見せる。正宗は慌てて、乱れもしていない制服を正しながら、挨拶を返す。
「ゆ、優弥さん。ご、ごきげんよう」
丁寧に挨拶を交わす二人。その平穏なやり取りを見て、オウマは油断した。静かにトランクスとパンツを定位置に戻す。
ふー、何とか誤魔化せたか。第三者がいて、ホント良かったぜ。監視の中じゃ、ユウヤも乱暴な事はできないしな。にしても惜しかったな。普段は竹刀を握る手が、もう少しで。俺の竹刀も蜻蛉に構えて。俺の竹刀なら三段突きも可能でっせ。なんつって。
「優弥さん、庶務の説明は終わられたのかしら?」正宗は何かを誤魔化すべく、いつもより饒舌だった。
「はい、正宗大先輩。会計役のクリスティーナ先輩、書記役の聖良先輩のお二人に、ご説明をお受け致しました」
二人は仲良く世間話をしている。
シャツのボタンを止めながら、オウマは正宗の背中を見ていた。髪を上で縛っているので、うなじは丸見えだ。本人の視線も無い。見たい放題だ。うっひょー。
オウマは浮かれている。伸びた鼻の下が、正宗の肩越しに見える。ユウヤはゆっくり踵を上げた。
トン。
正宗が自分に完全に振り向いているのを確認し、ユウヤは静かに踵を鳴らす。オウマへの目線は切れている。誰も目撃者はいない。
お兄様の馬鹿ー!!
上位地龍を呼び出す。雷撃が地を失踪し、四方のベッドの脚を駆け上り、中心のオウマを爆心地と化す。
骨まで透けて見えそうな電撃に、オウマの全身が震える。背筋が波打ち、手足が、やかましくバタバタする。
オウマは、口から泡を噴き、鼻から血を流し、白目を剥く。荷電に、神経が麻痺し、粘膜が破れ、痛みに脳が断線したのだ。
起き上がっていた身体が、ゆっくりベッドに沈んでいく。その姿に満足し、ユウヤは正宗に焦点を戻す。世間話をしながら、正宗の右手を見る。
あの手が、お兄様に触れたのだろうか? お兄様に触れて良いのは私だけよ。いくら、お兄様が魅力的だろうと、それに触れようとする相手は敵よ。絶対に許さない。殺してやろうかしら?
踵をまた上げる。本気では無いにしても、こらしめてやりたい気持ちはあった。
そもそも事の発端は、この竹刀女が、お兄様に危害を加えたからだ。力試しだと一方的に宣言して攻撃するなど、辻斬りと何ら変わりはない。片側の都合による一方的な侵略だ。
目の前で、兄へ理不尽な暴力が与えられた。妹として、それを見過ごす訳にはいかない。
幸い生徒会役員には、風紀委員への判決、決定、命令の三権が与えられている。生徒を風紀委員が取り締まり、風紀委員を生徒会が取り締まる仕組みなのだ。本日昼十三時を持って、第百二十三代生徒会庶務としての任命を拝領頂いている。
つまり、ユウヤには正宗を裁く権利があった。風紀委員などお堅い業務好きは、法律、規定、規則、校則などが大好きだ。その相手の土俵で、相手を押し潰す。懲らしめるには最良の選択だった。
辻斬りの件を問い詰めよう。そう決めたユウヤの視線に何かが止まる。オウマに触れたであろう右手を、チラチラ見てしまっていた。それが怒りの原動力だったからだ。その落ちた視線の最下に、それが見えた。
みゅー。
龍眼と龍耳が、それを捉える。正宗の足下に、一匹の地龍が顕在化していた。まとわりつくように、鳴きながら、正宗の足下でクルクル回っている。
みゅーみゅー。
ユウヤが、一撃目で放った地龍だ。最低限に抑えた威力のため、それはとても小さく幼い地龍だった。
龍は基本的に静態を持たない。光などの瞬間的な流れでしか、その姿を現さない。
それが龍と呼ばれる一般的な想像体のまま、静態化している。小さな手のひらサイズの地龍が、正宗の足下で具現化している。まれな現象だ。地龍が懐いている証拠だ。かなり対象者は、地龍に愛されている。
ユウヤが契約した上位地龍から、下位の下位の、そのまた下位が適当に、未契約の子どもの地龍に上位下達したのだろう。それにしても、直ぐに還らず、具現化してまで居残るとは、よほど相性が良いのだろう。
みゅーみゅー。
ユウヤは詰問するのを止めた。興が冷めた。地龍は小さく可愛く鳴いている。微笑み、視線を戻す。
「会長の美子は、ああ見えて抜けている所もあるから、優弥さんは庶務として支えてあげてな」
沈黙が怖かったのか、正宗は饒舌のままだった。
「はい、正宗大先輩」
ユウヤは、大きな声で返事する。
みゅーみゅー。
幼龍は、正宗のスカートにでも乗りたいのか、ぴょんぴょん跳ねている。だが届かない。届きそうもなかった。
「あっ、正宗大先輩。スカートに塵が付いています。今、取りますね」
ユウヤは正宗に近づき、足下にしゃがみ込む。正宗は後輩の親切心に身を委ねている。気の付く後輩だ。これで美子も安心だな。
正宗は、他人から好意にはチョロかったのだ。ユウヤは右手でスカートの塵を取りフリをしながら、左手で、そっと幼龍に触れる。
もう、お帰り。
みゅー、みゅー、
手のひらの中で、幼龍は二鳴きして消えていった。元の世界に還ったのである。一鳴き目はユウヤを見て、二鳴き目には正宗を見ていた。ユウヤが立ち上がる。
「これで大丈夫です、正宗大先輩」
「ありがとう、優弥さん」
ユウヤは改めて、正宗を見た。どんだけ愛されとんねん!! とばかりに凝視してしまう。
「気の利く庶務で、美子も安心ね」
正宗は、内心ほっとしていた。オウマの話が全く出て来なかったからだ。何とか誤魔化せた。胸を撫で下ろしていた。
私立玲瓏学院高等部三年生、第一剣道部主将兼風紀委員会委員長、塚原正宗。
またの名を、玲瓏学院の藍色の雷、そう呼ばれる女剣士である。




