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肉弾×白兵×遠火×魔戦  作者: 夏目義弘
1/62

出会い、朝食

「ありがとうございました」

 背中に声を浴び、自動ドアを抜ける。元気な声に背中を押され、家路に着く。

 残念なお兄様マオウ・タル・ユエンこと織田皇眞オダ・オウマは身悶えする。

 声も可愛いなんて、最高。萌える。萌え萌え〜ん。

 脳内で「いらっしゃいませ」の笑顔を再生する。歯並びを崩した八重歯がチャーミングなスマイルだった。

 ふうー。危ねえ、危ねえ。危うくアイス買ったのに、からあげ棒頼みそうになったぜ。

 引っ越しの開封も落ち着いたので、たまたま買い出しに来たコンビニエンス・ストア。そこであんな可愛い子に会えるとは、ツイている。会計時に思わず見とれ、もうちょっと見ていたいために、危うくレジ前のホットフードを頼みそうになったぐらいだ。買い出しの品がアイスでなければ、確実に買っていた。それぐらいまだ見ていたかった。

 自宅近くにコンビニに可愛い店員さんがいる。

 それだけでオウマは、叫びたくなった。

 この街が大好きじゃー!! ラブ、ラブ、愛してる。

 この街に引っ越してきて一日も立たず、オウマはそう断言する。可愛い子がいるだけで、価値がある。可愛いは大正義、大勝利、最優先なのだ。

 あまりに見とれ、名札チェックさえ忘れてしまった。まあ良い。文字データに意味はない。容姿データが重要だ。年齢は同じぐらいか、化粧っ気もなかった。カレンダーを思い出す。今日は何曜日の今は何時か。コンビニのアルバイトはシフト制だ。

 時間は夜の十時を回っている。高校生はシフトではこの時間には入れない。労働基準法上十八歳未満の未成年は九時以降は働けないはず。例外でよくあるパターンは、親がコンビニを経営しているその手伝いだ。親孝行娘なら、さらに萌える。明日から毎日この時間に通おう。この切っ掛け(チャンス)は逃さない。女神の前髪を掴む野心が萌える、いや燃え上がる。

 何てイイ街なんだ。引っ越してきて良かった。

 上機嫌の勢いでアイスを取り出す。コンビニ袋、包装からソーダの塊を、頭上に掲げた後、付いた棒で引き出す。袋の摩擦に削れた氷が首筋にかかる。微少な冷たさが首を跳ねる。

 うひょ〜冷てえー!!

 そのままアイスを一かじり。零度以下の温度に唇が麻痺し、頭が締め付けられる。キーンとした衝撃に顔をクシャクシャにしかめる。顔面の筋肉の収縮に、テンションが上がる。

 女の子カワカワ、アイス美味美味うまうま、この街サイコーでーす。

 ウキウキした足取りで家路を歩く。交差点を曲がり、高架下に入る。頭上を新幹線がシュゴーっと通り過ぎる。確かここから信号を二つほど越して左折だったような。引っ越したばかりの新居までは十五分ぐらいだったような。コンビニを探して歩いていたので、正確な時間は覚えていない。感覚的には三十分はかからず、十分以内ではなかった。間を取って二十分か。今日は天気の良い引っ越し日よりで、夜風もなく寒くない。アイスを食べながら歩いて丁度ぐらいだ。

 オウマは歩道を歩いている。その横の車道を車が通り過ぎる。先の信号前で、赤いテールランプが光り、車が歩道に寄る。街灯にスポーツカーのシルエットが浮かび上がり、赤く鈍く光る。停止した車の助手席のドアが開き、人影が飛び出してくる。

「もういい加減にして!!」

 怒りの声をぶつけるように、ドアを勢いよく閉める。怒気を発した女は、車に背中を向け歩き出す。街灯一つない田舎の星空の夜道。そこで鍛えられたオウマの夜目が、こちらに向かってくるようにハイヒールを鳴らし出した女を捉える。

「ちょっと待てよ」

 女を追って、今度は運転席から男が飛び出てくる。慌てたのか、急いだのか、車のエンジンはかけたまま、ドアも閉めず女を追ってくる。声の調子には女以上に怒気が籠もっていた。慌てたのでも急いだのでもない。激情に頭に血が昇っているようだった。ツカツカ歩く女を、男は素早く捕まえる。その腕を掴む。

「待てよ」

「放してよ」

「話は終わってねえよ」

 女は振り向きざま、ビンタを放つ。それを男は易々と片手で受け止める。女の腕は掴んだままだ。

「いいから大人しく付いて来いよ」

「放してよ。自分で帰れるから」

 女と男が睨み合う。オウマの目の前で女と男が痴話喧嘩を始める。オウマはアイスを一つかじり、女の後ろ姿を観察する。ヒールの長さの足下から、ウェーブの軽くかかった頭の天辺のトップまで、通常以上の視力が女の背面を捉える。

 肩胛骨下までの長い髪に、子宮上のくびれた腰回り(ウエスト)。ハイヒールなど必要ないくらいの長い脚に、キュッと引き締まったお尻は上を向いている。パーティー帰りか、ボディラインを強調したぴっちりサイズのノースリーブドレスに、肩にストールを羽織っている。肩幅の小ささから胸の大きさは期待できないが、腰とお尻と脚は絶品だ。長い髪の緩やかな曲線も、女性特有の柔らかさを強調してイイ。

 後ろ姿美人は確定。後背位は最高。それだけでオウマには十分だった。残ったアイスを一気にかじり、慌てて食べ尽くす。首に落ちたソーダの欠片を気にしている場合ではない。

 もめ事に巻き込まれる危険性よりも、後ろ姿美人に関われる縁とゆかりを優先。アイスの棒を加くわえながらオウマは器用に喋った。

「やめなよ。彼女が嫌がっているじゃないか」

 止めていた足を運ぶ。女と男に近づいていく。

 声をかけられた事に、まず女がオウマに振り向き、男がオウマを視界に捉える。認識されたところで、近くに近寄りながら、もう一度痴話喧嘩に割って入る。

「やめなよ。彼女が嫌がっているじゃないか」

 どこからともなく漂う香りがオウマの鼻をつく。鼻の穴を広げながらオウマは一人ごちる。

 匂いも最高。こちらに驚いた顔も綺麗。美人さんじゃあ、ありがたや、ありがたや。

「あ(あに濁点)ー、てめえには関係ねえだろうが」

 男がオウマに向かって凄む。怒気にオウマの顔肌がヒリつく。暴力的な風が顔面を打つ。

 だがそれでも、良い匂いに釣られたオウマの足取りは止まらない。女と男にどんどん近付いていく。

 オウマに男の気が取られた隙に、女は捕まれた腕をふりほどく。そのままオウマの背中へと回る。

「助けてくれるの?」

 回った際に女の小声が耳に届いた。背中は白魚のような手の指先が触れている。その弾力に、オウマはこのまま盾に突き飛ばされても本望である。と心底思った。

「邪魔すんな、どけよ」

 言うなり、いや言い終えるより早く、男は顔面パンチを放ってきた。

 うひょー、すげえ。

 その男の躊躇のなさと思い切りの良さに、オウマは内心ワクワクしながら、その右ストレートをかい潜った。左ジャブでの隠し(ブラインド)も無しの、遠くからになる逆突き。動作も大きくなり、見切りやすい予備動作がテレフォン・アクション(予備動作または動作自体が大きすぎるため、相手に予知・予見されやすい動作のこと。相手からみれば電話の予告ベルのように先読みできるので、それを揶揄しテレフォンと呼ばれている)だ。ダッキングするのは容易かった。

 男のパンチの切れがオウマの頭頂の髪を二、三本ちぎり飛ばす。オウマは男の懐に飛び込んだ。攻撃するつもりはない。アイスを食ったばかりで、ぶっ飛ばす気にもなれない。そこまで憎くなれない。なので顔面を相手に近づける。オウマと男の鼻先が触れそうになる。男性同士の顔面が超接近し、零距離に近づく。

 そんな趣味のない男は、思わず顔を引いてしまう。上体ごと嫌悪感に仰け反らせてしまう。

 オウマは男の突き出た胸に左手で触れる。手のひらをべたりと密着させる。そこからは簡単だった。

 男は距離を取ろうと動く。それに合わせてオウマも動く。二人の距離は変わらなかった。

 なんだ、コイツは?

 距離が取れない。スペースが空けられない。自分の間合いに入れない。前にも後ろに左にも右にも付いてくる。ならばフェイントだ。

 左に行くと見せかけて右。右に行くと見せかけて後ろ。右の二段、前後ろ前、右見せかけ左右二段。すべて付いてくる。男の華麗とも言えるステップワークに。、オウマは癒着したかのように付随する。

 中国武術チャイニーズ・カンフーにおける武技アーツの一つ、聴勁(耳をすませばの英語名)である。

 相手に触れることで、そこから気配を察知し、先を取る。予知・予見系の武技である。

 男の動きをまるで先取りしたかのようにオウマは動き、二人の距離を一定に保っている。触れる距離は男の有効射程距離ではないようだった。フットワークのスピードを上げて、オウマを振り切ろうとする。だが振り切れない。自分の意志でも読み取っているのか、脳のシナプスの微弱な電流を受信でもしているのか、一向に引き離す気配が出て来なかった。男は元々の気性からか、業を煮やした。足首の結びの甘い革靴ゆえか、自己ベスト以上の無理な速度でのスピードゆえか、機動中にバランスを崩してしまう。上体が傾き、背骨が崩れ、片足に体重が寄っている。オウマは触れていた手で男の胸をポンと軽く押した。それだけで、男は後ろに尻餅をついてしまった。

 男は自分に何が起こっているのか、分からなかった。自分がアスファルトに座り込んで、アイスの棒?を加えた乱入者を見上げている。スリップダウンさせられた? 理解と同時、腸が煮えくり返る。M字開脚のような、尻タップのような無様な自分の姿。醜態に羞恥を飛び越え、怒りが突き抜ける。自分をこんな無様な目に遭わせたの誰だ?

 そう、目の前のコイツだ。それだけで男には十分だった。コロす、コロす、コロす。

 血走った目で立ち上がる。破壊衝動が男の能力を飛躍的に向上させる。

「こらソコ! 何やっとるか!!」

 赤いランプが男とオウマと女の顔を打つ。車道の奥から赤いパトランプを回しながら、一台の車が近付いてくる。さっきの声は拡声器からのかすれた声。警邏中にパトカーだった。

 男はオウマを睨みつけ、車の屋根を転がり向いの運転席へとたどり着く。もう一度だけ、車の左側面の窓から、オウマの顔を確認にした後、エンジンをかけたままの車を急発信させる。信号は幸いにも青だった。マフラーからスポーツカー特有の唸る爆音をまき散らしながら、数秒で視界から消えていく。男は終始無言だった。捨て台詞など吐かない。ただオウマの顔を凝視し、その脳裏に焼き付けた。次に会ったときは、すり潰す。潰して捨てる。それだけをハンドルを握りながら、誓う。

「えー、そこの二人、止まってなさい」

 パトカーは急加速しなかった。スポーツカーを追うのを残念したか、車を減速させながら、オウマと女に近付いてくる。

 引っ越し初日から警察の厄介はマズい。アイツにすり潰される。

 ここにきて初めて、オウマの顔を歪む。女を見る。女は観念でもしたのか、腹でも座っているのか、警察にも慣れているのか、乱れた髪を手ぐしで直している。逃げるそぶりは無い。そもそもあのハイヒールの長さでは走れない。美脚観賞用の装飾靴でしかない。その判断は賢明だった。だがオウマには逃げる必要があった。アイツにすり潰されて今度こそ、捨てられる。警察からの連絡を受け、身元引受人として警察署に迎えにくる姿がありありと想像できる。その後の惨劇もしかり。 逃げるしかない。この場は即時撤退だ。

 決断するなり、オウマの動きは早かった。女の膝に手を入れ、持ち上げる。女の上体が横に流れるのを脇に手を入れ支える。バランスを失った女は思わず、しがみつく。両手を回し、オウマの首をホールドする。強制お姫様だっこが一瞬で出来上がる。

「逃げるぞ」

 女の返答を待たず、オウマは走り出す。左右を確認しながら、赤信号を無視する。幸い、車はいなかった。

「こら、待ちなさい」

 その声を背に浴びながら、路地へと入る。パトカーの追いかけてくる気配があった。路地から路地を抜ける。少なくとも車一台が通れるかの路地を走る。相手がスーパーカブでなくて良かった。路地の逃走劇でアイツ等は無敵のハンターだ。逃げ切れない。今日の幸運に感謝する。

 一体どれくらい走ったのだろうか、気が付けば小さな公園にいた。見上げると横に引っ越してきたマンションも見える。パトカーの気配も無い。

 良かった。助かった。

 安心するとどっと疲れが出てきた。息も切れる。汗が噴き出しそうだ。

「もう大丈夫よ。安心して」

 腕の中で女が囁く。降ろそうとした途端、女の制止が入る。

「待って。貴方勇敢ね」

 女は回した腕に力を入れ、顔を近づける。

「助けてくれて、ありがとう」

 オウマの首筋に青く溶けたソーダの跡に、唇を触れる。それだけでオウマの背筋に電流が走った。女の瞳が怪しく濡れる。

「惚れちゃいそうだわ」

 ソーダ跡を唇の間から舌を出し、ぺろりと舐める。それだけでオウマの背骨に雷撃が走った。ソーダの炭酸と甘みと汗のしょっぱさと体温の生ぬるさが、女に肉感的喜びを与える。

 女はオウマが加えていたアイスの棒を奪い取る。頬を近づけ、自分の頬をオウマにマーキングするように擦り付ける。ほおずりする。それだけで、オウマの全身全霊に神の雷が落ちた。

 我知らず、お姫様だっこの形のまま、女をマンションに案内していた。


 翌朝。 

 じゅー。

 フライパンの上で、卵の白身が油に震える。白い身の名のとおり、透明度を失いながら、白く染まっていく。

 なんで人は戦争なんかするのだろう? こんなにも世界は平穏で美しいと言うのに。

 黄身がじわじわと焼けていく。その増していく黄色さえ、今のオウマには輝いて見えていた。

 人類には戦う理由も、争う訳も全く無い。ただ生きてさえいればいいのに。

 じゅー。

 フライパンを握りながら、オウマはただ目玉焼きを見つめていた。

 オウマの肩に不意に女の顔が乗ってくる。白魚だ。

「ダメよ、ダーメ。私、半熟が好きなの」

 背中に弾力ある感触がボインと伝わってくる。後ろから回された手が、コンロの火を止める。両面焼き(ターンオーバー)に裏返そうとフライ返しを持った手を、逆の手が包み込んで止める。細長い指が冷たくて気持ちいい。

 ちゅ。

 オウマの首筋に昨夜のように電流が走る。脊髄を通ったそれが、身体を強張らせる。後ろから抱きついたシャツ一枚の女が、唇で触れたのだ。

 嬉しさにゾワゾワしながら、オウマは顔だけを振り返らせる。下半身がムクムクしてきた。世界平和などどうでも良くなった。

 自分に振り向いたオウマの唇に、女は目を細めた。瞳を濡らし薄く口角を上げた。

 女は昨夜なりゆきで、オウマの部屋に泊まった。昨晩はお楽しみでしたな、かどうかは神のみぞ知る。

 トランクス一丁にエプロン姿のオウマと、オウマのシャツをルーズにまとった女が見つめ合う。女も下はショーツ一枚だった。上はノーブラでないと眠れないとのことだった。

 オウマが顔を寄せる。その唇を女は人差し指で押し止める。

「ダーメ、ダメよ。一度眠ったぐらいで、いい気にならないで」

 言葉こそ拒絶だが、女はオウマの唇に触れた指先を自分のそれに重ねる。

 その駆け引き、じらしにオウマの背骨に雷撃が走る。

 女の胸元もルーズで、身長差のあるオウマからのその谷間はもちろん、それ以上も覗けそうだ。思わず、生唾を飲み込んでしまう。肌の輝きに目を釘付けにされてしまう。

「ダメよ、ダメダメ。一回同衾したからって、あなたのモノにはならないから」

 オウマの全身全霊に神の雷が落ちる。そのガードを真正面から突き破りたくなってきた。ムッハー、興奮してきた。もう我慢できない!!

 体を向かせ、女の両肩を掴もうとした、その時、背後から乱暴な声が届く。ダイニングルームにどかどかと不躾な乱入者が土足で上がり込んで来る。


「ちょっと、お兄ちゃん。シャワー浴びるなら、温度設定戻しといてよ。四十七度って何よ。妹を蒸し殺す気!?」

 ダイニングキッチンに、オウマの妹が乱暴に入ってくる。最強のユウシャ・タル・ユエンこと織田優弥オダ・ユウヤである。

 ユウヤは頭をわしわしバスタオルで拭きながら、二人の世界に乱入してきた。二人の世界と時間は終わった。ガッデム。下半身のムクムクも肉親の登場にキレイに消え去っている。女もいつの間にか離れている。チャンスの前髪は手からこぼれ落ちた。あーあ。やる気しねえ。こんな世界滅びてしまえ。

 女はユウヤに顔を向けている。

「あらら、妹さん? おはよう」

 聞き覚えのない声に顔を上げたユウヤと、女の目が合う。

「あっ」

 お察しタイム。パパッと髪をバスタオルでまとめあげ、ピンと背筋を伸ばして顎を引く。バスローブ代わりのタオル地のワンピースの裾を掴んで、しなを作る。

「ごきげんよう。お兄様のご学友の方ですか?」

 ユウヤは得意の外面モードを発動させた。フライパンから卵焼きを皿に移しながら、兄は突っ込む。

「もう遅せえよ。手遅れだ、諦めな」

 パンツ一丁にエプロン姿の兄は、オーブンからパンを取り出し、冷蔵庫のミルクを注ぐ。コーヒーメーカーはまだダンボールの中だ。女と妹に席を勧めた後、自分も席に着く。

「いただきます」パンツエプロンのオウマが手を合わせ、

「いただきます」ターバンタオル+タオル時ワンピースのユウヤが続いて手を合わせ、

「頂きます」ショーツシャツ一枚の女が、最後に手を合わせた。

 朝食を始める。三人は噛んで、千切って、噛り付いて、切って、箸で割って、喉を鳴らして、一口含んで、飲んで栄養を摂る。黙々とエネルギーを蓄えていく。それぞれがそれぞれの思惑を内心に呟きながら。

 この女、名前なんつったかな。エリカ? エリナ? エナ? 頭にエが付いてたのは確かなんだがな。うーん。思い出せねえ。そもそも聞いたかな。痛っ!!

 兄の隣に座る女を見て、妹は足が偶然当たった体で、テーブルの下で思いっきり、兄の脛を蹴り付けた。足指をキレイに折り曲げ、拳を作って打撃した。表情はにこやかなままで。

 油断した。引っ越しで疲れて早くに寝たのが失敗だった。まさか引っ越し初日に女性を連れ込むとは夢にも思わなかった。自分のうかつさに腹が立つ。そう、こいつは残念なお兄様だ。その名の恥じない残念な奴なのだ。それをすっかり忘れていた。言い訳だが、引っ越しの理由はコイツなのだ。流石に懲りて自重していると思っていたが、それは勝手な思い込み、希望的観測だった。自分の思慮の無さに、にこやかな笑みのまま、奥歯をギリギリ噛みしめる。

 なんなのよ、この女は。引越し当日からどうやったら新居に、連れ込めんのよ。着てるのも今日のためにアイロン当てたお兄ちゃんのシャツだし。どうして引っ越さなきゃならなくなったのか? 全然コリてないじゃないの!!

 妹の重い蹴りに、兄は表情で答える。長年暮らしてきた間柄だ。言葉にせずとも、表情だけで意心伝心が、この兄妹には可能だった。

 あれは、そもそもお前のストーカーが問題で。

 お客様の前だ。妹は口元の笑みは絶やさないまま、蹴りと目の色で兄に言葉を返す。

 ストーカーを撃退するのに、なんでそのお母さんと仲良くなってんのよ。はあ? ストーカーをワタシの義理の甥にしたいワケ?

 男女の仲なんて、たまたまだって。お前も大人になったら分かるよ。

 年子のくせに何言ってんだか。五年生まではワタシの方が大きかったんだから。

 悪いが今は、それから四年後だ。

 ゲシ! ゲシ! ゲシ!

 痛っ! 痛っ! 痛っ!

 テーブルの下で、白鳥の水面よろしく妹の蹴りが兄に炸裂している。テーブルの上の優雅な世界の女が、パンを手でちぎり、一口分を口に入れる。

 口の中に広がる柔らかさと、鼻に抜ける小麦の香り。思わず言葉が漏れる。

「あらら、このパン美味しい。どこで売っているのかしら?」

 顔に手を当て美味しさに震えるお客様に対し、

兄は嬉しそうに答える。作ったのは自分ではないが、作った本人を知っているだけに、自分のことのように顔をほころばせた。

「仲の良かった友達のお母さんが、餞別にもたせてくれたモノだから非売品なんだ。余っているから、少し分けてあげようか?」

 オウマの申し出に女は白魚の手をかざして見せる。

「遠慮しておくわ。美味しいけど、そんな大切なパンなら貴方が食べるべきよ」

 兄と女が見つめ合う。二人の爽やかな温かい空間を横目に、妹はコーヒーを飲んでいた。

 仲の良かった友達のお母さん? 正しくは、仲の良かった友達であるお母さんが正解ね。日本語って言いえて妙。

 三人は朝食を食べ終える。一番先に食べ終えたのは以外にも女だった。手を合わせ、命に感謝する。

「ごちそうさま。美味しかったわ」

  白く細い指先が、ガラス瓶に立て入れさせれていたナプキンを一枚挟んで取る。

 口を吹いた後、キレイに畳んで皿に置いて立ち上がる。

「そろそろ行くわね。楽しかったわ。ありがとう」

 遅れて食べ終わったオウマが、女の皿に手を伸ばし、合わせて立ち上がる。

「オレもだよ」

女はそこであることに気付く。軽く笑って指摘する。

「ジャムが付いてるわ。子どもみたいね」

 自分の皿も持ったオウマの両手は塞がっている。女が指を伸ばす。

 オウマの口元についたジャムを、女は指先でなぞり取る。女はオウマを見ずに、優弥をチラリと見て、それを口に咥える。

 貴方のお兄様は私が獲った。

 女同士の敵対心がチラ見する。

 あえてユウヤはそれを無視した。気付かないフリをした。コーヒーの残りを一気にあおる。

 女はダイニングから廊下へと消える。おそらく着替えにオウマの自室に戻ったのだろう。

 果たして昨夜オウマの自室で何が起こったのだろうか? 引っ越しの開封やら、最低限の生活必需品の買い出しやら、明日の入学式の準備やら何やらで、疲れて早めに眠ってしまったのが悪かったのか? いや違う。すべて兄貴が悪い。

 オウマは三人分の食器を片づけ、洗い物をしている。今までは交代制だったが、引っ越しする羽目になった罰として向こう半年間は、炊事、洗濯、掃除などの家事はオウマの担当となっていた。

 パンツ一枚にエプロン姿で、鼻歌交じりに洗い物をする兄をどうしてやろうか? その機嫌の良さが怒りの火に油を注ぐ。

 気が付いたら蹴っていた。背後からユウヤの肺キックがオウマを襲う。左足が弧を描いて、オウマの顔面へと襲いかかる。

 オウマはお皿をすすぎながら、左肩をひょいと上げる。空気を切り裂く鋭い蹴りを、ノールックで肩をすくめて、そこの筋肉でブロックする。

 バイ〜ン。

 ゴムのような弾力のある筋肉が、鋭いハイキックを難なく跳ね返す。オウマは、何事も無かったかのように、すすいだお皿を水切り籠に収めていく。

 双龍脚。

 跳ね返された反動を利用して、逆のハイキックにつなげる。左右の二連続上段回し蹴り。二匹の龍がほぼ同時に襲いかかる瞬発スピード系の蹴技キック・アーツだ。

「ピイロロローン、ピイロロローン、ピイロロピロオピロロリン。ピイロロローン、ピイロロローン、ピイロロピロオピロロリン。洗濯が終わりました。洗濯が終わりました」

 遠くから電子音と電子音声が聞こえてくる。バスルームの洗濯機の終了音だ。

 オウマは二匹目の龍をしゃかんで交わす。皿洗いは終わった。次は洗濯干しだ。そのままバスルームへと向かう。

 ユウヤはその背中にサイドキックを放とうとする。それをオウマは背中を向けたまま言葉で制する。

「おいおい、ユウヤ。風呂上がりで足を大股に広げるなよ。はしたねえし、具が見えてんぞ」

 その指摘にユウヤは蹴りを引っ込める。下着をつけていないことを忘れていた。素早くワンピースの裾を押さえるも、恥ずかしさに顔が真っ赤に染まっていく。

「お兄、見たの?」

 頬を赤く染めながら、潤んだ瞳でオウマを見上げる。目に涙が浮かび始めている。

 オウマは顔だけを振り向かせる。手をヒラヒラさせながら答える。

「うん、見た見た。小学校三年生まではバッチシ見てた。お前も俺の、見てたろ?」

 ユウヤは思い出し、さらに顔を赤さを増していく。その言葉通り、兄妹は小学校三年生までは一緒にお風呂に入っていた。性の差異を知らなかった頃だ。お互いの股間の違いが不思議で、お互いに観察したことがある。よく分からないまま、お医者さんゴッコもしたことがある。

 思春期の妹にその過去話は少々恥ずかしかった。性の差異を意識しすぎてしまう年頃なのだ。

 羞恥に沈黙してしまった妹に、兄は助け船を出す。

「お前も早く用意しねえと遅刻すんぞ。俺は洗濯物を干すから、悪いがそこの皿片しといてくれねえか? 頼むよ、なっ。この通り」

 オウマは体を振り向かせ、両手を合わせて頭を下げる。口角の上がった口元には白い歯とえくぼが浮かべ、片目は閉じられ、片目は上目遣いでユウヤを捉えている。

 ユウヤはこの兄の甘えた笑顔が大好きだった。パグ犬の首の皺皺感のように、クシャクシャなまでに顔を歪めた顔が大好物だった。胸がキュンキュンしてしまう。

「そ、そこまで言うなら、べ、別にいいけど。ホ、ホントは兄貴の仕事なんだからね」

 高まった胸の鼓動を抑える妹に、兄はとどめを刺す。

「良かったあ、ありがとう。ユウヤ愛してるぜ」

 兄は拳を握ったガッツポーズを取り、破顔する。

 その屈託のない、無邪気な笑みに、ユウヤの胸はバクバクしてしまう。

「それじゃ頼んだぜ」

 兄はそう言うなり、廊下へと消えていった。廊下とダイニングの間の扉が閉まる。

 ユウヤ愛してるぜ、愛してるぜ、愛してるぜ。

 愛の告白がリフレインする。人目がなくなったところで、妹は遠慮なく身悶える。リフレインしながら、両手を熱くなった頬に当て、身体を左右に揺らす。

 どうしましょう? どうしましょう? どうしましょう? そんな、まだ、心の準備が。

 目も口も嬉しそうだ。性に敏感なお年頃は、それ以上を想像し、耳まで真っ赤に染めてしまう。

 やーん、やーん、やーん。あんなことや、こんなことや、あんなこと。ダメだよ、兄貴。私達まだ高校生なんだよ。デュヘヘ。

 涎を垂らす自分に気付いたユウヤは、ワンピースの胸元でそれを拭う。そうだ、妄想に浸っている時間は無い。早く用意しないと。

 まずは食器の片づけだ。カウンターキッチンの上に重ねられた食器が目に入る

 食器棚は、カウンターキッチンの先の壁際に接地してある。乾拭きされたそれを、素早く片付けていく。

 ふと兄の使ったマグカップが目に入る。

 昨日買い出しで二人で選んだお揃いの品だ。白い陶器に、草花の装飾が入っている。自分のは大きさも丁度で可愛く、兄のは自分のより二周りも大きいのでゴツゴツしたフォルムが可愛い。

 サイズは兄が直ぐに気に入った。北欧からの輸入物らしく、値段もそれなりなので、そこからが楽しかった。

 デザインが多かったので、こっちはここの絵柄が小さすぎ、こっちは色が薄すぎるなど、二人であーだこーだ言いながら選んだ品だ。

 兄は色々言っていたが、最終的には私に決めさせてくれた。

(もう何でもいい。疲れた。早く帰りたい)

 会計の時に、少し離れて私は小物を見ていた。店員さんが兄に小声で、

「可愛い彼女さんですね。お幸せに」

と囁いていた。兄の背中ははにかんだ表情を見せていた。

(違げーし、妹だし。早く帰りたいので、ここは曖昧な表情でやり過ごす。会話は膨らまさない。でも、この店員さん、八重歯が可愛いなあ)

 兄のマグカップを最後に手に取る。他の食器は片付け終わっている。前後左右と手で弄ぶ。自分の思い付きに、ユウヤは慌てて否定する。

 ダメよ、いけないわ。そんなこと。変態的じゃないの。

 マグカップの淵に喉を慣らす。生唾をゴクリと飲み込んでしまう。この乾きは触れることでしか満たされそうになかった。

 でも、ちょっとだけ。店員さんもお幸せにって言ってくれたし、兄も否定しなかったし。そう、スキンシップ。スキンシップよ、これは。決して変態的な行為じゃないわ。

 兄のマグカップを妹は口に近付けていく。兄は両手利きなのか、その日の気分次第で左右どちらの手でコップを握るのか決める。今日は左手だった。マグカップを左に向ける。

 兄の唇が触れたところ。

 妹にはそこが輝いて見えた。ゆっくりゆっくりと自分の唇に近付けていく。

 いけない行為をしているような。それが背徳感と言う感情であることを知るには、まだまだユウヤは幼かった。

「おっ、帰るのか?」

 ドア向こうから兄の声が聞こえてくる。ユウヤは慌ててマグカップを食器棚に納める。何事もなかったかのように、素早く食器棚から離れ、テーブルに思わず座っていた。

 恥ずかしさによる奇行だった。ちょこんと椅子に腰掛けた妹の耳に、話し声が聞こえてくる。

「楽しかったわ、ありがとう」

 チュ。

 ・・・。   

「ダーメ。車がもう来てるの」

「玄関まで送っていくよ」

「うふふ、その格好で」

 靴を履く音。

「じゃあね、バイバイ」

「ああ」

「連絡先を聞かないのね。私、そういう一度寝た女とは寝ない男、好きよ」

 チュ。

 ・・・。

 バタン。扉が閉まる音。

 グギギギギ。奥歯が唸る。コロす。コロす。コロす。

「ユウヤ、洗濯物干すのも手伝ってくれ」

 見送りを終えたオウマが、洗濯籠を両手で持ちながら、ダイニングルームに入ってくる。

 ユウヤは椅子から立ち上がるなり、対面のベランダへと続く窓をロープ代わりに跳ね返って助走をつける。

「お兄ちゃんの、バカー!!」

 宙を飛んだ妹の高高度のドロップキックが、ミサイルよろしく兄の胸元に炸裂する。

 兄は派手に吹き飛び、廊下を転がって、玄関の扉へとブチ当たる。背中と後頭部を強かに打ち付け、そのまま崩れ落ちる。

 妹はその場に残った洗濯籠を手に取る。ベランダへと向かい、洗濯物干しを開始する。

 お兄ちゃんの、バカ馬鹿ばか。

 兄のトランクスをパンパンと伸ばして、干し台の棒に引っかけていく。

 なんのかんので手伝ってしまう、兄思いの妹であった。

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