包み込むように
この小説は完全なフィクションです
今年初めてで、とても大きな台風が沖縄に上陸したというニュースをベランダで聞きながら、空を見ていた。
東京まではまだ影響がないようで、レモンの形にかけた月が、ぽっかりと浮かんでいる。
(やっちゃん、元気かなぁ)
十五年も前の彼氏。六歳年上で、私をからかう事を趣味にしているいじめっ子。オランダに住む事になった時も、
「ついてくる?」
と、からかうように聞いた。いつも色の濃いサングラスをかけていたから、目の表情はわからなかった。まだ二十歳になったばかりの私は、なるべく明るく笑って首を横に振った。
「そっかぁ」
やっちゃんも笑った。
それが最後になった。
藤井さんは不思議な人だった。友達がママをやってるスナックで知り合った。
多分少し年上。建設関係の会社をやっている。いつも一人で、そしてほぼ毎日のように飲んでいる。
べらぼう口調で口が悪く、酔っ払うと突然怒ったりしているみたいで、店の女の子からは煙たがられているが、私は結構好きだった。
話の筋は通っていると思う。共通点は一人で飲みに来る事くらいだったけれど、どこか同じ匂いを感じる。
仕事やけした肌。
話をするときに、まっすぐ見つめる目。
清潔感のある服装。
好感が持てる。
それに私もただの客だから彼の機嫌をとる必要はない。気楽な関係だ。
いつものように仕事帰り、スナックによったら、店の前で藤井さんが立ち尽くしていた。
「どうも」声をかけると、ドアを指差して言った。
「臨時休業、だって」
「へぇ、珍しい」
「……どっか、飲みにいく?」
それから時々一緒に飲むようになった。
一応電話番号は交換したが、たいていはスナックの前で偶然落ち合った。実は友達であるママの親が体調を崩していて、ちょくちょく店を休むようになっていた。
いつも藤井さんはちょっとすねたように口を尖らせ、顎を少し上げて、臨時休業の貼紙を見つめていた。
(この人、何時からこうしてるのかなぁ……)俺様な態度とのギャップがかわいらしく思えた。
一緒にいったのはいつも決まって近所の居酒屋。窓からは月が見えるようになっていて、結構お洒落なのに、いつも空いている。お互い、ほとんどつまみも頼まず、酒ばかり飲んでいた。
仕事の話はしない。身の上話もほとんどしない。
「映画好きなの?」
「最近旅行はどこにいった?」
「週にどれくらいのペースで飲むの?」
当たり障りのない会話。それが絶妙に心地よく、好意を抱いていた。
好意を抱いてはいたが、どうにかなりたいとは思わなかった。全く想像できない。
彼と並んで映画を見ている場面。
キスをするところ。
彼の腕の中で眠っている私。
考えてみようと努力したけれど、できない。
(男っていうより、ただ『人』って感じかな……)
それは中性的という意味ではなく、どこか無機質な、時には体温も感じないような雰囲気を持っていた。
口説く事も口説かれる事もなく、くだらない会話で沈黙を埋めながら飲むだけの知り合い。そんな関係だった。
昨日は二人共少し酔っていた。スナックはまた休みで、いつもの居酒屋で飲んでいた。
スナックの前で会った時、藤井さんは既に酔っていたと思う。私も少し飲むペースが早かった。
「カレシいないの?」
いつもならまずしないような会話になった。それでも口説くような重い口調ではない。
「いないですね」私も軽く答える。
「どれくらい?」
「三年くらいかなぁ」
「ああ。そんなもん」
「そんなもんって……」
「いやぁ、実家から出てきて十五年、カレシいませんとかいうのかと思って」
「なんでですか」
「実は地元にいい男を置き去りにしてきた……とかね」少しドキリとした。それ以上突っ込まれたくなくて笑った。
「そんな格好よくないですよ」
「どっちかっていうとカッコイイぞ。あんまり色気は感じないな」
「そうですか?」
「うん。キスしてるところを想像させないタイプだな」
(同じ事考えてたんだ)そう思うと笑えた。
店の中には、離れた席に一組客がいるだけだった。流れる音楽で会話は聞こえない。会う度に黒く日焼けしていく、彼の手を見ていた。指輪は右手にはまっている。
「藤井さんこそ、カノジョいないんですか?」
「いるよ、二、三人」自嘲するようにいう。私も苦笑いでかえす。
「二、三人ね」
「そう。束縛されるのは嫌なの」
「本当は本気になるのが怖いんじゃないんですか?」酔いに任せていっただけだ。深い意味はなかった。
彼の動きが一瞬止まった。
「本気になるのが怖い……か」
テーブルに落ちたその視線は、遠くを見ていた。まるで彼のまわりだけどこかに引き戻されたように、色を失っていた。
「好きな女に死なれちまったら、怖くもなるって」遠いどこかに向かってつぶやいたその言葉を私は無視した。
「三人もいるとデートの予定たてるのも大変ですね」そういって笑ってから、今度封切られる映画の話を始めた。
部屋に帰って明かりも点けず、ベランダから空を見上げた。居酒屋を出た藤井さんも、空を見上げて
「荒れてた頃はよく月を見ていたなぁ」といった。
私も東京に来てすぐは、毎日のように月を見ていた。この空はオランダに続いている。
「病気の治療を向こうでする事になってん」
やっちゃんは、まるで虫歯の治療でもするくらいの軽さでそういった。
「こっちじゃあかんの?」
「あかんねんて。向こういって、治療がうまくいっても五年後には……あかんねんて」いつも私をからかう時のように笑っている。
「……なんでオランダなん?」
「尊厳死が認められてるから」濃いサングラスで目の表情が見えない。私はイライラした。
(騙されるもんか)
「……嘘つきはきらいやわ」
やっちゃんは笑って否定もせず、続けた。
「もしも仕事の都合でやったらついてくる?」
やっちゃんがオランダにたつ前に、私は共通の知人と一切の連絡を断って、上京した。
まるで普通の失恋のように振る舞った。何度か新しい恋もした。
朝起きて、満員電車に揺られ、そこそこやり甲斐のある仕事をして、帰りの電車に乗る。代わり映えはあまりない生活を送った。そこにやっちゃんがいても、いなくても何も変わらないように、振る舞った。
それでも、月を見上げては、やっちゃんの現在を想像した。
オランダの町並み。少しでっぱってきたお腹で自転車通勤するやっちゃん。金髪の奥さんは日本語は全然駄目だけど、肉じゃがは得意料理。子供はやっちゃんに似ていて、器用で数学が得意。だけどちょっと嘘つき……
「やっちゃん……」
私は弱い人間です。
ついていかなくてごめんね。支えてあげられなくてごめんね。頑張れる自信がなかった。もし、ついていけば、やっちゃんがいなくなった時、追いかけていく事は絶対に許されない。だけど、遺される事には耐えられない……
だから私は逃げ出した。
信じない。
治らない病気だなんて信じない。
やっちゃんは嘘つきだった。だから今度もきっと嘘だ。私と別れたいからあんな事言ったんだ。
信じない。
世界中、何処を捜してもやっちゃんがいないなんて。
私の事を嫌いになってもいい。
他の誰かと愛し合っていてもいい。
私の事を忘れてしまっていてもいい。
私は弱い人間です。
だから離れてしまったけれど。
二度と元には戻れないだろうけど。
これだけは嘘じゃない。
大好きだった。
だから。
「お願い、生きていて」
そしてどこかで幸せでいて。
十五年間、祈り続けた思いが溢れ出した。
月だけが照らす部屋の中で、声をあげて泣いた。
(仕事、大丈夫だったかなぁ)二日酔いとひどい顔の浮腫で、休んでしまった。
(有給休暇たんまり残ってるもん。たまには、いいよね)
携帯電話がなる。
「今日も休みなんだよ」
藤井さんの明るい声が生温い空気にとけていく。スナックのドアの前で、口を尖らせている彼の姿を思い浮かべて笑った。
「飲みに行かない?」
「いいですよ」
私たちは目の前から突然消えた恋人を捜している。
藤井さんは、二、三人のカノジョの向こうに。
私は空の彼方に。
「いい月が出てる」
「ええ、本当に」
同じ月を見ている。
レモン形にかけた月は、はっきりと輝いて、かつては有機物だった影を作りながら、あの日から一歩も動けない無機質な私たちを照らしている。
それはまるで責めるように。
そして包み込むように。
やっちゃん、そっちは晴れていますか?
いつか人はいなくなる。当たり前の事だけれど、受け入れられる人間ばかりじゃない。そんな弱さを描きたくて執筆しました。




