罪が咲く場所
人にはそれぞれ、才能がある。
それは個性とか、あるいは特徴とかというらしい。
だから平凡とか、可もなく不可もなく、なんていうものも十分に才能なんだと亜紀の担任教師は言っていた。
詭弁だ。
あるいは、偽善なのかもしれない。
自分でも信じられないものを他人は信じないと、亜紀は雄弁に語る担任教師の言葉を妙に醒めた気持ちで聞いていた。
作り物めいた微笑みを浮かべて語る、教師たち。彼らが語る理想は、その表情と良く似ている。
作り物めいた、所詮は中身のない借り物でしかないのだろう。
この教室はとても息苦しい。
誰もが仮初の平穏の中で、息を殺して周囲をうかがっている。
裏切るか、裏切られるか。災いの矛先が、自分にだけは向かないように。
亜紀は吸い寄せられるように右斜め前の席を見て、ため息を噛み殺した。
数ヶ月前から空席が続いているその席に座っていた子も、ごく平凡な子だった。
何かに秀でたこともなく、目を引く容姿でもなく、クラスの中で浮くことなくそこそこ上手くやっているように見えた。
でも、ささいなことからターゲットになったその子は、二ヶ月もしないうちに体調を崩して学校に来られなくなった。
そう。このクラスには、陰湿ないじめがはびこっている。
巧妙に、狡猾に大人たちの目を掻い潜り、猫が虫をもてあそぶように少しずつ弱らせていくゲームを、同級生たちは楽しんでいた。
亜紀はそれを残酷だと思いはするものの、あまり大きな関心も抱けずにいた。
自分に降り掛かるのは嫌だし、だからと言って加害者にもなりたくない。
卑怯かもしれない。でも、ただたまたまその時一緒になっただけの同級生のために、亜紀は自分自身を犠牲にするかもしれない危険を冒してまで何かをしてあげる気にはなれなかった。
誰も自分のことを責めることなんて出来ない。その時まで亜紀はそう思っていた。
「授業中に失礼致します。盛口先生、ちょっとよろしいですか」
突然の訪問者に、クラス中の視線が集中する。気弱そうな新任教師はいつもなら居心地悪そうに身を縮めるところを、刺さりそうな視線を気にする余裕もない様子で担任の盛口教諭を促す。
あまりにも不自然なその様子に、クラスがざわめいた。
一方的に理想的な道徳心について演説していた盛口教諭は、ノックと共に遠慮がちに掛けられた声に不愉快そうに眉を上げた後、何かを察した様子で再び生徒たちに向き直ってしきりに眼鏡を触りながら自習を告げ、急ぎ足で教室を出て行った。
途端に、仮初の平穏が崩れ去る。
「あーあ、いつにも増して盛口キモかったね~」
「なぁ~にあれ、『平凡なことも立派な個性です』だって~! 意味わかんな~い」
ギャハハと、おおよそ知性や品位とは無縁そうな笑い声が上がる。
その声をどこか遠くに聞きながら、亜紀は無人の席の主、知沙のことを考えていた。
嫌な予感がする。
「ねぇねぇ、ニュース! 知沙のヤツ、リスカしたらしいよ!! んで、今病院だってー。職員室行って聞き込んできたから間違いナシ」
亜紀は、教室の喧騒が遠ざかるのを感じた。
相変わらず何が楽しいのか、同級生たちは聞いていて耳が痛くなるほどのはしゃぎようだ。
人が一人、自分たちのせいで死ぬかもしれないのに。
足元から震えが上がってくるのをじっと耐えて、亜紀は自分の机にしがみついた。
目の前が暗くなる。
なぜ、今まで気がつかなかったのだろう。
なぜ、今まで放っておいたのだろう。
こんな異常な状態を、止めることもせずに放っておけたのだろう。
キモチワルイ。
コノイキモノタチハ、キモチワルイ。
――ワタシハ? ワタシハ、ドウチガウノ?
亜紀は、自分の中で何かが壊れる音を聞いた。
あれからどう帰ってきたのか覚えていない。
気がついたら自分の部屋で、着替えもせずに座り込んでいた。
知沙がどうなったのかは、怖くて結局誰にも聞くことが出来なかった。
「知沙……私、酷い人間なんだね」
自分でも知らなかった。
重い重い感情が、お腹の底にわだかまっている。
亜紀は初めて後悔した。一度だけ救いを求められた手を、やんわりと、でも明確に拒絶したことを。
世間話のように、たまたま読んでいた本について感想を何度か交わしただけの間柄だったから、今更関わる必要なんてないと思った。
「結局一緒だ。私も、見捨てた」
あふれて来る涙を拭いもせずに、亜紀は静かに泣き続けた。
目を開けると、そこは一面の深い闇だった。
トロリとした質感さえ感じそうな、濃密な闇に亜紀は息を潜めた。
足元は、どうやら磨き抜かれた御影石のような、不透明な黒い石が敷き詰められているらしい。
硬質で冷たい、なのに妙に馴染んだ感覚を抱かせる空間。
果てしないようにも、ごく限られた広さのようにも感じさせる黒い空間を見回して、亜紀は夢をみているのだと思った。
「それとも、根の国とか?」
「それに近い場所ではあるわ」
独り言のつもりで呟いた言葉に返事が返り、亜紀は小さく悲鳴を上げて飛び上がった。
声の方向に視線を向ければ、白い着物に青を基調とした帯を締めた小柄な女が立っていた。
濡れたような艶やかな黒髪を半ば背に流すように結い上げ、手には手燭を持っている。火を灯してさほど経っていない様子のろうそくが、闇の中で赤々と燃えていた。
「この場所には全ての時があり、全ての罪があると言われている」
亜紀に向かって説明すると、女はろうそくを吹き消した。
すると、その炎が燃え移るかのように、丸いものに一斉に火が点った。
磨き抜かれた漆黒の石畳の両脇に列を成してそれが浮かんでいる様子は、祭提灯のようにも見え、何とも幻想的な光景だ。
とても美しい光景なのに、うすら寒いものを感じるのはなぜだろう。
亜紀は吹き出してきた汗を拭いながら思った。
思い出せない。
何かとても大切なことを考えていたはずなのに、綺麗さっぱりそこだけ切り取られたかのように抜け落ちている。
焦る亜紀を気に掛けた風もなく、女は艶然と微笑んだ。
「ようこそ、××へ。亜紀さん、あなたは何色がお好き?」
呆然としていた亜紀は、女の言葉に首をかしげる。
また、大切なはずの部分だけが聞こえない気がする。
亜紀の疑問を遮るかのように、いつの間にか目の前に何かを映し込んでいる丸い球が浮かんでいた。
亜紀はふらふらと、吸い込まれるようにそれを覗き込んだ。
一面に、赤い花をつけた植物が植わっている。そして、そこには花と同じ色の着物をまとった女がいるようだった。
豊かな黒髪を無造作に解き下ろしたままの女の表情は髪に隠されて見ることが出来ないが、亜紀は女の手元から目が話せなくなった。
指先は黒く染まり、爪は欠け剥がれていびつに変形している。
それでも女は、黙々と赤い花を摘み取っていた。
「声を掛けては駄目よ」
思わず一歩を踏み出し掛けた亜紀の腕を軽く取り、先程の白い着物の女は微笑した。
「ミコト様」
ようやく気配に気付いたらしい赤い着物の女が、ユラリと動いてうずくまる。
それに対して軽くうなずいた白い着物のミコト様に、亜紀は赤い着物の女が礼を取ったらしいと気が付いた。
となると、ミコト様は偉い人なのだろうか。
亜紀は緊張した面持ちで二人のやり取りを見守った。
「彩音、あなたまた手をこんなにして」
ミコト様は彩音に歩み寄り、そっとその手を取る。
穏やかでゆったりとした仕草なのに、なぜか抗い難い。ミコト様にはそんな威厳のような何かを感じると亜紀は思った。
「申し訳ございません」
消え入りそうな声で謝る赤い着物の彩音に、ミコト様はやんわりと微笑んだ。
「この花には毒があるのだから、仕方がないのだろうけど。あまり毒に染まっては、あなたが心配だわ」
そう言って、ミコト様は優しく彩音の手を自らの手で包み込んだ。
その手元で不思議な光が生まれ、開いた手から色とりどりの光の蝶が飛び立つ。
思わず目で追えば、蝶は花に止まり、そこで黒く変色してボロボロと崩れた。
息を呑み、青ざめた顔で自分の足元を確認する亜紀にちらりと目をやり、ミコト様は何の問題もなさそうに穏やかに微笑んだ。
いつの間にか、覗き込んでいただけのはずの場所に立っていることに慌てたはずの亜紀は、スッと気持ちが落ち着いた自分を不思議に思いながらもそういうものかと納得していた。
なぜか、ミコト様の傍らに居て言い付けに背かない限り、安全なような気がするのだ。
「勿体無いことで御座います。わたくしごときに情けを掛けて頂いて」
平伏しそうな勢いで恐縮する彩音を立たせると、ミコト様は穏やかに微笑んだ。
そしてついと視線を転ずると、さりげない仕草で先程蝶が止まった花に歩み寄り、それを手折った。
「あっ」
悲鳴のような、小さいけれど悲痛な声を上げた彩音は、慌てて口を手で覆った。
亜紀は、その花と一面に咲いている花とを見比べてハッとする。
一面に咲いているのは、赤がはぜたような彼岸花。
しかし、ミコト様が手にしているのは形は同じものの、内側から輝かんばかりの清い白だった。
何とも拭いがたい嫌な感覚が足元から這い上がってきて、亜紀は震える手で口を覆った。
「あまり根を詰めてはいけないわ。明仁さんもあなたも、真面目すぎるのが玉に傷ね」
ふふふ、と、上品に口元に袖を当てて笑うミコト様に再び恐縮する彩音。二人を見比べて、亜紀はそっと目を閉じた。
何が起きているのかなんて、相変わらずわからない。
でも、この感覚を知っていると、亜紀はそう思った。
一見優しい言葉、仕草。でも、そこに善意でなく悪意があればそれはこの上もなく残酷な凶器に変わる。
亜紀の脳裏に、泣きそうな知沙の顔が浮かんだ。
意を決して口を開き掛けた亜紀をサッと遮って、ミコト様は艶然と微笑んだ。
「またいずれ来るわ」
そして有無を言わせない力で亜紀を抱え込み、きびすを返す。
瞬きをする間に、足が再び漆黒の石畳を踏んでいるのを感じた亜紀は、今度こそ何か言おうと口を開き、冷やかなミコト様の視線に振り向き掛けたままの姿勢で凍りついた。
「罪人と生身のあなたが言葉を交わすのは感心しないわ」
軽くとがめる口調のはずなのに、何かとんでもない間違いを犯したような気分になる妙な迫力を含んだ声音に、亜紀は背筋を汗が伝っていくのを感じた。
「罪人って、何のことですか?」
ようやく絞り出した声が酷くかすれていて、亜紀は手を握りしめた。
「あなたは、何も知らないの?」
ここに来て、ようやく何かおかしいと感じたらしいミコト様の口調に驚きがにじむ。
恐る恐る視線を合わせると、亜紀は自分をまじまじと見つめているミコト様と視線が合った。
「なぜ来たのか、分からないとでも言うのかしら」
「はい、私には全然わかりません。ここがどこかも知らないんです」
段々不安になって来た亜紀の様子を見て、考え込むミコト様は亜紀の背後に何気なく目をやり、おもむろに亜紀の手をつかみ、自分の方に引き寄せた。
そのまま亜紀を背後に庇い、前方の闇に鋭い声を投げる。
「お前が、この娘を連れて来たか!」
腹の底から出されたミコト様の声に打たれるように、わだかまった闇が揺らめく。
そこに爛々と光る目が現れて、視線が合った亜紀は総毛立った。
獲物を見つけた獣のように、じっと自分を見つめる目。
わずかな理性と、むき出しの感情。
その目には、狂おしい程の憎しみが燃えていた。
『憎い…憎い…、裏切者……道連れだ…お前も苦しめば良い…お前も道連れだ』
唸り声に混じる言葉を聞き取った亜紀の顔が、みるみる青ざめる。
変わり果てた姿でも、わかる。
いや、わかってしまった。
自分にそんな感情を向けてくる相手を、亜紀は一人しか知らない。
「知沙……」
目を見開いた亜紀は、唐突に聞こえたため息に、信じられない思いでミコト様の背中を凝視した。
「知沙さん、あなたやり過ぎじゃないの? もう、十分怨みの対象は引きずり込んだはずよ。この子まで獄に繋ぐならきりがなくなるわ。私は許可出来ない」
淡々と、聞き分けのない子供を諭すように知沙に言い含めるミコト様を、呆然と亜紀は見ていた。
「なんで?」
こぼれ落ちた亜紀の問いに、ミコト様は場違いな程柔らかな笑顔を浮かべた。
「何故って、あなたは知っているようだから。この子があなたに償ってほしい、あなたの罪を」
「私の…罪?」
何だか妙に息が苦しい。
そういえば、ただ眠ったつもりでいたが、亜紀は何かを忘れている気がずっとしていたことを思い出した。
それは、目の前の闇に関係ある何か。
のどをさすりながら、亜紀は呆然とした口調でつぶやく。
「私…抵抗しなかった。知沙に殺されても文句なんて言えないって思った」
そう。思い出した。
部屋に知沙の形をした闇が現れて、思い切り首を締め上げられた。
そして言われた。
道連れにしたやる、と。
「私、自分が酷い目に遭わかれなくて良いことを、いつも心のどこかで喜んでた。本当は、とても臆病で、卑怯だった」
亜紀の目の前で、闇が見慣れた女の子の姿になる。
分厚い眼鏡を掛け、前髪を伸ばしたちょっと暗い印象の子。
「この偽善者! 死にたくなんかないくせに、良い子ぶらないでよ!」
頭のどこかで、裏切った友だちの悪霊にとり殺されるなんて、笑えない冗談みたいだと自嘲している自分がいた。
それで知沙の気が済むなら、それでも良いかと思った。
でも、それじゃいけなかったんだ。
今なら言える。あの時、言わなければいけなかったことを。
「…そう言えば良かったじゃん。私に、私だけじゃないよ、クラスの皆にも、あの子たちにも。正々堂々、主張したら良かったじゃん。…言わなかったくせに。 自分だって何も言わなかったくせに!」
ミコト様の後ろを抜け出して知沙の前に進み出た亜紀の首に、氷のように冷たい指が巻き付く。
その冷たさにひるみそうになる自分を叱咤しながら、亜紀は知沙の手を引き剥がした。
「私は優しくなんてないよ。自分のことで精一杯で、何が悪いの? 自分で何も努力しないで、全部人のせい? 甘ったれないでよ!」
叫ぶように言い切った亜紀の勢いに押されるように、知沙が泣き出す。
卑怯者と甘ったれって、何の迷コンビだろう。亜紀は心の中でそっとため息をついた。
「知らなかった、そんな風に思ってたなんて」
「だって私も知らなかったし。考えたことなかったし」
言い終わるが早いか、亜紀は知沙の手を握りしめて、走り出した。
この迷コンビで、今の難局を何とか切り抜けなければならないのはすこぶる不安だったけれど。
「知沙、走れ!」
チャンスが欲しい。
今度こそ、後悔しないためのチャンスが欲しい。
戸惑いながらも全力で走り出した知沙の手を握りながら、亜紀は思った。
もし、自分の予想が正しければミコト様から逃げ切ることさえ出来れば自分達は助かると。
「私がそう簡単に、抜けさせると思うのかしら」
行きに下った道を必死に駆け上がる亜紀の耳元に、息一つ乱さないミコト様がささやく。
振り切るどころか、ピタリと付かれているらしい。
思わずチラリと見てしまったその姿は、結い上げられていた髪はほどけ落ち、目は血の赤。いつか冗談混じりに姉が話していた鬼女の姿そのもので、亜紀は震え上がった。
「ここで必要なのは脚力じゃないぐらい、わからないかしら。……亜紀さんは返してあげられるけど、知沙さんは駄目。だってあなた、私の罪人たちに私刑、やったわよね?」
鬼女ミコトは思いの外静かな口調で、容赦のない内容を諭すように語り掛ける。
「待てば良かったのに……あの子たちが死ぬまで」
クツクツと喉の奥で笑うミコトに、二人は震え上がる。
「あっ」
「知沙!」
転んだ知沙の手をもぎ離そうと、ミコトが亜紀の手に触れようとした瞬間、とっさに知沙を庇った亜紀は空いているもう一方の手で首に掛かっていたお守りを引き千切った。
オカルトかぶれで超がつく変人の姉に、数日前いつもの怪談のついでに心配だからと無理矢理持たされたお守り。
『物事は、必ず報いが返るように出来ているのよ』
今ならその意味がわかる。
自分にも、知沙にも報いが返ろうとしている。
そして、平気そうにしていたあの子たちにも多分報いは返ったのだろう。
「お姉ちゃん、嘘つきって言ったの取り消します! だから助けて!」
宙に放たれたお守りの札が、音もなく燃え上がる。
「ギャッ」
その炎に弾かれるようにミコトは飛び退き、燃え移った炎を必死に消しに掛かる。
亜紀の叫びに応えるように、唐突に闇に穴が開いた。
「よいしょっと。この馬鹿妹、一生敬いなさい」
切り裂いた闇を潜ってオバサン臭い掛け声と共に軽やかに降り立った妙齢の女性は、不敵に笑うと立ち上がった亜紀と知沙を背に庇い、ミコトに相対した。
「美琴、あんたは変わらないわね。獄吏に堕ちても、相変わらず神子気取り? そんな器じゃないってまだ思い知らないの?」
美琴と呼ばれた鬼女は、悔しげに歯噛みし、武骨な直刀をかざして油断なく構えた女を睨み付けるが、女は不敵な笑みを崩すことなくその視線を跳ね返した。
「あんたは私にはなれないって前にも言わなかった? 誰かさんと違って私は自分が何やってるかも知ってるし、自分の責任くらいきっちり取れるのよ」
ごくありふれた膝丈のスカートとブラウス姿だった女の姿が揺らぎ、白い貫頭衣を身にまとい、翡翠の勾玉を掛けた神子姿になった。
「妹たちを返してもらうわ」
何ごとかを言い掛けた美琴の言葉を遮って、女は美琴と自分たちの間に手にした刀で線を引いた。
そのまま手を打ち合わせ、キッパリとした口調で告げる。
「日陰の神子の名に於いて生者と死者の境界を定め、ここより先の禁足を命ず。時の獄吏は速く去りて己の治むべきものを治めしめん」
今度は二回、女は手を打つ。
すると、それを合図にしたかのように闇が崩れ始める。
「後悔するわよ、ナギ」
「懐かしいわね、その名前。でも、私は後悔しない。あなたのようには」
鬼女に相対して一歩も引かず、背筋を伸ばしてキッパリと言い切る姉を格好良いと、亜紀は初めて認めた。
残念なオカルトかぶれではなく、本当にオカルトの人らしいことはいずれ問い詰めなければならない、姉の七不思議の一つとしてきっちり胸に留めらたけれど。
悔しそうな美琴さえも飲み込んで、闇は亜紀の意識と共に消えた。
「まったく、あんたって子は……えいっ」
「痛っ……ごめんなさい。由紀お姉ちゃん」
「お姉さまとお呼び!」
「……ハイ、お姉サマ」
「あんたが無茶したせいで、私の寿命百万光年縮んだわよ」
「お言葉ですがお姉サマ、それは距離の単位です…って痛ったぁ! お姉ちゃん今本気で殴ったでしょ」
「あんたが口答えするからじゃない!」
いつからかギクシャクしていた姉妹関係もなぜか元に戻り、あれから無事に目が覚めた亜紀は、美琴さえも霞むほどの鬼気迫る表情の姉にこってりと絞られた。
あれほど怒った姉を、亜紀は初めて見た。
「今回はたまたま助けに行けたから良かったものの、次はないんだからね!」
頭から蒸気を噴きそうな勢いで怒る姉によれば、あの時いた場所は時獄という特殊な地獄らしく一般人はまず行けない場所だったらしい。
そこにたまたま亜紀が生身で引きずり込まれたのと、そこの獄吏が由紀の知り合いだったことが幸いして今回は事なきを得たということだった。
一部納得できない部分はあったが、触らぬ姉に祟りなし、亜紀は自分の疑問に蓋をすることにした。
しかし、と、亜紀は顔をしかめた。
そんな亜紀に、由紀の表情も一瞬暗いものが過り、それをかき消すかのように由紀は穏やかな笑みを浮かべた。
あれから一週間。
あの後知沙は何とか一命を取り止めたものの、未だに目を覚まさずにいる。
その上、クラスの子たちは誰一人欠けることなく、知沙のことなどすっかり忘れてしまったかのように元気一杯に新しいターゲットの子の悪口に余念がないらしい。
亜紀はあれから、学校に行けずにいる。
まだ元通りになるには、多少の時間が掛かりそうだ。
「でも、由紀お姉ちゃん。知沙は助けたはずなのに目を覚まさなくて、知沙が道連れに地獄に引きずり込んだけど助けなかったはずの子が、何であんなに楽しそうに毎日過ごせてるのかが理解できないよ」
亜紀の言葉に一瞬不思議そうな顔をした由紀は、少し考え込み、納得したようにうなずく。
それを不思議そうに見守っていた妹に向き直ると、ニッコリと笑った。
「時獄は時間の経過が関係ない特殊な地獄だから、こちらで“これから起きること”が、あちらでは“既に起きたこと”になることもあるのよ」
「それは、どういう……」
怪訝そうに呟いた亜紀の耳に、携帯の着メロが届く。
「ちょっとごめん、メール」
何だか胸騒ぎがした亜紀は、祈るような思いでメールを開いた。
その顔から、血の気が引いていく。
「亜紀?」
「……が、……だって」
「え?」
震える声を聞き取れず、聞き返した由紀を見て、亜紀は呆然と繰り返した。
いじめグループの子たちが、死んだって。と。
いつも通りにしてたはずが、突然何かに怯えるような様子になって、電車に飛び込んだ子、高いところから落ちた子、川に飛び込んだ子……全員不可解な状況で自殺したらしい。
「知沙…、知沙、なんで……」
亜紀の手をすり抜けた携帯が、音を立てて自宅のリビングの床を転がる。
それを拾い上げて何気なくメールを読み、由紀は顔をしかめた。
「自業自得だね……か」
由紀はため息をつき、そっと携帯を閉じた。
時獄の片隅で、今日も赤い花が咲く。
無表情にそれを摘む、赤い着物の女。
「罪の花は減らないわね、彩音。善意は少しも咲かないのにね」
どこが悲しげに微笑んで、白い着物の女が呟く。
「ああ、また新入りさんが来たわ」
スッと立ち上がる白い着物の女の足元から、赤い花が咲く。
それを摘もうと手を伸ばした彩音は、赤い花が白く色を変えていくのを、信じられない思いで見つめていた。
「罪が善意に転じるというの?」
彩音の言葉に、美琴は微笑む。
「時にはそんな奇跡のような何かが起きても良いのではないかと、そう思うことがあるわ」
そう言いながら、美琴はごくありふれた人間らしい憂いの表情を浮かべて、重いため息をついた。
「友だちだったはずの子たちに、自業自得と笑われた罪人たちはどんな顔をしているのかしら」
しかし、次の瞬間には美琴は獄吏の顔に戻ると、艶然と微笑んだ。
「さて、どんな報いを与えましょうか……ねぇ、知沙さん」
呟いた美琴の背後で、闇が無邪気な笑い声を立てた。
了