幻想の城(終)
どれだけ気を失っていたでしょう。
目を覚ますと、鈍痛が頭の芯をしびれさせ、半覚醒の状態がしばらく続きました。
頭上の青空を浮雲が悠々と泳ぐのを見て、少なくとも一晩は気を失っていたことを知りました。
意識がはっきりしてくるにつれ寒気を伴った興奮が蘇り、身体締めつけます。私は周囲に目を配りつつ、手探りで地面に転がる武器を探しました。
すると、牧歌的な土の匂いが立ち上り、鼻先をくすぐりました。陽の光を十分に吸い込んだ、懐かしい農耕の匂いです。
私は顔を上げ、辺りを見回しました。
先ほどまでの血生臭い風景は一変し、眼前には私の望んだ、穏やかな風景が広がっています。
最初は私一人きりかと思いましたが、頭を振りながら、幾人かが身体を起こそうとしているのも見て取れます。
私は深いため息とともに、身体の芯にこびりついた最後の狂気を吐き出しました。
私の願いは聞き届けられました。
すべてが元通り、そう思いました。
遠くで風が木々を揺らしています。
それはかつて、私を甘い眠りに誘う子守唄でした。
浸るようにして目を閉じ耳を澄ませると、遠くのざわめきは次第に近くなり、皮膚の直ぐ下を蟲が這うように蠢き、耳元へと登ってきました。
私がその時に聞いたのは・・・」
それまで、あるかなしかだった風が、不意に激しく窓を叩いた。
木々の隙間を通り抜ける風は、口笛となって屋敷の周りを回っている。
「皆、夜の訪れに興奮しているのでしょう。普段なら囁くようにしか風は吹きませんから。
私があの時ざわめきの中に聞いたのは、これと同じ、門の外に残してきた領民たちの、命の尽きる声でした。
それは悲鳴であり、恨みにの言葉であり、救いを求める声でした」
主は短く言葉を区切ると続けた。
「あなたには、この声は聞こえないでしょう。これは私たちにかけらせた呪いなのです。
いえ、命押しさに、私が領民たちに背負わせた呪いなのかもしれません。
気がつくと、城の中に取り残された私たちは、このような獣の姿に変わっていました。
理由は分かりません。
私の心の深い部分が、人であることを許さなかったのでしょうか。
そして、この獣の耳は、どんなに小さな風の囁きも、聞き逃すことはありません。
暮れることのない青空の下、風は穏やかに吹き続けます。
それは、私たちに犯した罪の重さを問いかけるのです。
私はあの時、どうすれば良かったというのでしょう。
どれほどの時が立っても答えが出ることはありません。
多くの同胞は、我が身を呪い、自ら命を経ちました。
残ったのは私たち二人だけです。
これが私たちの身の上に起きた出来事の全てです。
罪に答えが出せればあるいは、とも思ってきましたが、こうして夕暮れを迎えてみると、何やら分からなくなってきます。
人が逃れられない死に直面した時、一体どれだけの選択肢が与えられるというのでしょう。
これは、私の祈りや多くの死、無念、恨み、呪い、そういったものとは無縁なのではないか、そう思えてくるのです。
太陽が空を巡り、雨や風を連れてくる、そうした一連の自然の理なのではないかと思えてくるのです。
現実とは何と無機質なものなのでしょう。
しかし、そこには確かに私たちの苦悩や生への葛藤、息づかいがありました。
私たちがそこに意味を求めるのです」
最後の陽の光が、音もなく絨毯に落ちる。
室内は夜で満たされた。
「罰でもなく、呪いでもない。私たちは最後にきて、この世界の意味を失ってしまったようです。
それもまた罰と捉えることにしましょう。意味を手放すには、私たちがこの場所で過ごした時間は、少々長過ぎました。
願わくば、私たちの身の上に起きた出来事を、あなたの世界に持ち帰っていただきたい。
私たちがここで、確かに生きた時間を誰かに伝えて欲しいのです」
主は立ち上がると私の手を握った。
これまでの苦悩が染み込んだような深い筋がいくつも刻まれた、どこにでもある老人の手だ。
光はなく、表情をうかがい知ることはできない。
一瞬、痛いほどにきつく手を握ると、存在の密度が薄くなるように、主の手の感覚が希薄になった。
「いよいよのようですね。
私たちはこの世界と共に眠りにつくことにしましょう。
願わくば、再び目覚めることのない、安らかな眠りであって欲しいものです」
呟くような言葉の余韻だけを残して、握られた手は闇にほどけた。
温かな風がそっと私の頬を撫でた。




