幻想の城(2)
主は私の異変に気づいたのか、少しだけ手を高くかかげると、納得したようにわずかにうなずいた。
「先入観を持たずに話を聞いて欲しかったので、話が終わってからと思っていたのですが、そうもいかないようですね」
そう言うと、側の案内人を促すようにして、顔を覆っていたフードをまくり上げた。
フードの下から現れたのは、後ろに撫でつけられるように生えた銀色の短い体毛に覆われた顔。
前方へせり出した鼻に、切れ長の目、大きくさけた口が印象的だった。
頭頂部には周囲の物音を拾うのに特化した耳がついている。
一言で言えば大きなネズミだ。
「驚くのも無理はありませんが、どうか落ち着いて話を聞いてもらえないでしょうか」
主の丁寧な口ぶりからは、獣の荒々しさ感じられず、むしろ貴族の様な優雅さを感じさせた。
疲れの色は見えるものの、清浄な水をたたえた湖のような穏やかな目の光に、私は少しだけ冷静さを取り戻し始めていた。
「私たちは何も初めからこんな姿だったわけではないのです。信じられませんか。
しかし私は現実に、ここに存在している。
この場所を訪れた多くの方々に、何度も説明をしてきましたが、理解のできる人は少ない。あなたはどうでしょう。私が只々恐ろしく映りますか」
真っ直ぐに、私の心の奥底を覗き込むような視線を向ける。
私はその視線に戸惑いながらも、震えながらもかろうじて首を横に振る。
「あなたからは私たちがおぞましい獣の姿に見えているでしょう。
しかし、私たちもあなたと同じ、もともとは人間でした。
いえ、今も・・・。
少し昔話をしましょう」
館の主はそう言うと、自分自身に語りかけるように、静かに口を開いた。
その昔この場所は、四季折々の草花が野を彩り、風が子供たちの声を運ぶ、そんな穏やかな場所でした。
その傍らで大人たちは田畑を耕し、土にまみれています。
遥か彼方の山々に陽が沈む頃、夕焼けが子供たちの頬を赤く染める頃、
家々にはほんのりと灯りがともり、夕飯の優しい匂いに誘われて人々は家に帰るのです。
私はその土地の領主でした。
私は早くに先代の領主であった父を亡くし、若しくて領主になりましたが、
平和なその土地では差し迫った問題もなく、穏やかな日々が続いていました。
傲慢と思われるかませんが、物足りないとさえ感じさせる時間でした。
それからしばらくして、遠くで戦が始まりました。
大国同士の戦争です。
私が後を継いでから、20年程が経った頃だったでしょうか。
私の領地は一方の大国の属国でしたから、当然、領民を取りまとめて出兵するよう命が下されました。
初めて経験する戦争でした。
私をはじめとして、誰も戦争を経験した者はおりません。
おそらく先代の頃から数えても、経験のあるものはいなかったでしょう。
それほどに平和だったのです。
そんな私たちにとって『戦争』という言葉の響きは、何ら実感を伴わない、
まるで空想上の生き物のようなものでした。
事実、戦支度を整えた私たちは、ピクニックにでも向かうような浮ついた足取りで領地を後にしたのです。
人と人が殺し合う戦場は狂気に満ちていました。
初めて顔を合わせた者同士、お互いに憎しみ合っているわけではありません。
しかし、狂気が人を狂わせ、人を殺すのです。
私たちも必死で戦い、幾人かの敵を打倒しもしました、が結果から申し上げれば、私たちのついた側の大国は敗れ去りました。
連れて行った私の領民の多くも命を落としたのです。
狂気から覚めるというのは、夢から覚めるのと同じでした。
それまで紙一重の場所で命のやりとりをしていたことが嘘のように、身体から力が抜け落ち、恐怖が心を支配しました。
逃げるように戦場を後にした後も、追手は容赦なく私たちを追いたてます。
捕まれば捕虜になる他ありません。
私はあのまどろむ様な領地での日々を懐かしみながら、ひたすらに故郷を目指しました」
館の主は目を閉じ、疲れたように、ゆっくりとひとつ息を吐き出した。
「戦場でのことは本当に夢のようで、靄の先にあるように記憶がはっきりとはしておりません。
ですが、敗走する道筋で何度か目にした夕暮れは、どれだけ時間がたっても忘れることはありません。
まるで昨日のことのように鮮明に焼きついています」
私に話すべき言葉は何もなく、ただ主の言葉に耳を傾けることしかできなかった。
窓から射し込む光には闇が混じり、細かなほこりの粒子を浮かび上がらせる。
もう間もなく陽が暮れるのだろう。
従者は何気なく窓の外へ顔を向けると、僅かに口を開き、驚いたような表情で言葉を失った。
視線を窓の外へ向けたまま、主の袖を引き、外を見るように促す。
主も驚いたように一瞬身体を強張らせると、静かに私に視線を戻した。
その表情には、どこか満足そうな色が浮かんでいるようにも思えた。
「この場所はあの日から時間が止まっていたのです。
それ以来、変わらぬ青空の下、雨も降らなければ夜がやってくることもありませんでした」
主はもう一度窓の外へ視線を投げると続けた。
「夕暮れがやってきました。私の記憶に焼きついた夕暮れの色とどこか似ているようにも見えます。
どうやらあなたが、この世界を閉じるためにやってきた、私たちの待ち人だったようですね」
私は自分がそんな人間ではないことを伝えようと口を開いたが、言葉は外へでてこない。
私の声は、この世界の空気を震えさせることはできないようだ。
「安心してください、あなたに何かを求めているわけではないのです。あなたはただその役割を持ってこの場所へやってきた、そういうことです。
この場所は時間と世界が交わる場所、これまでにも多くの旅人がこの館を訪れました。
彼らもそれぞれの使命を帯びていましたが、誰もこの世界を閉じることはありませんでした。そうして、今、あなたがやってきた」
夕焼けはゆっくりと地平線に沈もうとしていた。オレンジ色の光がいく筋もの線となり、足元を照らしている。
「あの夕陽が完全に沈む頃には、この世界も閉じるでしょう。私たちもようやく解放され、安らぎが訪れるようです。
しかし、その前に、私たちの身に何が起きたのか、お伝えせねばならないでしょう。それもまた、私の義務であり、あなたの役割なのだと思います」
夕暮れの光が主の顔を斜めに照らす。
光と闇が混じった主の姿が一瞬、年老いた老人のように映った




