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Ein Drachen


長く暗い廊下にひっそりと佇み、聞きたくもない事実を盗み聞きすることがいかに虚しいか、彼女はよく知っていた。それでも繰り返し同じ毎日を生きるのは、たった一つの愛を信じたから。今日も彼女は、揺らめく蝋燭の影に踊る。



 彼女──この豪邸のたった一人の女中、ヴィオレーヌは、燭台を握る手がじっとりと汗ばむのを感じて目を伏せた。重たい扉の隙間から密かに“客人”の部屋を覗き込み、彼らの会話を盗み聞きながら苦痛に顔を歪める。憎らしいわけでもない、悲しいわけでもない。ただただ、切なかった。 

 ヴィオレーヌがこの城で働きはじめたのは、母の面影をたどったことが要因だった。ヴィオレーヌの母は昔、ここで女中として働いていた。貧しい家を助けるため、二度と家に帰れないという無茶な条件を飲んでまで、彼女はヴィオレーヌを守った。船乗りの夫の訃報を聞いても帰ることは許されず、ただ娘を案じて働く日々。平穏などなかったのだろうか、彼女は数年後、夫の後を追うように亡くなった。いつの日か手紙で母の死を知らされてから、ヴィオレーヌは様々な職を転々とし、それでも孤独となった彼女は、最後に母の職場を訪ねることになる。

 古びた屋敷にいたのは、彼女と同じくらいの年の青年と、枯れた老人だけだった。ひっそりとした城の中で青年の世話係ができたと老人は喜ぶ半面、どうしようもなく苦しそうなときもあった。そして彼は枕元に彼女を呼び、こう言うのだ。

 ──いいかい、何があっても、君は自分の気持ちを外に出してはいけないよ。

 オズウェル氏の乾燥した指先が必死に自分の指先に絡み、深い青の瞳でまっすぐに見つめてくると、ヴィオレーヌも必死に頷くのだ。

 ──そう、人形のように、偽ることを学びなさい。

 それから彼女は、ただ言われたとおりに動く人形になった。決められたように炊事洗濯掃除をし、人形たちの手入れをし、老人の介護をし、青年の世話をする。つらくなったとき、自分を殺せなくなったときは、こっそりと人形の部屋で泣いた。彼女のお気に入りの人形に話かけながら、そこで一晩過ごせば、すぅっと楽になったのだ。それこそが救い、それこそが原動力だった。

 けれど。

 あの日から、すべてが変わってしまった。


「ヴィオレーヌ」

 病に伏せっていたオズウェルは、とうとう天国へと召されていった。さらにさびしくなった城を、それでもいつも通り掃除していた時のこと。彼女は青年に呼び止められる。

「もう、いいから。ちょっと僕に付き合ってくれないか」

 困ったように笑う彼に、能面のように無表情の彼女はす、とうなずくと、静かに従った。

 青年──トラヴィスの部屋に案内されると、彼は泣きそうな顔で笑ったのだ。それはあまりにも、悲痛で、痛々しかった。

「ヴィオレーヌ、今までほんとうにありがとう。父さんのために、僕のために、こんなにも必死に働いてくれた。文句ひとつ言わずに、長い間ついてきてくれた。感謝してもしきれないんだ」

 ヴィオレーヌの頬が、ぴくりと動く。硝子のような瞳でじっとトラヴィスを見返すと、彼はやはり、困ったように笑う。

「でも君は、一度だって心から笑ってくれたことはない。僕はそれが心残りなんだ。もし、もし君が良いのなら、このままここに残ってくれないだろうか。ずっと僕と一緒に、この城を守ってはくれないだろうか。」

 トラヴィスの大きな手がそっとヴィオレーヌの髪に触れる。深い栗色の柔らかな髪を梳きながら、あやすようにゆっくりと語った。深く甘い声で、深淵へと誘うかのように。夕闇に熱くなる頬、指先から伝わる体温。それらすべてが、一気に彼女に流れ込んでいく。

「もう、疲れただろう。」

 その一言で。

 ヴィオレーヌの心で眠っていた扉が、ゆっくりと開いた。

 父と母を亡くした悲しみ。ひたすら毎日を食いつぶし、自分を押し殺して淡々と生きた日々。一切の欲望、願望を立ち、煌びやかなドレスを纏った人形に嫉妬を覚えることなく。それは年頃の娘にとって、地獄と同じだったはずだ。同じリズムで優しく頭をなでるトラヴィスの胸で、ヴィオレーヌはひたすら泣いた。声を上げて、すがりつくようにして泣いた。

 その日から。二人の同居が始まる。いつものようにヴィオレーヌは女中として同じ仕事をしていたが、一緒に食事をし、人形の手入れをする日々は幸せだった。

 そして彼女が彼に恋心を抱くまでに、そう時間はかからなかった。想いを殺すことを忘れた彼女は、再び苦しむことになる。彼に悟られぬよう、葛藤しながら日常を刻む。悩みながら、それでも彼との時間を幸せに感じて、自分ではどうしようもないほどに気持ちが溢れそうなとき。

 彼が、少女を連れてきた。



「ヴィオレーヌ、今日はアウフラウフにしてくれないかな」

 楽しそうな彼の声にひっそりとうなずき、買い物かごを持って町に出た。少女が来てからというもの、ヴィオレーヌはまた、あの能面のような表情で過ごすようになった。彼に悟らせないため、自分を殺すため。ぐらぐらと揺れる少女への純粋な嫉妬心。醜い己を、信じたくなかった。

 トラヴィスの柔らかな笑みが、優しい大きな手が、慈愛に満ちた瞳が、すべてあの少女に捧げられている。耐えられなかった。彼女が来る前は自分に向けられていたすべてが、一瞬にして消えていく虚しさ。葛藤とともに毎日が過ぎる。胸をかきむしりたくなりながら、平静を装って笑うことがどれだけ苦しいかを知った彼女は、笑うことをやめた。

 町に出ると、何やらいつもより騒がしかった。明るい喧噪ではない。焦ったような、時を急ぐ人々のざわめき。不思議に思いながらも、店へ向かう。

 と、そのとき。

「ヴィオレーヌ、だな」

 ふいに、肩をつかまれた。



「わたしは、何も知りません」

 肩をつかまれ、半ば強引に町はずれまで連れてこられた彼女が目にしたのは、大勢の男性、そして、以前に見たことのある男の姿。金髪を風に靡かせ、水色の瞳を怒りで染め上げながら、彼は静かに問うた。“妹はどこだ”と。ヴィオレーヌは、顔色を変えず、知らぬと答えた。男の瞳は、疑惑で濁る。

「お前たち、下がって良い。俺だけで話をつける。」

 よく通るテノールにまつ毛を震わせながら、恐怖を胸にしまいこんだ。彼に接触してはいけない気がした。彼に触れてしまえば、すべて溢れてしまう、そんな気がした。

「さて、ヴィオレーヌ嬢。手荒な真似をしてすまなかった。話を聞きたい」

 男の声には、言い知れぬ不安と怒りが混じっている。

「僕はクロード。クロード・ボーマルシェ。トラヴィス・エイヴォリーの友人だ」

 ──ああそうだ、この男が、

「君は、彼の家で働いているね?」

 ──彼を、変えてしまったのか。

「端的に言おう。僕の妹が、ミュリエルが、トラヴィスと接触したきり姿を消した。何があったか知らないか」

 ミュリエル・ボーマルシェが姿を消して一ヶ月。あらゆる場所を探しつくしたが一向に戻ってくる気配がない。あと探していないのはエイヴォリー城だけだが連絡を取ろうにもトラヴィスは一年も音沙汰なしで町にもでてこない。家を訪ねてもひっそりと静まり返っているだけ。このままではらちが明かない。話を聞かせてくれ───クロードの話を要約すると、そのような内容だった。ヴィオレーヌは、ゆっくりと息を吐き出す。

「わたしは、何も知りません」

 クロードの瞳が苛立ちを帯びる。彼はふ、と笑うと、ヴィオレーヌの耳元に唇を寄せた。

「君は、今幸せかい」

 どくりと、心臓が鳴る。

「ただひたすらに毎日を食いつぶして、感情を殺して生きるのはそんなに楽しいのかい」

 だめだ、聞いてはだめだ。

「人形の城にいると、心まで人形になってしまうのかい」

「…ちがう、ちがうわ」

 深い闇へと誘う言葉にぐらぐらと脳が悲鳴を上げる。だめだ、このままでは、逃げなければ。

「僕なら、君を楽にしてあげられる」


 ぷつりと、糸が切れた気がした。


「真実を見たくないなら目を閉じればいい」

「長く甘い夢を見る方法を教えてあげよう」

「君はずっと我慢してきたんだね」

「さぁ、忘れてしまえ」


 繰り返される地獄の言葉は、驚くほどまっすぐにヴィオレーヌに届く。音もなく、彼女ははらはらと涙を流した。トラヴィスに恋をした、たったそれだけのことで、何故こんなにも悩むのかわからなかった。自分がひどく醜い気がして、ただもがいた。それを、この男は見抜いている。

「僕のために、働いてくれるね」

 優しげな瞳に絆されて、気付けばヴィオレーヌはうなずいていた。胸の中でぐるぐると渦巻くどす黒い感情の正体など知らない。興味もなかった。

「あなたのために、働きます」

 ──さぁヴィオレーヌ、目を覚ますのよ。わたしはもう、お人形ではないわ。

 そうして哀れな女の瞳に、漸く光が宿る。物語の主役になれなかった彼女は、深い憎しみと悲しみで染め上げられていた。




 物語は深い因果によって結ばれる。ヴィオレーヌとクロードの出会いは、物語を加速させていく。その日は、人形に魂が宿った日。


 

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