Mai
風の鳴る音がする。冷たくて物悲しい音色を奏でながら、荘厳な城は霞んでいく。黒々とそびえ立つ邪悪な城、下界でざわめく深い森の鼓動、そして、大空に圧倒的な存在感を放つ月。空高くに昇った巨大な月は、神聖な輝きを放ちながら静かに下界を見下ろしている。太陽のような暖かさはなく、ただひたすらに冷酷な輝きに世界が彩られていく。肌を刺すような冷たさに反して、徐々に熱をおびていく体。体内で何かが弾けたように胸の奥から込み上げてくる熱は、熱い雫となって瞳からこぼれ落ちる。ゆらゆらと揺らめく視界、冷え切った空気に捕われてしびれていく四肢。まるで五感を失ったかのように、人形のように、動くことができない。
高くそびえ立つこの城の屋上から見上げる月がこんなにも大きいなんて、知らなかった。煌めく夜空が、こんなにも感傷的にさせるなんて知らなかった。薄れていく記憶の中で唯一思い出すオルゴールのメロディーが頭の中で繰り返しながれていく。限界まで張った緊張の糸が、世界をよりいっそう美しく見せるのだろうか。どこまでも澄んだ空気に、冷たい光を降り注ぐ月。ざわざわと鳴る木々に、鳥が羽ばたく微かな音。耳を澄ませばすべて流れこんでくる、命あるものの鼓動が、ひどく新鮮に思えた。
「トラヴィス……」
囁くように名を呼ぶのは、いったい誰だろう。脳に響く脈動に混じったその声は、何よりも無機質に響く。
「…ミュリエルっ…!」
ああ、思い出した。腕の中で静かに眠る君の名を。月光に輝く金の髪に、大きな硝子の瞳。きめ細かな白い肌に、熟れた林檎のような頬。
「……ミュリエル…」
名を呼んでも、君は目を覚まさなかった。しっとりと濡れた瞳に優しくキスをしてから、薔薇色の唇に触れた。
「……ああ、そうだったね」
指先がぶつかった彼女の唇は、ひどく冷たい。
ゆっくりと記憶を旅しながら、眠ってしまった彼女と同じように瞳を閉じた。穏やかに流れる時間の中で、暗くなった視界は心地よい。
「おやすみ、ミュリエル」
もう一度そっと囁いて、腕の中の君を抱きしめた。衣擦れの音がじんわりと溶け込んで、頬に触れる金糸からは懐かしい香りがする。
――神様、どうか、
微かに開けた視界に写るのは、無数の輝き。
――彼女が永遠に、幸せでありますように。
ほんの少しだけ笑って、そして青年は穏やかに瞳を閉じる。
もう誰も、彼等を壊すことなどできなかった。