穴を掘る従者
「青白い石が欲しいの」
リディアがそう言ったのは、昼食の皿が片付けられる前だった。向かいに立つセオンは銀の水差しを盆に戻し、何も言わずに主人の次の言葉を待った。
「夜会の髪飾りに使うのよ。昨日届いた宝石は青すぎるわ。青白く光るものがいいの」
「宝石商に探させましょう。王都から取り寄せるのであれば夜会には間に合います」
「それでは同じものを持っている人がいるかもしれないでしょう。うちの採石場にしかない石が欲しいの」
セオンは返事をする前に指先で盆の縁をたたきかけた。手を止めて卓上の花瓶に目をやる。
「旧採石場は閉鎖されています。奥の坑道には落石の危険があり今は領民にも入らないよう知らせてあります」
「入りなさいと言っているのではないわ。石を見に行くの。あなたが取ってくればいいでしょう」
「地表に残っている石なら明日にでも職人に調べさせます」
「私が選ぶと言っているのよ」
リディアはナプキンを皿の脇へ置いた。食事を終える合図だったが、まだ半分も手をつけていない。セオンは銀のふたを戻して料理を下げるよう給仕に目配せし、リディアの前に置かれた茶を新しいものと替えた。
彼はいつもそうだった。リディアが何を言っても大声を出さず、できることとできないことを先に説明する。それで彼女が考え直したことは一度もないのに、セオンは長いあいだ同じ手順を繰り返していた。
「馬車を用意して。今日はお父様もお母様も別邸でしょう。夕食までに戻ればいいわ」
「お出かけの先は家令にお伝えします」
「だめよ。アルベルトは採石場と聞いただけで反対するもの。散歩に行くと言っておいて」
「行き先を知らせずにお出かけになるのはお勧めできません」
「あなたまでお説教をするの?」
リディアが眉を上げると、セオンは口を閉じた。返事の代わりに、盆の縁を指先で三度たたく。一拍置いてもう一度。彼が物事の手順を考えるときの癖で、リディアは幼い頃から見慣れていた。
「分かりました。せめてランタンと水を多めに持たせてください」
「石を拾うだけなのに大げさね。そんなものより手袋の替えを持って。あの白い土がついたら落ちないのでしょう?」
「替えも用意します」
セオンが一礼して食堂を出ていくと、リディアは冷める前の茶を飲んだ。少し渋かったので、砂糖を追加するよう給仕に言いつけた。
午後の採石場は思ったより遠かった。馬車で行けるのは山道の途中までで、そこから先は二人で歩かなければならない。リディアは靴底に小石が挟まるたびに立ち止まり、セオンに取り除かせた。
「まだ着かないの? あなた、昔はこの辺りに住んでいたと言ったでしょう」
「もう少し先です。父が働いていたのは採石場が閉じる前のことですから」
「だったら近道くらい知っているはずよ」
「近道は斜面を横切ります。足場が悪いのでこちらを進んだ方が早く着けます」
「歩かない人は何とでも言えるわ」
セオンは答えず、道のくぼみに足を取られたリディアへ手を差し出した。彼女はそれを当然のようにつかみ、危ない道だともう一度文句を言った。
採石場の入口には腰の高さほどの古い柵が残っていた。木材の一部は折れ、赤い立ち入り禁止の札は文字が読めないほど色あせている。山肌には暗い横穴が口を開け、その周囲に白い石のかけらが散らばっていた。
「ここでいいでしょう。入口の近くなら石を探せます」
セオンがそう言ったときリディアはすでに柵の向こうへ回り込んでいた。日の当たらない奥の壁に青白いものが見えたのだ。彼女が求めていた色と同じだった。
「ほら、あれ。あそこにあるわ」
「お嬢様。そこでお待ちください」
「あなたが取ってくるのでしょう。早くなさい」
セオンはランタンに火を入れてリディアに渡し、坑道の天井を見上げた。入口から奥へ延びる壁には古い支柱の跡があり、床には天井から落ちたらしい石が積もっている。
「奥に通気穴があります。昔は山の北側へ抜けていたそうですが、今は土砂が入っているはずです。ここから先は安全を確かめながら進みます」
「通気穴なんてどうでもいいわ。あの石を取って」
「お嬢様は私の後ろに。天井には触れないでください」
セオンが壁の石を調べている間リディアは数歩先に進んだ。奥の壁に見えた青白い光は、ランタンを動かすと普通の白い石になった。彼女は別の角度から確かめようと足元の石をまたいだ。
頭上で石がこすれる音がした。セオンが天井を仰ぐのと同時に細かな砂がリディアの肩へ落ちてくる。
「お嬢様、奥へ!」
背後からセオンの声が飛んだ。続いて天井の深いところで岩が割れるような音がした。リディアは反射的に走り、足をもつれさせて床に転がった。
大きな音が一度した。次にいくつもの石がぶつかる音が重なり、ランタンの明かりが白い砂ぼこりに埋もれた。リディアは両腕で頭を覆い、口を閉じたまま動けなくなった。
音がやんでも、しばらくは目を開けられなかった。耳の中で何かが鳴り続けている。顔を上げると、あたりは薄い白色にかすんでいた。来たはずの道は見当たらなかった。
「セオン?」
声が思うように出なかった。せき込んでからもう一度名前を呼ぶ。
「セオン! どこにいるの!」
返事はなかった。リディアは砂ぼこりを手で払い、床に倒れていたランタンを拾い上げた。ガラスにひびが入っていたが火は残っている。取っ手の熱さに顔をしかめ、布を巻いて持ち直した。
入口のあった場所は大きな岩と土砂でふさがっていた。その手前にも天井から落ちた石が山になっていて、リディアにはどれが元の道だったのか分からない。
「セオン。ふざけていないで返事をなさい」
返事はない。
さっき自分に奥へ行けと言ったのだから、セオンも後から来ているはずだった。リディアはそう考えて崩れた石の方へ一歩近づいた。だが上の方で細かな砂が落ちる音がしたため、すぐに足を止めた。
もし自分がその下にいたら。そう思ったところで急に膝が震え始めた。
「……何をしているのよ」
今度は独り言に近い声だった。
そのとき洞窟の奥で土をかく音がした。ざりと一度だけ。
リディアはランタンを持ち上げた。光の端に濃紺の布地らしいものが浮かび、背を丸めた人影が壁のくぼみの前にいるように見えた。
「そこにいたのね! 返事くらいしなさいよ!」
人影は振り返らなかった。土をかく音がもう一度した。
「入口はもうだめなの? ……そう。だったらそっちを掘って。私をこんなところで死なせるつもり?」
ランタンを持つ手が震えていたので、光も揺れた。リディアはそれが腹立たしく、取っ手を両手で握り直した。奥にいるのがセオンならあとは彼が何とかしてくれる。
そう考えるとようやく足を動かすことができた。
奥へ進むと天井が低くなった。昔の石切り場には途中で削るのをやめたらしい場所があり、腰をかがめなければ通れない。奥の壁には人一人が座って入れるほどの四角い穴が開いていたが、その先は白い土に埋まっていた。
セオンはその穴の前にいる。リディアにはそう見えた。肩の辺りまで砂がついた濃紺の背中が、ランタンを向けるたびに暗がりから浮かび上がる。
「そこが出口なのね?」
セオンは土をかき出しているようだった。細かな石が床を転がり、リディアの靴先に当たった。
「通気穴があると言ったものね。まったくあなたが覚えていなかったらどうするところだったのかしら」
答えはなかった。リディアは返事を待たず、座れそうな場所を探した。壁際には古い石板が二枚重なっていたが、土で真っ白になっている。
「ここに座れないじゃない。何か敷くものはないの?」
セオンが振り返らないのでリディアはしばらくその背中をにらんだ。結局、外出用の上着を脱いで石板に敷いた。どうせ帰れば洗わせるのだと思えば、惜しくはなかった。
腰を下ろしたところで、自分の左膝に痛みがあることに気づいた。ドレスを持ち上げると薄く血がにじんでいる。転んだときに切ったらしい。
「けがをしているのよ。分かっている?」
ざり、ざり、と土の音が続いた。
「聞いているの、セオン」
返事はない。
リディアは指先で膝の血をぬぐい、汚れた手袋を見て舌打ちした。新しい手袋を持たせていたことを思い出して荷物を探す。小さな革のかばんは自分の肩に掛かったままだった。替えの手袋と水筒、布に包んだ焼き菓子が入っている。
セオンが念のため持たせたものだった。リディアはそのことに感心するより先に、焼き菓子が一つしか入っていないと文句を言った。
「あなたの分はないの? 私のを分けてあげるつもりはないけれど何も食べずに働かれたら困るわ」
土をかく音は変わらなかった。
「まあ、いいわ。好きになさい」
リディアは水をひと口飲み、焼き菓子の端をかじった。口の中に砂が入っているようで味はよく分からない。残りを包み直し、かばんの底へ押し込んだ。
どれほど時間が過ぎたのか。入口の方へ目を向けても、崩れた岩の輪郭がぼんやり見えるだけだった。洞窟の外にいたときにはまだ日が高かったはずだが、今は夕方かもしれない。
「ねえ、もうすぐでしょう?」
セオンは答えなかった。
「あとどのくらいか聞いているのよ。せめて明るいうちに出られるのかくらい教えなさい」
しばらくすると土をかく音が止まった。リディアは顔を上げた。何か言ってくれるのかと思ったが、聞こえたのは小さな石が落ちる音だけだった。
「休んでいるの? 今?」
自分の声が高くなっているのを感じた。怒っているのではなく怖がっていると気づかれるのが嫌で、リディアはわざと語尾を強くした。
「別に休むなとは言わないわ。でも私がここにいるのを忘れないでちょうだい」
音は戻ってきた。三度、短く。少し間を置いてもう一度。リディアは膝を抱え、床に転がる石を見つめた。
セオンは昔から四つ目だけを遅らせる。出発の用意を整えるときも、道を選ぶときも同じだった。リディアは幼い頃からその指先を見てきたのに、何を考えていたのか一度も聞いたことがない。
「そのたたき方、今も変わらないのね」
セオンから返事はなかった。自分が聞き慣れた音に話しかけているのが妙に嫌でリディアは口を閉じた。
しばらくして、ランタンの炎が弱くなった。容器を傾けても油はほとんど残っていない。リディアはセオンへ明かりを向け、炎が暗くなったことを知らせた。
「予備の油は? あなたのかばんにあるんでしょう?」
返事はない。
「セオン。こっちに来て。明かりが消えそうなの」
声を張ると、天井から砂が落ちた。リディアは口を押さえた。さっきの崩落を思い出し、それ以上大きな声を出すことができなくなった。
奥で土をかく音が続いている。リディアはその音を聞きながら、ランタンを石板の上へ置いた。
炎は二度ほど細く伸び、最後に青白く縮んで消えた。
暗闇は、目を閉じたときの暗さとは違った。どこへ顔を向けても同じで、膝に置いた自分の手さえ見えない。リディアは両手を伸ばして石板の端を確かめ、壁に背中をつけた。
「……セオン?」
ざり。
「そこにいるのね」
ざり、ざり、ざり。少し遅れて、もう一度。
リディアはその音が聞こえる方へ顔を向けた。音が止むと、空気の中に自分の息だけが残る。もう一度動き始めるまでの間、彼女は唇をかんで待った。
水筒を開けようとして、蓋がうまく回せなかった。右手の指先がひどく痛い。手袋を脱ぐと爪の下に何か挟まっているようだったが、何も見えないのでそのままにした。
「もう、嫌だわ。早く帰りたいの」
言ったところで帰る方法がないことは分かっていた。彼女は水筒を抱え、暗がりに向かって続けた。
「帰ったらあなたには一日休みをあげてもいいわ。だから早くしてちょうだい」
土の音は続いていた。
一日では足りないだろうかと考え、リディアは二日と言い直した。声に出してから、休んでいる間は誰が自分の世話をするのかと思った。代わりの従者を探すのはアルベルトの仕事だろう。
そこまで考えているうちに、背中が石板からずり落ちた。慌てて体を起こしたが、何を考えていたのか思い出せない。喉が渇き、手が冷たくなっている。
「今、眠っていたの?」
もちろん返事はなかった。
リディアは立ち上がろうとして足を滑らせた。膝をついた床は湿っている。手をついた拍子に指先へ鋭い痛みが走り、思わず声を漏らした。
「セオン、手を貸して」
音が止まった。
リディアは暗がりに向かって手を差し出した。いつものように、目の前に指が触れるのを待った。けれど何も来なかった。
「……聞こえないの?」
返事がないまま時間が過ぎた。リディアは伸ばした手を引っ込め、自分で石板をつかんで立ち上がった。ドレスの裾が何かに引っかかり、布の裂ける音がした。
「帰ったら新しいのを作らせるわ。このドレスはもう着られないもの」
土をかく音が戻ってきた。
リディアは上着の上に座り直し、目を閉じた。暗くなったのだから目を閉じる意味はなかったが、そうしている方が落ち着いた。眠るつもりはなかった。
次に目を開けたときかばんが足元から消えていた。
手を伸ばして探すと、かばんは石板の反対側にあった。中の焼き菓子は布の包みごとつぶれており、替えの手袋にも白い土がついている。
「どうしてこんなところにあるのよ」
セオンを責めるつもりで顔を上げたが、声は出なかった。自分がかばんを動かしたのかもしれない。そんなことを覚えていないのが、ひどく嫌だった。
奥の音は途切れずに続く。リディアはかばんを抱き寄せてまだ中に残っていた焼き菓子を口に入れた。
砂をかんだような音が頭の中に響いた。
暗闇の中で何度目かに目を覚ましたとき、リディアは自分が横向きに寝ていることに気づいた。石板の上に敷いた上着はいつの間にか床へ落ちている。冷えた頬を押さえて体を起こすと、右腕が肩から指先までしびれていた。
「セオン、今は何時?」
返事の代わりに遠くで小石が落ちる音がした。
「お屋敷では騒いでいるでしょうね。アルベルトはきっと怒っているわ。私を見つけても最初にお説教をするに違いないもの」
そう言って笑おうとしたが、笑い声は出なかった。アルベルトの顔が見たくてたまらなかった。普段なら一時間も聞いていられない長い説教を、今は最初から最後まで聞いてもいいと思った。
リディアは水筒を振った。中身の音はもうしない。いつ飲み切ったのだろう。喉は痛み唇に付いた砂が取れない。
「水がないわ。何とかして」
いつもの命令が口をついた。セオンは土をかき出し続ける。リディアは腹を立てかけた。だが何をすれば水が手に入るのかを考えると、言葉が続かなかった。
壁を伝って奥へ近づいてみた。何度も通ったはずの短い距離なのに、足元の石の位置が分からない。指で岩の表面をなぞると冷たい水気があった。彼女は指先をなめたが、土の味しかしなかった。
「ねえ、聞いて。いったん休んでいいわ」
ざり、ざり。
「倒れられたら困るのよ。少しくらい休んでも私は怒らないから」
穴を掘る音が近くなった。いや、リディアが穴に近づいただけかもしれない。目の前に差し出した手は何にも触れず、彼女はそれ以上進むのをやめた。
「セオン」
返事はない。
「本当に、そこにいるのよね?」
音がやんだ。
リディアは耳を澄ませた。自分が立てる衣ずれも止め、息をできるだけ細くする。暗闇の奥からは何も聞こえない。もう一度名前を呼ぼうとして、今度は声が出なかった。
足元で小石が転がった。続いて三度短く土をかく音がした。一拍置いて、四つ目が聞こえた。
「何よ。驚かせないでちょうだい」
腹が立ったというより、文句を言えることにほっとした。リディアは壁を手探りして元の石板へ戻る。その途中で何か平たいものを踏み、靴が横へ滑った。
手をつくと硬い石の角が当たった。リディアはそれを持ち上げた。手のひらより少し大きい薄い石板で、片側だけが欠けている。指で縁を確かめると、欠けた部分が鋭かった。
「こんなところに置かないでよ。転んだでしょう」
暗がりへ向けてそう言い、石板を足元に押しやった。乾いた土が指に落ちた。つまんで払うのも面倒になり、そのまま上着を探した。
また眠ったらしい。
次に意識が戻ったときには、両膝に鈍い痛みがあった。頭上のどこかで細い水音がしている。最初は雨かと思ったが、手を上げても水滴は落ちてこなかった。
リディアは長い間、屋敷の寝台のことを考えた。温めてあるシーツと、朝になれば運ばれてくる茶と、窓を開ける前に必ず声をかけるセオンのことだった。
彼が毎朝どこで起きているのか、リディアは知らなかった。使用人の部屋が屋敷の西側にあることは知っている。ただ、セオンがそこで寝ているのかは知らなかった。ほかの人間と同じ部屋なのかも分からない。
「あなた、お休みの日は何をしているの?」
土をかく音がする。
「前にも聞いたかしら。……聞いていないわね」
休みの日に呼び出したことは何度もある。それでも彼がどこから来たのか尋ねた覚えはなかった。リディアは次の言葉を探した。
「帰ったらちゃんとした靴を買ってあげるわ。こんな場所を歩いたのだから、今の靴は傷んだでしょう」
少し待った。音は変わらない。
「新しいものが要らないなら欲しいものを言いなさい。何かあるでしょう」
答えはなかった。
考えてみれば、セオンが自分の欲しいものを口にしたことはほとんどない。そういう話をしようとしたことがあるのかさえ、リディアには思い出せなかった。
やがて奥から吹いてくる風が強くなった。髪が頬に触れ、リディアは顔を上げた。暗闇の向こうで小石が続けて転がる。セオンが塞いでいた土を崩したのだろう。
「風が来ているわ。もう外は近いのね」
嬉しくなって立ち上がると、膝の痛みに顔をしかめた。裾をたくし上げた指に泥が付く。替えの手袋を探したが、かばんの中には片方しかなかった。
「もう片方はどこへやったのかしら」
セオンのせいにしかけ、口をつぐんだ。かばんを探すより早くここから出たい。彼女は残った片方をはめ、もう一方の手を上着の袖に隠した。
奥で石が動く音がした。リディアは壁を頼りに進み、四角い穴の近くへ寄った。暗闇の中でも風の来る方向だけは分かる。顔の前を冷たい空気が通り、頬に張り付いた髪を揺らした。
「セオン、もう少しね。見える? 外はどんな様子?」
返事はない。
「外が明るいのなら教えて。こんなところに座っているのはもう嫌よ」
土をかく音がした。その後、重いものを押すような低い音が長く続いた。リディアは不安になって下がったが、崩落は起きなかった。
一筋の光が差した。
最初は目の錯覚かと思った。暗闇に慣れた目には針の先ほどの白さもまぶしい。リディアがまばたきを繰り返しているうちにその光は土の割れ目に沿って横へ伸びた。
「光よ! セオン、光が見えるわ!」
今度ばかりは返事を待った。褒めてくれとは思わない。せめて、もう大丈夫ですと一言言ってほしかった。
石が一つ落ちた。土が崩れ、割れ目が広がった。薄い青色の空が見えた。
リディアは割れ目へ手を伸ばした。何か硬いものが指先に当たり、慌てて手を引く。痛みが走ったが、今はそれどころではなかった。
「ねえ。これなら通れるんじゃない? 私が先に出るわ。あなたはその後でいいでしょう」
奥から返事はなかった。入口の方は相変わらず暗いままでリディアはもう振り返らなかった。
通気穴の口は思ったより狭かった。身を横にして肩を入れると、髪が岩に引っかかる。リディアは髪飾りを外して袖へ押し込み、膝をついて前へ進んだ。
ドレスの布が引かれた。腰を動かしても抜けず、リディアは苛立って裾をつかんだ。力任せに引くと、縫い目が裂けて体が前へ進んだ。
白い土が口に入った。片方だけ残った手袋は指先が破れ、むき出しの爪が石をこする。息が苦しくなって引き返そうとした。だが背後に足を引く余地がない。
「セオン! 後ろから押して!」
声が狭い通路に響いた。返事も手の感触もなかった。
リディアは歯を食いしばり、肘と膝で体を押し出した。肩が外へ出ると、ひんやりした風が首に当たった。次に顔が出た。湿った土のにおいではない、木の葉と朝の空気のにおいがした。
斜面に手をついて体を引き抜き、彼女はそのまま横へ転がった。足元から細かな石が滑り落ちる。目の前には白い雲が流れ、その向こうに山の尾根が見えた。
外だった。
リディアは何度も息を吸った。誰に言われたわけでもないのに笑い声が漏れた。ひどい格好をしていることも、髪が土だらけであることも、今だけは気にならなかった。
しばらくして座り直し、洞窟の穴を見た。人がやっと通れる大きさで、奥は曲がっているらしく何も見えない。
「セオン。私、出たわよ」
返事はない。
「聞こえたでしょう? 早く出ていらっしゃい」
リディアは膝に付いた土を払った。もはや払ったところでどうにもならないドレスだったが、手を動かしている方が待ちやすい。しばらくすると指が痛み始めたので、今度は袖で顔をぬぐった。
洞窟から音はしなかった。
「荷物なんて置いてきなさいよ。また取りに来ればいいでしょう」
答えはない。
彼女は穴に顔を近づけた。冷たい空気が流れてきて、開いた口の中が乾いた。暗い穴の奥からは人の気配がなく、ほんの小さな砂の落ちる音だけがした。
「……出られなくなったの?」
そう言ってから、自分が先に通路へ入ったことを思い出した。彼女が通ったせいで土が落ち、穴が狭くなったのかもしれない。もう一度中へ入って確かめようとしたが、肩を差し入れたところで体が動かなくなった。
リディアは慌てて後ろへ下がった。今度こそ抜けなくなる気がしたのだ。
「中から広げなさい。さっきまで掘っていたのでしょう!」
声を上げても、返事はなかった。
仕方なく彼女は穴の前へ座り、出てくるのを待つことにした。セオンが外へ出るとき自分の姿が見えなければ困るだろう。いつも置いてきぼりにするなと彼を叱っているのだから、今日は自分が待っていてやってもよかった。
山の上から日が差し、白い土がまぶしく光った。リディアは泥のついた手を膝に置いて待った。あれほど耳についていた土をかく音が、今は一度も聞こえなかった。
人の声が聞こえたのは太陽が谷の上まで昇ってからだった。
最初リディアはセオンが反対側の出口から回ってきたのだと思った。立ち上がろうとして膝が折れ、白い土の上に手をついた。声の方へ顔を向けると、斜面の下から数人の男が登ってきていた。
「お嬢様!」
先頭にいたのはアルベルトだった。普段は髪一筋乱さない家令が、上着の前を開けたまま斜面を登ってくる。リディアは思わず文句を言おうとしたが、口から出たのは自分でも驚くほど小さな声だった。
「遅いわよ」
アルベルトは彼女の前に膝をついた。汚れた顔を確かめ、頭と肩にけががないか慎重に手を当てる。後ろにいた使用人が水筒を差し出すと、家令は少量ずつ飲むよう言った。
「ご無事で何よりです。昨夜から皆でお探ししておりました。お体は動かせますか」
「足が痛いわ。それよりセオンを呼んできて。あの人はまだ穴の中なの」
リディアは振り返り、少し上に開いた黒い穴を指した。
「私を先に出してくれたのに、ちっとも出てこないの。荷物でも拾っているんでしょうけど、もう放っておけばいいのよ」
アルベルトの目が穴へ向いた。彼は使いの者に短く指示を出し、別の者へロープを持ってくるよう命じた。
「セオンもご一緒だったのですね」
「何を言っているの。私だけでこんなところへ来るはずがないでしょう」
「失礼いたしました。お嬢様はここでお待ちください。すぐに調べさせます」
リディアはもう待つのは嫌だと言った。だが斜面を下ろうとすると、足元がふらついてしまう。アルベルトが用意させた毛布を肩へ掛けられ、彼女は悔しそうに口を結んだ。
屋敷では夕刻になっても二人が戻らず、馬車を出した御者から行き先を聞いたという。御者は山道で二人を降ろしていたが、採石場へ向かったことまでは知らなかった。夜の間は山道と森を中心に探し、明るくなってから旧採石場へ捜索を広げたのだとアルベルトは説明した。
「それならもっと早く採石場を調べればよかったでしょう」
「お嬢様が採石場へ向かわれたとは誰も存じませんでした」
アルベルトはその先を言わなかった。リディアも言い返す言葉が見つからず、毛布の端を引き寄せた。
使用人たちは穴の周囲を調べてから、斜面が崩れない位置を選んで土を取り除き始めた。リディアが通った穴は狭すぎて、体の大きな男には入れない。人が安全に通れるまで広げるとなると、もう少し時間がかかりそうだった。
「セオンに中から掘らせれば早いのに」
アルベルトは振り向かなかった。作業の指示を終えてからリディアの隣へ戻り、持ってきた水をもうひと口勧めた。
「お嬢様は屋敷へお戻りになってください。こちらは私が引き受けます」
「セオンが出てきたとき私がいなかったら困るでしょう。ここで待つわ」
アルベルトは重ねて休むよう勧めたが、リディアは譲らなかった。彼は使用人に毛布を取りに行かせ、穴を広げる作業へ戻る。リディアは両手で水筒を持ったまま斜面を見上げた。
穴を広げた者たちが奥へ入ってからもリディアは入口の前を離れなかった。アルベルトまで中へ入るともう誰にも急ぐよう言えない。毛布を膝へ掛けたまま土を運び出す音を聞いていたが、その音もいつしか止まった。
戻ってきたアルベルトはリディアの目を見なかった。
「どうしたの。セオンは?」
「洞窟内で見つかりました。詳しいことは屋敷でお話しします。お体を診てもらわなければなりません」
「見つかったのなら、どうして出てこないのよ」
アルベルトは答えず、担架を呼んだ。リディアは大げさだからと断り、二人の使用人に支えられて山を下りる。途中で何度も振り返ったものの、斜面の穴からセオンが顔を出すことはなかった。
屋敷に戻ると、女中たちが一斉に集まってきた。湯を用意する者、着替えを取りに行く者、主治医を呼びに走る者が次々と廊下を行き来する。リディアはその慌ただしさに腹を立てる余裕もなく、自室の椅子に座り込んだ。
手袋を外そうとして、女中が息をのんだ。
「お嬢様、お手が……」
「そんなにひどいの?」
右手の爪は二本が欠け、指先に血がにじんでいた。左手も似たような状態で、掌には細い傷がいくつもある。手袋の破れ目には白い土が詰まり、袖の内側まで泥が入り込んでいた。
リディアは両手を見比べた。洞窟の中で何度か転んだことは覚えているが、こんなに傷が増えた覚えはなかった。
「まず湯を持ってきて。爪の間が気持ち悪いのよ。それから新しいドレスを……ああ、もういいわ。今日は寝台で休む」
女中たちはうなずき、いつもより慎重に彼女の身支度を手伝った。
主治医のヨハンが到着したのは屋敷に戻って間もなくだった。頭を打った形跡はないか、吐き気はないか、事故の前後に覚えていない時間はあるかと順番に尋ねられる。リディアは途中でうんざりしたが、ヨハンは質問をやめなかった。
「暗くなってから何度か眠ったわ。どれくらい眠ったかは知らないけれど」
「目が覚めたとき移動していたことはありませんでしたか」
「座っている場所が変わったことはあったわ。でも暗かったのよ。寝返りくらい打つでしょう」
「お手を傷つけたのはいつですか」
「転んだときよ。あの洞窟は床がでこぼこしていて歩きにくいの」
ヨハンは手の傷を洗い、爪の状態を確かめてから包帯を巻いた。治るまで水仕事や重いものを持つことは避けるようにと言われ、リディアは当然でしょうと答えた。
診察が終わると彼女はセオンのことを尋ねた。
「セオンはまだ帰らないの? 穴はもう広がったんでしょう?」
ヨハンは何も答えなかった。用具を片付ける手が一度止まり、それからまた動き始める。
リディアは嫌な予感がして椅子の肘掛けを握った。
午後になってアルベルトが戻った。作業着に替えていたため、リディアは一瞬誰だか分からなかった。家令は戸口で立ち止まり、女中たちを下がらせた。
「セオンは?」
「お嬢様。セオンのことをお話しします」
「それで? どうしてあなたと一緒に来ないの。私に謝るのが先でしょう」
アルベルトは答えなかった。リディアが眉をひそめると、彼は手にしていた帽子を胸の前で持ち直した。
「セオンは亡くなっておりました」
リディアにはその言葉が自分に向けられたものだと思えなかった。
「何を言っているの」
「洞窟の中で遺体を発見しました」
「だったら早く医者を呼びなさいよ。ヨハンがそこにいるわ。今すぐ連れていけばいいでしょう」
家令は帽子を握ったまま動かなかった。
「……セオンはどこで見つかったの?」
「最初に崩れた入口の近くです。大きな岩の下敷きになっておりました」
「入口?」
リディアは思わず立ち上がった。両膝に痛みが走って椅子の背につかまる。
「そんなところにいるはずがないでしょう。私を助けてくれたのは奥の通気穴よ。セオンはずっとそこで土を掘っていたんだから!」
「お嬢様、どうかお座りください」
「座っている場合じゃないわ。セオンが間違った場所に戻って、また崩れたのかもしれないでしょう。あなたたちが早く助けていれば……」
「セオンは最初の崩落から動けなかったと考えられます」
アルベルトの声は低かった。リディアが言い返す前に横にいたヨハンが口を開いた。
「私も遺体を確認しました。胸と頭に重い岩が落ちています。事故の後に歩いて通気穴まで移り、長い時間穴を掘ることはできなかったはずです」
リディアはヨハンを見た。医師は表情を変えず、事実を一つずつ並べている。
「でも、死んだのは後かもしれないわ。私が外に出た後で戻ったのよ。入口が開くか確かめようとして、そこで……」
「お嬢様が通られた奥の通気穴と、最初の入口は別の場所です。入口は大きな岩でふさがれ、セオンの体はその下にありました。後からそこへ戻ったとは考えにくいのです」
ヨハンは言葉を切った。リディアは自分の呼吸が速くなっていることに気づき、閉じた唇の間から息を吸った。
「では誰が穴を掘ったの?」
二人は答えなかった。
「聞いているのよ。誰が私を外へ出してくれたの?」
アルベルトは目を伏せた。ヨハンは少し間を置いてからリディアの包帯に覆われた手を見た。
「お嬢様の手には、長い時間、硬いものを握ったような傷があります。爪の下には採石場の白い土も入っていました」
「転んだのよ。何度も言わせないで」
「そうかもしれません。ただ穴の土を取り除く作業でも同じような傷はできます」
リディアは包帯の巻かれた手を背中へ隠した。ヨハンが見ているのは分かったが、手を元に戻す気にはならなかった。
「私が掘ったとでも言うの?」
「その可能性はあります。暗い場所で長時間過ごした後は、出来事の順序や自分の行動を思い出せないことがあります。お嬢様も、眠っていた時間をよく覚えていないとおっしゃいましたね」
「私は眠っていたのよ。セオンが働いている間ずっと寝ていたの」
「ずっととまではお聞きしていません」
医師はそこで説明を止めた。彼女の記憶にないことを、診察だけで決めることはできないのだという。
リディアは何度か口を開いたが、適当な言葉が見つからなかった。暗がりに向かって手を差し出したことも、痛む膝を押さえていたことも覚えている。その間、セオンは土を掘っていた。あの音だけは今でも耳の中に残っていた。
「あなたたち、穴を見たのでしょう。セオンが使っていた道具はなかったの?」
「奥の通気穴では薄い石板が見つかりました。土をかくのに使われたかどうかは分かりません」
「それよ。セオンは石板で掘っていたの」
アルベルトはすぐにはうなずかなかった。リディアはその顔を見て、彼が何を考えているか分かった気がした。
「私が石板を使ったと思っているのね」
「決めつけているわけではございません。お嬢様が自分で出口を広げられたとしても不思議ではないという話です」
「じゃあ、あの人はどこにいたの。私が見たのは誰だったの?」
アルベルトは答えを持っていなかった。
リディアは崩落した直後のことを思い返した。ランタンの明かりの端に濃紺の背中があった。いつものように背を丸めて、前を向いていた。そう思ったから、彼女は自分が助かると信じたのだ。
けれど彼が振り返ったところは見ていない。
呼べば返事をするはずの従者は一度も返事をしなかった。いつからそうだったのだろうと考え、リディアはようやく思い当たった。崩落の前にセオンが「奥へ」と叫んだ。それが彼から聞いた最後の言葉だった。
「……あの人の顔を、見ていないわ」
アルベルトが顔を上げた。
「洞窟の中で、セオンが振り向いたところを見ていないの。ずっと背中を向けていたから。暗くなってからは、声しか……」
リディアは言い直せなかった。声も聞いていないのだ。名前を呼んで文句を言い、休みをやると約束した。それでも返ってきたのは土をかく音だけだった。
部屋の窓が開いていた。庭師が外で道具を片付ける音がして、リディアはびくりと肩を動かした。庭師の声だと分かるまで、アルベルトもヨハンも話しかけなかった。
「お願い。二人とも出ていって」
リディアがそう言うと、アルベルトは一礼し、ヨハンを伴って部屋を出た。扉が閉まった後も、彼女は背中へ回した両手を動かせずにいた。
その晩は食事を半分ほど残した。女中が理由を尋ねると、リディアは食欲がないと言って皿を下げさせた。空になった盆を見て、セオンがいたなら温かい茶を持ってくる頃だと思った。
呼び鈴へ手を伸ばすと、指先の傷が痛んだ。彼女は鈴に触れないまま手を引っ込めた。廊下には夜番の女中がいる。鳴らせばすぐ来てくれるだろう。
けれどいつもの名を呼ぶとあの洞窟のように返事がない気がした。
翌日アルベルトがセオンの所持品を見せに来た。小さな折り畳み式のスコップは、採石場へ出かける前に念のため持っていったものだった。
「作業に使った跡は?」
リディアが尋ねると、アルベルトはスコップの刃を見せた。古い細かな傷はあったが、新しく土を掘ったような汚れはない。折り畳まれたまま、セオンの上着の内側から見つかったのだという。
「どうして、使わなかったのかしら」
声に出してから、リディアは口を閉じた。セオンが使わなかったのではない。使えるところまで行けなかったのだ。自分が見たはずの背中と、岩の下にいた彼の姿を、どうしても重ねられなかった。
「セオンはお休みの日に何をしていたの?」
突然の問いにアルベルトは少し驚いたようだった。
「申し訳ありません。仕事のこと以外は私もほとんど聞いたことがありません」
「そう」
「何かお聞きになりたいことがあればほかの者にも尋ねてみます」
「別に。聞いてみただけよ」
アルベルトはそれ以上尋ねなかった。スコップを布で包み直し、持って出ていった。リディアは閉じたままだった刃の形を思い返した。
葬儀は三日後に行われた。
リディアは何を言えばいいか分からなかった。採石場へ行くよう命じたのは自分であり、彼が反対していたことも覚えている。守ってくれたと口にすれば、確かめようのないことを言う気がした。かといって違うと言うこともできなかった。
棺が土の下へ下ろされてから、彼女は包帯の巻かれた手を胸の前で重ねた。参列者が帰り始めても、その場を離れる気になれなかった。
アルベルトが迎えに来たとき、手に小さな包みを持っていた。リディアが使われた跡を尋ねたスコップだった。彼女が受け取ると、折り畳まれた柄は包帯の巻かれた手の中に収まった。
リディアは墓の前で一度だけ口を開いた。
「セオン。私、外で待っていたのよ」
言った後で、自分が何を弁解しているのか分からなくなった。返事はなかった。彼女は続きを言わず、家令と一緒に屋敷へ戻った。
夜になっても眠れなかった。女中に髪をほどいてもらい、寝台に入るところまで手伝わせた。だが掛け布を直されると落ち着かず、また起き上がってしまった。
「もういいわ。あとは自分でできるから」
女中は不安そうな顔をしたものの、リディアが繰り返すと一礼して出ていった。扉が閉じる。室内には小さなランプだけが残り、壁に掛かった衣服の影が長く伸びた。
リディアは寝台の端へ腰を下ろし、自分で掛け布を引き上げた。包帯の下がむずがゆい。医師には傷が治るまで触らないよう言われていたので、指を曲げるだけで我慢した。
机の上には受け取ったスコップがあった。リディアは包みを解かずに手を置いた。布の下に固い柄の形が伝わる。
三度、短い音がした。
リディアはスコップから手を離した。音は止まったが、脈が速い。廊下で誰かが歩いたのだろうと思い、耳を澄ませた。
一拍置いてもう一度こつと鳴った。
寝台の木枠が鳴ることもあるし、夜番の女中が戸を閉めたのかもしれない。リディアは膝の上に置いた手を見た。
包帯の端から白い粉がこぼれていた。
医師に洗ってもらったはずの指先に採石場の土が残っていたのだろうか。リディアは親指で払おうとしたが、包帯が邪魔でうまくできなかった。指を開くと、細かな白い粒が寝台の上へ落ちた。
部屋の奥で、ざり、と何かをかく音がした。
リディアは顔を上げた。ランプの明かりは壁際まで届いている。そこには誰もいない。窓の留め金も閉まっていた。
音がもう一度した。
彼女は寝台から下りず、包帯の巻かれた両手を膝に押しつけた。誰かを呼ぼうと口を開いたが、廊下にいる女中の名がすぐには出てこなかった。
暗い洞窟で何度も呼んだ名なら今でもすぐに言える。
リディアは唇を閉じた。
三度、短く。一拍置いて、もう一度。
彼女は朝まで誰の名も呼ばなかった。




