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未完成の供物

「お前は選ばれた」


刃先が喉元に触れたまま、司祭は言った。


その声は、祈りのときよりも低く、硬かった。


「あなたの子の代わりですか」


一瞬、彼の瞳が揺れた。


「違う」


だが声は掠れていた。


「あの子は……意味なく死んだ」


村人たちは動かない。

膝をついたまま、頭を垂れたまま。


誰も祈っていない。


ただ、待っている。


「だから私に意味を押しつける?」


私は笑った。涙と鼻水で顔を汚しながら。


「あなたは神を信じていない。信じたいだけだ。あの子の死が無駄じゃなかったと、言いたいだけだ」


沈黙。


司祭は低く呟いた。


「憎かった」


「何が」


「お前が、生きていることが」


刃がわずかに動く。

皮膚が裂け、温い血が滲んだ。


鉄の匂いがした。


その瞬間、私は恐怖で全身を震わせた。


死にたくない。


意味などいらない。


ただ、生きたい。


「私はあなたの物語じゃない!」


叫んだ。


その声は、聖堂の石を震わせた。


刃は、止まらなかった。


正確には、止めようとはしていなかった。


司祭の腕は重く、確かだった。


紅い月は空にかかり、白布は正しく敷かれ、私の両手は台の上に揃えられている。


すべては整っていた。


あとは、切るだけだった。


「……やだ」


それが最初に出た言葉だった。


神も、贖いも浮かばない。


「やだ」


情けない声だった。


「わたしは……」


胸の奥で何かが暴れる。


「わたしは、あんたの子じゃない」


声が裏返る。


「死んだ子のかわりじゃない」


背後で、誰かの呼吸が乱れた。


誰かが、小さく舌打ちをした。


私は必死に首を振る。


刃が皮膚を浅く削り、血が伝う。


「見てよ」


泣きながら叫ぶ。


「わたしを見てよ」


声が破れる。


司祭の視線が、落ちてくる。


そこにあったのは聖女ではない。


涙と血で顔を汚した、ただの子どもだった。


神に捧げるには、あまりにも。


彼の喉が鳴る。


「意味が……」


声が割れる。


「あの子は、何もなく死んだ」


背後で、誰かが低く呟いた。


「……ならば、今こそ」


別の声が重なる。


「理由を」


祈りではない。


要求だった。


私はまだ震えている。


「わたしは、生きたい」


それだけだった。


司祭の指先が、かすかに揺れた。


刃先が、わずかに逸れる。


村人たちの頭が、同時に持ち上がった。


視線が、彼の腕に集まる。


司祭は動かない。


刃を押し込まない。


だが、引きもしない。


月は紅いまま。


誰も祈らない。


誰も赦さない。


金属が石床に落ちるまで、わずかな時間があった。


乾いた音が響いた。


それは奇跡ではなかった。


意味の、音だった。

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