物語
その夜、司祭は鐘を鳴らさなかった。
理由の夜、月は本当に紅かった。雲の薄膜が光を濁らせ、血のような色を谷底に落とす。
村人たちは、耳のない横顔でひざまずいていた。
鐘が鳴らないことに、誰も異を唱えなかった。
代わりに、聖堂の内側を満たしていたのは、石を擦る音だった。
祭壇の前、床の継ぎ目にこびりついた黒ずみを、村人たちは削り落としていく。
祈りの言葉はない。歌もない。ただ、爪先を揃えた膝のまま、順に立ち上がっては石に布を押し当て、削り出された粉とともに古い血の痕を拭い取っていく。
それは清めではなかった。
場所を整えるための作業だった。
持ち寄られた初穂の麦が、石壁に叩きつけられる。
潰れた粒から立ち上る甘い匂いが、湿った空気に混じった。
誰も私を見なかった。
代わりに、私が横たえられるはずの石の台を見ていた。
司祭の足音が、遅れて聖堂に入ってくる。
重く、擦るような歩き方だった。
彼は祈りを始めたが、その言葉は天を仰いでいなかった。
途中で聖典の一節を飛ばし、同じ祈句を二度繰り返す。だが、彼は自分の間違いに気づく様子もなく、ただ機械的に唇を動かし続けた。
祈りが終わると、村人たちは一斉に頭を下げた。
合図を待っていたかのように。
「供物の位置へ」
その声は、祈りよりもはっきりしていた。
私は石の台に背を預ける。
冷たさが、肩甲骨を通して背骨に触れた。
白布が敷かれる。
私の手首の位置を確かめるように、誰かが布の端を引いた。
司祭は私の名を呼ばなかった。
背後で、村の誰かが息を呑む。
別の誰かが、自分の左耳の傷跡を指でなぞる音がした。
それは合図ではない。
ただの確認だった。
―私の脳裏に浮かんだのは、美しい思い出ではない。
高熱で火照った幼い肌の熱さ。喉を鳴らす喘鳴。
寝台のシーツを濡らした、酸っぱい汗の匂い。
紫色に変わった爪が、最後に布を掴んだ。
……指が、離れた。―
司祭は、左耳を切る祈りのしぐささえも忘れていた。
天井の亀裂から、紅い月光が細い糸のように垂れ下がり、私の喉元を正確に射抜いている。
「これで、すべてが整う」
彼は刃を持って立った。
手は震えていない。
だが、その背後で、膝をついたままの村人たちの視線が、彼の腕に注がれていた。
祈りではない。
要求だった。
頭が理解を拒んでも、私の肉体だけが静かに震え始める。
逃げ場のない石の上で、
月光と、視線と、刃が、同時に私の喉元に集まっていた。




