油断と安心
三題噺もどき―ななひゃくいち。
程よく冷えた空気が室内を支配している。
ここ数日は、さすがに暑い日々が続いていて、冷房を付けずにはいられない。耐えてもいいことはないからな……電気代は痛くなるかもしれないが、健康には変えられない。
私自身はそこまで気にするような質でもないが、従者がうるさいもので。
「……」
その冷房が出すかすかな機械音が、静かな部屋に響いている。
合間に聞こえる秒針の音は、規則的で心地がいい。
口の中にある飴をかじると、ガリ―という音で頭がいっぱいになる。
更にそれを口の中で遊んで見れば、歯に当たって軽やかな音が聞こえる。
口いっぱいに広がり、鼻腔まで届くようなオレンジの味が、暑い夏にぴったりなさわやかさを届けてくれる。
「……」
ころころと飴の欠片を転がしながら、ついでにマウスも動かしていく。
パソコン画面では小さなカーソルが動きに合わせて画面端へと移動する。
画面端に表示された“×”を、クリックし、表示されていたウィンドウを閉じる。
―本日の業務は終了だ。
「ふぅ……」
まぁ、最低限のタスクが終わっただけで、仕事はまだあるのだが。
それは、今すぐに必要なものではなし。時間的にも丁度いいタイミングだ。
一端、休憩を挟むとしよう。
「っく――」
固まった体をほぐすように、椅子の上で伸びをする。
治しようもないし、治そうと思ってはいるが行動に移すほどではない、この猫背も慣れてくると楽ではある。よくはないだろうけど。
伸びをするたびに、小さく軋む骨の感覚が体内に響く。癖になるようなものではない。生憎そんな趣味はない。
「――、」
しかしまぁ、慣れはしたが、こういうパソコン業務というのはあからさまに体に支障を来たすな。それなりに体力はあるし、人間に比べれば色々と身体的には上回っているだろうが、それでも尚、疲れたと言う感覚が分からなくもないほどには支障が出ている。
これを何十年も続けている人間はもう……それ相応に体が対応して慣れ切っているのだろうか。考えられない……。
「――」
更に体を伸ばしていると、煌々と光るパソコン画面が目に入る。
ランダムに設定されている背景は、今日は百合の花が咲いていた。
そうか、そろそろそんな時期だろうか。今の時期は何が咲いているのだろう……テッポウユリとかだろうか。よく見る形の百合だな。まぁ、正直品種の違いは分からないが。
「――」
そのまま、更に上体をそらして、壁に掛けられている時計を見る。
そこまでしなくても見えるのだけど、伸びのついでである。
ギシギシと椅子が軋み、悲鳴を上げる。
かけられた重さに対してドンドンと倒れていく。
足はとうに床から離れ。
―バランスが崩れた。
「――ぁ」
ぐらりと、大きく後ろに傾き。
咄嗟に動けたらよかったのだけど、家の中だからと油断していた。
反射で口内に残っていた飴をそのまま飲み込んだ。嚙み砕いていてよかった。
―そのままの勢いで椅子ごと倒れ込み、明らかにただ事ではないような音が響いた。
「――っ」
伸ばしていた背骨に衝撃が走り、ズキズキと痛む。
頭こそぶつけなかったものの、背中から腰に掛けてものすごく痛い。
というか、ヤバイ。アイツが―
「……なにしてるんですか」
「……」
こんなに冷ややかな目で主人の事を見るやつはコイツぐらいしかいないと思う。
開いた部屋の戸の奥から、チョコレートの甘い香りがここまで届いていた。
多分、そろそろ呼びの来ようと思っていたところに音が響いたから急いできたんだろう。基本的にリビングの戸は閉めてから来るからな。
「……いや、」
「……」
どう言い訳しようにも、見たらわかる通りに椅子ごと倒れたとしか言いようがないわけで。
先週面倒事を片付けた後の、大きな物音だったから万が一があると思わせたんだろう。
コイツはあまり動じることなんてないから、申し訳ないことをした。
「……はぁ、大丈夫ですか」
「あぁ、うん」
大きなため息の中に、安堵と呆れが混じっていた。
ここで手を差し伸べてこないあたり、コイツらしい。
「休憩にしますよ」
「すぐ行く」
切り替えが早いのも、コイツらしい。
私もさっさと立ち上がって、休憩に向かうとしよう。
チョコレートのいいにおいに、痛みは緩和されたからな。
「……何で倒れたんですか」
「なんで……油断していたから?」
「らしくないですね」
「……それだけここの居心地がいいんだよ」
「……そうですか」
お題:オレンジ・チョコレート・百合