その笑顔の裏側に
はじめての投稿です。
ライト国の空は、いつもどこか透き通って見える。澄んだ青と、時折吹く高原の風。そしてその中を歩く、一人の少女のポニーテールが、光を受けてしなやかに揺れた。
藍色の瞳に強さと優しさを秘めたその少女―ハオリ・ライトは、今日も「姫」としてではなく、一人の戦士のように国を歩いていた。
「……また訓練場ですか、ハオリ様。」
そう声をかけたのは、いつものように彼女のそばにいる金髪の青年、フィル・エルグレア。ライト国騎士団の団長であり、そしてハオリの専属騎士。だが、それ以上に、彼は彼女の「婚約者」だった。
「ええ。今日はちょっと、魔力の調整もしたいから。フィルも一緒に来てくれるでしょう?」
「もちろんです。……あなたが無茶さえしなければ。」
その言葉に、ハオリは小さく笑った。まるで何も問題なんてないように、柔らかく、優しく。
けれどその笑顔の奥にあるものを、フィルだけは知っている。
誰にも見せない涙。
誰にも話さない痛み。
誰にも頼らない覚悟。
彼女はいつも「大丈夫」と言う。それは強さでもあるが、脆さでもあった。
「……笑わないでください、本当に。無理して笑うぐらいなら、怒ってくれた方が安心します。」
「フィル、私の笑顔を否定するの?」
「いいえ。……ただ、俺だけには本音を見せてほしいと思っただけです。」
訓練場の片隅、風が舞った。ハオリのリングが小さな光を放ち、ダガーへと変わる。細身で美しい銀の刃。それを構える彼女は、まるで戦場の華のようだった。
「本音なんて……見せたら、泣いちゃうかもしれないわよ?」
「それでもいい。俺は、あなたの涙も笑顔も全部見たいんです。」
その言葉に、ハオリは少しだけ目を伏せた。刃を下ろし、肩を落とす。
「……ねえ、フィル。私、間違ってない? こんなに強くあろうとすること。」
「間違ってません。あなたは誇るべき姫で、俺の大切な人です。」
言い切る彼の声に、嘘はなかった。誰よりも真っ直ぐなその瞳が、ハオリの心を温める。
「……ありがとう。フィルがそばにいてくれるだけで、私は……ちゃんといられるの。」
その言葉は、ほんの少しだけ震えていた。
「じゃあ、俺がもっとそばにいましょうか。……こうして、触れていてもいいですか?」
フィルが差し出した手を、ハオリはそっと握り返す。ふわりと髪が揺れ、二人の影が重なった。
どんなに辛くても、彼女は笑う。
だが、その笑顔を守るために彼はいる。
そして彼女もまた、彼の存在に救われていた。
風が止み、静寂が二人を包む。
手をつないだまま、フィルとハオリは訓練場の片隅、陽だまりの中に座った。
「……昔はこんなふうに手をつなぐだけで、ドキドキしてたのにね。」
ふとこぼれたハオリの声は、どこか照れていて、優しかった。
「今も、俺はしていますよ。」
フィルはさらりと言って、繋いだ手にすこし力を込める。ハオリの頬がほんのり朱をさすのを見て、彼の胸が少しだけ熱くなった。
「ずるいわ、そういうところ。何でもないみたいに言うんだから。」
「俺の全部は、あなたにとってだけ“特別”ですから。」
「……ほんとにずるい。」
そう言いながらも、ハオリは繋がれたその手を離そうとはしなかった。むしろ、少しだけ指を絡めるようにして、強く握り返してきた。
「昔、あなたが騎士団に入ってすぐの頃――――私、まだ10歳だったでしょ?」
「ええ。あの頃のあなたは、今よりもっとお転婆で……でも、泣き虫でもありましたね。」
「う……覚えてたのね。忘れてほしかったなぁ。」
「忘れるわけがないでしょう。俺は、あの日からずっと―――――あなたしか見ていませんから。」
ハオリの目がぱちりと見開かれた。普段は姫として、気高く凛とある彼女が、こんな風に狼狽えるのは珍しい。
「……それって、いつから? 本当に?」
「10歳のあなたが、傷ついた兵士に『泣かないで、あなたの痛みは私が抱えるから』って言ったときです。」
「え……」
「まだ小さな手で、その人の手を取って微笑んで。自分のドレスが汚れることも気にせず膝をついて、必死に支えようとしていた。」
「……覚えていたの?」
「忘れられるはずがない。その時、俺は……初めて“守りたい”と思った。命に代えてでもって。」
ハオリはもう何も言えなかった。ただそっと、フィルの肩に寄りかかる。
「……ねえ、フィル。もし、私が笑えなくなったらどうする?」
「その時は、俺が笑わせます。……それが無理でも、あなたが泣けるまで隣にいます。」
「……うん。」
藍色の瞳に、初めて光る涙がこぼれ落ちた。
「……だめね、私。決めてたのに。誰の前でも泣かないって……」
「誰の前でも、でしょ? “俺の前では”って言ってない。」
「……ああもう……やっぱりずるい。」
そう言いながら、ハオリはフィルの胸元に顔を埋める。フィルはその背にそっと腕を回し、静かに抱きしめた。
陽の光が二人を包む。静かで、甘くて、あたたかな午後。
騎士と姫。すべてを背負う二人の時間は、誰にも邪魔されない、特別なものだった。
「フィル。」
「はい。」
「……今だけは、姫じゃなくて、ハオリとして……甘えてもいい?」
「もちろんです。いつまでも、あなたの居場所でいます。」
甘やかな香りが風に混じる。それはきっと、恋という名前の魔法。
――――――もう、笑顔の裏に隠さなくてもいい。
この人の前だけは、ありのままの私でいられるから。