#7
─ 7月3日 RAARA OBSERVE ─
ラァラは、舗装されていない山道を降りていた。
木々の葉は、乾いた灰を被って白く変色していて、踏みしめるたびに細かい塵が靴の裏から舞い上がる。
背中の赤ちゃんは、静かだった。
呼吸の音すら感じないほどに小さく、でも確かに温かい命が、ラァラの背にしがみついていた。
遥香と莉杏は、まだあの場所にいる。
燃えてしまったあの聖地に。
そういう筋書き。
でも、ラァラは、それを口にしない。
それを口にしたら、嘘をつくことになる。
嘘は、調べたらどこかですぐにバレるから。
だから、ラァラは全部、ありのまま、本当だけを言う。
必要以上のことは、言わない。
何ひとつ嘘をついていない嘘――それが、莉杏と交わした最後の約束。
莉杏はすべて辻褄は合わせてあると言った。
大丈夫。
◆・◆・◆
村の入口に差しかかると、急に空が広くなった。
山の陰に沈みかけた陽が、視界に差し込む。
空気がほんのり赤く染まっていて、ラァラはそれを「夕方」と認識した。
もう「帰るべき場所」も「行くべき場所」もない。
村の道端に立っていると、自転車に乗った見知らぬおじさんがこちらに気づいて、速度を落とした。
その人は、眼鏡をしていて、もじゃもじゃの髭を白いバンダナで覆っていた。
ちょっとぽっちゃりしていて、目は優しかった。
「どうしたの? 迷子かい?」
ラァラは少しだけ考えてから、言葉を選んで答えた。
「今夜の寝場所を探しています」
簡潔で、正直で、正確な答えだった。
嘘は混じっていない。
言っていないことは、あるけれど。
「ええと、パパとママは?」
ラァラは首を横に振った。
「いません」
おじさんは、言葉を失ったように口を開いたまま、数秒だけ私を見ていた。
そして、ぽつりと漏らす。
「マジか……」
驚くのは当然だった。
ラァラは、ひとりで歩いていた。
それも赤ちゃんを背負って。
年齢的に言えば、ラァラも大差がないくらいなのに。
おじさんは、自転車を道端に止めて、頭を掻いた。
彼は困っていた。
でも、それは責任を持ちたくないという困り方ではなくて、どうすれば正しい選択ができるのかを考えている人の表情だった。
ラァラは、それを見ていた。
ただ見ていた。
何も言わず、何も求めず。
しばらくして、おじさんが声をかけてきた。
「……よし、とりあえず、おじさんと警察行こうか。
事情はそこでちゃんと話せば、寝る場所もなんとかしてくれると思うよ」
ラァラは、頷いた。
それは想定の範囲内だった。
もともと、ラァラは莉杏から託された証言者だったから。
ラァラが話すことで、行方不明になった彼女たちの存在が、より現実になる。
遥香と莉杏はあの山火事に巻き込まれずに、どこかで生きているだろう。
でも、ラァラはそれを教えない。
遥香と莉杏はあの山火事に巻き込まれた、と嘘も言わない。
聞かれた事だけをありのまま答えて、後はただ、全部、「わかりません」と言うだけ。
赤ちゃんの重みを背に感じながら、ラァラはおじさんの後を歩き始めた。
道の先にある交番までの距離は、たぶん、そんなに遠くはなかった。
けれど、私にとっては、今まで歩いてきたどの道よりも長く、そして大切な道のりになるのだと、なぜかそんな気がしていた。
交番は、村の商店街のはずれにぽつんと建っていた。
夕暮れが完全に夜に変わる前の、一番影が長くなる時間だった。
街灯のひとつが点いて、道路に白い光がこぼれている。
ラァラの影は赤ちゃんごと長く引き伸ばされていて、それを見ていると、まるで誰かと一緒に歩いているような錯覚がした。
◆・◆・◆
「よし、着いた」
おじさんは、ラァラの歩幅に合わせて、あまりにも丁寧に歩いてくれた。
ラァラは、それに対して特に感謝の言葉を返さなかったけれど、きっと彼には伝わっていたと思う。
ラァラが黙ってついていくことが、何よりの承諾だったから。
交番の中には、警察官が二人いた。
片方は若くて、もう片方は少し年配。
制服の袖が少しほつれていて、彼らが長い時間ここで日常を守ってきたことが分かった。
おじさんは、彼らに軽く頭を下げてから、話し始めた。
「あの、この子、山道を赤ちゃんを背負って歩いてて……
ちょっと話を聞いてあげてもらえませんか。身寄りがないみたいで……」
おじさんの声が、少しだけ震えていた。
たぶん、どう言葉を選べばいいのか迷っていたのだろう。
ラァラの立場を正しく伝えようとして。
警察官の一人が椅子を勧めてくれた。
ラァラはそこに、ストンと座った。
赤ちゃんは、まだ眠っていた。
深く、静かに。
背中に感じるその呼吸だけが、現実と私をつないでいた。
「お嬢ちゃん、パパとママは?」
ラァラは首を横に振る。
「んー……その赤ちゃんは?」
「莉杏の子です」
「りあん? ああ、その子のママの名前かな?
その子のママは今どこにいるの?」
「遥香と一緒に旧蠚破甦郷まで行きましたが、ラァラだけ村に降りてきました。
赤ちゃんは莉杏から預かりました」
「旧蠚破甦郷って……消防が今、山火事の対応にあたってるあそこから?
預かったって……ママはどこにいるんだい?」
「おい……」
「どうした?」
警察官たちがひそひそと話する。
「その遥香と莉杏って……捜索願いが出てるこの……」
「まさか……江瑠戸遥香さんと相舞巳莉杏さん……」
一人の警察官は慌ててどこかに連絡をしに行った。
「お嬢ちゃんは、どうして旧蠚破甦郷なんかに?」
「自殺しに来ました」
言葉を切らずに、ラァラは続けた。
「でも、ラァラだけ、残されてしまいました。
ラァラは、どうしたらいいでしょう」
それは、ただの説明ではなかった。
自分の感情を込めて言ったつもりはなかったけれど、声が少しだけ震えていたことには、自分でも気づいていた。
おじさんが、肩を震わせた。
目を丸くして、私を見ていた。
たぶん、彼は想像していなかったのだろう。
まさかこの小さな子どもが、そんな言葉を口にするなんて。
でも、それは事実だった。
この命を終わらせるために、ラァラはこの場所に来た。
それはラァラの意思ではなく、状況の選択だった。
だからこそ、ラァラは誰にも責任を押し付けるつもりはなかった。
ただ、正しく記録されればいい。
それがすべてだった。
警察官たちは、一瞬だけ顔を見合わせて、それからもう一度、優しい声で言った。
「ちょっと、お話を聞かせてもらえるかな。
こっちに来てもらっていい?」
ラァラは頷いた。
それが、ラァラの役割だったから。
証言者として、ただ正確に、ただ事実だけを言う。
それが、誰かの代わりに火の中から拾い上げる、唯一の仕事だった。
◆・◆・◆
赤ちゃんの温度を背に感じながら、ラァラは一人、事情聴取室へと案内された。
無言のまま歩きながら、ラァラは一つだけ確かめるように、背中の小さな命をそっと手で撫でた。
……大丈夫。
あなたは、ラァラが守るから。
誰にも、踏みにじられないように。
事情聴取の部屋は白くて、寒いほど静かだった。
蛍光灯の明かりが、机に置かれた録音機器の黒い表面を照らしている。
ラァラは、与えられた椅子に小さく座り、手の上に赤ちゃんを乗せていた。
赤ちゃんは、ずっと眠っていた。
泣きもせず、微かに動く胸が、この子がまだ生きていることの唯一の証だった。
「──では、そこまではずっと一緒に行動をしていたんだね?」
ラァラは頷いてから、言葉を整える時間を少しだけ使った。
「そうです。莉杏の赤ちゃんが生まれるまで、全員で一緒に行動していました」
そのときの記憶は、雨の中の焚き火のようにゆらゆらしていた。
「赤ちゃんが生まれた後は?」
「その夜は、一晩寝て……自殺をするのは、また次の夕方にすることになりました」
ラァラは“また”という言葉に自分でひっかかったけれど、口には出さなかった。
あのときラァラたちは、何度も「次の夕方」に命を預け直していた。
「一晩も空いている理由は?」
「もともと、夕日を見ながら一緒に死のうという話でした。
莉杏の赤ちゃんが生まれたので、夜になっていました。
……夜は夕日が見れません」
ラァラは事実だけを述べた。
ここが3人で一緒にいた最後のタイミング。
「確かに」
「次の日、ラァラは赤ちゃんを預けられて、麓の村に降りました。
赤ちゃんのミルクを買うためです。
お金は遥香から貰いました」
ラァラはポケットから、小さな財布を出して差し出した。
「これが、遥香から預かったお財布です」
「たしかに……これは江瑠戸千佳さんの所持品だ。
……こいつを鑑識に」
いくら裏を取っても無駄です。
それを調べても、何も出てきません。
私は赤ちゃんを見下ろした。
すやすやと眠っているその顔は、誰にも似ていないようで、誰にも似ているようだった。
「……ということは、証言通り、江瑠戸遥香さんと相舞巳莉杏さんは、そのまま旧蠚破甦郷に?」
「その後の事は、ラァラは何も知りません。
ミルクを買った後、おばあさんの家でお茶とお菓子をごちそうになって……夕方に戻ろうとしたら、聖地は燃えていました」
ラァラは、そこで別れたので何も知りません……それは事実です。
おばあさんの家でお茶を貰ったのも事実です。
ラァラのアリバイはおばあさんが証明します。
「山火事の鎮火が終わったらすぐに捜索だ」
捜索しても、何も見つからないでしょう。
そんな気がしました。
◆・◆・◆
事情聴取は終わった。
警察の人たちは、目を伏せたまま小さな会議をしていた。
どうするか、決めかねているのが見てとれた。
私のこと、そして赤ちゃんのこと――この国では、子どもが一人で暮らすことは認められていないのだという。
だから、施設に入れられるのだと。
突然、鼻を啜る音が聞こえて振り返った。
「何があったか知らない俺が言うのもなんだけどさ……生きなよ? 人生これからだぜ?」
泣きそうなのを我慢している顔。
「おじさんが何故、泣きますか?」
「ひげおやじでいいよ」
ひげおやじなのに、おじさんの髭は生えていなかった。
「ひげの生えていないひげのおやじ?」
「あー、ややこしいから、おやじでいい」
「では、おやじ」
「はいよ」
「おやじがそういうなら、ラァラはもう少し生きてみます、この子の為に」
おやじの顔が、くわっと崩れたかと思うと。
後ろを向いて、ずっと震えていた。
ラァラは、その背中を静かに見つめていた。
ラァラは、そっと、赤ちゃんの小さな指を握った。
その手は、とても柔らかくて、でも不思議なくらいしっかりとラァラの指を握り返してきた。
まるで、「ここにいるよ」と、伝えるように。
たったそれだけのことが、こんなにも心を震わせるのだと、ラァラは初めて知った。
だから――ラァラは、もう少しだけ生きてみようと思った。