表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/21

#7

挿絵(By みてみん)


─ 7月3日 RAARA OBSERVE ─


ラァラは、舗装されていない山道を降りていた。


木々の葉は、乾いた灰を被って白く変色していて、踏みしめるたびに細かい塵が靴の裏から舞い上がる。


背中の赤ちゃんは、静かだった。


呼吸の音すら感じないほどに小さく、でも確かに温かい命が、ラァラの背にしがみついていた。


遥香と莉杏は、まだあの場所にいる。


燃えてしまったあの聖地に。


そういう筋書き。


でも、ラァラは、それを口にしない。


それを口にしたら、嘘をつくことになる。


嘘は、調べたらどこかですぐにバレるから。


だから、ラァラは全部、ありのまま、本当だけを言う。


必要以上のことは、言わない。


何ひとつ嘘をついていない嘘――それが、莉杏と交わした最後の約束。


莉杏はすべて辻褄は合わせてあると言った。


大丈夫。



◆・◆・◆



村の入口に差しかかると、急に空が広くなった。


山の陰に沈みかけた陽が、視界に差し込む。


空気がほんのり赤く染まっていて、ラァラはそれを「夕方」と認識した。


もう「帰るべき場所」も「行くべき場所」もない。


村の道端に立っていると、自転車に乗った見知らぬおじさんがこちらに気づいて、速度を落とした。


その人は、眼鏡をしていて、もじゃもじゃの髭を白いバンダナで覆っていた。


ちょっとぽっちゃりしていて、目は優しかった。


「どうしたの? 迷子かい?」


ラァラは少しだけ考えてから、言葉を選んで答えた。


「今夜の寝場所を探しています」


簡潔で、正直で、正確な答えだった。


嘘は混じっていない。


言っていないことは、あるけれど。


「ええと、パパとママは?」


ラァラは首を横に振った。


「いません」


おじさんは、言葉を失ったように口を開いたまま、数秒だけ私を見ていた。


そして、ぽつりと漏らす。


「マジか……」


驚くのは当然だった。


ラァラは、ひとりで歩いていた。


それも赤ちゃんを背負って。


年齢的に言えば、ラァラも大差がないくらいなのに。


おじさんは、自転車を道端に止めて、頭を掻いた。


彼は困っていた。


でも、それは責任を持ちたくないという困り方ではなくて、どうすれば正しい選択ができるのかを考えている人の表情だった。


ラァラは、それを見ていた。


ただ見ていた。


何も言わず、何も求めず。


しばらくして、おじさんが声をかけてきた。


「……よし、とりあえず、おじさんと警察行こうか。

 事情はそこでちゃんと話せば、寝る場所もなんとかしてくれると思うよ」


ラァラは、頷いた。


それは想定の範囲内だった。


もともと、ラァラは莉杏から託された証言者だったから。


ラァラが話すことで、行方不明になった彼女たちの存在が、より現実になる。


遥香と莉杏はあの山火事に巻き込まれずに、どこかで生きているだろう。


でも、ラァラはそれを教えない。


遥香と莉杏はあの山火事に巻き込まれた、と嘘も言わない。


聞かれた事だけをありのまま答えて、後はただ、全部、「わかりません」と言うだけ。


赤ちゃんの重みを背に感じながら、ラァラはおじさんの後を歩き始めた。


道の先にある交番までの距離は、たぶん、そんなに遠くはなかった。


けれど、私にとっては、今まで歩いてきたどの道よりも長く、そして大切な道のりになるのだと、なぜかそんな気がしていた。


交番は、村の商店街のはずれにぽつんと建っていた。


夕暮れが完全に夜に変わる前の、一番影が長くなる時間だった。


街灯のひとつが点いて、道路に白い光がこぼれている。


ラァラの影は赤ちゃんごと長く引き伸ばされていて、それを見ていると、まるで誰かと一緒に歩いているような錯覚がした。



◆・◆・◆



「よし、着いた」


おじさんは、ラァラの歩幅に合わせて、あまりにも丁寧に歩いてくれた。


ラァラは、それに対して特に感謝の言葉を返さなかったけれど、きっと彼には伝わっていたと思う。


ラァラが黙ってついていくことが、何よりの承諾だったから。


交番の中には、警察官が二人いた。


片方は若くて、もう片方は少し年配。


制服の袖が少しほつれていて、彼らが長い時間ここで日常を守ってきたことが分かった。


おじさんは、彼らに軽く頭を下げてから、話し始めた。


「あの、この子、山道を赤ちゃんを背負って歩いてて……

 ちょっと話を聞いてあげてもらえませんか。身寄りがないみたいで……」


おじさんの声が、少しだけ震えていた。


たぶん、どう言葉を選べばいいのか迷っていたのだろう。


ラァラの立場を正しく伝えようとして。


警察官の一人が椅子を勧めてくれた。


ラァラはそこに、ストンと座った。




赤ちゃんは、まだ眠っていた。


深く、静かに。


背中に感じるその呼吸だけが、現実と私をつないでいた。


「お嬢ちゃん、パパとママは?」


ラァラは首を横に振る。


「んー……その赤ちゃんは?」


「莉杏の子です」


「りあん? ああ、その子のママの名前かな?

 その子のママは今どこにいるの?」


「遥香と一緒に旧蠚破甦郷まで行きましたが、ラァラだけ村に降りてきました。

 赤ちゃんは莉杏から預かりました」


「旧蠚破甦郷って……消防が今、山火事の対応にあたってるあそこから?

 預かったって……ママはどこにいるんだい?」


「おい……」


「どうした?」


警察官たちがひそひそと話する。


「その遥香と莉杏って……捜索願いが出てるこの……」


「まさか……江瑠戸遥香さんと相舞巳莉杏さん……」


一人の警察官は慌ててどこかに連絡をしに行った。




「お嬢ちゃんは、どうして旧蠚破甦郷なんかに?」


「自殺しに来ました」


言葉を切らずに、ラァラは続けた。


「でも、ラァラだけ、残されてしまいました。

 ラァラは、どうしたらいいでしょう」


それは、ただの説明ではなかった。


自分の感情を込めて言ったつもりはなかったけれど、声が少しだけ震えていたことには、自分でも気づいていた。


おじさんが、肩を震わせた。


目を丸くして、私を見ていた。


たぶん、彼は想像していなかったのだろう。


まさかこの小さな子どもが、そんな言葉を口にするなんて。


でも、それは事実だった。


この命を終わらせるために、ラァラはこの場所に来た。


それはラァラの意思ではなく、状況の選択だった。


だからこそ、ラァラは誰にも責任を押し付けるつもりはなかった。


ただ、正しく記録されればいい。


それがすべてだった。


警察官たちは、一瞬だけ顔を見合わせて、それからもう一度、優しい声で言った。


「ちょっと、お話を聞かせてもらえるかな。

 こっちに来てもらっていい?」


ラァラは頷いた。


それが、ラァラの役割だったから。


証言者として、ただ正確に、ただ事実だけを言う。


それが、誰かの代わりに火の中から拾い上げる、唯一の仕事だった。



◆・◆・◆



赤ちゃんの温度を背に感じながら、ラァラは一人、事情聴取室へと案内された。


無言のまま歩きながら、ラァラは一つだけ確かめるように、背中の小さな命をそっと手で撫でた。


……大丈夫。


あなたは、ラァラが守るから。


誰にも、踏みにじられないように。


事情聴取の部屋は白くて、寒いほど静かだった。


蛍光灯の明かりが、机に置かれた録音機器の黒い表面を照らしている。


ラァラは、与えられた椅子に小さく座り、手の上に赤ちゃんを乗せていた。


赤ちゃんは、ずっと眠っていた。


泣きもせず、微かに動く胸が、この子がまだ生きていることの唯一の証だった。


「──では、そこまではずっと一緒に行動をしていたんだね?」


ラァラは頷いてから、言葉を整える時間を少しだけ使った。


「そうです。莉杏の赤ちゃんが生まれるまで、全員で一緒に行動していました」


そのときの記憶は、雨の中の焚き火のようにゆらゆらしていた。


「赤ちゃんが生まれた後は?」


「その夜は、一晩寝て……自殺をするのは、また次の夕方にすることになりました」


ラァラは“また”という言葉に自分でひっかかったけれど、口には出さなかった。


あのときラァラたちは、何度も「次の夕方」に命を預け直していた。


「一晩も空いている理由は?」


「もともと、夕日を見ながら一緒に死のうという話でした。

 莉杏の赤ちゃんが生まれたので、夜になっていました。

 ……夜は夕日が見れません」


ラァラは事実だけを述べた。


ここが3人で一緒にいた最後のタイミング。


「確かに」


「次の日、ラァラは赤ちゃんを預けられて、麓の村に降りました。

 赤ちゃんのミルクを買うためです。

 お金は遥香から貰いました」


ラァラはポケットから、小さな財布を出して差し出した。


「これが、遥香から預かったお財布です」


「たしかに……これは江瑠戸千佳さんの所持品だ。

 ……こいつを鑑識に」


いくら裏を取っても無駄です。


それを調べても、何も出てきません。


私は赤ちゃんを見下ろした。


すやすやと眠っているその顔は、誰にも似ていないようで、誰にも似ているようだった。


「……ということは、証言通り、江瑠戸遥香さんと相舞巳莉杏さんは、そのまま旧蠚破甦郷に?」


「その後の事は、ラァラは何も知りません。

 ミルクを買った後、おばあさんの家でお茶とお菓子をごちそうになって……夕方に戻ろうとしたら、聖地は燃えていました」


ラァラは、そこで別れたので何も知りません……それは事実です。


おばあさんの家でお茶を貰ったのも事実です。


ラァラのアリバイはおばあさんが証明します。


「山火事の鎮火が終わったらすぐに捜索だ」


捜索しても、何も見つからないでしょう。


そんな気がしました。



◆・◆・◆



事情聴取は終わった。


警察の人たちは、目を伏せたまま小さな会議をしていた。


どうするか、決めかねているのが見てとれた。


私のこと、そして赤ちゃんのこと――この国では、子どもが一人で暮らすことは認められていないのだという。


だから、施設に入れられるのだと。


突然、鼻を啜る音が聞こえて振り返った。


「何があったか知らない俺が言うのもなんだけどさ……生きなよ? 人生これからだぜ?」


泣きそうなのを我慢している顔。


「おじさんが何故、泣きますか?」


「ひげおやじでいいよ」


ひげおやじなのに、おじさんの髭は生えていなかった。


「ひげの生えていないひげのおやじ?」


「あー、ややこしいから、おやじでいい」


「では、おやじ」


「はいよ」


「おやじがそういうなら、ラァラはもう少し生きてみます、この子の為に」


おやじの顔が、くわっと崩れたかと思うと。


後ろを向いて、ずっと震えていた。


ラァラは、その背中を静かに見つめていた。


ラァラは、そっと、赤ちゃんの小さな指を握った。


その手は、とても柔らかくて、でも不思議なくらいしっかりとラァラの指を握り返してきた。


まるで、「ここにいるよ」と、伝えるように。


たったそれだけのことが、こんなにも心を震わせるのだと、ラァラは初めて知った。


だから――ラァラは、もう少しだけ生きてみようと思った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ