#6
─ 7月2日 HARUKA OBSERVE ─
「なんで、死にに来て、子育てさせられてるんだろうな……」
出産を終えたばかりの小さな廃村の小屋の中は、夜の冷気と湿った土の匂いに包まれていた。
火の気のない空間で、ラァラの腕の中で眠る赤ん坊の小さな寝息だけが、静寂の中で確かな命の証として響いていた。
俺がぼんやりと天井の板を見つめていると、
「莉杏に聞きたい事があるのです」
ラァラが絞り出すように呟いた。
「莉杏の話は夏休みの話だと言っていました」
ラァラの声はいつも通り機械的だったが、そこに含まれていたのは冷たさではなかった。
むしろ澄んだ目で真実だけを見つめる、何かまっすぐすぎて怖くなるような正しさだった。
「え?」
莉杏の顔が少しだけ強張る。
「人間の赤ちゃんは妊娠22週未満で生まれたら流産します。
夏の赤ちゃんが健康に生まれる為には冬に生まれないといけないです。
莉杏の話では全然足りません、赤ちゃんは流産するはずです」
ラァラは莉杏の顔を見据えたまま続ける。
「だから、ラァラは死産の取り上げをするつもりでした。
赤ちゃんは、どうして生きていますか」
まるで何かの裁きを待つような、沈黙が流れる。
「ええと。あ……冬休みと勘違いしてたかも……」
無理に笑ったその顔は、笑ってなどいなかった。
「それもおかしいです。冬休みだとしたら、春の学校はどうしていましたか?
妊娠12週からおなかは大きくなり始めます。
大きなおなかで学校に行っていましたか?
学校の先生や友達は何も気が付かなかったのですか?」
ラァラは表情ひとつ変えずに問いを重ねる。
その純粋さが、逆に痛々しいほど鋭く感じられた。
「それは……」
莉杏の目が泳いでいた。
俺はただ黙って見ていた。
きっと、ラァラは全部気づいていたのだろう。
「赤ちゃんを隠す為に、親戚の家に行く事になったと嘘をついたと言いました。
莉杏はラァラとは違って身元がしっかりとした、守られた子どもです。
学校から親戚に連絡は入らなかったのですか?」
確かに。
この国は過保護なほど、子どもは守られている。
その親戚とやらに何も連絡がいかないのも変だ。
「お母さんはどうしていましたか?
そのおなかをお母さんに見られなかったのですか?
それとも、半年もお母さんと会っていないのでしょうか?」
そうだ。
莉杏の母親は、大きくなったおなかに気が付かなかったのか?
俺は目を逸らしたくなった。
言葉の弾丸が、莉杏を貫いていた。
「お母さんは……」
その声はかすれていた。
「莉杏が自殺しようと考えた理由は赤ちゃんができたからです。
ラァラが赤ちゃんを取り上げた時、産道には古い傷跡がありました。
莉杏は過去にも赤ちゃんを産んでいます。
前の赤ちゃんはどうしたのでしょうか」
風が、朽ちた壁の隙間からそっと入り込んできた。
「ラァラさん……何を言ってるの?」
目を見開いて、でもそこには怒りも戸惑いもなかった。
ただ、壊れかけた仮面のような表情だけがあった。
「一緒に死にませんかと持ち掛けたのは莉杏です。
そして、場所をここに指定したのも莉杏です。
莉杏が自殺しようと思った理由というのも嘘でした。
では、本当の理由は何ですか?」
長い沈黙が流れた。
薪の残り火も、音を立てずに消えていた。
「……」
何も答えない莉杏に向かって、ラァラはひとつの問いを投げた。
「莉杏の話は、どこまでが本当なのですか?」
それは問いではなかった。
確認だった。
「すごいですね、ラァラさん。
子どもだからそこまでわからないと油断していました。
私の話、どこまで本当かって話でしたっけ?」
息を飲む。
「……全部、嘘ですよ」
莉杏は──、笑った。
その笑顔は、凍えるほど寂しいものだった。
俺はそれをただ、黙って見ていた
「全部、嘘?」
思考が一瞬止まった。
耳から入ってきたはずのその言葉が、どこにも届かないような気がして。
俺は、もう一度口にしていた。
「おいおいそれはないだろ?
ガキだって実際に生まれてるんだぞ?」
どういうことだ。
今、目の前にいる赤ん坊は、何なんだ。
そこに横たわる生命の確かさに、何かが噛み合わない。
「いいえ。全部、嘘ですよ」
静かに、まるで何でもないことを言うかのように、莉杏は告げた。
「まず、自殺しようと思った本当の理由なんてありません。
私は自殺するつもり、ありませんので」
俺の心が、ぴしりと音を立てて亀裂を入れる。
あの夜、一緒に死のうと歩いた足跡は、全部茶番だったというのか。
「じゃあ、なんで自殺志願者の約束の地……あれを使ってたんだよ」
声が荒くなる。
怒りと戸惑いが混じって、呼吸のリズムさえ狂いそうだった。
「あー、あのWEBサイトの管理人は、私です」
なんだと。
「では何の為に一緒に死にませんかと誘ったのですか?」
ラァラの声は、淡々としていた。
だが、何かを掴みかけた確信がその中にあった。
「遥香さんやラァラさんみたいな、自殺志願者を誘い出す為ですよ」
まるで、簡単な実験の説明をするかのようだった。
その冷静さに、俺の背筋がすうっと冷えた。
「どういう事だよ? 誘い出してどうするんだよ?」
拳を握る。
わからなかった。
理解が追いつかないのではなく、拒絶している自分がいるのを自覚する。
「自殺志願者というのは何かしら生活に問題を抱えています。
そんな人が失踪してもそれなりの動機って最初から持ってる環境にいるんですよね」
説明は理路整然としていた。
だけど、心にひっかかりが残る。
「失踪って……まさか、俺たちを殺すのか?」
口の中が渇いた。
喉の奥でひっかかる言葉を無理やり押し出した。
「何を警戒しているんですか?
自殺志願者なのに殺されるかもしれないとか警戒するんですか?」
そりゃあ、自分で納得して死ぬのと、誰かに殺されるのとでは、だいぶ違うだろ。
「まあ、殺すのではなく、救済してあげるだけですけど」
救済。
その言葉の響きは、あまりに無邪気で、あまりに残酷だった。
「救済だと?」
吐き捨てるように言った。
目の前の彼女の言葉が、どこまでも悪夢めいて聞こえた。
「はい、救済です。生きづらいそのくそみたいな人生から抜け出して、本当の人生を生きる為に」
彼女の目は、どこか遠くを見つめていた。
「まあ、本当の人生が楽な人生とは限りませんけど」
俺たちがまだ知らない、その先の世界を。
彼女の言葉は狂っている。
だけど、その狂気の奥に、妙な整合性がある。
そして、俺は……言葉を失った。
「本当の人生って……」
俺は口に出した瞬間、自分でもその言葉の軽さに気付いて、心のどこかがぎくりとした。
俺にとっての“本当”とはなんだったのか。
生まれてから、ただ流されて、怒鳴られて、叱られて、生きてきただけの、空っぽの人生。
そんな俺が誰かの“本当”に触れてしまった気がして、足元がふらついた。
「人道支援団体、窓辺の天使」
その名はどこかで聞いたことがあった。
ニュースか何かで見たのかもしれない。
ただ、その言葉の響きが、やけに優しく、美しすぎて、現実味がなかった。
「何なんだよそれ……」
俺の声は、震えていた。
怒りでも、戸惑いでもない。
まるで、自分だけが、何も知らないまま、世界に置いていかれているような、そんな、置き去りの不安だった。
「私たちのような行き場のない魂を救済してくれる機関。
私はその職員です」
“救済”という言葉を、どれほど久しく聞いていなかったか。
それは、誰かが誰かを“見つけてくれる”という意味だと、俺はその時、初めて知ったのかもしれない。
「職員っておまえ……おまえみたいなガキが?」
言いながら、自分の口調の雑さに、少し恥ずかしさを感じた。
でも、やっぱり信じられなかった。
小さな体で、臨月の腹を抱えていたくせに。
誰かを導く職員だなんて、そんなの、笑ってしまうくらい嘘みたいな話だった。
「あー、そっか。遥香さんは、私の事を子どもだと勘違いしているんですね」
軽く笑ったように見えた。
その笑いには皮肉も、怒りも、虚無もない。
ただ静かな、達観があった。
俺には到底、真似できない、絶望を受け入れた人間の強さ。
「ど、どうみても俺より年下だろうが」
俺は視線を逸らすように言った。
自分が年下だと思っていた相手に、いつの間にか、精神ごと追い越されていたことに気付くのが、怖かったのかもしれない。
「私、これでも成人しているんですよ」
その言葉は、何の誇示もなかった。
ただ、真実だけを静かに語る、それだけの響きだった。
彼女の声が、妙に遠く、そして澄んで聞こえた。
「それで、ラァラたちはどうしますか?」
小さな声。
けれど芯のある声だった。
ラァラのまっすぐな瞳には、一点の迷いもなかった。
「私たちは管理識別子から外れ、自由な幽霊になります」
自由な幽霊――。
その言葉に、妙なざわつきを覚えた。
自由とは、存在の否定でしか得られないのか。
俺は答えられなかった。
「どういう事だよ?」
喉の奥がつまったようだった。
俺の声はかすれていた。
「もうじき、この聖地は山火事で燃え尽き、全ての真実を飲み込んで灰になります。
私たちは、自殺志願者の約束の地というWEBサイトを通じて、自殺志願者としてこの地を最後に消息を絶ちます。
世界ではもう私たちはいない存在になります」
俺たちの存在が、記録からも記憶からも消える。
その事実が、ひどく冷たい現実として心の底に落ちた。
「ええと、それは……」
「自分の意志で自殺をしに来たラァラたちが、そこで消息が途絶え、事件性も一切なければ、警察は自殺をした事にする、という事です」
ラァラの説明は冷静だった。
小さな声が、やけに理路整然と響いた。
「ラァラさんは理解が早いので、話を先に進めますね。
ラァラさんは、この旧蠚破甦郷に残って生活していてください。
もともと、ラァラさんには身元はないです。ホームレス生活も慣れてるでしょう?」
莉杏の言葉が刺さる。
守るべき子どもに、そんな人生を選ばせていいのかと、胸が騒いだ。
「ここに残って、ラァラはどうしますか?」
ラァラの問いは、まるで命令を待つ兵士のようだった。
「生きる証言者になってください」
「ラァラは、そこで何を言いますか?」
莉杏が淡々と話を続けた。
「ありのまま。ラァラさんが自殺志願者の約束の地にアクセスして、集団自殺のためにみんなでここに来たのは事実です。
ここに辿り着くまでの、ありのままを証言したらいいです」
そうだった。
何一つ、嘘はない。
すべては、事実の皮をかぶった絶望だった。
「嘘をつくんじゃ……ないのか」
俺の声は、怒りにも、呆れにも聞こえた。
「何のために? 何も嘘なんかつく必要ないです。
だって、自殺志願者の約束の地で出会ったのも、聖地に行こうっていうのも全部事実じゃないですか。
アクセスログだって残ってますよ」
そうだ。
全ては、莉杏の『一緒に死にませんか?』という呼びかけから始まった。
約束の地で死のうっていうやり取りだって、あのサイトのログに残ってる。
「そして、ここに向かうトラックの荷台にみんなで乗ったのも事実です。
鑑識が調べても証言通りの遺留品しか出ません。
ここで降りた事もトラックの運転手や村の人が目撃しているでしょう」
そりゃそうだ。
本当に乗って来たんだしな。
「何ひとつ、嘘なんてないです。
私がここで赤ちゃんを産んだのも事実だし、山火事が全ての事実を灰にしてしまうのもこれから起こる事実です」
「確かに……何ひとつ、嘘がねえな……」
現実は、いつだって綻びすら見せずに人を飲み込む。
これが現実なら……俺は、いったい何を信じていたんだ。
「莉杏の嘘はどうしますか」
ラァラは最後まで真っ直ぐだった。
「『先生の赤ちゃん、できちゃいました』ってやつですか?」
「そうです、それもそのまま証言しますか」
「ありのまま証言したらいいですよ。
そっちももう辻褄合わせはできてます」
「そうですか」
「ラァラさんは、その赤ちゃんを押し付けられて、途中で麓の村まで追い返されました。
遥香さんや私が残っていたこの廃村が、山火事に巻き込まれた。
ラァラさんは後の事は知らない、と言うだけです」
あまりにスムーズな筋書きに、俺の中の何かがきしんだ。
こんなふうに、人生は筋書き通りに処理されるのか。
「赤ちゃんはどうしますか?」
ラァラの問いは、まるでそれが自分の命を預けるかのような響きだった。
「一人ぼっちは寂しいでしょう?
育ててあげたらいいんじゃないですか?
邪魔だったら棄てていってもいいです。お好きにどうぞ」
「おまえ……仮にも母親じゃないのかよ」
胸の奥で怒りが沸き上がった。
「いいえ、違います。私は代理です」
「え?」
「私は人造天使プロジェクトの代理出産技術担当です。
産んだのは試験管から移された人工生命なので、私は母親なんかじゃないですよ。
もっとも、本物の人造天使を代理出産するのは聖母なので、私もその子もただの実験体です。
あくまで正常に出産ができるかできないかのチェックに過ぎません。
機関にとって、生まれた後のその子の存在に関しては感心がないんですよ」
寒気がした。
俺は今まで、なんのために泣いて、怒って、ここまで来たんだろう。
「じゃあ、こいつは何のために生まれて来たっていうんだよ。
おまえは何のためにこいつを産んだんだよ」
「この結果を機関に持ち帰るため。あとはそうですね……
この回りくどい工程は、遥香さんみたいな訳ありの方を、私たちの仲間にしてあげて救済するため?」
「くそだな……ゲロカス以下だ」
俺の口から出たのは、精一杯の罵声だった。
「そうですよ、この世界に何を期待しているんですか?」
それは、あまりにもあっけらかんとした口調だった。
だからこそ、その言葉は骨の奥まで冷たく突き刺さった。
俺は、何に期待してたんだろう。
あの家に帰ることか? あの居場所に戻ることか?
誰も迎えてはくれないあの場所に。
まるで、荷物の置き場にすら困る不要物みたいな俺を……
誰が、何のために待っていてくれるというんだ。
「戻っても、進んでも、この世界はその“ゲロカス”です」
言葉に詰まる。
否定したくても、できない自分が情けない。
“ゲロカス”の世界。
誰にとってもそうだったわけじゃない。
きっと、この世界を愛した人もいる。
でも俺は、その中に入ってなかった。
はみ出して、転がり落ちて、戻る場所もなくしていた。
そうだ……俺の本来の目的って、なんだったんだろうな。
「もういやだっていうなら、遥香さんの本来の目的通り、自殺されてもいいですよ」
鼓動が、変な音を立てる。
死ねと言われて怒るべきなのか、それとも、もうそれさえどうでもいいと思ってる自分を憎むべきなのか。
あの日、自分でここを選んで来たくせに、誰かに背中を押してもらわないと、一歩も進めないなんて。
「自分で死ぬのが怖いなら、ここに一晩いれば生きたまま焼き殺して貰えます」
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中に、あの炎の音が蘇った。
テレビ越しに見た山火事。
燃え上がる家、焼け焦げた木々、崩れ落ちる屋根。
音もなく、ただ、熱だけが残るその光景を。
「私は結果を機関に持ち帰るだけなので」
冷酷なようで、妙に機械的だった。
感情が剥がれ落ちたような声に、逆に、俺は人間らしさを感じた。
この子はきっと、自分の中で何かを殺しながら生きてる。
生きるために、誰かを切り捨てるしかなかった子どもなんだ。
「お好きにどうぞ」
そう言われてしまえば、俺はもう、何も言えなかった。
自由とは、選べることじゃない。
選ばされることだ。
最初からレールのない線路に、無理やり立たされて、「進め」とだけ言われる。
そんな自由を突きつけられた気がした。
「わかりました」
ラァラの声は、静かで、やさしかった。
まるで、長い間悩んできた問いに、ようやく一つの答えを見つけたみたいに。
「おい……ラァラ」
俺の声は震えていた。
なぜかはわからなかった。
怒りか、不安か、あるいは――。
この子にすら置いて行かれるような……
取り残される恐怖だったのかもしれない。
「遥香はまだ気づきませんか?」
俺は返せなかった。
問いかけのようなその言葉に、返す言葉が浮かばなかった。
「莉杏はラァラたちに危害は加えません。
莉杏はラァラたちを助けようとしています」
助ける――。
「莉杏がラァラたちに、危害を加えるつもりなら、何も教えずに、黙って殺したらいいです。
それなのに、わざわざ教えた上で、お好きにどうぞと、ラァラたちに自由を与えています」
その言葉に、思わず視線を落とした。
それが、こんな歪な形でなければ、きっと俺は素直に感謝できた。
「へえ……ラァラさんって一番小さいのに、結構、賢いんですね」
俺は、その言葉に微かな嫉妬を覚えた。
ああ、俺たちの中で、一番幼くて、一番大人なのは、この子だった。
「だから、ラァラは証言者になります。その代わり……」
言いかけたその先に、何が続くのかを、俺は息を詰めて待った。
誰かが、何かを背負おうとしている時、自分がそれにどう向き合えるのか、わからなかったから。
「この子のお母さんは、ラァラがなってもいいですか?」
ラァラがその赤ん坊を見つめる眼差しは、まっすぐで、迷いがなかった。
俺はその強さに、またしても打ちのめされた。
「ええ、お好きにどうぞ」
その声には、もう何の感情もなかった。
受け渡される命、委ねられる未来。
それが、ただの実験であったとしても――。
ここには、たしかな決意があった。
「ありがとうございます」
「あ、ありがとうございますって、おまえ……」
「こういうときは『ありがとうございます』と言うんです」
──『そういうときは『ありがとうございます』って言うんだよ』
あ、そうだ。
出発前の、俺の言葉だ。
俺はもう何も言えなかった。