#5
─ 7月3日 麓の村 RAARA TESTIMONY ─
赤ちゃんが泣いている。
ラァラは、小さな体を背負いながら、ふもとの町を歩いていた。
町の空気はどこか穏やかで、聖地に向かうまでの道とは違い、生活の気配があった。
石畳の道の脇には、古びた木造の家々が並び、風に揺れる風鈴の音が涼やかに響いている。
けれど、そんな平和な町並みとは裏腹に、ラァラの心には、ひどく冷えた感覚がまとわりついていた。
さっきの夜のこと。
莉杏の言葉と、それに対して遥香が怒鳴った声。
険悪になった空気のまま、誰も何も言わず、各々が散っていったこと。
あれでよかったのか。
──わからない。
でも、ラァラは今は考えないことにした。
まずは赤ちゃんのミルクを探す。
それが今、自分ができる最優先のことだった。
「嬢ちゃん、お探しのものでもあるのかい?」
通りの角で、日陰に腰を下ろしていたおじさんが、ラァラに声をかけた。
ラァラは足を止めて、背中の赤ちゃんをあやしながら、小さな声で答える。
「赤ちゃんのミルクを買えるお店を探しています」
「赤ちゃんのかい?」
おじさんはラァラを見て、少し驚いたように目を細めた。
小さな子供が、さらに小さな命を背負っていることに、不思議そうな顔をする。
「それなら、あっちの通りにあるよ」
おじさんは親切に、道の先を指さした。
「商店がある。なんでも売ってるし、そこのばあさんは面倒見がいいから、困ったことがあれば頼るといい」
「ありがとうございます」
ラァラは深く頭を下げた。
その姿に、おじさんはどこか微笑ましそうに笑って、手をひらひらと振った。
◆・◆・◆
商店の前に立つと、木の看板が軒先にぶら下がっていた。
店先には、野菜や果物が並び、軒下の棚には缶詰や米袋が詰まれている。
中に入ると、カラン、と涼やかなベルの音が鳴った。
店の奥には、白髪のおばあさんが座っていた。
ラァラの姿を認めると、おばあさんは柔らかく目を細めた。
「あらあら、可愛らしい嬢ちゃんだねぇ」
「赤ちゃんのミルクが欲しいのです」
「はいはい、待ってね」
おばあさんは椅子からゆっくりと立ち上がると、店の奥へと向かっていく。
しばらくして、粉ミルクの缶を抱えて戻ってきた。
それだけではなく、おしめやタオル、小さな布の手提げ袋、
さらに、ベビーウェアリング──赤ちゃんを抱えるための布を取り出した。
「こっちも持っていくといいよ。サービスだよ」
ラァラは思わず、おばあさんの顔を見上げた。
「こんな田舎に異民さんなんて珍しいねぇ。お使いかい?」
「はい。この子のお母さんの代わりに来ました」
莉杏の代わりに来たので、それは本当です。
「えらいねぇ」
「嬢ちゃん、しっかりしてるねぇ」
おばあさんは、しみじみと感心するように頷くと、少し考え込んだ。
「……そうだ、ちょっとあがってお茶菓子でも食べて涼んでいきんさい。
今日は暑いし、赤ちゃんも疲れるだろう?」
ラァラは一瞬、迷った。
でも、確かに夕方までは時間がある。
おばあさんの申し出に、甘えさせてもらうことにした。
おばあさんの家は、商店の隣にあった。
縁側から入ると、風が通り抜けて、ひんやりとした空気が心地いい。
おばあさんが、お茶とお煎餅を持ってきてくれた。
そして、羊羹の小皿も並べられる。
ラァラは、羊羹を一口かじった。
「……おいしい」
ぽつりと漏らした言葉に、おばあさんは嬉しそうに微笑む。
「たくさん食べんさい。
嬢ちゃん、細いからもっと食べなきゃ」
おばあさんは、ラァラの話を楽しそうに聞いてくれた。
ラナカシムに教わったホームレス生活。
浮浪者仲間の母親の赤ちゃんを取り上げたこと。
日本語を勉強したこと。
空き缶を拾って売ったこと。
どれも、ラァラにとっては日常だったけれど、おばあさんはとても興味深そうに頷いていた。
「日本の人は、異民のことが嫌いです」
ラァラがぽつりとこぼすと、おばあさんは少し寂しそうに目を細めた。
「そういう人もいるね。でも、みんながみんな、そうじゃないよ」
「そうでしょうか……」
「少なくとも、こうして話してみたら、嬢ちゃんはとても賢くて、いい子じゃないか」
「賢くないと、生きていけないです」
「そうかもしれないねぇ」
おばあさんは、お茶をすすりながら、遠くを見つめた。
ラァラは、出されたお菓子を一つずつ、大事に味わう。
誰かと一緒に、お茶菓子を食べるなんて、いつぶりだったろう。
◆・◆・◆
こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
でも、それは叶わない。
空の色が、少しずつ茜色に染まり始める。
ラァラは時計を見て、立ち上がった。
「おばあさん、ありがとうございました」
「いいえいいえ。またいつでもおいで」
おばあさんは、ラァラの頭をそっと撫でた。
その手のひらは、しわしわで、だけど温かかった。
ラァラは、手提げ袋を抱えながら、ゆっくりと店を後にする。
歩きながら、ふと山の方を見上げる。
──聖地の方から、煙が立ち上っていた。
ラァラの足が止まる。
「……聖地が燃えているのです」
静かに、呟いた。
それが、ただの火事なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
ラァラには、まだわからなかった。
◆・◆・◆
火災に関する続報です。
昨夜未明、旧蠚破甦郷で発生した火災は、麓の村への延焼はなく、およそ4時20分頃、鎮火が確認されました。
この火災による死傷者は 確認されておりません。
旧蠚破甦郷は、人気オンラインゲーム『ホーンオブリベリオンの舞台としても知られており、国の重要文化財にも指定されていました。
出火の原因は現在も調査中ですが、インターネット上の“自殺志願者の約束の地”と呼ばれるサービスにおいて、集団自殺をほのめかす書き込みが確認されており、警察では事件性も視野にいれ、火災との関連性について慎重に捜査を進めています。
続いて、世界のニュースです。
レアリティンダ共和国で6年前から続いている紛争は、現在も戦況に大きな変化は見られず、膠着状態が続いています。
一方で、停戦に向けた国際的な動きも見られ、各国による仲介や人道支援の強化が進められ────。