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約束の地 カナン

挿絵(By みてみん)



 ラァラは、荷台の隙間から外の様子を伺った。


 トラックが止まり、エンジンの振動が消える。


 しばらくすると、運転手がドアを開けて降りる音が聞こえた。


「……今です」


 囁くように言うと、遥香と莉杏が身を縮めながら頷いた。


 ゆっくり、静かに。


 ラァラは荷台の縁に手をかけ、慎重に地面へ降り立つ。


 柔らかい土の感触。


 遠くで、虫の声が響いている。


 後に続いて、莉杏と遥香も降りてきた。


 誰もいないのを確認して、ラァラは前を向いた。


「こっちです」


 歩き続けた先、廃村の入口に辿り着く。


 その景色を見た瞬間、ラァラは足を止めた。


「……」


 美しい、と思った。


 朽ちかけた家々が並ぶ道。


 蔦に覆われた石畳。


 誰もいないのに、時間だけがそこに留まっているような、不思議な場所だった。


 空は穏やかに晴れていて、風が優しく吹き抜ける。


 遥香が、腕を組んで息をついた。


「ゲームのまんまだ……」


 莉杏は、ぽつりと呟く。


「本当に……あったんだ……」


 廃村の空気に呑まれるように、彼女の声は小さく消えた。


「……もう少し時間をつぶして、夕日を見ながらみんなで死のうぜ」


 遥香がそう言ったとき。


「……ッ!」


 突然、莉杏が苦しそうにうずくまった。


「莉杏?」


「痛い……」


 彼女は自分のお腹を抱え、顔を歪める。


「……まさか、陣痛? マジかよ。もう少し待てないのかよ。どうすんだこれ」


 遥香の声が焦りに染まる。


 でも、ラァラは冷静だった。


「赤ちゃんはラァラが取り上げます。遥香は手伝って」


「取り上げるっておまえ、わかるのかよ」


「はい。浮浪者には女の人もいました。ラァラは何度か見て、手伝った。大丈夫」


「マジかよ……」


 遥香はため息をつき、頭をかきむしる。


「お湯と布。お湯はあの井戸から水が汲めます。あとは──」



◆・◆・◆



 日は暮れ、赤く染まる空の下。


 ラァラは、腕の中の小さな命を見つめた。


「赤ちゃんは無事です。莉杏は休んで」


 産声を上げたばかりの赤ちゃんは、ラァラの腕の中で小さく呼吸している。


 まだ世界の広さを知らない、たったひとつの命。


 莉杏は、疲れ果てて動けない。


 その横で、遥香が頭を抱えていた。


「……何で死にに来て、子育てさせられてんだろうな」


 苦々しく、吐き捨てるように言う。


 それから、彼女はゆっくりと莉杏を見つめた。


「莉杏。俺らが死んだ後だけどさ……おまえは、もう帰れ」


 莉杏は、顔を伏せたまま、小さく呟いた。


「産まなきゃよかった……」


 その言葉に、遥香の顔が怒りに染まる。


「だったらなんで産んでんだよ? こいつが産んでくれなんて頼んだのかよ? おまえが勝手に産んでんじゃねえか。じゃあどうするんだよ? おまえもあの女と同じなのな?」


 莉杏は何も言えなかった。


「やめて。遥香」


 ラァラは二人の間に立ち、静かに言った。


「2人とも気が立ってます。今日はもう寝ましょう。明日、また死にましょう。莉杏はその時までに赤ちゃんをどうするか決めましょう」


 誰も、それ以上何も言わなかった。


 夜になり、三人はそれぞれ別の廃屋に入った。


 ラァラは、赤ちゃんを胸に抱いて、古びた布を掛ける。


 眠っているその顔を見ながら、静かに息をついた。


「……赤ちゃん」


 そっと、その頬に触れる。


 柔らかく、小さな命。


「……ラァラも、こうだったのでしょうか」


 ラァラを産んだ母親も、初めはこんなふうに抱いたのだろうか。


 ──違う。


 ラァラの母は、ラァラを捨てた。


 この赤ちゃんの母も、きっと。


「……あなたのお母さんが、あなたを連れて行かないなら」


「それでも、大丈夫。ラァラがここに残ってあなたを世話します。あなたは生きてください」


 ラァラは、赤ちゃんの頬を撫でながら、そっと目を閉じた。






 夜風が、古い家の中を静かに吹き抜ける。


 外では、遥香と莉杏の沈黙が、重く夜に溶けていった。



◆・◆・◆



─ 遥香SID E─


 眠れねえ。


 横になって、目を瞑って、考えないようにしても、頭の中がざわざわと落ち着かない。


 まぶたの裏に、さっきの莉杏の顔が浮かんでは消える。


「産まなきゃよかった」


 あの言葉が、頭の奥で何度も反響している。


 あいつは無責任だ。


 自分で作った命なのに、そんな言葉を吐いて逃げようとして。


 ……いや、違うか。


 無責任だったのは俺の方かもしれない。


 自分が親に言われた言葉と重ねて、ただ頭ごなしにキレて、追い詰めるようなことばっか言って。


 あいつがどんな気持ちで、あの言葉を口にしたのかなんて、考えもしなかった。


「俺が死んだくらいで、あの女が悲しむかよ」


 そう言い切ったのは俺だ。


 なら、莉杏の親だって、もしかしたら――


 いや、どうでもいいか。


 もうすぐ俺たちは死ぬんだ。


 考えても意味なんかねえ。


 だけど、それでも、気になった。


 寝付けないまま、日が昇りかけている。


 こんな気持ちのまま死んでも、なんか締まらない。


 一言、謝ろうか。





 ほんの少し、それだけのつもりだった。


 いくつかの家を覗いても、莉杏はいなかった。


 ラァラは赤ん坊を抱えたまま、静かに眠っている。


 その肩が小さく上下するのを見て、俺はそっと扉を閉じた。


 風が吹く。


 嫌な予感がした。


 ざわつく胸を抑えながら、俺は村のはずれに向かって足を動かす。


 夜明け前の薄闇の中、木々の間を抜けると、そこに――


「……何してんだよ、おまえ……」


 声が掠れた。


 木にかかった縄。


 静かに揺れる、小さな影。


 俺は、ただ、立ち尽くしていた。


 喉が詰まって、言葉が出てこない。


 足が震えている。


 馬鹿かよ、おまえ。


 何してんだよ。


 俺たちは、一緒に死ぬんじゃなかったのかよ。



◆・◆・◆



 朝になりかけていた。


「おはよう。ラァラ」


「おはようございました。どうしましたか?」


 ラァラはまだ半分眠たそうに、目をこすっている。


 腕の中には、昨日産まれたばかりの赤ん坊。


 ちいさな手が、ラァラの服をぎゅっと掴んでいた。


「ガキが腹空かせるだろ。こいつで町まで下りてミルク買ってこいよ」


 俺は、ポケットから財布を取り出し、ラァラに手渡す。


 母親の財布。


 家から持ち出した、ただの金の詰まった革の袋。


「わかりました。おしめも買いますか」


「任せる。好きに使え」


 ラァラは財布を受け取って、じっと俺の顔を見た。


「遥香はどうしますか?」


「俺は莉杏が心配だから、ちょっと2人だけで話しとくわ。決行は夕方だから、それまで町でゆっくりして来いよ。ガキのことは、それまでに決めさせておくわ」


 ラァラは静かに頷いた。


「わかりました」


 それだけ言うと、ラァラは赤ん坊を背負い、小さな背中をまっすぐ向けて歩いていった。


 背負われた赤ん坊が、小さな声で泣く。


 やがて、ラァラの姿は村の入り口の向こうに消えていった。


 俺は、深いため息をつく。



◆・◆・◆



 誰もいない村。


 朝の空気が、やけに冷たい。


 俺は足を引きずるようにして、あの場所へ向かった。


「ホント、どうすんだよこれ」


 ポケットから取り出したたばこに火をつける。


 煙を吸い込むと、肺が苦しくなるのに、なぜかそれが心地いい。


 莉杏の遺体は、静かに横たわっていた。


 もう何も言わない。


 もう何も聞こえない。


「自分だけ逃げんじゃねえよ……」


 くわえたばこのまま、縄を解き、莉杏の体をそっと地面に降ろす。


 動かない。


 冷たい。


 けど、昨日まで、確かに生きてたんだよな。


 あのとき、俺が少しでも違うことを言えていたら、こいつは――


 いや、関係ねえ。


 こいつが自分で選んだことだ。


 俺がどうこう言う話じゃない。


「ま、どうでもいいか」


 俺は上着を脱いで、莉杏の体にそっとかけた。


 せめてもの、最後の礼儀だ。


 たばこをくわえたまま、ライターを取り出す。


 親指で火を起こし、炎を見つめる。


「独りぼっちは寂しいもんな」


 灯油の缶を持ち上げ、中身を静かに撒いた。


 ライターを近づける。


 カチッと音がして、小さな炎が生まれる。


 それを、静かに落とした。


 ボッと音を立てて、炎が広がる。


 莉杏の体を包む火は、赤く燃え上がり、空に向かって伸びていく。


 俺は、その横に腰を下ろした。


「いいぜ、一緒にいてやるよ」


 そう言って、笑った。


 ──どうせ、もうすぐ終わるんだ。


 なら、最後くらい、誰かと一緒でもいいよな。



◆・◆・◆



─ ラァラSIDE ─


 赤ちゃんが泣いている。


 ラァラは、小さな体を背負いながら、ふもとの町を歩いていた。


 町の空気はどこか穏やかで、聖地に向かうまでの道とは違い、生活の気配があった。


 石畳の道の脇には、古びた木造の家々が並び、風に揺れる風鈴の音が涼やかに響いている。


 けれど、そんな平和な町並みとは裏腹に、ラァラの心には、ひどく冷えた感覚がまとわりついていた。


 さっきの夜のこと。


 莉杏の言葉と、それに対して遥香が怒鳴った声。


 険悪になった空気のまま、誰も何も言わず、各々が散っていったこと。


 あれでよかったのか。


 ──わからない。


 でも、ラァラは今は考えないことにした。


 まずは赤ちゃんのミルクを探す。


 それが今、自分ができる最優先のことだった。


「嬢ちゃん、お探しのものでもあるのかい?」


 通りの角で、日陰に腰を下ろしていたおじさんが、ラァラに声をかけた。


 ラァラは足を止めて、背中の赤ちゃんをあやしながら、小さな声で答える。


「赤ちゃんのミルクを買えるお店を探しています」


「赤ちゃんのかい?」


 おじさんはラァラを見て、少し驚いたように目を細めた。


 小さな子供が、さらに小さな命を背負っていることに、不思議そうな顔をする。


「それなら、あっちの通りにあるよ」


 おじさんは親切に、道の先を指さした。


「商店がある。なんでも売ってるし、そこのばあさんは面倒見がいいから、困ったことがあれば頼るといい」


「ありがとうございます」


 ラァラは深く頭を下げた。


 その姿に、おじさんはどこか微笑ましそうに笑って、手をひらひらと振った。


 商店の前に立つと、木の看板が軒先にぶら下がっていた。


 店先には、野菜や果物が並び、軒下の棚には缶詰や米袋が詰まれている。


 中に入ると、カラン、と涼やかなベルの音が鳴った。


 店の奥には、白髪のおばあさんが座っていた。


 ラァラの姿を認めると、おばあさんは柔らかく目を細めた。


「あらあら、可愛らしい嬢ちゃんだねぇ」


「赤ちゃんのミルクが欲しいのです」


「はいはい、待ってね」


 おばあさんは椅子からゆっくりと立ち上がると、店の奥へと向かっていく。


 しばらくして、粉ミルクの缶を抱えて戻ってきた。


 それだけではなく、おしめやタオル、小さな布の手提げ袋、


 さらに、ベビーウェアリング──赤ちゃんを抱えるための布を取り出した。


「こっちも持っていくといいよ。サービスだよ」


 ラァラは思わず、おばあさんの顔を見上げた。


「こんな田舎に異民さんなんて珍しいねぇ。お使いかい?」


「はい。この子のお母さんの代わりに来ました」


「えらいねぇ。嬢ちゃん、しっかりしてるねぇ」


 おばあさんは、しみじみと感心するように頷くと、少し考え込んだ。


「……そうだ、ちょっとあがってお茶菓子でも食べて涼んでいきんさい。今日は暑いし、赤ちゃんも疲れるだろう?」


 ラァラは一瞬、迷った。


 でも、確かに夕方までは時間がある。


 おばあさんの申し出に、甘えさせてもらうことにした。


 おばあさんの家は、商店の隣にあった。


 縁側から入ると、風が通り抜けて、ひんやりとした空気が心地いい。


 おばあさんが、お茶とお煎餅を持ってきてくれた。


 そして、羊羹の小皿も並べられる。


 ラァラは、羊羹を一口かじった。


「……おいしい」


 ぽつりと漏らした言葉に、おばあさんは嬉しそうに微笑む。


「たくさん食べなさい。嬢ちゃん、細いからもっと食べなきゃ」


 おばあさんは、ラァラの話を楽しそうに聞いてくれた。


 ラナカシムに教わったホームレス生活。


 浮浪者仲間の母親の赤ちゃんを取り上げたこと。


 日本語を勉強したこと。


 空き缶を拾って売ったこと。


 どれも、ラァラにとっては日常だったけれど、おばあさんはとても興味深そうに頷いていた。


「日本の人は、異民のことが嫌いです」


 ラァラがぽつりとこぼすと、おばあさんは少し寂しそうに目を細めた。


「そういう人もいるね。でも、みんながみんな、そうじゃないよ」


「でも……」


「少なくとも、こうして話してみたら、嬢ちゃんはとても賢くて、いい子じゃないか」


「賢くないと、生きていけないです」


「ふふ、そうかもしれないねぇ」


 おばあさんは、お茶をすすりながら、遠くを見つめた。


 ラァラは、出されたお菓子を一つずつ、大事に味わう。


 誰かと一緒に、お茶菓子を食べるなんて、いつぶりだったろう。


 こんな時間が、ずっと続けばいいのに。





 でも、それは叶わない。


 空の色が、少しずつ茜色に染まり始める。


 ラァラは時計を見て、立ち上がった。


「おばあさん、ありがとうございました」


「いいえいいえ。またいつでもおいで」


 おばあさんは、ラァラの頭をそっと撫でた。


 その手のひらは、しわしわで、だけど温かかった。


 ラァラは、手提げ袋を抱えながら、ゆっくりと店を後にする。


 歩きながら、ふと山の方を見上げる。


 ──聖地の方から、煙が立ち上っていた。


 ラァラの足が止まる。


「……聖地が燃えているのです」


 静かに、呟いた。


 それが、ただの火事なのか。


 それとも、もっと別の何かなのか。


 ラァラには、まだわからなかった



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