#2
─ 7月2日 LIAN OBSERVE ─
「じゃ、次、莉杏の番な?」
遥香さんがそう言ったとき、私は少しだけ迷いました。
けれど、この旅に出た時点で、過去の話をすることはもう決まっていたようなものです。
「え? 私?」
戸惑いながらも、私は静かに言葉を紡ぎ始めました。
──私が生まれたあと、お母さんとお父さんはすぐに離婚しました。
原因はお父さんの浮気です。
でも、お父さんは名家の長男でした。
弁護士も、警察も、お父さんの味方をしていました。
だから、何の責任も取らされることなく、お母さんと私は家を追い出されました。
でも、どれだけ理不尽でも、どうしようもなかったんです。
結局、お母さんは私をひとりで育てることになりました。
朝から晩まで働いていたのか、家には全くいませんでした。
私にかまう余裕なんてなかったと思います。
だから、私はいつもひとりでした。
学校が終わっても、家に帰っても、誰もいない。
私はずっと、鍵を回して、静まり返った部屋に入るだけの生活を続けていました。
「おまえも似たような境遇だったのな」
「私と遥香さんが違ったのは、私は優等生だったことです」
「は? 喧嘩売ってんの?」
「いえ。そんなつもりは。そうじゃなくて……」
私は成績もよく、学校では「優秀な子」でした。
問題を起こすこともなく、誰に対しても礼儀正しく接していました。
お母さんはそんな私を誇りに思ってくれていたみたいでした。
「莉杏は手のかからない子で助かるわ」
そう言って、お母さんは微笑んでいました。
だから、私は「手のかからない優秀な子」であり続けようと思いました。
迷惑をかけないように、失敗しないように、完璧でいようとしました。
──それが、私にできる唯一のことだったから。
いつの間にか、先生が家に様子を見に来るようになりました。
担任の先生──マコト先生は、熱心な先生でした。
勉強を見てくれたり、ご飯を作ってくれたりしました。
「莉杏さんは、いい子ですね」
そう言って、先生はいつも優しく微笑んでくれました。
私はその言葉が嬉しくて、先生と過ごす時間が楽しみになっていきました。
──父親のいない私にとって、それは初めての「家族の食卓」でした。
先生と一緒にご飯を食べる時間。
それは、私がずっと欲しかったものでした。
先生はとても優しくて、親身で、頼りがいがあって……私は少しずつ、先生に惹かれていきました。
ある日、ご飯を食べ終えて、先生が帰ろうとしたとき、私はつい言ってしまいました。
「まだ帰らないでください」
先生は少し驚いたように私を見ました。
でも、私は止まらなかった。
「もう少し、一緒にいてくれませんか?」
先生が私を拒むことはありませんでした。
寂しかった。
心細かった。
でも、それ以上に――先生と一緒にいたかったんです。
その日から、先生は夜遅くまで私と一緒にいるようになりました。
最初はご飯を食べて、少し話して帰るだけだったけれど、次第に……一緒にお風呂に入ったり、同じ布団で眠るようになって。
いつの間にか、私たちは「大人のイケナイ関係」になっていました。
先生はとても優しかったです。
どんなに忙しくても、私に「頑張ったね」と言ってくれました。
「いい子だね」と、ぎゅっと抱きしめてくれました。
その時間だけが、私の世界のすべてになっていました。
「手のかからない優等生」でいることも苦しくなかった。
だって、それさえ頑張れば、先生が私を認めてくれるから。
……私は、先生に認められることでしか、自分の存在を実感できなかったんです。
でも、そんな日々も長くは続きませんでした。
ある日、私は朝から気持ちが悪くて、何を食べても吐いてしまいました。
もしかして……と思って、ネットで大学生のふりをして相談してみたんです。
そしたら、返ってきた答えは――
「それは、つわりだよ」
……赤ちゃんができたんだって、そのとき気づきました。
先生の赤ちゃんが。
初めは、ただただ呆然としていました。
でも、すぐに思いました。
──赤ちゃんができたって知ったら、先生は困るかな?
きっと困るに決まってる。
先生は、私のことを「そういう目」で見ていたわけじゃなかったかもしれない。
ただ、流れでそうなってしまっただけかもしれない。
……でも、私は本気だったんです。
先生に嫌われたくない。
先生に迷惑をかけたくない。
先生を困らせたくない。
だから、私は嘘をつきました。
「親戚の家にしばらく行くことになりました」
先生には、そう伝えました。
何も知らない先生は、「そうか、それは寂しくなるね」と笑いました。
でも、私は知っていました。
この嘘は、いつまでも隠し続けられるものではないことを。
──だったら、どうすればいい?
答えは一つでした。
「そうだ、死のう」
赤ちゃんが生まれる前に、私がいなくなれば、全部なかったことになる。
先生に迷惑をかけることもない。
お母さんにも、世間にも、誰にも知られずに。
私は、検索しました。
──「自殺志願者の約束の地」
そこに、同じように「いなくなった方がいい」と思っている人たちがいました。
私と同じような人たちが、画面の向こうにいました。
……そして、私は二人に出会いました。
◆・◆・◆
私は話し終えて、そっと息を吐きました。
それでも、二人は何も言いませんでした。
長い沈黙のあと、最初に口を開いたのは遥香さんでした。
「……はあ? マジで言ってんのかよ。先生とデキちまったとか、昼ドラのシナリオかよ……」
「莉杏が死んだら、赤ちゃんはどうするんですか?」
ラァラさんの静かな声が、耳に届きました。
……そんなの、考えたこともありませんでした。
「赤ちゃんのこと……?」
自分で口にしてみて、初めて気づいたことがありました。
私は、この子のことを「私の赤ちゃん」と思ったことがなかったんです。
ただ、先生を困らせる原因の「何か」としてしか見ていなかった。
「……赤ちゃん、どうしたらいいですか?」
誰に向けたのかわからないまま、私はその言葉を零しました。
「知るかよ。それはおまえの問題で。俺には関係ねえ」
そう……だよね。
それが、私の自殺の理由でした。