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29話 激突

白い霧に包まれた湿地の中央――そこに漂う空気は、やけに重く淀んでいた。

時折吹く弱い風が濃霧をほんのわずかに揺らし、ぼんやりとした地面と人影を浮かび上がらせる。


ハルは、泥の中で横たわるようにしていた。

意識がかろうじて繋がっているが、身体は冷えきり、手足を動かそうとするたびに痺れが走る。

微かに聞こえるのは、自分の荒い呼吸と心臓の鼓動だけ。


周囲には仲間たちの姿がある。

イオが震える腕を伸ばして何かを言いかけるが、その声はかすれて耳に届きづらい。

アリアの槍は地面に突き立ち、彼女自身も肩から血を流しながら倒れかけている。

ルークは先ほどの大技でほぼ魔力を使い果たし、息も絶え絶え。


その一方で、"粘土怪人"ヴェルンは霧の中に鈍く蠢いていた。

既に膨れあがった体は巨体と化し、泥や湿気をどんどん吸収しているのか、ますます醜悪な姿へ変貌している。


「さあ……そろそろ終わりにしようか。どこから処分してやろうかな?」


冷たい響きの声が、湿地を震わせる。

彼の周囲にはいくつもの触手がうねり、もはや“処刑”の準備を整えたかのようだ。


(……まずい……みんな、もう……動けない……!)


ハルは沈みかけた泥の中、かすかに頭を振って意識を繋ぎとめようとした。

首がガクンと落ちかけると、まぶたの裏にある光景がよみがえる。


――祖父が、静かな灯の下で語ってくれた言葉。

「地味な力であっても、誰かのために使う意味がある」

その温かい声が、いつしかハルの心を奮い立たせる支えになっていた。


頭が朧げでも、胸の奥から意志の炎が燃え上がる。

たとえ“1メートル先のテレポート”程度でも、守り抜きたいものがある。

それがハル自身の“勇者になりたい”という原点だった。


(――だけど、どうやって……1mテレポートしか武器がない。火力の決定打に欠ける状況で、どうやってヴェルンを仕留める?)


一瞬、ふと脳裏に浮かんだのは、かつて迷宮での失敗だった。

「壁の向こうが空間かどうか確かめずにテレポートを使い、壁にめり込んでしまった」――あの痛み。

ヒビが入るほどの衝撃だったが、もしそれを"応用"できたなら……?


「ハル……もう、やめて……これ以上……」


近くで呻くイオが、力ない声でハルを呼び止める。

アリアも苦痛の息を吐きながら「あなたまで倒れたら……もう……」と弱々しく訴える。


ハルは震える手で泥を払って、かろうじて立ち上がった。

視界が何重にもぼやけ、頭がクラクラするが、足を踏み出す。


「イオ、アリア……僕は……まだやれる。誰かを守るために……諦められないんだ……!」


その瞬間、ヴェルンの巨大な泥の腕が振りかぶられる。

今にも叩き潰されそうなハルへ向けて、黒い塊が勢いよく振り下ろされる――


「やらせるかぁああっ!」


イオが最後の力を絞り出したように、渾身の雷を拳に帯びた。

バチバチッと火花が散り、指先が震える。

その電撃が粘土の側面を裂き、一瞬だけヴェルン本体が内部に浮かび上がるように見えた。


「っ……ぐ……!」

ヴェルンはわずかに身をよじり、不快そうに顔を歪める。

やはり、直接“本体”に触れればダメージを与えられるのか――

ハルはその可能性を見逃さなかった。


「ハル……最後の風……使うからっ……!」


アリアが血の滲む肩を押さえながら、槍を突き立てるように力を込めた。

周囲の霧がザワリと揺れ、かすかな突風がハルの背を押す。


スッ……と身体が前へ弾け飛ぶように前進する。

目の前には、膨れあがった粘土質の壁――まるで巨木のようにそびえるヴェルンの腹部と触手が迫ってくる。


(……ここで飛び込む!)


触手がからみついてきたが、それすら逆手に取るように、ハルは腕を伸ばし、ヴェルンの胴体にしがみついた。

生温い泥が肌にべっとりと絡みつき、粘土特有の粘度が気味悪いほどに手を滑らせる。

それでも離れない。

――むしろ自分ごと相手にめり込むようにして、テレポートの魔力を集中させた。


(壁にめり込んだあの痛み……あれをそっくり、この粘土の中でやれば……!)


「……行く……ぞ……っ……!!」


触手がハルの身体をさらに締め上げるが、その一瞬の苦痛をこらえ、彼はテレポートを起動。

1メートル先――いや、"ヴェルンの本体”が埋まっている、その場所に向かって。


ゴウンッ!!


――大地が揺れたかのような衝撃が走り、ハルの身体とヴェルンの粘土質が激突する。壁にめり込むような圧力に、巨大な塊がぐしゃりと変形した。


「ぐはっ……!?」


ヴェルンの叫びが上がり、泥が四方へ散らばる。ビリビリと骨まで響く衝撃に、ハルも立っていられないほどの痛みを覚えたが、ここで踏みとどまらねばならない。


(もう一度…!)


ハルは意識が遠のきそうになるなか、最後の魔力を振り絞る。


「ハル、やめろ……無理だ……!」


ルークの悲鳴じみた声が聞こえるが、ハルは一切の躊躇を捨てて再び衝突を狙う。


ドンッ――二段目の衝撃がヴェルンの粘土壁を砕き、ずるずると灰色の塊が崩れ落ちる。


バシャッと泥が舞い散り、再生力を失った粘土が一気に形状を失っていく。その中心には、意識を失ったヴェルンが崩れ込んでいた。メガネはずれ落ち、泥まみれになった青年の身体がピクリとも動かない。


「や、やった…!」


視界の片隅でイオやアリア、ルークが動きは鈍いが、ゆっくりとこちらに視線を向けている。

誰も彼もが満身創痍だが、生きている。


白い霧は、相変わらず重苦しく立ち込めていたが、ハルの心にはどこか晴れやかな感覚があった。

地味な力だとバカにされ続けた“1メートルのテレポート”で、大切な仲間と未来を繋いだ――その事実だけが、胸にじんと熱さをもたらしてくれる。


(……祖父さん……僕……やれたよ。誰かを守るために、僕が……この力を……!)


ぐったりと泥の中へ両手をつき、ハルは意識が遠のきそうになるのをなんとか踏みとどまった。


最後に瞼が閉じかけたとき、遠くから仲間の声が聞こえたような気がする。


「ハル……! ハルっ……!」


――その響きは、泥よりも深い闇へ沈まないようにと、必死で呼び戻してくれる光だった。

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