28話 砕かれる意思
湿地を覆う白い霧が、ほんの少しだけゆらぎ、空気に微かな緊張が生まれた。
ルークの視線が粘土怪人――ヴェルンの中心部を捉え、短杖に宿る水の魔力が力強く脈動する。
「もう、やるしかねぇ……!」
彼の声は震えていた。疲労と痛みが全身を蝕む中、それでも仲間を守り抜こうという意志だけが身体を突き動かしている。
その短杖の先端で、銀色の水流が螺旋を描き始めた。まるで竜が顕現したかのようなうねりが霧を吹き飛ばし、周囲の空気が急速に冷える。
ハルやイオ、アリアも、半ば崩れ落ちた姿勢のままその異様な気配を感じ取った。ルークが放とうとしているのは、これまで見せたことのない“大技”だ。
「……消し飛べ、粘土野郎ッ!」
その叫びとともに、水の螺旋が一気に圧縮され、烈風を巻き起こす。
ズガァンッ――!
まるで濁流の津波が一点へ凝縮したような一撃が、粘土怪人の胴体を盛大に削り取った。霧を切り裂き、湿地の泥が大きく弾け飛ぶ。
凄まじい轟音とともに、ヴェルンの粘土質の身体がぶわりと裂け、あちこちに泥の破片が散らばっていく。
「うおおおおっ……!」
思わずハルが声を上げた。絶望的だった戦況に、一瞬だけ光が差し込んだかのような鮮烈な一撃。
ドロリと裂けたヴェルンの上半身がぐらつき、低い唸り声を上げる。思わず彼の表情にも苦痛が走り、口元が歪んだ。
「がっ……きさま……!」
それは、彼自身もまともにダメージを受けた証拠。ルークの魔力が確かにヴェルンを追い詰めたのだ。
……しかし。
一瞬の沈黙。霧の中で宙に舞った泥の残骸が、糸を引くように再び集まり始める。ブツブツと音を立てながら粘度の高い泥が裂け目を埋め、ゆっくりとヴェルンの形へと戻っていく。
ルークは目を大きく見開き、息を呑んだ。
「う、嘘だろ……こんだけ削ったのに、まだ……?」
途端に、ヴェルンの唇が冷笑に歪む。再生途中の体を支えながら、どこか嘲るように首を振った。
「所詮、その程度か。いっとくけど、何度でも再生できるんだよ。――この泥がある限りはね」
ズルリと粘土がまとわりつき、ひしゃげた胴体が修復されていく。裂け目を埋めるようにじわじわと集結する泥の塊に、ルークは唇を引き結んだまま後ずさった。
今の大技で、彼はほとんど魔力を使い果たしたのだ。肩で荒く息を吐き、腕の震えが止まらない。
「くそ……もう……腕が上がんねぇ……」
短杖を握る手から力が抜け、ルークは膝から崩れるように地面へ倒れ込む。
ぬかるみの泥がズシュリと音を立て、彼の体を受け止めた。
遠くからハルの声が「ルーク!」と聞こえた気がしたが、その意識はどんどん遠のいていく。
「悪い……もう動けねぇ……」
ルークのまぶたが重く落ちかける。
イオもまた、雷のオーラをまといたいのに魔力が枯れかけ、震える拳を握りしめるだけ。アリアは血のにじむ肩を押さえ、槍を支えるのが精一杯。
勝ち筋は、見当たらない――そう思わせるほどの絶望感が、さらに濃く立ち込める。
一方、再生を終えたヴェルンは、歪んだ粘土質の腕を振り上げ、ルークに狙いを定めた。
トドメを刺すために伸びていく複数の触手が、湿地の泥を巻き込みながらにじり寄る。イオやアリアが悲鳴に近い声を上げるが、間に合わない。
(まずい……このままじゃルークが……!)
ハルの鼓動が耳鳴りのようにうるさい。脚も腕も鉛のように重いが、立ち止まるわけにはいかない。
そしてハルは意を決して、ヴェルンの背後へ飛び込むように肉薄した。
「やめろおおっ……!」
テレポートの魔力を強引に引き出し、ヴェルンの身体を抱きかかえるように組みつく。と同時に――ヒュッと空間が歪み、二人の姿が一瞬消えた。
わずか1メートル先だが、ルークからは距離を離すことができる。ヴェルンの触手は狙いを外し、泥の水面に空振りして荒い波紋を作った。
「しつこいよ、君たちは……!」
苛立ちを隠せないヴェルンが、腹立ちまぎれに伸ばした触手でハルを力任せに弾き飛ばす。
ゴンッ、と鈍い衝撃がハルの背を襲い、濁った泥の中へたまらず沈む。まるでそこが底なし沼のように、ひやりとした泥が彼の身体を飲みこもうとした。
「ぐはっ……!」
口から息が漏れ、苦痛に声が歪む。視界が一瞬にして泥まみれになり、息がうまくできない。
その間にも、ヴェルンの肉体はさらに泥を吸収し、もはや巨躯といっていいほど膨れ上がる。
どろり、どろり。
湿地の底から次々と吸い上げられる粘土が、彼の全身を包み込んでいく。腕も脚も肥大化し、その輪郭がグロテスクなまでに変形する。
「さあ、誰から“処分”してやろうか。……地味に抵抗してくるハルか? それとも、先に倒れそうな仲間たちか?」
湿地に沈みかけたハルの鼓膜に、その不快な声がぼんやりと響いてきた。
泥が耳や鼻に入り込み、冷たく息苦しい。自力で這い上がりたいのに、手足がつっぱり、魔力も底をついている。
歯を食いしばっているのに、意識がどうしようもなく遠のいていく。
(……もう、何も……できないのか……)
仲間が倒れ、自分も泥に沈む――そんな絶望的な光景が脳裏をよぎった。
沈みゆく泥の中で、ハルはかすかにイオやアリアの声を感じた気がするが、それも耳鳴りにかき消されていく。
ハルは濁った泥の底で、己の無力を痛感するようにまぶたを閉じそうになった。
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