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◆書籍化予定【短編版】猫と仲良くお喋りしていたら、王子様に気に入られてしまった件

作者: 希代 海

「レベッカ、僕は今、この瞬間をもって君との婚約を破棄し、君の妹・フローラと婚約する」


 卒業生の送別パーティーの真っ只中。

 最後まで壁の華でいたかったのに、有無を言わさずずるずると中央に連れ出され、それでもできる限り空気と同化しようとしていた私の努力も虚しく、冒頭のこれである。


(だから言ったじゃない……)


 心の中でそう毒づきつつ、私の隣で俯きがちに肩を震わせている男を半目で見遣る。ヒールでその足を思いっきり踏みつけたい衝動に駆られたが、この場で不敬をするわけにはいかないと、何とか抑え込んだ私を誰か褒めて欲しい。

 小さく咳払いをして、淑女の微笑みを浮かべて声の主へ向き直った。


「……申し訳ありません。よく聞こえませんでしたわ。もう一度おっしゃっていただけます?バ……パトリック様」

「何度でも言ってあげるよ。君との婚約は破棄だ。僕はこの、愛するフローラと結婚する」


 危ない、いつもの癖でバカって言いそうになったわ。

 ていうか愛するとか言っちゃってますけどこの人。婚約者がいる身分で堂々と浮気していましたと宣言したようなものですけど。しかもこんな大勢の方々の前で。

 まあ今さらと言えば今さらなのだけど、それにしても頭大丈夫かしら……と本気で心配になってくる。そんな私の視線をどう勘違いしたのか「今さら同情を引こうとしても無駄だよ」なんて言葉が返ってきた。なかなか重症らしい。


「ごめんなさいお姉さま、わたし、パトリック様を愛してしまったの……」


 眉を八の字にし、目薬でもさしたのか?と言いたいほど無駄に潤んだ瞳でパトリック様の後ろからおずおずと申し出てきたのは、案の定義妹であるフローラ。


 鈴の音が鳴るような可愛らしい声は、私には逆立ちしても絶対に出せない。やはりこういう、庇護欲を掻き立てられるタイプの方が男性は好ましいのだろうか。でもこの演技を見破れない男性は、悪いけど本当に見る目が無いと思うわ……。

 というか、やっぱり今日も当たり前のようにパトリック様の隣にいるのね。


「ショックで言葉も出ないようだね。でも元はと言えば君が悪いんだよ、レベッカ。魔力を持たないからといって妹を妬み、あまつさえ虐げていたそうじゃないか。そんな悪魔のような女、絶対にお断りだよ」

「パトリック様、それは言わない約束ですっ!」

「大丈夫だよフローラ、僕に任せて。もう絶対に君を傷つけさせたりはしない」

「パトリック様……」


 呆れて返す言葉も見つからないでいると、目の前で勝手に愛の劇場が開幕していた。別にいいけど、そろそろ周りとの温度差で風邪を引きそう。お二人さん、ここは学園ではないのよ。


 そんな感じでとにかく周りの見えていない残念な二人と、未だに笑いのツボから抜け出せないでいるらしい隣の男を見て、私の口からは思わず大きなため息が漏れた。


 何故こうなったのか。

 事の発端はおおよそ半年前に遡る。



 ====================



「……毎度毎度、飽きないわねぇ」


 無惨に破り捨てられた教科書を地面に並べ、その前にしゃがみ込むと、私は呆れを滲ませてそう呟いた。


 人気の少ない裏庭、草木の繁る奥へ入ったところにあるガゼボ。恋人たちの公然の逢引き場所――そのさらに奥。木々に隠れているせいで見えづらいため、誰も寄りつかない小さな池のほとり。

 そこが、私、落ちこぼれ伯爵令嬢レベッカ・コリンズの数少ない安寧の場所だった。


 目の前にあるボロボロの教科書はついこの間新調したもの。首謀者についてはよくよく知っているが、どうせ誰も信じてくれないのでとうの昔から諦めている。

 こういったことは入学時から日常茶飯事なため、さすがに二年目後半にも突入すると完全に慣れてしまい、ショックすら受けなくなった。


「先々週は語学だったからまだスペアがあったけど、今回はまた魔術学……先週新しく買ったところなのに……はぁ、また先生に嫌味を言われそう」


 社交界でも有名な「落ちこぼれ」である私は、一定数の教師にもあまり良い顔をされない。その筆頭である魔術学の担当教師の顔を思い浮かべて、余計に気が重くなった。


 そもそも、仮にも伯爵令嬢の私が何故このような事態に陥っているのか、順を追って説明しよう。


 まずこの国には「魔法」というものが存在する。物を浮かせる、火を起こす、など日常生活に便利なものから、傷を癒す、人を呪う、といった人知を超えたものもある。

 そして魔法を使うための「魔力」を持って生まれるのは、基本的に貴族のみだ。

 稀に平民にも魔力を持つ者が現れるそうだが、その場合は教会が引き取るか、子や世継ぎに恵まれなかった貴族が養子に迎える、といった措置が取られる。


 話が少し逸れたが、私の生家であるコリンズ伯爵家は代々強い魔力を持つ者が継いでおり、魔力を持つことへのプライドがとても高い家系であることで有名だ。生まれてくる子どもの魔力をある程度操作するため、結婚相手すら魔力量で選ぶ。


 私の両親もその手の政略結婚であり、父と母はともに魔力量が多かった。

 父はコリンズ伯爵家の長男で、歴代当主の中でもトップを争う程の魔力を持つ。対して母は宰相の父を持つセルヴァン伯爵家の娘であり、政治にも詳しく、またその魔力量に似合わず繊細な魔法が得意だった。

 そんな二人の間に生まれた待望の第一子。しかしその娘は、日常生活を送る上で多少は役立つかどうか、という程度の微量の魔力しか持ち合わせていなかった。


 その事実に父は怒り狂い、お前のせいだと母をそれはそれは強く責めたそうだ。それでも母だけは私を自分の娘として育て、たくさんの愛情を注いでくれた。私が比較的まともな性格に育ったのも、母のおかげである。

 そんな優しい母も七年前、私が十歳の時に、流行病によりあっけなくこの世を去ってしまった。


 母が亡くなってから半年も経たずに父は再婚し、私には異母妹ができた。

 私の一つ年下だというフローラは、継母譲りのピンクブロンドに父そっくりの桃色の瞳をした可愛らしい少女だった。

 年齢と見た目で何となく察してはいたが、フローラは父と、その頃はまだ愛人であった継母から生まれた不貞の子だった。後から噂で聞いたところによると継母は父の元恋人らしく、政略結婚のため仕方なく別れて私の母と結婚したらしい。貴族ではよくある話だ。


 そうして継母と異母妹が伯爵家で暮らすことになり、私のかろうじて穏やかだった日々は跡形もなく崩れ去った。


 まず父が魔力量の多いフローラを後継者にすると宣言した瞬間に、家の中での私の地位は令嬢から使用人に転落。私や母の味方だった執事や侍女は全員暇を出され、私を敬う人間は誰もいなくなった。


 次いで、フローラによる悲劇のヒロイン作戦が始動。お茶会(もちろん私は呼ばれない)にて、義姉に虐められている可哀想な妹アピールを始めたらしく、元々少なかった友人たちもどんどん離れて行き、今や社交界では悪女と名高い女になってしまった。


「百歩譲って落ちこぼれは認めるわ。でも魔力量の多い異母妹を妬んで虐げてるって……そんな八つ当たりする暇があったら、もっと有意義に使ってるわよ……ていうかどっちかって言えば癇癪持ちはフローラの方でしょ……」

『今日も今日とて大きなひとりごとだねぇ、レベッカ』


 不貞腐れ気味に頬杖をつきながら誰に聞かせるでもなく文句を言っていると、呑気な喋り声が頭上から降ってきた。特に驚くこともなく、顔だけ上に向けて声の主を探す。

 見ると、ちょうど私が陰になるように葉を生い茂らせている木の上、その枝にちょこんと座ってこちらを見下ろす黒猫がいた。


「別にいいじゃない。こうやって喋ってないと、いざというときに話し方を忘れて困るのよ」

『アタシたちと喋ってるから大丈夫じゃない?』

「……確かに」


 でももう癖みたいなものだから仕方ない、と一人で勝手に結論づけて納得していると、小さな笑い声の後、目の前に黒い塊がひょいと着地する。


 彼女の名はキルシュ。真っ黒の艶やかな毛並みに、熟れた果実のような真っ赤な瞳の猫である。

 私はいつ見ても美形だと羨ましく思うのだが、残念ながら世間では黒猫は闇魔術師の使い魔だと恐れられている。こんなに綺麗なのに。


『そんなに褒めても何もないよぉ』

「あら、私声に出てた?」

『思いっきりね。本当にレベッカはびっくりするくらい素直だなぁ。あの悲劇のヒロイン女もレベッカくらい素直で可愛かったらまだマシなのに』

「やだ、そんなに褒めても何もないわよ!ほほほ!」

『その笑い方は気持ち悪いけどねぇ』

「ひどい!」


 両手で顔を覆って大袈裟に傷ついたふりをするも、全く意に介さず呑気に欠伸している気配がしたので、あっさり諦めて地面に腰を下ろした。ついでに足も伸ばす。淑女にあるまじき体勢だが、誰も見ていないので構わない。キルシュにはとうの昔から知られているし。


 なんてこと無いふうに猫と会話している私だが、普通の人間から見ればただの変人だと思われるだろう。それもそのはず、キルシュの声は普通の人間には聞こえないのである。


 私がこの能力に気づいたのは五歳のとき。庭にいた小鳥に何となしに挨拶すると、なんと人間の言葉で返事が返ってきたのだ。びっくりしてすぐさま母に伝えると、普段滅多なことでは取り乱さない母もさすがに驚いたらしく、手にしていた本を床に落としていた。


 それから母とともに歴史書を調べたり、いろいろと試してみたりしてわかったことは、私は動物の言葉がわかり、会話もできるということ。普通の人間には、私が一人で動物に話しかけているようにしか見えないこと。そしてこの能力は、魔力とは別の"祝福"という神様からの贈り物である可能性が高いということ、である。


 母は私が歴史上でも数少ない"祝福"持ちであるかもしれないということを大層喜び、私の魔力量が異様に少ないのも"祝福"を賜ったせいかもしれない、と言った。

 それからふと、悪いことを思いついたようにニヤリと笑い、こう言ったのだ。


――レベッカ、このことはお母様との秘密にしましょう。今はまだ、誰にも言っちゃダメよ。……そうね、あなたが大きくなって、いつか心から信頼できる人ができたら、打ち明けてみなさい。そうすればきっと、あなたは誰よりも幸せになれるわ。


 母のその教えを守り、私は自身のこの能力を誰にも言ったことがない。というかたとえ言ってみたとしても、今の私では誰にも信じてもらえないだろうが。


『にしても、今日もまた派手にやられたねぇ』

「よほど暇なんでしょうよ。このあいだまで留学から帰ってきた第二王子殿下の話で盛り上がって、私に構ってる暇もないくらい追っかけしてたのに、殿下が超冷たくて見向きもしないってわかるとすぐにこれよ」

『なるほど、毎度の如くストレスの捌け口にされてるってわけ。あれが本当の癇癪持ち、と』


 嘲笑混じりに返された言葉に対して、頷く代わりに盛大なため息をこぼす。


 もうわかりきっていることだが、この教科書をはじめとした学園でのいじめの主犯は勿論フローラだ。ただ、本人が直接手を下すことはまずない。大体はフローラの取り巻きたちが彼女の言い分を信じて、制裁だとか正義ぶって勝手にやっていることである。半分くらいは単純に私を馬鹿にしているだけだろうけど。


『第二王子かぁ…レベッカも会ったの?』

「遠目に見ただけよ。でもすっごい美形だったわ。第一王子殿下とはまた違うタイプね。噂だと「太陽」と「月」って対比されてるみたい」

『ふぅん』


 キルシュに説明しながら、渡り廊下の端で遠目に見かけた殿下の姿を思い出す。


 第二王子、ギルバート・ヴォドリング殿下。

 つい先日、同盟国への五年間の長期留学から帰国し、この学園に編入してきた。

 王妃殿下譲りの美しいシルバーブロンドヘアに、国王陛下や第一王子殿下と同じサファイアの瞳。ただ双子である第一王子殿下と異なるのは、べらぼうに整ったその顔には微笑みなど一切なく、絶対零度の冷ややかな視線も相まって近寄り難さが半端ないという点である。


 噂によると、王位継承権のこともあってか兄弟仲はあまりよろしくないらしい。言われてみれば、確かにお二方が学園内で会話しているところは見たことがない。

 現在継承権一位は第一王子のレオンハルト・ヴォドリング殿下だが、医師に取り上げられた順番だけで決まった序列だ、何かしら思うところがあるのかもしれない。


 他の家でもやはり仲が悪い兄弟や姉妹はいるものなんだなぁ、と仄かな親近感を抱いたのは内緒だ。王族に対して、うちと一緒ですね!なんてあまりにも不敬すぎる。


 遠い目をしてそんなことを考えていると、くつくつと意地悪な笑い声が耳に届いた。


『あの女、自分に見向きもしない男がいるなんて、相当悔しかっただろうねぇ』

「そうねぇ。誰しもがあのバ…パトリックみたいにチョロくないって、いい加減理解してると思ってたんだけど。未だに脳内お花畑だったらしいわ」

『いっそレベッカが第二王子と仲良くなっちゃえば?』

「バカ言わないでよ、私なんかがお近づきになれるわけないでしょ。変な噂が立っても大変だし、落ちこぼれには誰も関わらないわよ」


 ばっさりと言い切れば、赤い瞳が何か言いたげに細められる。けれど結局、キルシュは口を開くことなくそのまま視線を逸らした。

 言われなくても、続くはずだった言葉は大体予想がつく。


――もっと自分に自信を持っていいのよ、レベッカ。


 幼い頃の朧げな記憶、その中ではっきりと覚えている母の言葉の一つ。

 父に直接ぶつけられた「落ちこぼれ」「一家の恥晒し」という言葉に、幼い私はその意味こそ分からずとも、そこに込められた悪意だけはしっかりと感じ取ってしまい、ひどく落ち込んだ。


 そんな私を慰め、気にしなくても大丈夫だと微笑みかけてくれた母の言葉。ずっと忘れずに覚えているけれど、母が亡くなって以降、残念ながら自信を持てたことなどほとんどない。そんな話をキルシュにもしたことがあった。


(言わなかったのは多分、私がお母様を思い出して悲しむと思ったから。まったく、変な気を遣ったわね。……本当に優しい子)


 小さな気遣いにふっと笑いをこぼせば、目敏くそれを聞き取ったらしい黒猫は、気恥ずかしげにそっぽを向きつつ尻尾をゆらゆらと揺らした。


『おい、またアイツら学園内で堂々とイチャついてやがるぞ』


 不意に、キルシュより一段低い声がその場に落ちる。続けて頭上から降りてきたのは、これまた美しい毛並みの三毛猫だった。当たり前のようにキルシュの隣に座ると、早く報告したくて仕方ない、と言わんばかりに藍色の瞳をきらりと輝かせてこちらを向き直る。

 そんな彼の様子に、私は本日何度目かわからない沈鬱なため息をついた。


「……どこ?」

『美術室近くの渡り廊下』

『毎度、人前でよくやるよねぇ』

「ハァ……せめてもうちょっと人目の少ないところでお願いしたいものだわ……別に仲良くするのはどうぞご勝手にって感じだけど」


 思わず片手で眉間を抑えて唸ると、報告を終えたゼーゲンは満足したらしく呑気に毛繕いを始める。

 彼は三毛猫のゼーゲン、私のもう一人(匹)のお喋り友達である。

 出会ったのは半年ほど前と比較的最近だが、キルシュとは元々顔見知りらしい。そして野良猫のキルシュとは違い、ちゃんとした主人がいるそうだ。


 ちなみにキルシュはよく私と一緒にいるし、学園に入学して寮生活になってからは毎日のように私の部屋に入り浸っているが、飼っているわけではない。(そんなことをしたら継母やフローラに何をされるかわかったものじゃない)


『ねぇ、レベッカ。本当に婚約解消できないの?』


 微かに心配を滲ませた声色でキルシュに尋ねられた私は、首を横に振って肩をすくめた。こればかりはどうしようもないのだ。


 キルシュの言う婚約解消とは、私とパトリック・シャーマン侯爵令息の婚約のことである。というのも、今しがたゼーゲンからの報告に上がっていた、フローラがイチャコラしている相手こそがそのパトリックなのだ。

 つまり、私の婚約者は私の異母妹と恋仲。どこぞの泥沼恋愛小説にありそうな設定である。


 正直な話、私としてはパトリックに対し何の感情も抱いていない。正確に言えば情を抱く前にフローラに全部持っていかれたので、傷つく傷つかない以前に本当にどうでもいいのだ。さっさと私と婚約解消してフローラと婚約すればいいものを、と思うのだが、そう簡単にいかないのが我がコリンズ伯爵家だ。


 そもそも何故、落ちこぼれの私に一丁前に婚約者がいるのかというと、簡単に言えば父の思惑である。


 父は恐らく、卒業と同時に私を勘当するか、もしくは適当な貴族と結婚させて遠い地へ追い出す予定なのだろう。本当は母が亡くなった時点で追い出したかったのだろうが、変なところで外聞を気にする父は、落ちこぼれとはいえ正統な血筋の貴族である私を学園に通わせないわけにはいかなかったらしい。


 加えて自分で言うのも何だが、私は母に似てそこそこ容姿が整っている。ブルーグレーのストレートヘアに、色素の薄い水色の瞳。事情を知らない他国の人間が見れば、儚げな印象を与える美女と言えないこともない、らしい。そのため、落ちこぼれでももらってやってもいい、という気のいい男性(しかし高確率で変態)が一定数いるのだ。


 父としては、追い出す予定の人間宛に来る婚約をいちいち断るのが面倒だったのだろう。そこで考えたのが、後継者として考えているフローラの婚約者候補を一時的に私の婚約者としておく、というふざけた案であった。


 恐らくパトリックもフローラも、このことについて父から直々に話を聞かされている。それゆえに学園内で白昼堂々イチャコラしているのである。


「私としては、今すぐ勘当してほしいくらいなんだけどね。こういう地味な嫌がらせも飽きたし、寮を追い出される長期休業期間は苦痛すぎるし」

『でも今勘当されたとして、行く当てあるの?』

「街の人は平民としての私なら仲良くしてくれてるし、多分何とかなるわよ」

『お気楽なもんだな、落ちこぼれ令嬢ってバレたら一気に手のひら返されるぜ』

『ちょっと、ゼーゲン!』


 ゼーゲンの言葉をキルシュが厳しく咎める。

 若干心が抉られたが、本当の事なので苦笑いで誤魔化すと、キルシュがゼーゲンを尻尾で叩いた。


『イテッ!……悪かったよ。けどお前、勉強は好きなんだろ?辞めちまったらできねーぞ』

「そうなのよねぇ……お母様の血だと思うんだけど、経理や語学の授業はすっごく楽しいのよ。平民になるとこんなにちゃんと学べないから、惜しくはある……」

『レベッカ、魔術学以外の成績はめちゃくちゃ優秀だもんねぇ』

「まあね。……はぁ、遠い他国でも貧乏でも何でもいいから、心優しくて変な趣味のない貴族の方に見初められて嫁入り……なんて、できないわよねぇ……」


 遠い目をして、どうせ叶いもしない願望を口にするだけしてみるも、逆に虚しくなってしまった。


 母の生家であるセルヴァン伯爵家は、当主が代々宰相を務めており、母も政治や経理の話にはとても詳しかった。幼い頃は難しい単語が多いと感じていたが、今思い返すとなかなか興味深い話をたくさんしてくれていた気がする。

 もっと大きくなってから話を聞いてみたかったな、と考えて、慌てて思考を振り払った。こんなことでいちいち落ち込んでいてはいけない。


 そんなことより目下の問題は、目の前にある紙切れと化した物体である。私は無理やり意識をその教科書に持っていった。


「さて、それよりも本当にどうしようかしら、これ……あの先生、絶対ネチネチ言ってくると思うのよね。前回と同じく、朝の予鈴前ギリギリの時間を狙うか……」

『それで前回は、続きは放課後って言われて一時間説教コースだったんだよねぇ』

「ぐっ、そうだったわね……じゃあ、今回は先生の帰宅直前を狙っていくわ。善は急げよ、決行は明日!」

『ちなみに明日は大雨だ。あいつ低気圧に弱いから、機嫌は最悪だろうな』

「……明後日にするわ」


 そういえば確かに雲行きがあまりよくない。もう少しここでぼけっとしていたかったけれど、早めに寮へ戻った方がいいかもしれないなと、私は渋々立ち上がる。


「雨が降ってきても困るし、そろそろ寮へ戻るわ。あなたたちも早めに雨宿りできる場所へ……」

『……げっ、マジか』

「?どうしたの、ゼーゲン」


 私の言葉を遮り、突然ピンと両耳を立てて背筋を正したゼーゲンに首を傾げる。


 その瞬間にザァッと強い風が吹き抜け、次いで聞き馴染みのない声が耳朶を打った。


「……ゼーゲン?」


 心臓が跳ね上がった。

 全く気配がなかったことに驚愕しつつ、声のした方を勢いよく振り返る。


 そこにいたのは、少し切長の目をめいっぱい見開いてこちらを凝視する、ギルバート第二王子殿下その人。


 幻覚だと思いたかった。本当に、心の底から。


 だが現実は残酷である。驚きと絶望で思考停止し固まったままの私をよそに、殿下はその長いおみ足でずんずんとこちらへやって来た。

 何とか我に返った私は慌てて頭を下げ、淑女の挨拶(カーテシー)の形を取る。


 視界の端で焦茶色の靴がピタリと停止し、続けて「顔を上げていい」という冷たい声が降ってくる。

 恐る恐る顔を上げると、予想通りの無表情がそこにあった。射抜くような鋭さを持った真っ青な瞳が怖すぎる。こんなとんでもない美形に真正面から睨まれる機会などそうない。か弱い令嬢なら失神するレベルじゃないだろうか、これ。


「……名は」

「リチャード・コリンズ伯爵が娘、レベッカ・コリンズと申します。第二王子殿下におかれましては、ご機嫌麗しゅう」

「コリンズ伯爵家の令嬢……そういえば、娘が二人いると聞いたな」


 君が姉の方か、と呟いた声には苦虫を噛み潰したような不快さが滲んでおり、フローラの行動を思い出してああ……と半目になりかける。


「ええと、あの……妹がご迷惑をおかけしたようで……大変申し訳ございません……」

「いや……ああいうことには慣れている」


 慣れてるのね……この人、もしかして結構な苦労人なんじゃないかしら。


 そんなことを考えながら、思ったよりも会話が成立していることに内心驚いていた。確かに近寄り難いオーラは全開だが、話を切って捨てるような方には思えない。礼儀正しく、常識のあるお方なのだろう、と私は認識を改める。


 ふと、殿下の視線がチラリと下に移る。つられて下を見れば、興味津々といった様子でこちらを見上げるキルシュと、珍しく所在無さげにソワソワと視線を彷徨わせるゼーゲンがいた。


「その……コリンズ伯爵令嬢は、この猫を知っているのか」

「え?ええ、はい、存じ上げております。私の大切な友じ…友達ですわ」

「友達……」


 その言葉に殿下の瞳の鋭さが少し和らぎ、代わりに信じられないといったような驚きと戸惑いの感情が瞳に乗せられる。

 この辺りで、私は殿下は無表情なのではなく、単に感情が表に出にくい人なのでは?と勘づき始めていた。


「……彼らの名は?」

「?ええと、黒猫の方をキルシュ、三毛猫の方をゼーゲン、と私は呼んでおりますが……」


 何故そんなことを聞くのだろう、殿下も猫が好きなのだろうか、と内心首を傾げつつも二匹の名を答えると、今度こそはっきり驚愕の表情を見せた殿下はガバッと勢いよく私の方へ向き直った。


「えっ……ど、どうかなさいましたか?」

「……何故、知っている」

「は?」


 何だかとても嫌な予感がする。あら?そういえばさっき、殿下も名前を呼んでいた……ような……

 一目散にこの場から逃げ出したい衝動に駆られながらも何とか踏み止まって微笑んでいると、続けて殿下が発した言葉に、私は文字通り凍りついた。


「ゼーゲンは私の愛猫だ。名前は名付け親である私と、そのほか数少ない人間しか知らない。それなのに何故、君が名前を知っている」


 一瞬、時空の彼方へトリップしかけた思考を無理やり引き戻し、キッと恨みを込めた視線を足元の三毛猫へお見舞いした。


 あなたの主人が第二王子殿下とか、初耳なんですけど……!?


 確かに、キルシュは私が名付け親だが、ゼーゲンは出会った時に自分でそう名乗っていた。言われてみれば最初からかなり偉そうだった、王族に飼われている猫ならばその態度も納得できるものがある。


 さて、どう説明したものか。疑わしげな視線を向けてくる殿下に、私は内心汗びっしょりである。この場から逃げることは絶対に許されない、かと言って正直に話していいものか。というかそもそも、信じてもらえるかどうかすら怪しい。


 言葉に詰まっていると、足元から居心地の悪そうなボソボソとした声が聞こえてきた。


『……レベッカ、正直に話しても大丈夫だぞ。ギルはオレの声が聞こえるんだ』

「……え?」


 ゼーゲンの言葉に思わず反応してしまい、ハッとして殿下に視線を戻すと、ぽかんと口を開けてこちらを凝視する殿下がいた。

 恐らくこのとき、私も似たような表情をしていたのだろう。


 ただ一匹、この場を純粋に楽しんでいたキルシュが、わざとらしくニャアと鳴いた。



====================



「……なるほど、"祝福"か」

「ええ……母に、誰にも言うなと言われておりまして」

「御母上は賢明な方のようだ。基本的に"祝福"はあまり言いふらすものではない、悪用しようと企む輩もいるだろう」


 隣を歩きながら小声で真剣に話すギルバート殿下に対し、いえ、母は恐らく父に仕返ししてやりたかっただけだと思います、という言葉はかろうじて飲み込む。見かけによらず子供っぽいところがあった母を思い出し、思わずふっと小さく笑ってしまった私を見て、殿下は不思議そうにまばたきをした。


 あの後、雲行きがさらに怪しくなってきていたため(※天気の話)、私たちは屋内へ場所を移して話をすることになった。


 ただ、一応とはいえ婚約者(仮)のいる身分である私にとって、屋内、特に密室で男性と二人きりという状況は大変よろしくない。そのことを告げると、殿下はしばし考えた後、猫たちがいるから大丈夫だろうと真顔で言い切った。


 いや、全く大丈夫ではないです。猫はノーカウントです、殿下。


 天然……?もしかして天然なの……?と絶句していると、見兼ねたゼーゲンが代わりに苦言を呈してくれた。殿下は本当にゼーゲンの言葉がわかるらしく、微妙に渋い顔をしていたが、納得はしてくれたらしい。結局、殿下とゼーゲンのことを知っている人物のところへ行くことになり、現在はそこへ向かう道中である。


 放課後でも学園に残り勉強をしている生徒もいるため、できる限り人通りの少ない廊下を選んで進む。ただでさえ殿下と歩いているだけで目立つというのに、その後ろから黒猫と三毛猫がてくてくとついてきているのだ。謎すぎる光景である。見られたら瞬く間によからぬ噂が広まるだろう。


 ポツポツとお互いの話をしつつ、歩みを進める私たち。

 しかし私は内心全く穏やかでなかった。これから行く先を察した時点で、それはもう一刻も早く寮へ引き返したくて仕方なかった。

 そんな願いも虚しく、私たちは無事に目的地へと辿り着いてしまう。


 目の前のドアを半目で見つめていると、『面白くなってきたねぇ、レベッカ』と言葉通り完全に面白がっている声色でキルシュが話しかけてくる。しかし今の私に彼女の相手をする余裕など残されていない。ねぇねぇ、と話しかけながら私の足を軽く叩いてくる黒猫にろくに反応できないまま、無情にも開かれていくドアを呆然と眺めていた。


「おや、何だか珍しいお客人だね。こんにちは、コリンズ伯爵令嬢」


 そう言って完璧な王子様スマイルを披露したのは、レオンハルト・ヴォドリング殿下。この学園の生徒会長であり、この国の第一王子。紛れもない本物の王子様であった。

 ギルバート殿下の秘密を知る人、という時点で薄々そんな予感はしていたが、全然当たって欲しくはなかった。


「お忙しい中、申し訳ございません。第一王子殿下におかれましては……」

「ああ、大丈夫。ここは学園だから、そういうのはなしでいいよ。気楽にして」

「そ、そういうわけには……」


 そう言って微笑みつつヒラヒラと手を振るレオンハルト殿下に困惑していると、真ん中の応接ソファに腰掛けていた一人の令嬢が「殿下」と窘めるように声を上げた。


「いきなりそんなことを言われては、コリンズ伯爵令嬢も困惑してしまいますわ。もう少し、ご自分の発言力を自覚なさって下さい」

「はは、リアの言う通りだな。急に申し訳なかった、コリンズ嬢。だけど本当に緊張することはないよ。私もこんな感じだし」

「だからそれが逆効果だと申し上げているでしょう、まったく……」


 ラベンダー色の柔らかそうな髪を揺らし、困ったように息を吐く仕草まで洗練されていて、同性でもときめいてしまう程の美少女。そして、この部屋にレオンハルト殿下と二人きりでいても咎められない人物。

 彼女こそ、才色兼備で淑女の鑑と噂される、名門カレンベルク公爵家のご令嬢、アメリア様。誰もが認めるレオンハルト殿下の婚約者である。


 場違い感が半端でないこの空間、もはや息をすることすら難しく思えてきた。助けを求めるように隣を見上げれば、ギルバート殿下は一瞬目を丸くしたかと思うと、勢いよく顔を逸らしてしまう。

 突然の行動にぎょっとしつつ、不躾に見すぎてしまったかしら、と一人青ざめていると、「うん……?」「あら……?」とどこか楽しそうな声が聞こえてきた。


「……何だかものすごく面白いことになっているようだね?お兄ちゃんに詳しく聞かせて欲しいなぁ、ギル」

「訳のわからないタイミングで兄貴面をするんじゃない、というか同い年だろうが」

「わたくしも是非とも聞かせてもらいたいわ。幼馴染として何でも相談に乗るわよ、ねぇギル」

「何の話だ、絶対に勘違いしてるだろう。おい、その意味深な微笑みをやめろ」


 三人のやりとりを見ながら、噂に聞いていた仲の悪い兄弟という単語が脳内でサラサラと消えていく。どこが不仲だ、めちゃくちゃ仲良しではないか。

 勝手に裏切られた気分になっていると、痺れを切らしたらしいゼーゲンが『おい』とギルバート殿下に声を掛けた。


『いい加減話を進めろよ、ギル。レベッカが困ってるぞ』

「……っああ、そうだな。すまない、コリンズ嬢」

「あ、いえ、大丈夫です……」


 にこ…と力無く笑えば、またサッと視線を逸らされてしまう。そんなにひどい顔をしているのだろうかと心配になってきたが、ふと顔を上げると、ニヤニヤと笑いながらこちらを見つめるレオンハルト殿下とアメリア様の姿があり、お二人が何か盛大な勘違いをしているということは何となく察した。


 それから私とギルバート殿下はアメリア様の向かいのソファへ並んで腰を下ろし、ギルバート殿下は私を連れてきた経緯を、私は自身の"祝福"について説明した。

 お二人とも大層驚いていたが、レオンハルト殿下は「君の魔力量が極端に少ないというのも、"祝福"が原因かもしれないね」と母と同じことをおっしゃっていた。やはりこのお方はとても賢い。さすが、入学時から現在に至るまで、常に学年トップの座に君臨し続けているだけある。


 また、ギルバート殿下がゼーゲンの言葉を理解できるのは、王族にのみ伝わる一種の契約の魔術によるものだそうだ。そのため意思疎通ができるのはゼーゲンに限り、キルシュや他の動物の声は一切聞こえないらしい。ちなみにレオンハルト殿下は鷹を飼っているそうで、想像するとあまりにも絵になりすぎて、ちょっと見てみたいと思ってしまった。


 そうしてひと通り話を終えると、ふと、これまでずっと黙っていたアメリア様から話しかけられた。


「レベッカ様、とお呼びしてもよろしいかしら」

「は、はい」

「ありがとう。……少しお聞きしたいのだけど、我が国の、今年の小麦の収穫率についてどうお考えかしら?」

「へっ?小麦、ですか?……そう、ですね。収穫率として例年とそれほど変わらない数値ですが、実際は年初の大雨で西側の農地が二割ほど被害に遭っているはずですので、農地毎で見ると収穫量は多少なりとも上がっていると言えるかと……」


 突然これまでの話と全く関係のない質問をされ、戸惑いつつも意見を述べると、レオンハルト殿下がおや、と眉を上げるのが視界の隅に映った。


「では……〈つい先々月、同盟国間で行われた国際会議の議題をご存知かしら?〉」

「ええと……〈商流ルートの是正について、でしょうか。これまでの取締り方法と別に、さらに細かな規定を設定したということはお聞きしましたが……詳しいことは存じ上げません。申し訳ありません〉」


 続いてとある同盟国の言葉で問い掛けられ、何となく同じ言語で返答すると、今度は隣から凝視されている気配を感じた。

 訳がわからず混乱していると、ふとアメリア様がにっこりと満足気に微笑む。「流石ですわね」という言葉で、どうやら私は試されていたらしいと気づいた。


「驚いたな……コリンズ嬢がここまで博識とは」

「筆記試験ではいつも学年上位にいらっしゃるものね。ズルだ何だのと疑う方も多いので、念のためと少し試すような形をとってしまったけれど。杞憂でしたわね、申し訳ありませんわ」

「私も認識違いをしていた。すまない」

「い、いえ。仕方のないことです。私は魔術に関してはからっきしですから……」


 ぺこりと頭を下げるアメリア様にぎょっとしていると、次いでレオンハルト殿下までも謝罪してくるものだから、血の気の引く思いで慌てて弁明する。

 私が疑われるのは至極当たり前のことなのだ。実際に入学当初は教師にすら疑われ、二年になった今でも、教科によっては監視魔法をかけられた状態で試験に臨むことだってある。


 だから気にしないでほしい、とそんなことを矢継ぎ早に説明していれば、左隣の空気がどんどん重く澱んでいっていることに気がついた。


「……おい、レオン。流石に監視魔法はやりすぎじゃないのか」

「うーん、私もそれは初耳だなあ。これはちょっと監査を入れる必要がありそうだね」

「どちらの先生がそのような措置を取られていたのか、大体の見当はつきますけれど。教師ともあろう方が聞いて呆れますわね」


 苛立ちを滲ませた声でそう言ったギルバート殿下に対し、のんびりと答えるレオンハルト殿下だが、その目は完全に据わっている。アメリア様も微笑みを浮かべてはいるが目は全く笑っておらず、厳しい声でぴしゃりと言い放った。


 その後、ギルバート殿下は先ほどの私の教科書の件についても詳しく教えてほしいと身を乗り出してきた。あまりの距離の近さに心臓が口から飛び出しそうになったが、ギリギリで堪えてしどろもどろになりながら話す。途中何度かゼーゲンが補足してくれたのだが、聞かせるほどの話ではないかと私が端折った部分を、私の家の内事情まで交えて事細かにペラペラと喋るものだから、内心冷や汗をかいていた。


 何とか話し終えて、そこでようやく生徒会室の空気が死ぬほど重たくなっていることに気がついた。


「……とんでもない妹だな。男に色目を使う女狐という第一印象だったが、間違ってはいなかったようだ」

「姉の婚約者と堂々と行動を共にしている時点で、要注意人物として記憶していたけど……予想を遥かに上回る問題児だね」

「それ以前に問題は伯爵家ですわ。時代遅れの魔力至上主義、前々から危険視はしておりましたけれど、さすがにもう見過ごせませんわよ。こんなのただの虐待だわ」


 静かに憤る三人をよそに、当人である私はただただぽかんとその光景を眺めていた。

 学園トップレベルの権力者が集うこの場で、まさか三人ともが落ちこぼれである自分の話を信じ、さらには味方になってくれるとは夢にも思わず、目を白黒させてしまう。


 ふと足元に温もりを感じて視線を下せば、キルシュが甘えるように身体をすり寄せてきていた。

 何となしにその毛並みを撫でてやると、不意にさくらんぼ色がこちらへ向く。


『よかったねぇ、レベッカ』


 私を見上げ、穏やかな声で話しかけてくるキルシュ。

 その言葉を聞くとともに、赤い果実のような丸い瞳が少しだけ潤んでいるのを見て、私の脳はようやく今の状況を正確に理解し始める。


 途端に目頭が熱くなるのを感じ、ハッとしたときには、目の前にいる三人が驚いた表情でこちらを見つめていて。

 私の目からは、大粒の涙がボロボロと零れ落ちていた。


「すっ……すみません、何故か、急に……何でも、ありませんので」


 そう言いながら乱暴に目元を拭っていると、不意にそっとその手を止められる。


 顔を上げると、滲んだ視界の先でギルバート殿下の青い瞳が優しく細められたのを見た。


「擦ってはダメだ、腫れてしまう。……ずっと、一人で頑張っていたんだな。気づくのが遅くなってしまってすまない。……もう、大丈夫だ」


 そう言ってふわりと抱きしめられたと気づいた時にはもう、私は情けなく声を上げて泣いていた。

 母が亡くなって以来、実に七年ぶりに流す涙だった。



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『いやぁ、実にいいシーンを見たなぁ。アタシもう昨日からお腹いっぱい』

「やめて……これ以上私の精神を削らないで……」


 翌日の昼休み。ゼーゲンの言った通り土砂降りの雨が降る中、私は雨の日の避難場所である、図書室近くの非常階段で頭を抱えて丸まっていた。

 隣に座り、満腹と言いつつ私の昼食であるサンドイッチの端を器用につまみながら、昨日の出来事を楽しそうに話すキルシュに対し、私は激しい後悔と羞恥により現在進行形で死にかけている。


 感情を押し殺すことに慣れ、すっかり枯れてしまったと思っていた涙はあの後も止めどなく流れ続け、結果ギルバート殿下のジャケットをしっとりと濡らしてしまった。


 我に返ってからは恥ずかしさと居た堪れなさで顔が上げられず、ひたすらギルバート殿下に謝り倒していたが、殿下はケロリとして気にするなの一点張り。あの無表情が嘘のように柔らかな表情で微笑まれて、返す言葉を失った。


 さらにレオンハルト殿下、アメリア様には激励され、同時に何故かめちゃくちゃ感謝された。あのギルが、とか、成長したわね、とかいろいろおっしゃっていたような気がするが、正直それどころではなかった私は内容をろくに聞いていなかった。


 それからは、ややこしいのでレオンハルト殿下とギルバート殿下のことは名前で呼ぶようにととんでもないことを言われるし、アメリア様には気がつけばレベッカと敬称無しで呼ばれているしで、展開が早すぎて脳内処理がひとつも追いつかなかった。


 最終的にギルバート殿下が寮まで送ると言い出したのだが、そんなことをされては絶対にあらぬ噂が立つので全力でお断りした。

 代わりにアメリア様が送ってくださることになったが、何故か誇らしげにギルバート殿下に自慢していた。ギルバート殿下がとても悔しそうだったのは気のせいだと思う。恐らく気のせいである。


 そんなことがあった昨日、勿論すんなりと眠れるわけもなく、寝不足と若干の腫れ(冷やしたが完全には腫れが引かなかった)により、私は散々な状態の顔で一日を過ごす羽目になった。

 案の定、廊下ですれ違ったフローラには他人に見えない角度で嘲笑されたし、取り巻きのご令嬢たちにはわざと私に聞こえるような音量での悪口をお見舞いされたが、正直そんな些細な事に思考を奪われている暇はなかった。


(よくよく思い返してみれば、婚約者でもない殿方に私……だ、抱きしめ……られ……)


 そこまで考えたところで、ボッと音がしたかと思うほど一気に顔が熱くなり、ますます顔が上げられなくなる。


 婚約者とはいえ書類上だけの関係のパトリック様とは勿論何もなく、加えて社交界からも嫌厭されてきた私は、残念なほどに男性に対する免疫がなかったのである。


 不気味な唸り声を上げながら悶えていると、下の方から『……何やってんだ』という呆れ声が聞こえてきた。


『あれ、ゼーゲンだ。昨日ぶり〜。レベッカは昨日の自分の行いを振り返って絶賛後悔中だよぉ』

『おう。いや、後悔することなんかあったか?そこまで馬鹿真面目に考えなくたって大丈夫だろ』

『まぁまぁ、そこがレベッカのいいところじゃん。ところで今日はご主人様と一緒にいなくていいの?』

『……別に、そのうち来るしな』

「……待って、何だか聞き捨てならない話が聞こえたような」


 ゼーゲンの言葉にガバリと私が顔を上げたのと、後方の非常扉が開くのはほぼ同時だった。


「……こんなところにいたのか」


 今一番会いたくない人物の声が背中に降ってきて、私は身体中の体温が再び上昇するのを感じていた。

 しかし振り向かないわけにもいかず、ギギギと壊れかけのおもちゃのようなぎこちない動きで顔を上げると、心なしか穏やかな視線でこちらを見下ろすギルバート殿下がそこに佇んでいた。


 改めて見ると、本当にびっくりするほど顔が整っている。いや、確かに顔もそうなのだが、スタイルもべらぼうに良い。少し細身のスラリとした体型だが、肘まで捲り上げられたシャツから覗く腕にはしっかりと筋肉がついており、指は長く手のひらも大きい。見かけのわりに肩幅も広くて……と考えたところで昨日の出来事と殿下の胸板の感触をしっかりと思い出してしまい、勢いよく視線を逸らしてしまった。


 不自然な私の様子をどう思ったのかわからないが、殿下は無言のまま階段を降り、サンドイッチを挟んで私の隣に腰を下ろす。キルシュはいつの間にか数段下に移動しており、呆れ顔のゼーゲンと並んで行儀良く座っていた。


「……昨日は、すまなかった」


 しばらくの無言の後、先に口を開いたのは殿下だった。

 少し言いにくそうに零されたその言葉にハッとして顔を上げると、殿下は所在無さげに視線を彷徨わせ、両手を閉じたり開いたりしていた。ほんの少しだけ、目元が赤いような気もする。

 もしかして照れているのかも、と思うと、急に目の前の男性が可愛らしく見えてきた。少し冷静になってみると、何だかこの状況がとてもおかしく思えて、沸々と笑いが込み上げてくる。


「……ふ、ふっ」

「……レベッカ嬢?」

「いえ……ふふ、何でもありません。殿下は何も悪くありません、謝らなければならないのは私の方です。お見苦しいところをお見せしてしまい、大変申し訳ありませんでした」

「いや、そんなことはない。君が謝る必要はない」

「では、お互いさまということで」


 そう言って微笑むと、虚を衝かれたようにサファイアが真ん丸になり、それからすぐにふっと和らいだ。


「……そうだな、お互いさまということにしよう」

「……ええ」


 この人はこんなにも優しく笑えるんだなと、昨日からずっと抱いていた感想を改めて噛みしめる。

 そうするとぽかぽかと温かい気持ちになると同時に、現実を見ろ、という冷淡な自分の声が脳裏に響いた。


(……わかっている。大丈夫、ちゃんと弁えているわ)


 そう自分に言い聞かせ、私は小さく息を吸って呼吸を整えた。


 それから昼休みが終わるまで、二人で他愛もない話をした。ゼーゲンとは五年前、留学に行く数ヶ月前に出会ったということ。レオンハルト殿下はああ見えて結構腹黒い性格らしいこと。アメリア様とは幼馴染だが、正直おっかない女だと思っていること。

 たった十分ほどの時間だったけれど、殿下はそれ以外にも私の知らない話を沢山してくれた。


 予鈴が鳴ったとき、何となく会話が途切れた。

 しかしすぐに「レベッカ嬢」と呼びかけられ、思わず背筋が伸びる。


「よければこれから、昼休みは一緒に過ごしてもいいだろうか。目立つことを危惧しているのであれば、放課後でも構わない。人目も避ける。……私は、君ともっと話がしたい」

「……はい、是非。私も、もっと殿下のお話が聞きたいです」


 ダメだとわかっていたのに、欲が出た。

 思わず口をついて出てしまった言葉に、すぐさま後悔の波が押し寄せる。しかし、目の前で嬉しそうに目尻を下げる殿下を見てしまえば、発言を撤回することなどできなかった。


 こうして会話を積み重ねるうち、私たちの間にはすっかり敬語が無くなり、ひと月も経てば「レベッカ」「ギル」と呼び合うまでの仲になってしまっていた。



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「……それで、ギルとはどこまでいったの?」

「ぶっ……ごふっゲホッ」

「あらやだ、はしたないわよレベッカ」


 放課後、生徒会室の隣にある準備室にて。週に一、二回ほどアメリア様にここへ呼び出され、女子会という名の簡易的なお茶会をするようになってから、はや二ヶ月。この状況に完全に慣れきってしまっている自分の適応能力の高さにはやや引いていた。


 今日もいつも通り優雅にお茶を嗜みつつ、雑談に花を咲かせていたところに、先ほどの質問である。突然の爆弾発言に紅茶を誤嚥しかけて咽せていると、向かいに座るアメリア様に澄まし顔で注意されてしまった。

 あなたのせいですが!?と涙目で訴えながら何とか息を整え、こほんと咳払いをしてから口を開く。


「どこまで、と言われましても……友人として、親交を深めさせていただいております」

「友人、ねぇ……ギルはそう思っていないと思うけれど」

「……何のことでしょう」

「……あなたも相変わらず嘘が下手ね」


 くすくすと笑うアメリア様だが、その瞳はひどく凪いでいる。

 恐らく、何もかも見透かされているのだろう。

 私がギルの気持ちに気づいていることも、私自身の気持ちも、全て。


 出会ってから今までの間、ギルは本当に沢山の話をしてくれた。


 実は他国の王女との婚約目的で留学に赴いたのだが、その王女に最後まで無表情が怖いと怯えられて、結局追い返されたこと。レオンハルト殿下と不仲を装っているのは、レオンハルト殿下に対抗する派閥を作ろうと目論む貴族たちを釣り上げるためで、本当は王位には全く興味がないということ。つい最近まで、学園の令嬢が全員同じ顔に見えていたため、髪と瞳の色で判断していたということ。人見知りなだけで、本当はとてもお喋りで、笑い上戸なこと。彼の一人称が、本当は「私」ではなく「俺」であること。


 ギルと話すたび、彼の新たな一面を知るたび、私の中の気持ちはどんどん大きくなっていく。もう誤魔化せないところまで来ているのはわかっていた。

 それでも、私は認めるわけにはいかないのだ。


「……私には婚約者がおります」

「ええ、知っているわ。シャーマン侯爵の息子でしょう。相変わらずあなたの妹と仲良くやっているようだけれど」

「それでも、書類上は私の婚約者です。ですから……今は、何も申し上げることはできません。愚かな婚約者と、同じことをするわけにはいきません」


 きっぱりと言い切ると、アメリア様は眩しそうに目を細めて「……そう」と小さく呟いた。しばらくその場には沈黙が落ちたが、かちゃりとティーカップを置く音がした後、アメリア様の口から零れたのはため息だった。


 普段の洗練されたアメリア様からは考えられないほどか細いそれに、きょとんと目を丸くしていると、そんな私の様子に気づいたらしいアメリア様は力無く微笑んだ。それもまた、初めて見る表情だった。


「ごめんなさいね、あまり人前で見せるべき態度ではないのだけど。あなたならいいか、って思っちゃって」

「アメリア様……」

「……外野が一人で勝手に盛り上がって、自分が情けないのよ。あなたもギルも、本当に不器用で……本当に真面目なんだから。参っちゃうわ」

「それは……すみません?」

「ふふ、謝らないでいいの。悪いのはわたくしよ」


 ふっと視線を窓の方へやり、どこか憂いを帯びた表情のまま、アメリア様はそう言った。

 何と答えていいのかわからず、口をつぐんで続きを待つ。数秒か、数分か、短くも長くも感じられた不思議な間の後、アメリア様はゆっくりと私へ向き直った。


「わたくしができることは少ないけれど、絶対に何とかしてみせるわ。ギルと、レベッカ。わたくしの大切な幼馴染と……大切な、友人のために」


 だから、諦めないで。信じて。

 小さく付け加えられたその言葉に、何か熱いものが胸に込み上げてくるのを感じた。

 ぐっと唇を噛みしめて涙を堪え、何とか絞り出せた「はい」という返事は、情けないくらいに震えていた。




 準備室から出ると、廊下の大きな窓枠に器用に座っていたキルシュがするりと近寄ってきた。

 私の足元に甘えるように何度か身体を擦り付けると、ふと、さくらんぼ色の瞳がこちらを見上げる。


『良い人だねぇ、アメリア様』

「……ええ、本当に」


 すでにぼやけ始めている視界に気づかないふりをして、寮へ戻るために踵を返す。どうしても足早になってしまうが、キルシュは何も言わずに歩くペースを合わせてくれた。


 後から気づいたことだが、キルシュはこの頃にはもう、他人に見つからないよう気配を完全に消して私に寄り添えるようになっていたのだと思う。



====================



 あっという間に季節は移り変わり、ギルたち三年生の卒業がひと月後に迫っていたある日。

 先生に呼ばれたというギルの用事が終わるまで図書室で本を読んで暇を潰していると、普段は決して話しかけてこない妹がふらりと現れ、わざわざ声を掛けてきた。


「ご機嫌よう、お姉さま」

「……フローラ」


 珍しく取り巻きの令嬢たちはいない。

 何を企んでいるのかわからず、本を閉じて身構える。フローラは一見優雅な微笑みを湛えたまま、すっと耳元に口を寄せてきた。


「もうすぐ三年生の卒業パーティー、パトリック様もご卒業ですわね。これがどういうことかおわかりになって?」

「……さあ、私にはよくわからないわ」

「フフ、相変わらず馬鹿なのね。そんな馬鹿なお姉さまには優しいわたしが教えて差し上げるわ。パトリック様がいなくなれば、婚約者のいないお姉さまの価値はゼロに等しくなる。つまり、いつでも伯爵家から追い出すことができるのよ。わかる?お姉さまはもう、わたしに口答えすることすら許されなくなるわ」

「……」


 何を今さら、と言いたいのを堪えて黙っていると、私がショックを受けているとでも思ったのか、フローラはさらに笑みを深めた。


「その虚勢がいつまで持つか、見ものだわね。しかも最近はアメリア様にまで目をつけられているそうじゃない、本当に馬鹿で可哀想なお姉さま。フフフッ、じゃあね」


 言いたい事を言えて満足したらしく、フローラはそう言い捨ててさっさとその場から去ってしまった。


『……レベッカ』


 いつの間にそこにいたのか、机の上に音もなく座っていたキルシュに、案ずるような声色で呼びかけられた。


「大丈夫、いつものことよ」


 そう答えた自分の声が思ったより弱々しくて、内心で少し驚く。

 不安そうに瞳を揺らすキルシュに大丈夫だと微笑み返し、先ほどのフローラの発言を反芻していた私は、ようやく状況を飲み込み始めていた。


 どうやら周りには、私がアメリア様に不敬を働き、目をつけられていると思われているらしい。十中八九、アメリア様の策略だろうと当たりをつける。

 ということは、恐らくフローラは私がギルやレオンハルト殿下と親交を深めていることを知らない。

 そのことに対し、ひどく安堵する自分がいた。


 魔術学の成績はトップクラスだというギルは、私と話す際にいつも認識阻害の魔法壁を展開してくれている。それでも私には、バレるかもしれないという恐怖が未だに付き纏っていた。


 結局、臆病なだけなのだ。

 差し伸べられた手を掴もうとして、躊躇う。希望を持とうとしても、すぐに諦めてしまう。

 幸せがすぐ先にあるとわかっていても、足がすくみ、立ち止まってしまう。

 もし全てが張りぼてで、ぜんぶ真っ赤な嘘だったとしたら。

 一度そう考えてしまうと、この身体は石のように動かなくなってしまうのだ。


 なんて弱くて、愚かで、傲慢なのだろう。


『……レベッカ』

「……」


 半分だけ開いた窓から、春の香りを乗せた風が入ってくる。

 別れの香り。そんなことを考えては、心は分不相応にキリキリと痛みを訴える。


「……馬鹿みたい」


 こんなにも浅ましくて、欲深い女を、


「……一体、誰が愛してくれるというの」



「――俺は、愛してるよ」



 カタリ、と椅子の背もたれに手が掛かる音がして、愛しい人の香りが鼻をくすぐる。


 信じられない心地で振り返り、顔を上げた私の瞳に映ったのは、あの日と同じ、いや、あの日よりも随分と柔らかさを感じられるようになった、美しい二つのサファイアだった。


「……いつ、から」

「君の妹が余計なことを言い始めた辺りから、かな」

「全部見てたんじゃない……」


 呆然としたままそう呟くと、見下ろしていることで陰になった瞳が可笑しそうに細まる。

 ギルがこんなにも表情豊かになるとは思わなかった、と驚きつつも喜んでいたレオンハルト殿下のことをふと思い出し、確かに今の彼は第一印象とはかけ離れているな、と今さらながらに納得した。


 僅かな時間の現実逃避でも、見逃してはくれなかったらしい。不満気な色が覗いたかと思えば、骨ばった男らしい指がさらりと私の髪を撫でた。

 途端、その部分だけ急に熱を帯びたような感覚に襲われる。

 いつもは絶対に、指一本すら触れてこないギルが、初めて意思を持って私に触れた瞬間だった。


「……レベッカ、返事が聞きたい」

「へ……返、事……?」


 顔が異様に熱い。きっと淑女にあるまじき表情をしているのだろう。恥ずかしくて恥ずかしくて逃げてしまいたいけれど、はっきりと熱を帯びた双眸に射抜かれた私は、もう微動だにできなくなっていた。


「そう、返事。俺はレベッカが好きだ。愛してる」

「そ……え……」

「信じられないなら、信じてもらえるまで何度でも言う。大丈夫、俺は「待て」ができる男だ」


 何が大丈夫なのか。さっきから私の脳内は大パニックに陥っていて、全く大丈夫ではないのだが。というか「待て」ができると言いつつ、返事を急かしているのはどういうことだ。いきなり矛盾しているではないか。


 ぐるぐると回らない頭で考えていると、不意に目の前の青い瞳、その奥に揺らぐ熱が少しだけ和らいだ、ような気がした。


「……本当はもう少しちゃんと、()()が整ってから言うつもりだった」

「準備……?」

「ああ。でも予定が狂った。あんなにも儚げな、今すぐどこかへ消えてしまいそうな表情をされてしまっては、堪らない。君を繋ぎ止めなければと思ったら、思わず告げてしまっていた」

「……ギル」


 ゆっくりとギルが跪き、私たちの視線の高さが同じになる。

 大きな手が頬に添えられて、反射的にぴくりと肩が震えた。


 耳元で鳴っているのではないかと疑うほどうるさかった心臓の鼓動は、知らぬ間に全く気にならなくなっている。

 今はただ、愛しいその声で発せられる言葉を待つだけ。

 捨てきれない期待を、ほんの少しだけ胸に抱いて。



「愛している、レベッカ。君に出逢えたことが、俺のいちばんの幸せだ」



(ああ……私ったら、ダメね。もうパトリック様を笑えないわ)


 そんなことを頭の片隅で考えながらも、すっかり馬鹿になってしまった涙腺は、いとも簡単に崩壊してしまう。

 どんどん滲んでいく視界の中、けれど輝くサファイアからは絶対に目を逸らすまいと、ぐっと目を凝らした。


 今の私はきっとものすごく不細工で、ものすごく情けない顔をしているのだろう。それも、鏡を見たら羞恥で一週間は寝込みそうなレベルのひどい顔。


 それでも、この人ならいいか、と思った。

 思ってしまった。

 たぶんきっと、それが答えだ。



「……私も、愛してる、ギル」



 溢れる涙で輪郭という輪郭がぼやけきった世界の中。

 私は確かに、愛しい二つの宝石が優しく微笑んだのを見た。



====================



 幕間。

 二人の様子を、本棚の隙間から静かに見守る小さな影が、ふたつ。


『ーー連れてきてくれてありがとねぇ、ゼーゲン』

『連れてくるも何も、元々そういう予定だっただろ。オレは別に何もしてない』

『そう?ちょっと急かしてくれたのかなぁと思ったんだけど』

『……急かさなくたって、どうせ同じだったろーよ。ギルはレベッカにはやく会いたくて仕方ないんだ、いつも速足だよ』

『ふふふ、アタシが言ってるのはそういう話でもないんだけど………まあいっか。それにしても、本当に頼もしい王子様だねぇ。レベッカにぴったり、お似合いの二人だ』

『ハァ……だから、()()()()()そう言ってるだろ』

『……なんだ、通じてるじゃん』


 クスクスと楽しそうに笑う黒猫に、少し気恥ずかしくなった三毛猫はツンとそっぽを向いた。



====================



 ギルと想いを通わせたあの後。

 泣き腫らした顔のまま生徒会室へ向かえば、アメリア様は私の顔を見て勢いよく立ち上がり、何を勘違いしたのかギルの頬に盛大な平手打ちをお見舞いした。

 そんなアメリア様の行動にびっくりして泣き止んだ私は、同じく唖然としているレオンハルト殿下とギルを見遣り、もう一発と手を振り上げたアメリア様を慌てて制止した。


 聞くと、どうやら私がギルに泣かされたか、ギルが守りきれず誰かに傷つけられたと思ったらしい。

 一応前者の理由で合ってはいるのだが、恐らく意味がだいぶ違うので、恥ずかしながらも経緯を説明すると、今度はアメリア様が泣き出してしまった。

 あたふたする私をぎゅっと抱きしめ、必死に嗚咽を堪えながら、「よかった、本当に、よかった」と小さく繰り返すアメリア様に、止まっていた涙が再びせり上がってきたのは仕方がないと思う。

 そうやってしばらく泣きながら抱き合っていた私たちを、レオンハルト殿下とギルは微笑みを浮かべながら、静かに見守ってくれていた。


 二人ともが落ち着いた後、アメリア様はギルを引っ叩いたことについて、「レベッカを泣かせたことに変わりはないので謝罪はしない」と悪びれもせずバッサリと言い切っていた。

 ギルは引き攣った笑いを浮かべていたが、なんともアメリア様らしい言い分に、思わず笑ってしまった。


 それからギルの言っていた()()について、レオンハルト殿下とアメリア様を交えて話し合ったり、キルシュとゼーゲンにお願いして学園の情報を集めたりして、一ヶ月は慌ただしく過ぎていった。



 そうして迎えた、卒業パーティー当日。

 私はというと、顔面に思いっきり不機嫌を貼り付けたまま、ホールの中心辺りに佇んでいた。


「……ねぇ、どうしてこのタイミングで認識阻害の魔法壁を展開しているのかしら。しかも自分一人だけ。ふざけてるの?」

「まぁそう怒るなよ。すぐにわかる」

「またそうやって濁す……最後まで私を蚊帳の外にして、レオンハルト殿下もアメリア様も意地悪よ」


 拗ねていますと言わんばかりに小さく口元を尖らせる私に、隣からは苦笑混じりの軽い笑い声が降ってくる。それでもこれ以上謝りはしないというところを見るに、反省はしていない、つまりこれが最善策だと言いたいのだろう。

 私とてそれくらい頭ではわかっている。わかっていても腹が立つものは立つ、ということだ。


 行き場のない苛立ちを持て余していると、突然ふわっと足元に温かさを感じ、ぎょっとして視線を落とす。

 よく目を凝らしてみると、さも当然のように私とギルに寄り添うキルシュとゼーゲンがそこにいた。


 驚きのあまり声を発せずにいると、そんな私の様子に気がついたらしいキルシュが『やっほ〜レベッカ』などと呑気に挨拶してきた。


「ちょっ……あなたたち、なんで……!?」

『だーいじょうぶ。ギル殿下の魔法壁の恩恵に預かってるから、アタシたちがいると思って見ない限りは誰にも見えないよぉ』

「そういう問題じゃ……」

『……あと忘れないうちに言っておくが、今オレたちが他人から見えねぇのは確かにギルの魔法壁のおかげだが、キルシュが見えねぇのは半分くらいコイツ自身の能力だぞ』

「「……は?」」


 ギルと私の声が綺麗にハモったところを見るに、ギルもそれは初耳だったらしい。

 どういうことだと目線で促せば、キルシュは気怠げに欠伸を一つした後、あっさりとゼーゲンの言葉を認めた。


『そうだよぉ、アタシが見えなくなるのは、半分くらいアタシの能力。正確には魔力……うぅん、魔法って言った方がいいかな』

「魔力、って……キルシュ、あなた魔法が使えるの?」

『ううん、使えるようになったの。レベッカのおかげだよぉ』

「えっ、私?」


 思わぬところで自分の名前が挙がり、素で返事をしてしまって慌てて口元を押さえる。

 幸い近くに人もおらず、誰にも聞こえていないのを確認してほっと息をつき、改めてキルシュに視線を戻した。


『そう、レベッカがアタシに魔力をくれた。たぶん無意識に魔法をかけてくれてたんじゃないかなぁ。アタシに側にいて欲しい、でも誰にもバレないように隠さないと、っていう想いが、細い糸みたいになってアタシに流れてきたの。それが温かくてとっても心地良くて、気がついたら身体に馴染んでて、自分でも使えるようになってたんだぁ』

「そう、なの……?」


 自分が意図せず魔法を使っていたことを知り、驚くよりも信じられない心地でキルシュを見つめる。

 そんな私にキルシュはいつも通り、気の抜けるような声でわざとらしくニャアと鳴いてみせた。


「魔力譲渡や感化といった魔法は、一見簡単そうに見えて、その実細かな制御や技術が必要となる難しい魔法だ。……確か、前伯爵夫人は繊細な魔力操作が得意だったと言っていたな。どうやら君は素晴らしい才を受け継いでいるらしい」


 よかったな、と隣から優しい声を掛けられるも、私は泣き出したい衝動を堪えるのに必死だった。

 思わぬところに、母との繋がりの証があった。

 私は、完全な「落ちこぼれ」ではなかった。

 内心喜びに打ち震える私に、ギルはそれ以上何も言わず、ただそっと寄り添っていてくれた。



 押し寄せる感情の波を何とか乗り過ごし、少しばかり落ち着いてきた頃、とうとう問題(それ)はやってきた。


「レベッカ」

「……パトリック様、ご機嫌よう」


 久しく聞いていない婚約者(仮)の声をすっかり忘れていたため一瞬反応が遅れたが、無理やり取り繕って笑顔を貼り付ける。

 振り返るといつの間にこんな近くまで来ていたのか、不機嫌オーラ全開の婚約者(仮)がすぐそこにいた。正直全く気づいていなかった。この方、こんなに影が薄かったかしら。


 そこまで考えて、二年になってからよく一緒にいた人々の存在感が飛び抜けていただけ、という当たり前の事実に思い至る。すっかり感覚が麻痺してしまったらしい。いやはや、慣れとは恐ろしい。


 そんなことに一人思いを馳せていると、不機嫌そうに歪んでいた目の前の眉間にさらに皺が寄る。周囲の好奇の目に晒されている、というあまりの居心地の悪さに口元が引き攣りそうになっていると、反応の薄い私に痺れを切らしたらしいパトリック様は、もう一度私の名を呼んだ。


「レベッカ、僕は今、この瞬間をもって君との婚約を破棄し、君の妹・フローラと婚約する」


 そう告げられた途端、周りが音もなく騒めき立ち、私はあまりにも予想通り過ぎる展開に驚きを通り越して呆れ返った。

 と同時に、隣で静かに肩を震わせている笑い上戸の男に、恨みがましい視線をお見舞いしておく。


(だから言ったじゃない……)


 こうなるとわかっていたから、できるだけ目立たない隅の壁際にいたいと散々言ったのに。そうすればここまで大勢の人たちに注目されることもなかったはず。

 しかしギルだけでなく、レオンハルト殿下もアメリア様もこれだけは許してくれなかった。


 ちなみに、もう一つ案として上がっていたギルによるエスコートは、初っ端から目立つのだけは絶対に嫌だと言って丁重にお断りしたのだが、恐らく三人ともそれを根に持っている。


「エスコートは仕方ないから諦めてあげるけど、どうせならど真ん中で盛大にやらかしてもらいたいな。今日の主役はギルとレベッカ嬢だから」といつもの如く見事な王子様スマイルで言い切ったレオンハルト殿下。

 ただしその笑顔の裏が真っ黒だということはこの一年で嫌というほど知ってしまっていたため、最近ではその完璧な笑顔にすら薄ら寒いものを感じてしまう。


 その隣で同じように淑女の笑みを湛えつつ、聖母のような穏やかな口調で「エスコートは仕方がないので大目に見て差し上げますけれど、本番は存分に煽ってきてね。ただしちゃんと言質を取ってからよ。大丈夫、わたくしたちもこの目でしっかりと見届けるわ。可能な限り近くで、ね」と背筋が凍りそうな励ましの言葉をくれたアメリア様は、現在既にパトリック様の死角にてレオンハルト殿下とともに待機している。

 私からはバッチリその姿が見えるのだが、気のせいでなければここ最近で一番活き活きとしていらっしゃる。


 そんな外野の様子に毒気を抜かれてしまい、思ったより冷静に物事を俯瞰している自分に内心少し驚いていた。


(でも、やっと言ってくれたわ……)


 ようやく肩の荷が降りた、と危うく淑女らしからぬ盛大なため息をつきかけ、慌てて咳払いに変換する。完全に攣りかけている表情筋を叱咤して、何とかもう一度笑顔を取り繕うと、目の前の婚約者(仮)(もう元婚約者(仮)と言った方がいいかもしれない)に対して白々しく問い掛けた。


「……申し訳ありません。よく聞こえませんでしたわ。もう一度おっしゃっていただけます?バ……パトリック様」

「何度でも言ってあげるよ。君との婚約は破棄だ。僕はこの、愛するフローラと結婚する」


 声高々にそう宣言したパトリック様に、呆れも通り越して感心してしまった。

 それをどう解釈したのか知らないが、パトリック様は私を馬鹿にするように鼻で笑った後、「今さら同情を引こうとしても無駄だよ」と返してくる始末。


「ごめんなさいお姉さま、わたし、パトリック様を愛してしまったの……」


 極め付けはうるうると瞳を潤ませ、悲劇のヒロイン感満載でひょっこりと現れたフローラ。二人とも、もうすっかり完全に自分たちの世界に酔っている。


「ショックで言葉も出ないようだね。でも元はと言えば君が悪いんだよ、レベッカ。魔力を持たないからといって義妹を妬み、あまつさえ虐げていたそうじゃないか。そんな悪魔のような女、絶対にお断りだよ」

「パトリック様、それは言わない約束ですっ!」

「大丈夫だよフローラ、僕に任せて。もう絶対に君を傷つけさせたりはしない」

「パトリック様……」


 両手を取り合って至近距離で見つめ合い、全身が痒くなりそうな愛の言葉を囁き合う二人。

 この時点で私は(笑いそうで)もう見ていられなくなっており、ついでに言うと未だに笑い続けているギルに加えて、死角にいるレオンハルト殿下とアメリア様も笑顔は保っていたものの口の端がプルプルと震えていた。


 とうとう、私の口から大きなため息が漏れる。

 それをまた都合の良いように解釈したらしく、勝ち誇ったような顔でこちらを向いた二人だったが、パトリック様が次の言葉を発する前に、私は意を決して口を開いた。


「では、パトリック様は私との婚約を破棄、そして新たにフローラと婚約を結ぶ、ということでよろしいですね?」


 急に声を張り上げた私にギョッとして、思わず少し後ずさるパトリック様。だがまたすぐに嘲笑を浮かべ、「その通りだ」と自信満々に返答する。

 ほとんどが学生とはいえ、これだけ大勢の貴族の前で、はっきりとそう言い切った。


 ちらりとパトリック様の背後に視線を遣れば、恐ろしいくらいの満面の笑みを浮かべ、片手の拳をしっかりと握り、その親指だけを真っ直ぐ上に立てた綺麗なグッドサインを私に向けているレオンハルト殿下とアメリア様がいた。

 ここで脱力しなかった私を褒めて欲しい。


 ギルにもその様子は見えていたようで、「言質は取れたな」とどこか楽しそうな声が聞こえた後、隣の空気がぐにゃりと歪む気配がした。


「なっ……!?」

「第二王子殿下!?一体どこから……!?」


 突然その場に現れたギルに、パトリックとフローラは目を見開き、会場は一時騒然となる。

 どう考えても全参加者の注目を浴びてしまっているこの状況に、私はもういい加減諦めるか、と一人遠い目をしていた。


「……さて、これで邪魔をするものは何もなくなったな」


 淡々とした、それでいて妙によく通るテノールが人々の耳朶を打つ。

 その瞬間、ホールは恐ろしいほどの静寂に包まれた。


 たった今婚約破棄をされたばかりの、社交界でも有名な落ちこぼれ令嬢に、まるで寄り添うようにして現れた第二王子。

 状況を飲み込めていない者がほとんどだったが、誰もが固唾を飲んで様子を見守っていた。


 静まり返った会場内に、不意に声が落ちる。


「……君を、愛している。私の婚約者になってほしい、レベッカ嬢」

「……はい、喜んで。ギルバート王子殿下」


 互いに元々決めていたセリフを口にすると、何だか急にこの状況がひどく可笑しく思えてきて、ぷっと吹き出してしまう。

 そんな私につられるように、ギルも小さく笑った。


 ホール内は未だに沈黙が落ちていた。

 第二王子から落ちこぼれ令嬢への婚約の申し込み、絶対零度の瞳に無表情がデフォルトなはずの第二王子の柔らかな笑み、ついでに何故か二人の足元にいる黒猫と三毛猫、怒涛の衝撃的展開に誰も脳内処理が追いつかないらしく、しばらく皆してあんぐりと口を開けて呆けていた。


 突如その観衆の中からパチパチと拍手の音が聞こえ、全員の視線が一気にそちらへ集中する。

 そこにいたのはこの国の第一王子と、その婚約者である公爵令嬢。二人揃って柔らかな表情で第二王子と令嬢を見つめ、拍手とともに「おめでとう」と祝いの言葉を送った。


 その様子にようやく一人、また一人と生徒たちが我に返り始める。よくわからないが、とりあえず祝福しておくべきだと判断した比較的空気の読める者たちは、第一王子と公爵令嬢に続いて拍手を送り始めた。

 そうして気がつけば、ホール中に割れんばかりの拍手が響き渡っていた。


「……何よ、何なのよそれ、聞いてないわよっ!!」


 突然、ホールの中心から大きな怒声が上がった。


 観衆からの想像以上に盛大な拍手に面食らっていた私は、すっと表情を改めて声の主に向き直る。

 きっと、こうなると思っていた。


「……フローラ」

「落ちこぼれのくせに、王子殿下と婚約ですって……?冗談も大概になさって?ねぇ、お義姉さま?」


 ピキピキと音が聞こえそうなほどにこめかみに青筋を立て、鬼のような形相で私を睨みつけるフローラ。そこに普段のか弱く可愛らしい令嬢の面影など微塵も無く、あまりの豹変ぶりにパトリック様すら引いているようだ。

 このまま取り繕わずに感情を爆発させれば、フローラの化けの皮は見事に剥がれ落ちるだろう。

 しかしそんな重要なことすら思考の彼方へ追いやってしまうほどに、彼女は今、私への怒りだけに支配されていた。


「……なるほど、これが本当の癇癪持ち、か」


 この状況で冷静に分析を始めるギルにがっくりと肩を落としそうになる。この人は本当に、急に天然になるのだけはやめてほしい。こんな真剣な場面でも気が抜けてしまいそうになる。

 気を持ち直して真正面からフローラを見据えれば、普段の私とはかけ離れた堂々とした態度が癇に障ったのか、さらにその眉間に皺が寄った。


 せっかく可愛らしい顔立ちをしているのに、そんなに顔を歪めてしまって、勿体ない。そんな関係のないことを考えながら、できるだけフローラを刺激しないように言葉を選んでいく。


「冗談ではないわ。私はパトリック様と婚約破棄をした。だから殿下の申し出を受けることができるの」

「はぁ?アンタにそんな権限があると思ってるの?そんなことお父様が許さないわよ、絶対にね!」

「……お父様が許さなくても、私にはもう関係がないのよ」

「何わけわかんないこと言ってるの?気でも触れたのかしら?」


 そう。確かに、お父様はこんなこと絶対に許さないだろう。

 だから私は、ここで殿下たちの手を借りた。


「私はもう、コリンズ伯爵家の娘ではないの」

「……はぁ?」


 ここまで言ってもまだ意味がわからないと言ったふうに片眉を吊り上げるフローラに、やはりこの場で全てを話してしまうしかないか、と私は腹を括る。


 と、突然ギルの後ろに学園の生徒らしき青年が音もなく現れ、サッと何かの書類をギルに手渡してきた。ギルは特に驚くこともなくそのままその紙をフローラに向けて掲げたので、私は予定に無い段取りに目をぱちくりさせて書類を見る。そしてそのまま呆れ顔になった。用意が周到すぎる。


「……何よ、それは」

「レベッカ嬢の戸籍書類、最新のものだ。家名をよく見るんだな」


 我が妹ながら、王子殿下に対しての口の利き方がまるでなっていないことにひゅっと血の気が引くも、ギルはそもそもフローラ自体に興味が無いようで、要件だけを淡々と述べた。

 フローラは不満気に、しかし渋々ながらも言われた通り書類の内容に目を凝らす。そうして私の家名を見た途端、勢いよくその目をかっ開いた。


「は……?レベッカ・()()()()()……?」


 フローラが呆然と呟いたその名前に、息を潜めて成り行きを見守っていた生徒たちも一斉に騒めき出した。


「セルヴァンといえば、あのセルヴァン伯爵か……?」

「代々優秀な人材ばかりで有名な、あの宰相一家の……?」

「待てよ、そういえば先代のコリンズ伯爵夫人は確かセルヴァン家の……」


 皆が口々にレベッカの家名について言及する中、ただ一人わなわなと唇を震わせて私を睨み続けているフローラ。

 この件については、実はフローラも少なからず関係している。恐らくその事実に気づいたのだろう。


 本当は少しだけ、胸が痛んだ。

 異母妹とはいえ、どれだけ私を虐げ見下していたとはいえ、これほど大勢の人々の前で妹を断罪することには抵抗があった。

 だけどここまで事態を大きくする羽目になったのは、間違いなくフローラのせいだった。


 ……ごめんなさい。でもね、フローラ。自分で犯した罪の責任は、自分で負わなければならないのよ。


 ゆっくりと息を吸い、全ての観衆に聞こえるように、精一杯声を張る。


「……今朝、執事に提出するようあなたが指示した、私の貴族籍及び家名剥奪に関する文書。それが受理されると同時に、私はセルヴァン伯爵家に養女として迎え入れられたの。だからもう、私はあなたの姉ではない」

「……騙したのね。わたしが今日、あの文書を提出するようにアンタが仕向けたんでしょう!?」

「……私は何もしていないわ」

「嘘よ!ふざけんじゃないわよ!わたしを嵌めて、タダで済むと思ってるの!?」


 金切り声を上げて激昂するフローラの様子に、周りの同級生たちはヒソヒソと騒めき出す。


 ここまで来てしまえばもう、皆が気づき始めていた。

 本当に虐げられていたのが誰なのか。

 本当の悪女が、誰なのか。


「アンタが侍女を唆したんでしょう!?アンタをさっさと追い出せば、邪魔者は完全にいなくなるって!そう言えば、わたしがお父様よりも先にアンタを勘当するために文書を出すとわかっていて、そう指示したんでしょう!?」


 確かに侍女を唆し、フローラを誘導するような行動を取らせた人物はいる。けれどそれが誰なのか、私は詳しくは知らない。

 ただ私たちは、最終的に侍女がフローラを唆すように仕向けただけだ。

 それを受けたフローラが、お父様の許可も得ず、独断で文書を提出するかどうかは賭けだった。


「……いいえ、フローラ」


 一度言葉を切り、震えそうになる喉を叱咤する。


 ……フローラ。

 ここで私は、あなたに引導を渡すわ。


「私は、()()()()()()()()、あなたには何もしていない」


 その言葉が引き金となったのだろう。

 血走った目で私に掴み掛かろうと突進してきたフローラを、私はただぼんやりと眺めていた。


 彼女の手が私に届くことはなかった。

 生徒に扮していた警備隊にあっという間に取り押さえられた彼女は、意味の成さない言葉を大声で喚き散らしながら、憤怒に染まったその瞳を最後まで私だけに向けていた。

 あまりにも暴れるものだから、結局フローラは鎮静剤で眠らされて連行されて行った。


 その様子を唖然として眺めていた生徒たちは、未だ騒然としていた。ある者は困惑、ある者は恐怖、といった様々な表情で立ち尽くしている。

 特にこれまでフローラに肩入れし、レベッカを虐めていた令嬢たちの表情は真っ青だった。


「れ、レベッカ……」


 大仕事を終えた気分で疲労感に浸っていると、私の名を呼ぶか細い声が聞こえた。いい加減休ませてほしいのだけど、という文句をギリギリ飲み込んで、声のした方へ視線だけ向ける。


 何が何だかわからないといった表情だが、それでもここでレベッカに見捨てられれば後がないということだけは察したのだろう。引き笑いのような表情を浮かべたパトリック様がふらふらと近寄って来る。

 と、すぐに彼と私の間にギルが割って入ってくれた。


「もう婚約者でも何でもない者が、レベッカの名を軽々しく口にするな」

「ひっ……も、も、申し訳ございません。しかし、あの、レ……セルヴァン、伯爵令嬢に、少しお話が……」


 ギルの言葉に対して過剰に怯え、おどおどとした情けない様子を惜しげもなく晒すその様子に、フローラは一体彼のどこが好きだったのだろうと首を傾げたくなった。


「私はあなたと話すことはありません。……もう二度と、会いたくもありません」

「そ、そんな……僕を見捨てるのかい!?」

「見捨てたのはあなたでしょう、シャーマン侯爵令息」


 小さく息をつき、視線を合わせることもないまま、私は自分でも驚くほど感情のない声でパトリック様にそう告げた。


 その言葉に愕然とし、悲鳴のような声を上げるパトリック様に対して、冷たく凛とした声が響く。

 ギルと同じく私を守るようにしてその場に現れたのは、レオンハルト殿下とアメリア様だった。

 特にアメリア様はいつもの穏やかな表情はそのままに、けれどそのペリドットの瞳には一縷の光も無く、全身に恐ろしいほどの怒気を纏っていた。


「わたくしの大切な大切な友人を愚弄し、あまつさえ傷つけてあっさりと捨て置いた男。あなたのことはしかと記憶いたしましたわ」

「ひっ……」

「本当ならわたくし直々に厳罰を下したいところなのですけど……わたくしの心優しい友人はこれ以上の罰を求めないそうです。よかったですわね。けれど……わたくしの怒りが抑えきれなくなる前に、さっさとこの場から立ち去ることをお勧めしますわよ」

「……リアにほとんど言われてしまったけれど、私も君は早く帰ったほうがいいと思うよ。あと、君の一家には別の横領の件で嫌疑がかかっているから、それについては後日また()()()()話を聞かせてもらうね」


 ニッコリと完璧な微笑みを浮かべているのにも関わらず、その周辺の空気が氷点下なアメリア様とレオンハルト殿下に、パトリック様は恐怖で完全に腰が抜けたらしい。しばらくして、見兼ねた同級生たちにずるずると引き摺られて退場していった。


「……アメリア様、少し脅しすぎでは」

「あら、レベッカの代わりにわたくしが釘を刺しておいたのよ。ここはわたくしに感謝するところではなくって?」

「いえ……いえ、そうですね。本当にありがとうございます」

「ふふ、よくってよ」


 満足気に微笑むアメリア様に、思わず気が抜けてしまう。そのままつられて、私もくすりと笑ってしまった。

 そんな私を見たアメリア様の瞳に、微かに安堵が浮かんだような気がして、またじわりと胸が温かくなる。

 ふと思い立った私は、もう一度アメリア様、と彼女に呼び掛けた。


「何かしら、レベッカ?」


 指先まで洗練された美しい動作で、コテンと小さく首を傾げるアメリア様に、私は微笑む。

 そこに最大限の敬意と親愛を乗せて。


「あなたに心からの感謝を。こんなにも素晴らしい友人を持つ私は、本当に幸せ者です」


 このとき私は初めて、アメリア様を友と呼んだ。

 そのことに気がついたアメリア様は、驚いたように目を丸くし、ほんの一瞬だけ唇を震わせた。けれどすぐに、いつもの完璧な微笑みを浮かべてみせた。

 流石は第一王子殿下の婚約者、淑女の鑑と名高いご令嬢である。


「ねぇレベッカ嬢、私は?」

「バカ、空気を読め」


 一方、後方ではそんなやりとりが行われていたらしく、後日満面の笑みで「私は?友人じゃないのかな?」と詰め寄ってきたレオンハルト殿下はなかなかにホラーだった。



 その後、アメリア様は、レオンハルト殿下とともに舞台の方へ向かわれた。

 これからレオンハルト殿下による卒業生代表の挨拶があり、その後、国王様より直々に殿下の立太子及び結婚について発表がある。レオンハルト殿下は卒業とともに王太子となり、アメリア様は王太子妃となるのだ。


 できればその話題で私たちのことは忘れ去ってほしいのだが、そんなことはまず間違いなく無理だろう。


「こんなに目立つのはもう懲り懲りだわ……」

「残念ながら、それは諦めてくれとしか言えない。これだけ盛大にやったからな、しばらくは有名人だろう」

「嘘でしょう……」


 ギルと二人でバルコニーに出て、ようやく一息つくことができた。

 この場には私たち以外誰もいないので、遠慮無しに淑女の仮面を外して文句を垂れていると、ギルはそんな私を笑いながら、私の髪を梳くようにして優しく撫でる。


『でも、とりあえずこれで一件落着だよねぇ』

『そうだな。あとはセルヴァンのおっさんに挨拶して引越しするくらいか?』

「そうだった……まずは伯父様に御礼を言わないとだわ……」


 バルコニーの手摺りに並んで座ったキルシュとゼーゲンの言葉に、私は思わず頭を抱える。


 正式な婚約の手続き、母の生家への引越し、その他にもやることは山積みである。

 ただ、一度は父や継母と相対することになるだろうと気が重かったのだが、それに関しては、ギルいわく会いたくなければ会わなくても大丈夫らしい。どういった方法で遭遇を回避するのかはわからないが、勿論会わないに越したことはないので、そこはお言葉に甘えることにした。


 今後に思いを馳せて唸っていると、しばらくして髪を梳いていた手が遊び始めたので、やんわりと制止しつつギルを見上げる。


「……どうかした?」

「いや、今くらいは現実逃避してもいいんじゃないかと思ってな」

「そうね……確かに、そうかも」

「だろう。せっかく二人になれたんだしな」


 満面の笑みで頷き、何かを期待するようにソワソワとしているギルに、少しだけイタズラ心が芽生えた。

 にこりと微笑み、「それで?」と首を傾げて促してみれば、途端にギルは言葉に詰まり、サッと視線を逸らす。「う」とか「あ」とか、意味のない言葉を発しながら次の言葉を探す様子は、とても年上とは思えない。

 その目尻がほんのり赤く染まっていることを確認して、私は無意識に笑みを深くした。


「……ふふ、ごめんなさい」

「……あまり年上を揶揄うなと言っただろう」

「年上って言っても、一つしか変わらないじゃない。それにもし年下だったら揶揄ってもよかったの?」

「……年下でも、同い年でもダメだ」

「でしょうね。ふふ」


 困ったように頬をかくギルを見て、「本当に可愛らしい人ね」と、ついポロリと溢してしまう。

 あ、と思ったときにはもう、ギルの目は完全に据わっていた。


「……あの、ギル、ごめんなさい。ちょっと調子に乗りすぎた、というか……」

「……そうだな。レベッカが楽しそうで何よりだ」

「そ、そう……私もギルが楽しそうで、何よりよ……」

「ところで、俺の恋人は何度言っても、自分がどれほど愛されているのか自覚してくれなくてな。いっそ徹底的に教え込んだほうがいいかもしれないと思い至ったんだが、どう思う?」

「ど、どうって……えっと……」

「まあ、ものは試しだ。幸運なことに邪魔者はもういないし、随分と長い間「待て」をくらっていたからな。そろそろ俺も限界だ」

「や、ギル、本当、悪かったわ……待って、あの、ここ外……っ」


 ジリジリと隅に追い詰められ、完全に天敵に捕捉された小動物のような構図になってしまう。


 そうして抵抗も虚しく、結局私の反論はすべて、彼の唇によって物理的に封じられてしまった。


 ファーストキスがまさかこんなムードの欠片もないものになるなんて思わず、一生根に持ってやる、なんて頭の片隅で思ったけれど。

 どんどん深くなる口付けに、そんなことを考えている余裕はすぐに無くなってしまった。


 それからしばらく好き放題され、やっと解放された後、息も絶え絶えに頭上を睨みつければ、全く反省の色が見られない二つのサファイアがとても満足気に揺れていた。



====================



 ――同時刻。バルコニーのカーテン裏にて。


『……(オレら)って元々あんまり気配ねぇけど、コイツら見てるとたまにめちゃくちゃ存在主張したくなるわ』

『あぁ〜……ちょっとわかるかも。今とかでしょ』

『そう。でも横槍入れるとあとでギルがうるさいからたまにしかしない』

『めんどくさいご主人様だねぇ……まぁ、今日くらいは見守ってあげようよ』

『仕方ねぇな……ぶっちゃけオレもう砂吐きそうだけど』

『あは、アタシも砂吐きそう』


 そんなことを言い合いつつ、二匹の猫は仲良く寄り添い、幸せそうな主人たちを見守っていたという。

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― 新着の感想 ―
[一言] 楽しいお話をありがとうございました
[気になる点] ネコの毛色の「三毛」は、遺伝の都合でメスにしか発現しないのは知られたことで、なのに、とても珍しいはずのオスの設定にしたのは何かあるんじゃないかと気になって気になって、、、 [一言] 主…
[良い点] 短編なのに素敵な長編を読んでいるようで幸せでした [一言] 2にゃんには是非つがってもらって主人公夫婦の子とにゃんの子達がわちゃわちゃしているのを見たいですね
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