赤い幻影 akaigenei ~土着編~ 赤街道 akakaidou
赤い幻影 akaigenei ~土着編~
赤街道 akakaidou
幻影は、最近家族として迎え入れた数名を御殿に招いて、徳川幕府が安定に至るまでに、琵琶家になにがあったのかを全て語った。
その中にいる影達は目を開きっぱなしになっていた。
ある程度の経験と事情を知っている者たちの方が、驚きは増すものなのだ。
しかし驚くことはもうやめることにして、「貴重なお話、感謝もうす」と影達は言って幻影に頭を下げて仕事に戻った。
「…さて、面倒が増えてきたから、差別をするか…」と幻影は言って、信長にあることを進言した。
「ああ、それで構わん。
江戸と生実をつなぐ道があるのならそれで構わんからな」
信長は言って勢いよく立ち上がって、働くつもり満々で衣服を脱いでから外に出た。
街道の入り口に大きな門を設け、『こちらの街道は、武家の通行は許可制』という看板と番小屋が街道の西と東にできた。
そして、江戸から生実をつなぐ、距離的には近い街道があっという間に出来上がった。
許可なき武家はこの海沿いの街道を通れと示唆するものだ。
琵琶家は今まであった街道を私有地という理由をもって、敷地の西側の限界位置に迂回路を作り上げたのだ。
よって、琵琶御殿周りに用がない者たちは、混雑していない街道を楽に行き来できるようになり、喜んでいる面もある。
もちろん物見遊山の武家たちは大いに怒るのだろうが、門番は幕府と生実藩の町周り役人に来てもらうことになったので、大きく出るわけにもいかない。
この事態を招いた武家たちを大いに批難するものとなった。
「…我は許可されてる?」と秀忠が自信なさげに番屋の役人に聞くと、「はっ お通りを」とすぐさま言って、秀忠を通した。
「…切り捨てられなくて助かったぁー…」と秀忠は大いに安堵して言ってから、陽気に琵琶御殿を目指した。
まさにこの街道に武家の姿はほとんどなく、秀忠と側用人だけが大いに目立つ。
もちろん武家許可制となった件は行きかう者たちは全員知っているので、怪訝に思う者は誰もいない。
よって琵琶家のこの差別的行為は、武家以外には大いに受け入れられ、『庶民の味方』という位置付けがされ始めた。
この話は一瞬にして武蔵の国と生実藩に轟き渡った。
そして家光もすべての藩に向けて書状を送りつけた。
そこには生実藩内の琵琶家の敷地内で武家による辻斬りまがいのことがあったことをまず述べてある。
その前に、疑われるような忍びを放ったことも書かれてあるので理由は十分だった。
『これ以上琵琶家の怒りを買うことはならない』
まさに将軍が琵琶家に対して特別な対応をすると示唆したようなものだ。
もちろん御三家が大いに反応したが、琵琶家が徳川信幻を抱えていることもあり、無碍な行動には出られない。
誰がどう見ても、仮称琵琶徳川家は家光が一番信頼する旗本となっていたからだ。
さらには護衛として、信幻所有の琵琶家特製の戦車も多用することになり、それほど厳重な警備の必要がなくなって行った。
もちろん戦車が、琵琶徳川家の使用人でしか扱えないことは証明されていたので、この件も指摘できない一項目に上がっている。
だからこそ、琵琶家は将軍家を守る盾として、日ノ本中に知らしめられた。
この状況を知った、かつては武将として名を上げたふたりの大名が競い合うようにして生実に現れた。
「伊予のお二方には許可が下りております」という門番の言葉に、加藤嘉明と藤堂高虎は顔を見合わせてから、いきなり駆け足で琵琶御殿を目指した。
このふたりに便乗しようとした武家がいたが、ふたりの屈強な武士に杖で行く手を阻まれたので、ずるいことはできないようになっている。
そして正式に出入り禁止を言い渡される仕組みになっている。
もちろん、街道ではない場所からの侵入を試みようとするが、簡単に忍びたちに警告を受ける。
そして袖の下を示唆しようものなら、即座に出入り禁止が言い渡されて、役人が走ってやってくることに決まっている。
琵琶家の敷地内とわかるように、それほど高いものではないが塀が土地の所有権を示唆している。
琵琶家が生実藩から預かっている土地はまさに広大で、実際に使っている場所は十分の一にもなっていない。
生実藩はもうすでに潤っていたので、この程度の土地を琵琶家に与えても、懐が痛むことはないし、逆に潤うことはもうわかっていた。
よって生実藩に何かを企む者はいないのだが、ひとりの役人の青年が門番の許可を得て、閉鎖された街道に足を踏み入れた。
まさに武家がほぼいない街道筋を見回して、青年の心境は大いに複雑だった。
しかしここはまさに青年の理想だった。
できれば琵琶家の誰かに面会を求めようと思っていると、ごく普通に往来を歩いていることに、青年は少し笑ってしまった。
―― 面倒なのは武士だけ… 俺も、そのうちのひとりだろうなぁー… ―― と青年は思って、鬼のような顔をしている影達が門番中の美術館を見上げた。
「よく許可が下りたものだ」と影達が無表情で言うと、「生実藩士はそれほど厳しくないようでね」と青年は気さくに言って、美術館に一歩足を踏み入れて度肝を抜かれた。
―― まさに、雄々しき武将か… ―― と誰もがするように、真田信繁の肖像の前で足を止めて見上げた。
しかし若いだけあってすぐに足を進めて、大いに感心しながら絵画の閲覧をする。
―― あー… 裕福で、幸せそうな一家だ… ―― と青年は思い、琵琶家の肖像画を見入った。
そして門番の影達も描かれていることに納得もしていた。
「…へー、生実藩士は誰も来ないと思っていたんだが」と幻影が美術館に入ってきて言うと、「酒井勝虎と申します」と青年はすぐに自己紹介をした。
「琵琶高願だ」と幻影は挨拶をしてから、「酒井寅三郎って知らないかな?」と幻影は言って、家族の肖像の絵に近づいて、徳川信幻の隣に座っている寅三郎を指さした。
「…あ、俺に似ている…」と勝虎は言って、穏やかな笑みを浮かべた。
「干支の寅の字なら、本家の血筋です」と勝虎が言うと、幻影は書を書いた。
もらって帰りたいほどの達筆だが、「本家筋のはずですが、なぜここにいるのでしょう?」と言ってから、ここの演舞場で見た徳川信幻の隣に座っていることにも怪訝に思った。
「理由は聞いてないよ。
徳川信幻様の元の姓は佐竹。
佐竹家も、一部は松平とつながっているからね。
その縁で、前の頭目と知り合ったのかもしれない。
寅三郎は、信幻様のお家の家老を仰せつかっているんだ」
「…ああ、そうだ…
それも気になっていたんです」
幻影が勝虎が気になっていたことをすべて語ると、「…お取りつぶしからの大逆転…」と勝虎は大いに眉を下げて言った。
「俺たちと出会わなければ、
どうなっていたのかはわからないね。
だけど、佐竹家は駿府にあったから、
遅かれ早かれ、今と何も変わっていなかったと思う。
だけど、住処を替えていたとしたら、
その限りじゃなかったけど、
信幻様の姉がそれを許さなかったはずだから。
結果的に俺たちはちょいと手伝いをしただけだよ」
幻影の言葉に、勝虎は自然に家族の肖像画に目が行って、信幻の後ろに座っている女官を見て、「…美しい方だ…」と言って笑みを浮かべた。
「残念だけど、嫁ぎ先は決まったんだ」
幻影の言葉に、勝虎は大いにうなだれた。
「ここでやった喧嘩選手権の四番手の俺の弟とね。
ちなみに志乃さんは七番手だった。
生まれてくる子はとんでもない猛者に成長しそうだ」
幻影は大いにうれしそうに言った。
「…あれに出て…
…いや、確かに二名ほど女性らしき方はおられたが…」
顔つきが絵画とはまるで違っていたので、全くわからなかった。
「五番手以下は、全く余裕がなかったからね。
必死になっていて当然だよ。
なにしろ、師匠が厳しいもんでね」
幻影の言葉に、勝虎は大いに苦笑いを浮かべたが、ひときわ目立つ信繁の絵を見上げた。
「始めて戦場に出て、このお方の雄々しき姿を拝見しました。
この目で見たのは米粒のようなものでしたが、
その迫力はこの絵そのものでした」
勝虎は秀忠の護衛として、家康の軍とは川を挟んで待機していた。
よって比較的開けていた戦場だったので、人の動きがよくわかった。
もちろん、信繁が家康の軍に突っ込んでいった時、秀忠の軍も大いに浮足立っていた。
その先頭にいた高虎が目の前の軍と戦闘を始めていたので、家康の軍に迫ることが叶わなかったのだ。
「寅三郎さんもその現場にいたし、俺もいた」
幻影の言葉に、勝虎はこの偶然を大いに喜んだ。
「なぜここにいると、騒いだ軍があったのです。
加藤嘉明様の軍の様でした。
私には何のことだかよくわかりませんでしたが…
最後の戦いが始まって早々に、
よくわからないことだらけの戦場でした」
「あははは!
それは俺が死人だったからだよ!」
幻影の明るい言葉に、勝虎は大いに苦笑いを浮かべた。
「俺たち琵琶家の前身は、
この戦乱の世から姿を消したんだ。
そして死者扱いとなったが、
もちろん死んではいなかった。
俺たちは戦うこと以外で、
この日の国を平和にしようと決めたんだよ」
「…ああ…」と勝虎は嘆くように言った。
まさに琵琶家は有言実行で、様々な場所で善行を行い、多くの者たちに希望を持たせ、さらにはこの地のようにわずか数日で裕福にしてしまった。
さらに言えば、琵琶家が大金を使った形跡はまるでなく、全てを手作りで作り上げていたのだ。
「…尊敬、させてください…」と勝虎は言って幻影に頭を下げた。
幻影はこの言葉には答えなかったが、「御屋形様に会って行くかい?」と気さくに聞くと、「ぜひとも!」と勝虎は笑みを浮かべて叫んだ。
その御屋形様に会ったのはいいのだが、上座で横になっていて、鋭い視線を勝虎に向けていた。
「…お前はこれからのやつだな…
そして、剣術はからっきし…
それでは何も救えんぞ。
知恵は当然だが、腕力もまだまだ必要なのだ。
この格差社会がある以上はな」
まさにすべてを見破られたと勝虎は感じて、すぐさま頭を下げた。
剣術に関してはからっきしで、しかも、この平和に武力はいらないと高をくくっていた。
しかしそれは油断ではないのかと考え始めたのだ。
もしも今、この辺りが戦場となった時、戦えるのは琵琶家だけではないのかと思い、大いに反省した。
「…この先剣術も、死に物狂いで取り組んでいきます…」
「では、萬幻武流の門下生となればよい」
信長の言葉に、余計なことは言うまいと勝虎は思い、幻影に体を向けて、「どうか! 入門のご許可をください!」と叫んで頭を下げた。
「ああ、いいよ」と幻影は大いに気さくだったので、勝虎はからかられたのかと思ったが、「仕事に行くけど付き合う?」と聞いてきた。
勝虎はすぐさま立ち上がって頭を下げた。
その仕事は人間技ではなかったが、人間でもできる仕事を与えられたので、勝虎は額に汗して大いに働いた。
そして昼餉はまさに天国だったが、そのあとはまた地獄に逆戻りだったが、あっという間に夕餉となった。
「ただいま戻りました!」という少年の声が玄関から聞こえ、そして勝虎は背筋が震えた。
徳川信幻が目の前にいたからだ。
そしてその家老の酒井寅三郎は酒井勝虎を見入っていた。
幻影は寅三郎と勝虎を見て、「やはり親族のようだから、存在感もよく似てるよ」と幻影は気さくに言った。
「酒井の本家はまだ継がれているか?」と寅三郎が勝虎に聞くと、「はい、現在は上野藩の家老職と聞いております」とすぐに答えた。
「ならばよい」と寅三郎は言って、信幻に寄り添って座った。
信幻と勝虎は挨拶を交わした。
しかし今は何も考えずに、夕餉をたらふく食らった。
「あ、今日のお給金?」と長春は恥ずかしそうに言って、包みに入っている銭を勝虎の目の前に置いた。
「はっ ありがとうございます!」とここでも余計なことは言わずに、包みを拝んでから懐に入れた。
「…あーあ… 収めちゃったぁー…」と長春が言うと、誰もが大いに笑った。
勝虎は分けがわからず、大いに戸惑った。
「からかわれただけだから」という幻影の言葉に、勝虎はほっと胸をなでおろした。
「勝虎は藩を抜けて、この琵琶家で働いてもよい。
時間はやるから、よくよく考えて決めろ」
信長の言葉に、「はい! お世話になります!」と勝虎は口から出るはずがない言葉を放って、大いに戸惑い始めたが、―― きっと、俺の本心だ… ―― と思い、戸惑うことはやめ、自分の言葉を信じることにした。
「うむ、それでよい」と信長は破顔して勝虎に言って何度もうなづいた。
「教え甲斐があって楽しそうだ」という幻影の言葉には、さすがに勝虎は大いに苦笑いを浮かべていた。
夕餉を終えてすぐに、勝虎は生実城に登城して、上役に暇をもらいたいと伝えた。
いきなりのことに、もちろん上役は怪訝に思って理由を聞いたが、勝虎は答えずに笑みを浮かべているだけだった。
しかし滞りなく免職して、身の回りの整理をしてから、必要な持てる限りのものを持って琵琶御殿に戻った。
源次が真っ先に街道で出会った大荷物の勝虎を見つけて、すぐに部屋をあてがった。
「まさかの御屋形様のお言葉だったよ。
寅三郎さんなんて、鼻にもかけてなかったようなんだよね…
やはり、心の強さかなぁー…」
源次の言葉に、「…いえ、私自身、本当はよくわかっていないのですが、認められたことは嬉しく思っているのです…」と勝虎は感慨深げに言った。
「源次様、よろしいか?」と言って寅三郎が廊下から室内を見て頭を下げた。
「ああ、構わないよ」と源次は気さくに言った。
源次はまさに幻影とそれほど変わらず愛想がよく気さくだが、その裏にはとんでもない強さを秘めている。
勝虎は源次や幻影を追いかけようと心に決めた。
「少々問題が発生した。
御屋形様と信幻様がそなたの取り合いを始めたんだ」
寅三郎の言葉に、「ま、やると思ったよ…」と源次は余裕の笑みを浮かべて言った。
「いえ、私としては、まだまだ鍛えていただきたいと思い、
琵琶信影様にお仕えしたいのです。
できれば、私ごときのために、争わないでいただきたいのです」
「…むっ!」と寅三郎は大いに機嫌が悪そうにうなった。
「もちろん、叱られることも覚悟の上で言わせていただきました。
御屋形様のありがたいお言葉があったからこそ、
私はここにいられるのです」
「わかった」と寅三郎は言って立ち上がって廊下に出た。
「…やっぱ、さすが御屋形様だなぁー…」と源次は笑みを浮かべて言った。
「俺なんて初めて御屋形様の前に出た時、
何度も兄者の影に隠れようとした…
まあ… まだ当時六才だったんだけどね…
だけど、御屋形様は本当にお優しくて、
叱られたことなんて一度もなかったんだ。
その分、兄者が厳しかったんだけどね…
だけどね、俺たちはどちらかと言えば捨てられた子のようなものだった。
だから子供なりに必死だったんだろうなぁー…」
源次の明るいが少々悲惨にも思える生い立ちに、「私はその当時の源次様以上に必死になろうと決めました」と勝虎は答えた。
「それは心構えだけでいいよ。
きっと体がついてこなくなって、
誰かに迷惑をかけるから。
手抜きをしろとは言わないけど、
その時その時の自分自身を探るようにして、
日々を過ごした方がいい」
「はい! ご指導、ありがとうございます!」
勝虎は心の底からの笑みを浮かべて、源次に礼を言った。
「信幻様も御屋形様も必死になるはずだよ」と源次は陽気に言ってから、「うちの家はね、まずは心が第一なんだ」と源次は言って胸を叩いた。
「頭脳も体力も、あとから鍛えればいいんだ。
勝虎さんのような人は、なかなかいないと思う。
子供の場合はこれから成長するからしっかりと教え込めば何とかなる。
大人の場合は、まずそれはないから、勝虎さんはまさに逸材だったんだ」
源次の褒め殺しの言葉に、勝虎は素直に頭を下げた。
よって、―― それほど気負わず誠実に… ―― とだけ考えていた。
「御屋形様にお礼を」と勝虎が言って立ち上がると、源次も立ち上がって、勝虎の後ろを歩いた。
勝虎は謁見の間の廊下で膝をつき、「失礼いたします」と言うと、「おう! 入れ!」と信長の声がしたのでうつむいたまま障子を開けて室内に入りすぐに閉めてから、一歩前に出てから正座をして頭を下げた。
「教えることが何もない」と信長は陽気に言った。
「御屋形様にお礼をと思い参上いたしました。
この度はどれほど感謝しても感謝の言葉が浮かばない程です。
私の持てる力をこれから鍛え上げ、
御屋形様の力になれるよう精進いたします。
どうか、よろしくお願いいたします」
「おう! ようわかった!
面を上げよ」
勝虎が顔を上げると、信長は満面の笑みだが、信幻は大いに眉を下げていた。
眉を下げていた原因が姉の志乃で、まさに演舞場で見た女官がここにいた。
「今回は心を痛めさせてしまった。
だがな、まだあきらめんのじゃ…
もちろん、お志乃だけ…」
信長の言葉に、志乃は一瞬信長をにらんだ。
「徳川信幻はあなたのような優秀な人材が多く必要なのです!
全ては将軍家光様の御身をお守りいたすため!
御屋形様はご自分でご自分の御身は守れるのです!
何の戸惑いがありましょうか?!」
志乃の問いかけに、勝虎は背筋を伸ばした。
「私は尊敬する主を、琵琶信影様に決めさせていただいたのです。
もしも、御屋形様からの命があれば、
従うことに決めております」
「…うー…」と志乃は大いにうなって、信長に鋭い視線を向けた。
「幻影、弁慶、源次とともに日々鍛え上げよ。
ワシが認めた時、その命とやらを言いつけるやもしぬなぁー…」
信長は言ってから志乃を見た。
しかし納得いかないようで、志乃はまだ信長をにらんでいる。
「源次様は、あのように怖いお方がお好みか?」と勝虎が聞くと、「あははは! ほかにいい人って全然いないからね!」と源次は答えになっていない答えを言ったが、勝虎にはなんとなく理解はできていた。
「どこぞの城主をやっている姫様よりもきっと怖いはずです」
勝虎の言葉に、「よく知ってたね」と幻影が気さくに言うと、「養子に出ることになりかけていましたので」と勝虎は言った。
「断ったからここにいるわけだ」
「もちろん、一度お会いいたしました。
お怒りになってばかりなので、
畏れながらと申し上げ、
私ではお力になれないとお断りいたしました。
ですがもし、
こちらで鍛え上げ、御屋形様のお許しが出たのであれば、
あちらのご城主のお力になりたいと、
今思いついてしまいました」
「…正直で何より…」と信長は言って何度もうなづいた。
「お志乃さん、そろそろ諦めて」と幻影が言うと、「…うー…」とまた志乃はうなって幻影をにらんだ。
「きっと、あの絵のような
素晴らしい笑みを見られるのではないかと感じたからです」
勝虎の言葉に志乃はすぐに気づいて大いにうなだれた。
「…うまいなぁー…
…あ、いけね…」
信幻の言葉に、勝虎はすぐさま大声で笑った。
すると信長と幻影もすぐに勝虎の真似をした。
「なにがおかしいのですか?!」と志乃は三人を代わる代わる見入った。
「あのさ、勝虎さんが悪者になったこと、気づかなかったの?」
幻影の謎かけのような言葉に、信幻がすぐさま頭を下げた。
「家族の気さくさが出てしまいました」と信幻は勝虎を見て言って、頭を下げた。
「勝虎さんほどに機転の利く人はいない。
だからこそ欲しいことは理解できる。
だが俺たちは目指している道を進む本人の意思を尊重する。
今までも、これからもだ」
幻影の厳しい言葉に、志乃は言い返す言葉もなく頭を下げた。
「…私の意思も尊重してぇー…」と志乃が大いに嘆くと、「欲張っているから止めたまでじゃ」という信長の言葉にも何も言えずに、志乃は頭を下げた。
「お志乃さんは、殿様をダメにする典型だと俺は思う」という幻影の言葉に、「ああ、大いにあるな」と信長はすぐさま答えた。
「姉上はある意味過保護です」と信幻が言うと、「…わかっていたはずなのにー…」と志乃は大いに嘆いた。
わかっていても、信幻のためにと頑張り過ぎてしまうのだ。
「琵琶家にお世話になれるこの幸せを、
私は生涯忘れることはありません」
勝虎の清々しい言葉に、「うむ、よく分かった」と信長は言って膝を打った。
「…少しは欲張ればいいのにー…」と志乃は眉を下げて信幻に言うと、「もしも、寅三郎を手放すことになったとすれば、欲張ったかもしれないね」と信幻は気さくに言った。
「いえ、ずっと殿のおそばに」と寅三郎は言って頭を下げた。
「一度は暇をくれって言ったよ?」
信幻の言葉に、寅三郎は大いに困惑した。
「もうよいよい」と信長が言うと、信幻はすぐさま頭を下げた。
「一度やめるとは言ったが、
降って湧いたあまりのことに放ってはおけなんだ。
その身代わりがのこのことここにやってきたので、
これ幸いと自分の役を押し付けようとした。
寅三郎は暇をもらって、そのあとどうしたのじゃ?」
信長の言葉に、「はっ 国内を回ろうと」と寅三郎は言って頭を下げた。
「寅三郎はそういう男だ。
信幻が徳川を背負うことになったから、
暇を申し出ないわけではないのじゃ。
寅三郎も信念と向上心のある強い男じゃ」
これで誰もが全てを理解した。
よって、信長にすべてを決めてもらった方がいいと、誰もが考えていた。
「次の物見遊山、考えておけよ」と幻影が長春に言うと、「…今はまだいいぃー…」とすぐさま答えた。
「富士に昇ったばかりだからな。
じゃ、祭りの準備に専念しようか。
今回は中花火大会で」
幻影の言葉に、「…それでもいいぃー…」と長春は満面の笑みを浮かべて言った。
「ということで、今夜は乾燥していて丁度いい。
花火玉を作るから」
幻影が言って立ち上がると、家族の数名がすぐに立ち上がった。
もちろん勝虎もそれに続いた。
琵琶家はすべてが手作りだ。
火薬球を包む薄い和紙も、別の工房で作っていたことを今思い出していた。
勝虎が与えられた仕事は出来上がった花火玉の整理だけだが、手際よく花火玉を作り上げていく幻影たちの作業を見入る暇程度はあった。
その花火玉を十八個入れ込んだ三尺玉はまさに圧巻で、この玉が宙を飛んでいくことが信じられないほどだった。
作業は就寝直前まで行われ、「次は明日と三日後だな」と幻影は言って片付けを始めた。
まさに足並みが揃っている軍のようで、誰もがてきぱきと片付けを終えた。
この日は入浴して、すぐさま就寝した。
翌朝は朝餉の後に、勝虎は幻影から講義を受けたのちに、剣術の実戦練習を始めた。
萬幻武流もほかの流派と違わずに、専用の型が多い。
しかも、ほとんどの流派が行っていない、攻撃と防御の固定した型まである。
その型が、自分自身の命を守ることは、実際に体験してよくわかった。
攻撃に出ると必ずと言っていいほど隙が生まれる。
その隙を知り、そこに打ち込めないような状況を作る攻撃を仕掛けるのだ。
しかし油断大敵で、攻撃を終えてすぐに防御に転ずるわけだ。
それを踏まえて幻影と仕合い、わずか一時で随分と強くなったような気がした。
昼餉のあとは軽業興業所の点検と、店舗などを回り補修作業を行ってから、花火玉を作り上げる作業の手伝いをした。
今日もあっという間に夕餉の時間となり、「洗濯物は取り込んでおいた方がいい」と幻影が言うと、長春と政江は大いに慌てて、食事の途中だが部屋を出て行った。
「確かに、湿り気を帯びてきたな。
昼はあれほどに暖かでいい天気じゃったのだが」
信長の言葉に、「嵐とは言いませんが、明日はずっと本降りでしょう」と幻影は答えた。
「それはそれで、忙しいからな」と信長は意味ありげに言った。
「この近隣の杞憂がある場所はすべて手直しをしてありますので、
大水が出ることはないと思われます。
問題は予期せぬ土砂崩れ。
警戒だけはしておいた方がよろしいでしょう」
ここまで世間を考えている豪族はいるだろうかと、勝虎は信長に仕えることになって本当によかったと心の底から思えた。
仕事としても、士農工商すべての職に触れていることで、今までの数十倍の生き甲斐を感じ始めた。
まさに幻影の言った通りで、誰もが眠り込んだ丑三つ時から雨が叩きつけるように降り始めた。
幻影の杞憂はこの近隣では何もなく、水はけが異様にいい。
下水や雨水に関してもまさに専門家で、降った雨は一斉に海に流れ込む。
それが起床の時にもまだ降り続いていた。
幻影は朝餉を済ませて、「少々飛んでまいります」と信長に言って、幻影特製の雨用の着物を着て、降り続く雨に逆らうように、庭から宙へ舞い上がった。
「…初めて見た…」と勝虎が目を見開いて言うと、「必要な時にだけ、使える力はすべて使うのだ」と信長は格言のように言った。
「男どもは出かける準備をしておけ」
信長の威厳がある言葉に、誰もが一斉に頭を下げた。
もう日は昇っているのだが辺りは夜のように暗い。
しかも降りしきる雨で視界が利かない。
よって幻影はそれほど急ぐことなく、下総と武蔵近辺を飛びまくって警戒したが、以前に幻影たちが江戸に住んでいた時の河川工事の効果があったようで、河川の氾濫などはないと見極めた。
そして生実から東に飛んで大灘に到着する直前に、がけ崩れを発見した。
上総国の松尾という地名の場所で、生身の真東にある、比較的田舎と言っていい土地だ。
広い平野があるのだが、どうやら河川工事の手を抜いていたようで、今にも川が氾濫しそうだ。
その上流で土砂崩れが起こったことで、一部は堰き止められているようになっていた。
これはかなり危険として、倒木などを使って、それほど勢いよく崩れないように処理をしてから、琵琶御殿に戻り、準備が完了していた家族たちを作業車と共に持ち上げて、現地に戻った。
まさに大仕事と家族たちは気合を入れて、崩れた土砂を使って、大きな堤防を築いた。
この善行を祝福してなのか、空が比較的明るくなってきた。
川の水位も下がってきたので、土砂崩れがあった場所を多少崩してから、これ以上崩れないように、なぎ倒された太い木を山に打ち込んでいく。
―― まさに、神の所業 ―― とこの仕事を初体験した家族たちは、さらなる生きがいを感じていた。
そして少しでも手伝えたことを誇りに思って、「あとは何事もないよう仏にでも祈っておくか」と信長は言って手を合わせて、「帰るぞ!」と叫んでから作業車に乗り込んだ。
幻影は最後のひと仕事と張り切って、作業車を宙に浮かべて琵琶御殿に帰還した。
片づけをして入浴を済ませるともう昼餉の時間だった。
誰もが飢えた子供のように食事を摂って一息ついた。
「おまえが来るまで待っていればよかった」と幻影は大雨でもやってきた秀忠に言った。
「…足手まとい確定だから、それはお勧めじゃないよ?」と秀忠は眉を下げて言って、うどんをうまそうにして食っている。
「信幻は悔しそうな顔をして登城していったぞ」と信長が言うと、「うん、すっごく何かに怒ってた」と秀忠は眉を下げて言った。
「だからこそ、自由に動ける琵琶家は必要なのじゃ」と信長は機嫌よく言った。
「…家光にも再認識させるよ…
もっとも、信幻が伝えたと思うけどね…
それに、神が現れたと騒ぎになるだろうから」
「大丈夫だ。
琵琶家の仕業と証拠を残してきたからな。
それほどの騒ぎはないはずじゃ」
信長の言葉に、幻影は少し笑った。
騒ぎ除けのために、琵琶家の旗印をこれ見よがしに土砂崩れがあった場所に差してきたのだ。
「大まかな作業しかしていないから、
すぐには何かを言ってこないとは思うけどね。
これ見よがしにここに攻めてこられるのもめんどくさい」
幻影の言葉に、「…それは任せてよ…」と秀忠は眉を下げて言った。
「それに、雨は弱くなっただけでまだ降るから。
ほかの土地の農作物は大いに心配だね」
幻影の言葉に、「…大雨が降ったあとの方が、色々とめんどくさい…」と秀忠は言ってうなだれた。
「よいよい。
ある程度は面倒を見る」
信長の言葉に、幻影は退席して法源院屋に顔を出して詳しい話をした。
「今回は、仕入れについては協力させてください」と店主に言われてしまったので、すべて法源院屋の主導のもとに動くことに決めた。
この地に長く住んでいることで、食糧難などは何度も経験している。
最悪の事態に備えて、売り物にならない食材を多く仕入れるのだ。
もちろん加工は琵琶家が引き受けることになる。
そのついでに祭りの準備にもなるので、それほどの大仕事にはならない。
すぐに出せる保存食も抱えているので、ほぼ問題はない。
琵琶家は小さな仕事を手広くやっているので、家がやせ細るどころか大いに太っている状態だ。
多少は損をしても、子供たちの笑みを見られると思うと、そのようなことはなんでもないことだった。
幻影は礼を言って店を出て、この雨でも入浴している巖剛を見て大いに笑った。
そして機嫌が悪い。
「連れて行かなくて悪かった」と幻影が言うと、巖剛は少し機嫌が直ったようで、幻影に頭をぶつけてきた。
「…やっぱり怒ってたぁー…」と大きな番傘を差した長春が言って眉を下げていた。
「人間でも危険だったからな。
巖剛にも足に足袋が必要なほどだったから。
手助けに行って怪我をしたんじゃ意味がないからな」
「…きちんと言っとくぅー…」と長春は言って、巖剛の頭をなでた。
「一部街道整備が必要になるかもしれない。
その時には先頭を切って張り切ってもらうから」
幻影の明るい言葉に、『ゴルルル』と巖剛は機嫌よくうなった。
やはり武蔵の国でも被害はあったようで、葛飾郡近隣の街道が一部陥没してしまい、通行ができなくなったようだ。
速やかな対応が必要として、家光は信幻に話した。
信幻はすぐさま琵琶家に通達を出して、巖剛が大いに喜ぶ作業となった。
熊を使っての修復に、工事関係者は大いに怯えていたが、琵琶家の人の方にも畏れを抱いていた。
修復工事だけではなく、舗装工事までやってのけて、わずか一日で素晴らしい街道に生まれ変わっていた。
これが格安料金なのだが、もちろん秘匿事項ではある。
琵琶御殿に戻ってから、「強くならない方がおかしい」と勝虎は笑みを浮かべて言った。
「随分と逞しくなったよ」と源次が機嫌よく言った。
「はい、決して焦らないことに決めたので、
自分でも信じられないほどに鍛えられていたと、
今になって気づきました」
源次は陽気に笑って、「免許皆伝は近いかもね」と言うと、勝虎は少し寂しい想いが沸いていた。
「一番肝心なところができていたんだ。
あとは力をつけるだけで何とでもなったんだよ。
だから免許皆伝をもらったら、
御屋形様は好きに過ごせと必ずおっしゃるから。
あとは心のままに行動を起こせばいいだけだ」
源次の言葉に、勝虎は何とか頭を下げた。
源次の言ったことはよくわかる。
そして見てみたいものも多くある。
だができれば、ずっと琵琶家に寄り添っていたいと思う自分もいるのだ。
しかし今は免許皆伝を目指して、剣術の自主訓練を始めた。
「きっと私の今の気持ちは、
源次様と同じだと思っています!」
勝虎は話をしながらも正確な型を繰り出す。
「本来ならばどこかに婿にいくべきだけどね。
行かなくていい条件がそろっている人がそばにいたからというだけの理由で、
俺はここにいるんだよ。
もしも琵琶家に伴侶がいないのなら、
俺は琵琶家を出ていたかもしれないね。
だけど、弁慶兄ちゃんはちょっと違うようだ。
まさに、天狗になろうと幻影兄ちゃんに特別講義を受けているようだから」
「…最終的には空を飛ぶ…」と勝虎は言いながら、少し体を浮かして攻撃と防御の型を取った。
「いい動きだ」と幻影は街道沿いから勝虎を褒めると、勝虎は素早く直立して、幻影に頭を下げた。
「試験はまだだが、
暫定で免許皆伝でも構わない。
その試験をしよう」
幻影は言って、背丈よりも長い木刀を片手で振り上げ、上段の位置で止めた。
―― 下がり過ぎて丁度いい ―― と勝虎は思って、大きく素早く二歩引いた。
そして幻影が長木刀を振り下ろすと、―― ごまかし! ―― と思い、左足を大きく左に出して、貫き胴を放つようにして、長木刀のほぼ中央を押さえつけ、そのまま大きく下がった。
「…はあ… さっすがぁー…」と源次は大いに感心していた。
幻影は機嫌よく長太刀を担ぎ、「最終試験は十日後だ」と笑みを浮かべて言って、工房に向かって歩いて行った。
「だけどね、勝負は免許皆伝をもらってからだから」
源次の意味ありげな言葉に、「はい、まさにそれが終わりなき最終試験かと…」と勝虎は言って頭を下げた。
「お主がもう免許皆伝試験とは…」と影達が大いにうなった。
今は昼餉の席で、信長の機嫌がかなり微妙だ。
「人それぞれだと思う」と勝虎はかなり中途半端に発言した。
もちろん、言いたいことはかなりあったが、ここは当り障りのない短い言葉を選んだだけだ。
「まだわずか二十日だぞ!
本当にこれでいいのか?!」
信長は幻影に向かって言い放った。
「はい、何も問題ございません」と幻影は全く感情を変えずに答えた。
「…うー…」と信長は言葉を失って、うなるしかなかったようだ。
信長にもわかってはいるのだが、まさかこれほどに早いとは思ってもいなかったのだ。
「すべては剣術が子供程度だったことが功を奏しただけでございます」
「わかっておる!」と信長の機嫌はさらに悪くなっていた。
勝虎はさらに幻影の言葉を大いに理解した。
何もないから詰め込める。
しかも大人でもあるので、子供のように投げ出すことはない。
覚えろと言われたら覚えることはできる。
そして心の問題が何もないと聞いていた。
その心の問題が大事のようだと、勝虎はようやく理解できていた。
よって、剣術、杖術、体術、武器術、馬術、忍術はすべてを覚え込んで体で表現できればいいだけで、まさに勝虎の得意分野だった。
よってこの短い期間で免許皆伝試験にこぎつけたことを自覚した。
「…ああ… 免許皆伝になったら、堂々と勧誘できるのね…」と志乃はまさに幸せそうな顔をして言った。
「その前に、城主の姫様のところに行っちゃうから」
信幻の言葉に、「…うー…」と志乃と信長が信幻を大いに睨んでうなった。
「縁談がないのなら暫し待てと連絡しておいたから」と幻影が言うと、「余計なことをするでない!」と信長が叫んだが、全く威厳はなかったので、幻影は大いに笑っていた。
「はっ ありがとうございます」と勝虎は自然体で言って、うまいうどんを大いに食らった。
「先様も、勝虎さんのことは大いに気に入っていたらしいよ。
琵琶家からの文にも、それほど驚いてなかったそうだから。
次に会った時は、素晴らしい笑みを見せてくれるかもね」
「見極める!」と信長が叫ぶと、「…また九州に行くぅー」と長春が言い始めた。
「じゃあ、お見合いと家族の物見遊山で」と幻影は言って書を認めて鳩を飛ばした。
志乃が懇願の目を信幻に向けると、「…行けば?」と信幻は眉を下げて言った。
「…まだ、免許皆伝ではござらん…」と影達が言うと、「師範代試験は合格してるから」という幻影の気さくな言葉に、影達は大いにうなだれた。
「…厳しいことで有名な萬幻武流の師範代であれば、
どこに出しても恥ずかしくはない…
その肩書も、十分に使える武器となる」
信長の言葉に、影達はさらにうなだれた。
「まずは木刀か杖を持って向き合いますので」という勝虎の言葉に、「うむ」とだけ信長は答えてから、大いに肩を落とした。
「そうだよなぁー…
無手だと馬鹿にしていると思われて怒らせそうだからなぁー…」
幻影の言葉に、「きっと、立ち会っていただけないと思いますので」と勝虎は言って、うまい薩摩芋の天ぷらをほうばった。
「…うう… 無手の技まで…」と影達は大いに悔しがっていた。
さすがに武士が無手で戦うことは苦手と言っていいほどだった。
さらには人にもよるが、飛び道具も影達は不得意だ。
馬術は自信があるのだが、この最後の砦を崩されると大いに自信を無くすと思い、比べないことに決めた。
だが、こういった無垢な妨害工作も入る。
「勝虎兄ちゃんって、もうここからいなくなっちゃうの?」と健五郎が寂し気に言った。
勝虎は大人だけでなく子供からも人気が高い。
もちろん勝虎は大いに戸惑った。
「君たちと懇意になれたことも、俺の財産だ」と勝虎は笑みを浮かべて何とか答えた。
子供たちはその言葉だけでもうれしかったようで、勝虎に礼を言って、遊び場に向かって走って行った。
―― 納得できればすぐさま引き下がる… ―― と勝虎はこう考えて少しうなだれたが、この琵琶家の敷地内に、もう何年もいるような錯覚を覚えた。
それほどに一日一日を大切にして積み重ねてきたのだ。
そして誰もが笑顔になるようにと願っていた。
だがさすがに大人はそうはいかない。
大人の狡さや欲が見え隠れすると、抗うべき部分は抗う。
そうしないと、自分自身を縛り付けることにもなるからだ。
だが、子供の駄々はさすがに眉を下げてしまうと思い、少し笑った。
「あら? まさかここにおられるとは」と、多くのお付きを引き連れた姫が街道にいたので、勝虎はすぐさま立ち上がった。
「これは姫様。
ご機嫌麗しく」
この姫は生実藩主、森川重敏の娘の正実だ。
噂ではどこぞの殿のところに近々輿入れすると聞いていた。
「…お相手が勝虎様であれば、何も問題なかったのに…」と正実は憂鬱そうに瞳を閉じて言った。
「お言葉でございますが、私の好みの女官は雄々しきお方ですので」
勝虎の本音の言葉に、正実はまずは目を見開いたが大いに笑った。
「…こちらだとまさにその通りだわ…
私も、それほどに強くありたかった…」
「さすれば加藤沙織様をご紹介差し上げましょう。
きっと、これからの姫のお役に立つと確信しておりますから。
ちなみに、先ほどの日ノ本一喧嘩決定戦で三番手の凄腕の女官で、
あの伊予松山の加藤嘉明様のご息女でもあらせられます」
「…あ… ああ!」と正実は大いに目を見開いて叫んだ。
沙織が大奥にいて、琵琶家に身請けされていたことを聞いていたからだ。
「ぜひとも!」と正実は言って、勝虎を急かすようにして街道を歩かせた。
沙織は道場にいて、都合よく休憩中だった。
「あら?
私と同じ苦難の道を行くお方が現れたわ」
沙織の陽気な挨拶に、正実は真剣な目をして頭を下げた。
勝虎は沙織に頭を下げてから、その視界から徐々に消えて、外に出てからほっと胸をなでおろした。
―― 忍びの技が役にたった… ―― と勝虎は思い、少し笑ってしまった。
―― あの姫がどう変わるか… ――
勝虎はすべての詳しい話は聞いていた。
まさに藩存続の危機に、名も性別までも変えて、お家を守ろうとする大村純信こと大村純葉はまさに必死だったのだ。
縁談を断った時は、まさに勝虎の命を奪おうともした。
しかしそうならなかったのは、まずは勝虎がお家の紹介で仕官をしないかと誘われたところから始まる。
決して縁談を勧められていたわけではなかった。
そして話をしているうちに女官だと気づき、全てを語らせたのだ。
そして、「今の私では到底背負えませぬ」と言って断ったのだ。
しかし勝虎の腰は退けていなかった。
よって純葉は勝虎に、「できれば友人でいて欲しい」と懇願したのだ。
ほんの数通の書簡のやり取りだったが、最後の文に、『そちらに行く予感がする』となぜか書いたのだ。
書いた後に書き直そうと思ったのだが、勝虎はそのまま純葉に送った。
すると純葉から大いに気合の入った文が返ってきた。
そしてそのほんの数日後に、琵琶幻影からの文が届いて大いに驚き、純葉にさらに希望が満ち溢れたのだ。
そして理由はそれだけではないと、家老の大村純勝は勝虎に語っていた。
この話は家老の陰謀ではなく、忠誠心が引き起こしたものだったのだ。
まさに勝虎も分家の身で、しかも一番末の子として生を受けた。
よって勝虎は純葉への興味は消えていなかった。
だが急ぐ必要もあった。
もちろん、周りの諸藩が口出しをしてくるからだ。
さらには元々大村家はキリシタン大名として大村藩を収めていたことはあったが、今となっては昔の話で、純葉は大いなる仏教信者だ。
特に妙栄尼が肥後に来ていたと知って、大いに落ち込んだという話だった。
その妙栄尼が勝虎に笑みを向けていた。
勝虎はすぐさま頭を下げて、「本日は良い日和です」とあいさつをした。
「幻影様をやさしくしたようなお方です」と妙栄尼は笑みを浮かべて言った。
「はっ ありがたき幸せ」と勝虎は満面の笑みを浮かべて頭を下げた。
「あなたが武器を取る時、それは人を斬るためではなく、
生かすために振るわれることでしょう」
妙栄尼の言葉に、勝虎はすぐさま頭を下げた。
なぜか自然に頭が下がったのだ。
もちろん、勝虎は人を斬ろうなどと思ったことはない。
力が必要だから、剣術を習っているのだ。
では、どのようにして武器でしかない太刀で人を救うのか。
勝虎は漠然とその姿が見えてきて、街道を歩いている妙栄尼の後ろ姿に頭を下げた。
十日後に、勝虎は幻影に試験を受けて、免許皆伝をもらった。
そしてなぜだか、勝虎の目の前には蘭丸がいる。
「…幻影の試験は終わったが、
俺の試験が終わってねえー…」
まさに蘭丸の言う通りだが、さすがにどう戦えばいいのか、今の勝虎ではその打開策がない。
もちろん、蘭丸の修行は目を食い入るようにして見てきたが、幻影と向き合って、はっきり言って蘭丸の方が強いと感じたのだ。
蘭丸は長木刀を振り回しているように見えるがそうではない。
細かい動きも得意で、これは幻影によって矯正されたようだ。
よって間合いを詰めればそれでいいというわけではないのだ。
しかし、―― 生かす剣… ―― と勝虎は漠然と思い、自然にいつもの中段に構えた。
「ふん!」と蘭丸は鼻で笑ってから、両手で長木刀をゆっくりと振り上げた。
―― 正面厳禁! ―― とだけ勝虎は思い、右足を大きく右に出し、そのまま蘭丸の左手を駆け込むように走った。
「キエェ―――ッ!!」と蘭丸の気合が入った声が飛んだ瞬間、長太刀は袈裟気味に振り下ろされたが、その中央部分に勝虎の木刀が防いでいた。
勝虎は長木刀の勢いに任せて、体を宙に浮かせた。
蘭丸に対して垂直に着地をしたのはいいが、もう蘭丸は長太刀を逆手に構えて、勝虎を斬る態勢に入っていた。
すると、『カァ―――ンッ!!!』と激しい音がした。
勝虎は木刀の尻を、長木刀の尻にあわせたのだ。
「それまで!」と幻影の気合の入った声が飛んだ。
そして幻影は大いに拍手をしている。
「今のは俺でも厳しいかなぁー…」と幻影が言うと、「…これほど強ええやつをお前は手放すのか?!」と蘭丸と信長が声をそろえて叫んだ。
「勝虎さんの思うがままに」という幻影の言葉に、ふたりは大いにうなだれた。
「お師様、ありがとうございました」と勝虎は言って、蘭丸に頭を下げた。
「…お、おう…」と蘭丸は答えてから、照れくさそうにして頭を下げた。
「大村は何かと騒がしい土地だ。
用心しないと、思わぬことで足元をすくわれる。
よってすべてにおいて、
今のように用心深く対応した方がいい」
もうひとりの師匠の幻影の言葉に、「はっ お師様、ありがとうございます!」と勝虎は声を張って礼を言った。
「今のって、どこまでが先読み?」と幻影が今度は気さくに聞くと、「地面に着地、までです」と勝虎は大いに眉を下げて言った。
「…そうなるよなぁー…
だけど、相手がよく見えていたことは大いに褒めなきゃな」
幻影は言って、勝虎の頭をなでた。
まさに子供扱いだが、勝虎は心の底から喜びが満ち溢れて、ついつい泣いてしまっていた。
それに反して、寅三郎と影達は悔しくて泣いていた。
この翌日、琵琶家一行は勝虎とともに肥前大村を目指して旅立った。
今回は今までで一番の長旅となるのだが、物見遊山は帰りにすることに決めて、江戸湾から水行して紀伊から内海に入り、本州と九州の狭い海峡を通り抜け、唐津の港に到着した。
日が暮れかかったので無理をすることなく、予定通りにこの地にある法源院屋の庭に戦車を滑り込ませた。
店主はこの地の麺を振舞うと、誰もが無口になっていた。
まさにうまいという想いしかない。
「…これはまた真似しないとなぁー…」という幻影の言葉に、誰もがうなづくばかりだ。
海の幸と野菜がふんだんに入っている、ちゃんぽんというこの麺どんぶりは、まさに腹を満たすものだった。
やはり大陸の清国から伝わったもので、手を変え品を変えてこうなったという話だ。
さらにはこの餡を飯にかけて食ってもまたうまい。
大飯食らいが多い琵琶家には、なくてはならない料理になった。
一行は今夜は早めに就寝して、翌朝早くに起きて地元の田舎料理の朝餉を終えてすぐに、大村に向かった。
まさに田舎なのだが、やはり空気が違った。
同じ日の国なのだが、キリスト教徒が見え隠れする。
しかし大村に着くとその雰囲気が一掃され、戦車は玖島城の大門の前に停車した。
連絡は入れておいたので、すぐさま大門が開き、戦車はすぐさま吸い込まれていった。
すると城主自らが出迎えてくれた。
まさに男としか思えないほどに勇ましい体躯をしている。
しかし勝虎を見つけてすぐに、純葉は女性らしい笑みを浮かべたのだ。
そして、「うっ」とうなって、勝虎の体をまじまじと見てから、「…どれほど鍛え上げたんだ…」とぼう然として言った。
「…はあ… あれからほどなくしてからひと月ほどで、こうなり申した」と勝虎が答えると、純葉は大いに戸惑って、まずは信長と挨拶を交わした。
「…本当は婿に出したくないんだがなぁー…」と信長が大いにうなると、「…そ… そうか…」と純葉は何とか答えて、琵琶家一同を貴賓室に招き入れた。
ここからはこの近隣の政治の話を大いに聞いた。
どこの藩も同じで、税の取り立てはかなり厳しいことになっている。
すべては武者諸法度の参勤交代にあり、多額の銭が必要となるのだ。
しかしそれを言い訳にして税を上げている藩は少なくない。
「…何とか勝虎を繋ぎ止めるため、
一時的にでも銭を集めるか…」
信長の野望に、幻影たちは大いに眉を下げていた。
「手っ取り早いのは、剣術を使った客を巻き込む出し物でしょう。
客が勝てば銭を払う。
もちろん、参加費用をぶんどってからです」
幻影の意見に、「…儲かったも同然…」と信長は大いに感動していた。
「しかし、流派を明かすわけにはいきませんし、
顔も変えて試あう必要があります。
この近隣からも、喧嘩決定戦を見に来たり出場した武家はいるでしょうから」
「うむ、それはそうだな」と信長は言ってから、「ワシに任せろ」と言って胸を叩いた。
信長は試合には出ていないし、面も割れていないことで変装の必要がない。
さらには見物客用に駄菓子なども売って商売にすることに決まった。
よって、城が管理している空き地に移動して、整地だけをして看板を立てた。
宣伝効果は順調で、特に侍の目の色が変わっていた。
もしも勝てば、始めに挑戦者が支払った銭の百倍を支払うと言えば、誰でも食いつくことだろう。
その見せ金は持って来てあるので何も問題はない。
その間、幻影たちは菓子作りやおもちゃ作りに余念がない。
そして勝虎と純葉のお見合いも始まっていた。
ふたりは初めは何も話さなかったのだが、勝虎の体躯の変化の話を始めると、どちらもよく話すようになった。
そして前回とは違って、純葉は女性らしい笑みを何度も勝虎に向けた。
「さあみなさん、ここはもうよろしいでしょう」と立ち会っていた妙栄尼が言うと、「…えー…」と長春と政江が声をそろえて嘆いた。
「あっ あっ 妙栄尼様…」と純葉はいきなり眉を下げて、妙栄尼を引き留めた。
「ごく自然にお話をされていたと思っていましたが?」
「…そ… それはぁー…
皆様がいてくださってこそ…」
純葉は大いに戸惑いながら言った。
「私たちは数日しか滞在いたしません。
そして涙をのんで勝虎を置いて行くのです。
今からその調子でどうするのですか」
濃姫の厳しい言葉に、「…は、はあ… 本当にありがたく思ってはいるのですがぁー…」と純葉は答えて勝虎を見たが、今にも頭が爆発するほどに顔を赤くして大いに照れている。
「酒井様はどのようにされるのです?」
穏やかに妙栄尼が聞くと、「はっ この城に、私の骨を埋めるために参った所存です」と勝虎は堂々と答えた。
「…あ、ああ…」と純葉は少し嘆くように言って下を向いたままになった。
「もちろん、私を気に入っていただけていないのなら、その限りではございません」
純葉はここは答えなければと思ったのだが、どうしても言葉が出ずに、その代わりに涙を流した。
そして、「…民のために、ともに働いていただきますように…」と純葉は穏やかに言った。
妙栄尼は何も言わずに席を立って、家族たちを無理やり引き連れて部屋を出た。
「明日の朝まで様子を見て、
秀忠に書を送ります」
外で待っていた幻影が言うと、「はい、どうかよろしく願います」と妙栄尼は穏やかに言って頭を下げた。
穏やかなままこの日を終えて、翌日の朝餉が終わった時に幻影は秀忠に書を送った。
家老の大村純勝は琵琶家一同に恐縮仕切りだが、まぶしそうな目をして勝虎と純葉を見ている。
朝餉を終えてすぐに、幻影たちは準備を終えている広場に行った。
かなり大勢の武士たちがいて、想いのままに体を動かしている。
試合は木刀など、木製の道具を使って向き合うことになる。
もちろん幻影たちはきちんと打ち合わせをしてある。
指示はただ一つだけで、「見せ場を作れ」だけだ。
よって、そう簡単に勝たないようにと厳重注意をしたようなものだ。
あまりに強すぎると、客が逃げてしまうからだ。
よって幻影たちは女官を合わせ十名が並び、誰を指名しても構わないことにしている。
従って、女性の沙織と志乃の出番は多くなるはずだ。
しかし一度出ると休憩として、連続して出ないことに決めてある。
そして早速、広場の中央に挑戦者が歩み出て、にやりと笑って志乃を指名した。
まさに多額の金を幻影に支払っているので、勝つつもり満々だった。
志乃は軽やかに木刀を避けるが、全ては紙一重に見える。
よって、―― 負けるわけがない! ―― と誰もが思っている。
だが負けるのは挑戦者で、大いに悔しがる。
このような試合を百もすると、もういらないというほどに銭が溜まっていた。
しかし全く懲りないようで、挑戦者は後を絶たない。
昼餉の休憩時間を挟んで、夕刻ごろには挑戦者は三百を超え、誰ひとりとして勝った者はいなかった。
本日の興行は終わりとして、幻影たちは後片付けををして、意気揚々と城に戻った。
そして純葉に今日の売り上げを渡すと目を見開いていた。
一日で稼げる金額ではなかったからだ。
「…これだけあれば、一年は税を押さえられます…」と純葉は涙を流して喜んて、手のひらを合わせて仏に感謝した。
さらには駄菓子などの売上金を寄付すると、純葉は目を見開いていた。
「遠慮はいりません。
全ては次代を担う子供たちのために」
幻影の言葉に、純葉は素直になって頭を下げて受け取った。
翌日、広場には剣術の挑戦者はいなかったが、駄菓子を買いに来ている子供たちはいたので、ここは平面だけを使った軽業を披露して、子供たちを大いに陽気にさせた。
幻影を中心にして、団体で体を組み合わせて、普通ではありえない軽業をするのだ。
ひとりの肩に飛び乗り、巨人を表現したり、幻影が蘭丸を肩車して阿修羅になって子供たちを驚かせたりもした。
そして長春の動物使いの妙技も大盛況で、菓子の売り上げが大いに上がった。
昼餉までに二回、夕餉までに四回の興行をしただだけで、昨日の売り上げを軽く超えていた。
駄菓子はそれほど容易に買えるものではないが、一部の富裕層が大いに金を払っていって、関係のある子供たちに配っている者もいる。
これでしばらくは大村藩は安泰だと幻影たちは思い、明日から物見遊山としゃれこむことにした。
勝虎と純葉に別れを告げ、まずは霧島見物に行くことにして、大村藩の南にある島原藩に入った。
ここはまず挨拶として、沙織と志乃は島原城主と謁見した。
まさかの来客に、城主は大いに喜んだが、お忍びということで早々に開放された。
霧島の山並みは素晴らしいのだが、この近隣の空気は悪い。
まさにキリシタンが暗躍しているような雰囲気を醸し出している。
決してキリシタンが悪いということではなく、やってはいけないことをしているという想いがよくない空気を呼んでいるのだ。
しかし捕り物に鉢合わせすることなく、海を渡って熊本にやってきた。
ここでも熊本城に登城してから、法源院屋に行って夜を明かした。
翌朝、秀忠から文が来て、勝虎と大村家との養子縁組を認めたと書かれてあった。
これで純葉は安寧の日々を過ごせるはずだと確信して、琵琶一家はまた阿蘇に登った。
「ここは本当に、体の奥から力が湧いてくる場所だなぁー…」
幻影が感慨深げに言ったが、誰も幻影と同じ気持ちにはなれなかったようで、少しうなだれた。
そして火口を確認すると、幻影が作った十字の金属は刺さったままだった。
「富士の方がすごいよ?」と長春が言うと、「富士はね、高いのはよくわかるんだけど、もう火山じゃないって思う」と幻影が答えると、「あー…」と長春は言って、噴煙が上がっている火口を見た。
「桜島も浅間山もまだ噴煙を上げているけど、
ここはまた別のような気がするんだ。
昔の文献に日向の高千穂が霊峰だって書いてあったけど、
こっちの方じゃないのかなぁー…
高千穂岳の辺りには火山はなさそうだし…」
「では行くか」と信長がかなり気さくに言った。
幻影は戦車をどうしようかと考えたが、この辺りには隠す場所がない。
しかし巨大な擬態布を出してかぶせると、やはりその存在がよくわからなくなるので、人が来ないだろうと思える場所に移動させてから、家族全員が乗れる籠を組み立てた。
幻影が宙に浮かんで籠を持ち上げて、「あ、多分あれだ」と言って、南東を目指して飛んだ。
かなり遠くに桜島の噴煙が見える。
大きな籠を山の山頂辺りの平坦な場所を探してゆっくりと置いた。
「…ここの景色も好きぃー…」と長春は笑みを浮かべて言って、ぐるりを見回して喜んでいる。
そして誰が積んだのか、山頂と思しき場所にこの辺りに転がっている石が詰まれていて、なんとその中央に剣のようなものが刺さっていた。
「…まさか、また十字架じゃないだろうな…」と幻影は大いに眉を下げて石積みに近づいたが、十字架でも太刀ではなく西欧の剣だろうと、積み重ねた知識から理解した。
幻影が説明すると、「斬れそうにないな…」と蘭丸が言って、刃の部分をまじまじと見ている。
「西欧の剣は斬るわけじゃなくて殴るものらしいよ。
太刀と比べると、まさに金属の塊のようなものだから。
鎧が重厚になったから、剣は殴打武器に変わったんだと思う。
あっちの剣士は力がないと剣すら振れないだろう。
だから非力な者は、少し太い針のような剣や、
この剣の五分の一ほどのものを磨き上げて斬る武器として戦うらしい」
幻影は和紙と筆を出して、剣の紋様などを書き写し始めた。
「長崎の勉学館の書籍で見た覚えがあるけど…
…少々うろ覚えだなぁー…」
「抜いて持って行けばいい」と信長がにやりと笑って言うと、「…何かの罪で捕まるかもしれないので止めておきます…」と幻影は眉を下げて言った。
「そうだな。
キリスト教と関係があるなどと言われると目も当てられんからな。
だが、鍔の部分が重厚なのは…
ああ、相手もこれを振ってくるから、
重厚ではないと受けられないからか…
西欧の武士はなかなかの大男ぞろいのようだ」
「抜いて、振ってもいいか?」と蘭丸が言うと、「ああ、面白そうだ」と幻影はすぐに賛同した。
蘭丸の身長であれば、地面に足をつけたまま剣の柄に手が届く。
だが、蘭丸はなぜか苦悶の表情を浮かべた。
「それほどに重いのかい?」と幻影が聞いたが、蘭丸は悔しいようで何も言わずに、抜こうと必死だ。
「岩にでも刺さってんじゃねえのか?!」と蘭丸は悔しそうに大いに叫んだ。
「あ、そういうこと…
石を積んでいるのは、
それを隠しているわけか…
じゃ、もういいか」
幻影の言葉に、「…うー…」と蘭丸は大いに悔しそうにうなって幻影を見ている。
「お蘭が無理なものを俺が抜けるわけないじゃないか…」
「…阿修羅は無理だけど、天狗は抜けるのかも…」と蘭丸が眉を下げて言うと、「…関係ないと思う…」と幻影は言いながら、わずかに宙に浮かんで柄をつかんで引っ張ると、石組みが崩れた。
「あーあ…」と幻影は言って、やはり大きな岩に刺さっていることがよくわかった。
幻影はその岩ごとと持ち上げたのだ。
「信じられねえことやってんじゃあねえ!」と蘭丸は叫んで、大いに悔しがって地団太を踏んだ。
せっかくなので、岩の上に乗って抜こうと思ったが、ここは蘭丸に任せた。
「…ぜってえ、抜いてやるぅー…」と蘭丸は大いに気合を入れて、柄と足の裏に大いに力を入れ、顔を真っ赤にしたが、抜ける気配がない。
「…実は剣じゃなくて、先が鈍器だったりして」
幻影の言葉に、蘭丸以外は大いに笑った。
「次はお前の番だ!」と蘭丸は大いに悔しがって言った。
「別に抜けなくてもいいじゃないか…」と幻影はぶつぶつと言いながらも柄をつかんで、簡単に抜いてしまった。
「おまえ、俺をからかったのか?」と幻影が蘭丸に聞くと、「…そういうことにしておいてやるぅー…」と蘭丸は少し機嫌を治して言った。
幻影は剣を岩に戻して、「ほら、抜けることはわかったから抜け」と幻影が言うと、「…めんどくさい奴めぇー…」などと蘭丸は言いながらも気軽な気分で柄を握ったが、やはり抜けないものは抜けない。
「…面妖な…」と信長は言って、蘭丸を手伝ったが、ふたりがかりでも抜けなかった。
そして幻影はすらりと剣を抜いて、切っ先を下に向けて蘭丸に差し出した。
蘭丸が柄をつかむと幻影は手を放した。
その瞬間に、剣は鍔まで地面に埋まってしまったのだ。
「…ふーん… かなり重いようだな…」と幻影は落ち着き払って言った。
ここからは力自慢が数人がかりで抜こうと頑張ったが抜けない。
幻影は剣をひょいと持って、籠に置いてから、籠ごと持ち上げて手本を見せると、今度は全員で協力したが持ち上がらなかった。
「俺の剣のようだな…」と幻影は今更ながらに言った。
「俺たちを使って確認すんな!」と蘭丸は大いに怒鳴った。
「だけど、必要性はないから、
ここに差しておく。
どうせ誰も抜けないんだし」
幻影は言って、剣を岩に戻して、みんなで協力して石を積んだ。
「…なるほど…
その道もあるのかもな…
抜けたから自分のものにして持って帰ると、
災いが起こる、とか…」
信長の言葉に、「はい、考えられないことではないと」と幻影はすぐさま答えた。
「…普通、持って帰るな、確かに…」と蘭丸も認めた。
「必要があると思った時は、ここに飛んできて持っていけばいいだけだから。
ひょっとしたら、この高千穂の山の神の力かもしれないし…
あ、だったら余計なことかもしれないけど、
庵でも作っておこうか…
神は崇めないとな」
幻影は言って、辺りにある折れた木や腐った木などを切り倒してから、木材を切り出して質素だが立派な庵を全員で作った。
「ただの雨除け」と幻影は言って柏手を打って頭を下げた。
「…できれば、キリストを倒してくださるように…」
幻影の祈りの言葉に、「…声に出して祈るな…」と信長は言って鼻で笑った。
特に変わったことはこの辺りにはなさそうなので、また景色を堪能してから阿蘇に戻った。
戦車も戦艦も何事もなく鎮座していて、一応見回ったが何の変化もなかった。
もちろん、戦車などの胴体と布の間に草などを挟んでおいたのだが、動かした気配はなかった。
「こっちの方が本当に力を感じるよ」と幻影は笑みを浮かべて阿蘇の噴煙を見上げて言った。
今回は日向を突っ切って伊予に寄ることにして戦車を走らせた。
日向にはそれほど見て回るところはなさそうなので、浜まで走って戦艦に乗り換え、伊予を目指した。
せっかくなので、まずは宇和島によって、秀宗と面会した。
美味い麺屋と法源院屋の支払う税だけで大いに潤うようになったようで、宇和島では数段階に分けて税を押さえていくことに決まったようだ。
早々に宇和島を立ち去って、松山城に寄り、嘉明を大いに陽気にさせた。
今日は琵琶御殿に宿泊することにすると、街道の店の主たちが一斉に集まって来て、生実での大成功の祝福をした。
やはり時には来るべきだと幻影は思い、家族総出で手分けして、この街道で配る特別な料理などを作り上げた。
「うむ! ちゃんぽんもうまいし、餡掛け飯もうまい!」と信長を大いにうならせて陽気にさせた。
この街道の麺屋でも出すことに決まったので、幻影は早速調理指導を始めた。
それほど難しい料理ではなので、再現は簡単だ。
明日から早速提供することに決まると、物見遊山の者たちはまた食えると陽気に言った。
翌日は安土に行って同じようなことをしてから生実に戻った。
「…あー… 絵画の館のことをすっかりと忘れていた…」と幻影が言うと、「どうせまた行くんだからその時でよい」と信長は横になってくつろぎながら言った。
そして幻影は今回の新しく仕入れた景色の高千穂から眺めた絵を描いた。
さらには剣が刺さっている絵もその中にある。
「…くっそぉー…」と蘭丸は大いに悔しがって絵を見入っている。
「おまえ! 天狗の術を使って抜いたんじゃないのかっ?!」と蘭丸は声を荒げた。
「いや、まったく」と幻影はひとことで答えると、「…うー…」とうなりながらも慰めてもらうように阿利渚を抱きしめた。
「とと様すごい!」と阿利渚が叫ぶと幻影は大いに照れて、阿利渚の頭をなでた。
すると幻影が、「あっ」と言ってあることに気付いた。
「俺が蘭丸に触れていると、蘭丸でも抜けたのかも…」と幻影が考えながら言うと、「今すぐに試す!」と言って幻影を立たせた。
「しばし休息じゃ」という信長の言葉には逆らえず、「うー…」と蘭丸はうなって幻影を見入っている。
「明日はふたりで新婚旅行だ」と幻影が言うと、「…阿利渚も連れて行くぅー…」と蘭丸はかわいらしく言って阿利渚を抱きしめた。
「来たよ!」と陽気な声が玄関から聞こえた。
もちろんやってきたのは秀忠で、今日は将軍様まで伴っていた。
幻影の土産話に、「…不思議なこともあるもんじゃな…」と秀忠は言って、剣の絵を見入った。
「やっぱり、天狗様がこの日の国の神じゃないの?」と家光が笑みを浮かべて幻影に言うと、「だったらキリスト教など簡単に消し去れるはずだよ」とまさに常識的見解を言った。
「…人の心に巣くう信仰心は、さすがにぬぐえぬか…」という秀忠の意見に幻影は同意した。
「キリスト教徒は捕まってひどい目に合うと、
脅すようなことしか言えないからね。
それだけでは心の安寧は来ないはずだ。
かといって、全ての藩にテコ入れするわけにもいかない。
確実に俺たちが息切れを起こすから。
できれば、安土や松山とここの人たちにも協力してもらいたい。
だからまだまだ仲間は必要なんだ」
「…何か… 特別な何か…」と秀忠は言って幻影を見入った。
「その第一歩は、関係ができた大村藩」と幻影が言うと、「…明るい情報じゃ…」と秀忠は言って何度もうなづいた。
そして剣術腕試し興行と簡易軽業興業について語ると、「…さすがじゃ…」と秀忠は言って深くうなだれた。
「剣術腕試しは気が向いたらここでやってもいい。
西側の街道の整地をすればいいだけだから。
だけど大村ではたった一日で誰も来なくなったけどな」
「それも都合がいいことだよ」と秀忠は陽気に言った。
「問題はだ。
あまりにも大村藩にテコ入れしすぎると、
周りの藩が大いに焦ることだ。
この近隣は幕府が押さえている領地が多いから、
それはあまり感じない。
安土は殿様が優秀だから問題ない。
松山近隣はさらに安泰だから放っておいてもいいほどだ。
だから事を起こすとすれば、肥前辺りから徐々に攻め入る必要があると思う。
異国文化も交えた国づくりをしているから、
今までとは少々趣向を変える必要もある」
「…異国文化?」と秀忠が怪訝そうな顔をして聞くと、「うまい飯」と幻影がにやりと笑って言った。
秀忠が懇願の目を幻影に向けると、「俺は大御所様のお料理番じゃあねえ」と幻影が言うと、秀忠は震えあがって、「…そんなつもりはぁー…」と言ったが、考えたことはその通りと思ってうなだれた。
「今は休息の時じゃ。
それはまたの機会」
信長の鶴の一声に、秀忠も家光も大いに眉を下げた。
この日は信長の言葉通りに幻影だけは十分に休養を取った。
幻影のお気に入りは、子供たちの遊び場だ。
阿利渚はお転婆ぶりを発揮しては幻影に手を振る。
そして友人たちにも催促して手を振らせる。
阿利渚は阿利渚なりの常識をもって子供たちと接しているのだ。
この瞬間だけは優しい父親が見守ってくれていると思い、子供たちの心が軽くなっていた。
幻影は子供たちの施設に行って昼食を摂っていると、「…ここにいたか…」と蘭丸は眉を下げて言ってから幻影の隣に座った。
「たまには違う場所もいい」という幻影の言葉に、「御屋形様」と蘭丸が真剣な目をして言うと、「子供をひとり手放したからなぁー…」と幻影は言ったが、腰を上げることはない。
「…そうか、今は休息の時…」と蘭丸は言って、立ち上がってから食事を持って来て大いに食らい始めた。
「たまには弁慶と源次と顔を突き合わせるものいいことだよ」
「そこに影達もいるけどな」と蘭丸は言って鼻で笑った。
食事が終わって、勉学を教え始めると、施設の外から信長が覗いていたので、幻影は愉快そうに笑ってから、信長を招き入れた。
「…特に用はないのじゃがな…」と言って、子供たちの背後の席に座った。
今は読み書きを教えていて、ひとつ説明すれば、ひとりずつ丁寧に説明に回る。
年令差もあるので、これは重要なことだった。
そして職員たちがその指導方法などを子細に書に認めていることに、信長は少し笑った。
すると法源院屋の丁稚がやって来て、ここは信長に用件を伝えた。
「ああ、やってしまおう」と信長は言って立ち上がって、弁慶とともに法源院屋に行った。
蘭丸はどうしようかと思いながらも、ここは信長について行くことにした。
この場にいても、今はすることがなかったからだ。
そして重労働でなければ、働いていた方がましと思っていた。
少年たちはここが楽園だと聞いてやってきたのだが、今はそれを確認できない。
何がどう楽園なのかよくわからなかったからだ。
しかし、住んでいた場所とはまるで違う空気に、誰もが一斉に深呼吸をした。
そしてその楽園の意味がすぐに分かった。
勉学を終えた施設から、子供たちが飛び出してきて、街道からわずかに離れている遊び場に駆け込んだからだ。
ここは銭を支払う必要はなさそうと思い、少年たちはここにいる子供たちの真似をして遊具を楽しみ始めた。
もちろん幻影は気付いていたが何も言わない。
ここは阿利渚に任せることにしたからだ。
「みんなどこから来たの?」と阿利渚がひとりの少年に聞くと、「葛飾の北の方」と少しぶっきら棒に答えた。
すると阿利渚は地面に小枝を使って絵を描き始め、「今はここ。ここは下総生実だよ」と言って字を書くと、「おー…」と少年たちは声を上げて笑みを浮かべた。
「ここが下総葛飾」と言って長い土地を示唆するように描いて、その字を書いた。
「あー… すっごくよくわかるぅー…」と少年は言って笑みを浮かべた。
「ここが武蔵江戸城」
などと阿利渚は言いながら、まさに地理と読みの勉強が始まっていた。
心から受け入れていれば、勉学も遊びになるほんの一例だ。
そして身の上相談が始まって、少年たちだけで生活していることを知った阿利渚は幻影に話を持ち掛けた。
「荷物とかはないのかい?」と幻影が聞くと、「うん… いつも橋の下で寝てたから…」と木目雅兵衛と名乗った少年が言った。
確実に武家の子だが、その面影はもうない。
長く続いた戦禍の中で、一家離散の憂き目にあったのは、この子たちだけではない。
しかし幻影は昔を懐かしく思い、子供たちを弁慶たちと重ねながら、雅兵衛たちに仕事を与えた。
子供でもできる廃材の仕分け作業だ。
このような小さなことでも、幻影たちは大いに助かるのだ。
施設の子供たちも仲間になって、少々危険なものもあるので注意を促しながら、額に汗して働いた。
ほんのわずかな時間のあと、「終わっていいぞ!」と幻影が叫ぶと、子供たちとともに雅兵衛たちも笑みを浮かべて戻ってきた。
そして駄賃を渡してから、「風呂行くぞ」と言って、子供たちを引き連れて歩いて銭湯を目指して歩いていった。。
お香がいつの間にかここにいて、阿利渚と女子を連れて女湯に行った。
幻影は男子たちを引き連れて風呂に入り、裸の付き合いをした。
すると雅兵衛たちはすべて武家の出だと知り、風呂から出て話し合いをすることに決めた。
女子も二名いるのだが、どちらもどこぞの姫だったようだ。
まずは幻影が指導をするが、確実に長春と政江に奪われると思うと大いに眉を下げた。
満面の笑みを浮かべた信長の前に五人の子供たちが少々怯えている表情をして座っている。
「もしわかるのなら、それぞれがもといた場所を教えて欲しい」
信長の言葉に、まずは雅兵衛が口を開き、どうやら会津にいたようだ。
これが手本になって、次々と口を開く。
幻影はどこの武家なのか、ほぼ察しがついたが、お家再興は難しいと感じた。
「女子は北条を名乗りなさい」と政江がいきなり口火を切った。
今も昔も、本当に気が強いと幻影はつくづく思う。
「では男子は織田をなのれ。
まあ、腰掛のようなものだから、
それほど気にする必要はない。
この先成長して、ここに残りたければそうすればいいし、
良縁があれば婿に入ればよいだけじゃ。
その作法などをこの家で教え込む。
更に剣術は、萬幻武流を習得してもらう」
信長のこの言葉に、子供たちは大いに戸惑って幻影を見た。
「始めは手習いのようなものさ。
さっき少しだけ働いてもらってよくわかった。
みんなはここに来るまでも、真面目に仕事をしていたようだね」
幻影のやさしい言葉に、ついに心に閊えていたものが下りたように、子供たちは一斉に泣きだし始めた。
信長は笑みを浮かべて何度もうなづいている。
「…妹と弟がたくさんできてうれしいぃー…」と長春は言いながらもらい泣きをしている。
そして昼餉のついでに歓迎会が始まり、子供たちは満面の笑みを浮かべて大いに食った。
話を聞くと、最終的にはこの五人が残って、行動を共にするようになったそうだ。
まさに気が合う仲間が残ったと言っていい。
幻影は言わないが、―― この五人の働きっぷりについていけなくなった ―― と感じていた。
よって離れた子たちも、悪い子ではないのだろうと思い、できれば素晴らしい人生を歩んで欲しいと願った。
しばらくは五人の武家の作法指南となるので、琵琶家はしばらくはこの生実を出ないことになった。
商品などを作り続けることも重要で、子供たちは様々な経験を積んでいく。
優劣はあるのだが、まだ幼いと言っていいほどなので、幻影の思う理想に近づけないことはないと自信を持っていた。
だが政江を見ていると、どうしても女子たちを残念に思ってしまう。
蘭丸たちが逞し過ぎるだけで、政江や長春が普通の女子なのだ。
できればその想いを出さないようにと、これは幻影の修行とした。
やはり子供が増えると、大人では考えつかないことを言ってくる場合もある。
「なるほどなぁー…
力比べをする道具か…
確かに専用のものはないから、
あっても問題はない。
そういったことは労働や立ち合いで鍛えてきたからね。
まあ、普通の人間だったら、
そういった道具があった方がいいだろう」
幻影の陽気な言葉に、―― 余計な提案をしたのでは… ―― と子供たちは大いに考え込んでしまった。
しかし幻影は天井がある施設を作り始めた。
まさに子供の広場の拡張版でもあり、軽業興業施設の一歩手前のようにも感じる。
できれば楽しみながら、そしてそれほど無理をしないことも教え込みながら、この施設を使うことにした。
もちろん大人も使えるので、真っ先に忍びたちがこの施設で修行を始めた。
そして元服はしたのだが、まだ子供と言っていい信幻が大いに焦り始めた。
免許皆伝はもらったが、この先の課題はまさに体力で、夕餉のあとは鍛錬施設で過ごすように変わってきた。
鍛錬をしながらも、信幻は雅兵衛たちと気さくに話す。
信幻は物心ついてから、ずっと年上との付き合いしかなく、年下の者たちとこれほど共にいたことがなかった。
まさに今が楽しいと思っていたが、志乃の厳しい目がずっと信幻を追っていたことに気付いた。
―― …あれも、僕のため、なんだろうなぁー… ―― と信幻はうんざり感満載で考えていた。
「困っているようだから来たよ」と源次が信幻に合わせて修行を始めた。
「助かるよ、兄ちゃん」という信幻の気さくな言葉に、源次は大いに喜んでいる。
「ま、ほぼ養子に行くことは決まったようなものだからな。
佐竹家の血を守っていくことにしよう」
「…うん、よかった…
だけど姉ちゃんはずっとあのままだと思うんだけど…
徳川とか、そんなことなんて何も関係なく厳しいままだ…」
信幻の言葉を聞いて少し考えて、「何か実績を残した方がいいのかもね」と言うと、「…誰もが認める何か…」と信幻は正しく理解してつぶやいた。
「信幻が姉の手を離れたと思わせる必要はあるね。
それがないとずっとこのままだろう。
かといって平和になった今は、
それほど不幸が落ちているわけでもないし、
争いは個人的な喧嘩程度だからね。
それを見つける方が、今は難しい。
だから役人の目から見て、
手を入れた方がよさそうなものは、
とりあえず現状になっている理由を聞いて、
改善できるのであれば提案していった方がいいだろう。
その仕事に携われることが一番いいから、
その辺りも考えて行動しなきゃいけない。
役人の弱点は、
仕事の上では自由がないことだからね」
「…はい、思い知っていますぅー…」と信幻は言って、うらやまし気に源次を見た。
「目立つことは大いに動くけど、
まだ手つかずの案件もあるはずだ。
時間の許す限り、調べ上げた方がいいだろう。
数多く提案すれば、それをひとまとめにして、
姉ちゃんを納得させられる武器にもなると思うから。
あとは、つまらない失敗をしないこと、だね。
信幻はそれはなさそうだけど、魔が差すということもあるから、
何事にも慎重に、だね」
「…兄ちゃんになってくれて本当に助かるよ…」と信幻は言って、満面の笑みを浮かべた。
そんな中、大村藩に仕官が叶ったばかりでなく、藩主にまでなってしまった酒井勝虎は、ちょっとした罪人を捕らえた。
「姿を見せない神がそんなにいいの?」と勝虎がため息交じりに言うと、「神はいつもともにあります」と商人の娘は笑みを浮かべて言った。
「俺って下総の生実にいたんだけどね、
俺の隣にはいつも天狗様がいてくれたよ。
天狗様はそばにいるだけじゃなく、
嵐の日は空を飛んで人々を助けに行くんだ。
その仕事に協力できることになってね。
土砂崩れを起こしたから、鉄砲水が起きないように、
嵐の中で整地作業をしたんだ。
ああ、行きも帰りも、
天狗様が俺たちを担ぎ上げて現場まで運んでくださったんだよ。
天狗様がまさに神だって思わない?」
娘は口元が震えていた。
自分たちが信じる神は、まだ誰の目の前に現れてはいない。
そしてその天狗こそがイエスだと言った者までいた。
しかし、その天狗に会いに行こうともしないことは、娘にとって怪訝に思うことでもあった。
「あとね、天狗様はこうも言われた。
もしも俺をイエス・キリストだというのならそれでもかまわない。
だが、その時点で、
幕府がしてはならないと言っていることをしている者たちに、
キリスト教を捨てろと言う、とね」
勝虎の言葉に、娘は言葉を失って、涙を流すしか術はなかった。
「…うう、そんなことがあったんだぁー…」と勝虎の取り調べに付き合っている純葉は目を見開いて言った。
「だからこそ、俺はここに来られた。
そして、ここを託されたと思っているんだ。
できれば、極刑だけは避けたいのでね。
それが幕府の意向だし、
キリスト教を抜ければお咎めはないんだから。
ほかの近隣の藩は知らないけど、
この大村藩は、殺さずを押し通すから。
これが、俺にとっての試練だと思っているんだ」
「…そうね…
先代は、首を斬られたことだし…」
純葉は大いにうなだれて言った。
「君はキリスト教徒じゃなかったの?」
勝虎の言葉に、純葉は大いに戸惑ったが、「そうだったけど、私の今の神は、妙栄尼様…」と穏やかに言って手のひらを合わせた。
「俺は指導してもらったぜ」と勝虎が陽気に言うと、「それは一体、どのような指導なの?!」と純葉は大いに目を見開いて叫んだ。
「俺の太刀は人を斬るものではない。
人を生かす太刀だ、とね」
「…人を生かす、太刀…」
純葉が復唱すると、勝虎は何度もうなづいた。
「まずは、率先して太刀を抜かない。
だが、抗わないと斬られてしまう。
よって太刀は抜くが、
誰も傷つけずに捕らえる。
ゆえに生かすために剣を抜くことはあるってことだよ。
まあ、太刀を抜かない、
無手の技も大いに教えていただいたけどね」
「…教えてぇー…」と純葉が手を合わせて懇願すると、「俺って萬幻武流の師範代だから」と勝虎は自慢げに言った。
勝虎は娘を見て、「あ、忘れてた」と言ってから、「申し訳ないけど、牢に入ってもらうから」と言った。
「…できれば… 天狗様にお会いしたいのです…」と娘が懇願の目をして言った。
「天狗様はね、面倒事がお嫌いなんだよ。
特に宗教に関してはね。
あんたのような人が大勢現れることはわかっていたから、
あえてこの近隣には近づかなかったそうなんだ。
あ、そうそう!
阿蘇のお山の窯に十字架が刺さっている話って聞いたことある?」
娘は目を見開いて、「…その十字架を抜けば、イエス様が現れると…」とつぶやいた。
「抜けば、ねぇー…
抜いた人が神じゃないの?
普通、窯に入ればすぐに体が燃え始めるから」
勝虎の言葉に娘は大いに戸惑った。
「ま、お伽話のようなものだってことにしておくさ。
その十字架だけど、今は将軍様が持っておられるそうだよ」
「…えー…」と娘と純葉が同時に嘆いた。
「天狗様が抜いたそうだ。
だからイエスは現れるはずだけど、
現れてないようだけど?」
「…ああ、ああ…」と娘は大いに戸惑って大いに泣いた。
「ま、個室でじっくりとこの先のことは考えてくれ」と勝虎は言って、警護人を呼んで娘を牢に入れるように命じた。
「…すべてが嘘、なのね…」と純葉は少し呆れながら言った。
「俺の話は本当のことだぜ?」
「…もう、わかってるわよぉー…」と純葉は眉を下げて言った。
「天狗様の術のようなものに、
水を凍らせるものがあるそうなんだ。
水を含ませる鎧を作って、
それを凍らせて身に着けてから、
窯に飛び込んだそうだ。
だから全く無傷で窯から出られたらしい。
だけど抜いたのはいいけど十字架だったから、
大いにまずいと思って、事情を上様にお話しして、
その十字架は上様が持っておられるそうだ。
だけど、抜いたこと自体がまずいのではないかと天狗様は考えて、
十字架に見えるものをわざわざ刺したそうだ。
だから遠目では、まだ十字架はあるように見えるそうだ」
「…慎重この上ないわね…
だけど、さすが天狗様だって思っちゃったわ…」
純葉は穏やかに言って、手のひらを合わせた。
「今の話、広げちゃダメなの?」
純葉の真剣な言葉に、「十字架を抜いたからイエスは復活された、などと言いそうだからなぁー…」と勝虎が言うと、「…それもそうね… また新たな面倒事が起きそう…」と純葉は言って断念した。
「それに、天狗様はイエスの僕だなんて言われそうだからなぁー…
まあその天狗様は、イエスを捨てろとはっきりおっしゃるけどね。
だから天狗様のお話には耳を傾けないと思う。
だけどだ、たった二日で稼げないほどの銭を稼いだことは、
まさに奇跡の技でしかないから。
俺は琵琶家の方々を生き神様だって思ってるよ」
「だったら、また奇跡を起こしていただければ…」
「いいとこどりされるだけだ。
イエスは天狗様を操ってるとかなんとか言ってね。
そしてキリスト教を抜けろという天狗様の言葉は、
信仰心を試している、とかね。
何なりと理由をつけてくるものだから、
下手に動かない方がよさそうだ」
「…あー、めんどくさいぃー…」と純葉は嘆いてから、愉快そうに大いに笑った。
「…だけど、本当に、頭の回転が速いわ…」と純葉は大いに感心して言った。
「元はそれだけが俺の取り柄だった。
今はあの時の俺とは少々違うからね。
体を鍛え上げたことで、大いに自信がついたんだ。
あとは、慎重に行動しろと、
天狗様に仰せつかっている」
「…来てもらえてよかった…」
純葉は言って今更ながらに顔を真っ赤にして照れている。
「では、国費維持のために働くことにするよ。
子供たちの笑顔を見るために」
勝虎が言って立ち上がると、純葉は少し目を見開いて、「…一体、何を…」と聞くと、「駄菓子づくりだよ」と勝虎はさも当然のように言った。
「…天狗様の術で作ってたんじゃなかったのね…」と純葉は今更ながらに驚いていた。
「ひと通り色々と教わった。
不思議な術に関しては、
空を飛ぶことと、物体や人を持ち上げたり、留めたりすること。
ものづくりに関しては純粋に手作業だよ。
天狗様になられる前は、水の上を走っていたそうだよ」
「…イエスが空を飛んだ話は聞いたことがないわ…
天狗様は、イエスを超えていたのね…」
純葉は言って薄笑みを浮かべて手のひらを合わせた。
「だが一番の問題は、藩士にキリスト教徒がいるかもしれないということだ。
俺はこの藩の中からすべてを変えよう。
天狗様は嫌がられるが、
天狗様の全てを語ってやろう。
俺は天狗様の伝道師としてもここに来たと思っておいてもらって構わない」
勝虎はこの室内にいる藩士たちに言った。
数名は大いに戸惑っていたことがありありとわかった。
「…そうね… まだいても当然だわ…
前の殿が首を斬られてもまだ信じている…
イエスがいるのなら、
叔父様が首を斬られることなんてなかった…
だからこそ私は、イエスを信じられなくなったの…
身内が不幸にあってようやく気付くなんて遅いんだけどね…」
涙ながらの純葉の言葉に勝虎は首を横に振っていた。
「なぜそこまで固執してキリストを信じる理由が俺には全くわからない。
俺は目の前で起こっていることしか信じない。
まだまだ多くいる伝道師たちは、
自分の伝道師の徳ではなく、
位が上がることだけを目標としてキリスト教を広げているんだ。
それに必死なわけだ。
決してイエス・キリストを信じているわけではないんだよ。
だからこそ、十年ほど前に、
それなりに有名だった伝道師が責め苦にあう前に改宗したそうだ。
伝道師はただの職で、心からの信者ではなかったと言っていいのだろう。
はっきり言って詐欺に似た口の達者さが売りなんだ。
そんなやつらの口車に乗って教徒になって、虚しく思わないか?
ま、色々とこの先のことを考えておいて欲しいものだ」
「…乗っちゃっててごめんなさい…」と純葉が謝ると、勝虎が愉快そうに笑った。
「そうだ、ひとつ驚くべき事実を教えておくよ」と勝虎が純葉に笑みを向けて言うと、「なにかしらぁー…」と純葉は大いに戸惑って言った。
「妙栄尼様は、琵琶高願様をお産みになられた実の母様だ」
この言葉には大いなる意味を持つ。
妙栄尼は仏門にあり、まさに神の力を持つ琵琶高願を産んだ素晴らしき存在。
キリスト教に置き換えれば。マリアに当たる。
「もちろん、父様もおられた。
病で亡くなられたが、天下を取れる実力を持っておられた、
武田信玄様だ」
武田信玄は武神としては有名だったので、知らない者の方が少ない程だった。
「そして妙栄尼様は、実は根っからの仏教信者で、
父様からその想いを伝導されておられた。
武田信玄様と双璧をなしていた、
子がいないと言われていた、
上杉謙信様の唯一の娘様なんだよ」
「…えー…」と純葉は大いに嘆くしかなかった。
「徳川信幻様のお名前の読みは、
武田信玄様を意識して、上様がお付けになられたそうだ。
徳川信幻様のお名前には大きな意味がある。
天狗様の本当のお名前と、
天狗様が仕えておられる御屋形様の本当のお名前を
一文字ずつ取ってつけれらたんだ。
信幻様はたいそう喜ばれたと聞いている。
徳川を名乗ってはいても、
琵琶家の一員であることは変わりのない事実でもあるんだよ」
「…すごいお話を聞かせてくださってありがとう…」と純葉は笑みを浮かべて手のひらを合わせて礼を言った。
「だけどね、わからないことがあるの…
天狗様ほどの力があれば、
きっと天下統一を果たせたはずだって…」
もちろん、誰もが疑問に思う質問を純葉は聞いた。
「暴力は何も生まないから、
幕府を見守る役に徹しておられるんだよ。
上様に殺すなを徹底されたのは、
天狗様だとお聞きしている。
琵琶一族は様々な土地を訪れて、
真の平和を与えておられる。
幕府に縛り付けられていたら、
そう簡単には平和にできない。
だからこそ、自由でいる必要があった。
そういう理由で、天下取りはしなかったと聞いている。
この中にも何人かは知っていると思う。
織田信長様」
数名の藩士がすぐさま顔を上げて勝虎を見入った。
「明智光秀様に京の本能寺で暗殺されたと言い伝えられている。
今から四十年程前の話だ。
これはすべてうそっぱちだったんだよ。
全ては一度は天下を取られた、
豊臣秀吉様の陰謀だったとお聞きしている。
織田信長様も明智光秀様も消えてしまわれたことをいいことに、
豊臣秀吉様がこれ幸いと物語を作られたそうだ。
もちろん、織田信長様も明智光秀様も生きておられる。
このおふたりが天狗様を加えられて、
琵琶家を作り上げたんだよ。
それが琵琶家の真実なんだ」
「…消えたのは、今を見据えてのこと…」と純葉がつぶやくと、「そうお聞きしているよ」と勝虎は笑みを浮かべて言った。
「この地以外の今の平和は、
幕府と琵琶家の力があってこそなんだ。
どう平和なのかを証明する土地が三カ所もある。
現在琵琶家がお住みになっている下総生実藩。
伊予松山の道後温泉郷。
そして、織田信長様の居城があった、近江彦根の安土。
できればこの三つの土地を訪れてもらいたいものだ。
聞くよりも見る。
これが俺の師匠でもある、天狗様が言い続けてこられたことなんだ。
できれば人員を割いて、視察に行ってきてもらいたいものだね。
姫様が行ってもいいけど、
家老に行ってもらおうかなぁー…」
「私は勝虎様の全てを信じているから、行かなくても見えるようだわ」と純葉はホホを赤らめて言った。
「食事は天狗様が直接携われた麺屋がお勧めだ。
伊予宇和島は伊達様が収めておられるが、
天狗様が幼い頃に妹にした北条政江様のご子息が藩主をされておられる縁で、
城下は素晴らしい改革をされたそうだ。
伊予は他よりも近いから、
松山と宇和島をとりあえず見てきてもいいんじゃないかな?」
「…命令、出すぅー…」と純葉は気合を入れてうなってから、「…あの伊達家とも縁があるのね…」と目を見開いて言った。
「三十年程前に、幼いころの伊達政宗様と縁があって、
兄と弟としてのお付き合いをされていた縁らしいよ」
「…この近隣以外は、本当の平和があるのね…」と純葉は言ってからあることにようやく気づいて勝虎を見入った。
「琵琶家の方々はみんな俺と同年代にしか見えない」
勝虎の言葉に、純葉は目を見開いたまま何度もうなづいた。
「天狗様の術で若返らせたと聞いているよ。
だけど人の寿命を左右する術ではないそうで、
見た目だけを若く保つ術らしい。
だからこそ、若者以上にすっごく食べるんだ。
ずっと若いから、代謝がいい。
代謝がいいからそれほど太らないし、
常人以上に体を動かすから太っている暇がない。
この術は、大陸清国の武術の気功術というものらしい。
本家の清国には使える者はいないのに、天狗様は使える。
天狗様は選ばれた唯一だと思う。
キリスト教で言う、唯一神と言っていいだろうね。
俺は弟子として、本当に誇りに思っているんだ。
伝説や神話ではなく、生きている天狗様が俺の神だ」
勝虎が熱く語ると、誰もが一斉に頭を下げた。
「ここまで聞いてまだキリスト教を信仰する者は、
見つけ次第閉じ込めるから」
純葉は多少の冷酷さを出して言って、「視察隊を編成するわ!」と陽気に叫んだ。
生実では祭り当日となっていた。
今回の変わった出し物としては、『剣術勝ち抜き戦』だ。
やはり幕府のおひざ元として、強さを知らしめる催しは必要だろうと幻影が企画した。
出場者も気合が入るだろうし、見物客も多くいる。
まさにお祭り騒ぎで、誰もが向き合うふたりを応援する。
もちろん、出場者に思惑は大いにある。
認められると琵琶家の一員になれるかもしれないと誰もが考えるからだ。
勝負は十人抜きを達成すれば、多額の賞金を手にできるというものだ。
さすがに難しいことだが、真の強さがあるのならできないことでもない。
よってまさに真剣勝負で、ここには決闘の雰囲気がある。
幻影は出場者にそれほど興味はなかった。
しかしその中にいて、志は大いに感じている。
この状況下にあって欲を持っていない者を探すのだ。
欲の渦巻いているこの場所に欲を持っていない者がいればすぐに気づくが、今のところはいないと感じて、空を飛ばずに俯瞰の目で見た。
混雑はしているが、今のところは問題はないと思い、幻影はどこに視察に行こうかと考えていると、街道を武家の少年が歩いてきた。
まさに異質で、欲をもって勝ち抜き戦に来たわけではないと思い大いに注目した。
「おや? やはり目立ちますね」と弁慶が明るく言った。
「ああ、掘り出しものだが、初戦で負けるな」と幻影は言って鼻で笑った。
「負けたあとの見極めが肝心ですね」と弁慶は明るく言った。
だが幻影の思惑は外れて、その少年は五人勝ち抜いて鼻息が荒い武士の前に立った。
そして木刀を顔の横に構えたのだ。
「ほう… 雰囲気はあるな…」
幻影が感心しながら言うと、「偽武蔵」と弁慶が言うと、幻影は愉快そうに笑った。
「始め!」と審判の声が飛ぶと、「ウリャァ―――ッ!!!」と現在の覇者が大いにうなって、上段に構えた瞬間に、少年はもう懐の中にいた。
そして構えていた木刀の尻で、覇者の腹を強か殴ったのだ。
「ほう、忍びだ」と幻影が感心しながら言うと、「十人目に、行っていいですか?」と弁慶が笑みを浮かべて言った。
「…はは、さすがに俺たちは出ないさ…
あとは体力、だろうなぁー…」
しかし少年はその体力を使うことなく、簡単に九人を撃破した。
少年の方が子供なのだが、大人たちを子供扱いにしていた。
そして心の乱れがまるでない。
まさに初戦と同じ雰囲気をもって次の相手を待っている。
「親がどんな人なのか大いに興味があるね。
まるで俺を見ているようで、かなり楽しくなってきた」
「友好的であることだけを願っておきましょう」と弁慶は笑みを浮かべて言った。
そして少年は簡単に十人目を撃破して、賞金を手にした。
しかし喜ぶこともなく、来た道を戻って行った。
すぐに多くの武家たちに囲まれたが、自慢の足を使って逃げた。
「弁慶、仕事だ」と幻影が言うと、「待ってました」と弁慶は明るく言って、その姿が消えた。
弁慶は少年との距離を取って追った。
街道は見晴らしがいいので接近すると簡単に察知されるからだ。
すると少年は町から一里ほどのところにある寺の境内に入り、うっそうとした森に駆け込んで止まったように弁慶は感じたので、かなり遠いこの場所から意識を寺に向けた。
―― 少年を含め五人… 頭目は女… ―― と弁慶は察した。
しばらくして、少年が出てきたが、見事に変身を遂げていた。
大まかな企みは読めたので、少年の後ろ姿を確認しながら、弁慶は一旦幻影の元に戻った。
「試合の一番手の相手をしてやってくれ」と幻影は言って消えた。
弁慶は係員に説明して、目的の少年の出番が来た時、相手として試合場に立った。
少年は目を見開いた。
まさかに源弁慶が出てくるとは思わなかったからだ。
だがここは力試しと、木刀を中段に構えた。
弁慶は無手で構えることなく、妙にゆらゆらと揺れている。
―― しまったっ!! ―― と少年が思った時はもう遅く、弁慶は少年の背後にいて、首に手刀を当てていた。
「今頃君の主は、我が兄に説教されている最中だ」
弁慶の言葉に、「…ずるいことしてごめんなさい…」と少年はすぐさま謝った。
「一度目は正当に得た賞金だから別にかまわない。
だが二度目は渡すわけにはいかなかったから俺が出てきた。
ただそれだけのことさ」
弁慶は言って、手刀を下した。
「今のは、攪乱… いえ、攪拌だと思いました」
「ああそうだ。
催眠術の初歩編だな。
忍びの術だ。
君の流派にもあると思うが、
ほとんどの場合、術とは名ばかりで薬を使う。
萬幻武流派それをさけ、全てを体で表す。
長く苦難の道のりだが、
我が兄は優しく教えてくださるから、
苦とも思わなかったよ。
君も、兄の弟子になってもいいように思うんだけどな。
自由になったら、またくればいい。
今の主の支援をしたいのなら、
それは君の自由だ」
弁慶は係員に、「制裁は終わったから」と明るく言って、人ごみに姿を消した。
少年は少しうなだれて、木刀を係員に返してから、街道を歩いていった。
「俺たちの楽しい祭りにケチをつけようとしてくれたな」
幻影が姫様一行をにらむと、「…な… なにを…」と姫は大いに戸惑った。
「後ろにいる男が持っている包みは、
勝ち抜き戦の賞金だ。
そして出場は一人一回。
あんたの仲間の少年は変装してまた出場して、
今頃は負けている。
賞金の荒稼ぎをしようと企んだようだが、
そうはいかないんだよ」
幻影の言葉に、完全に見破られた一行は大いにうなだれた。
「出入り禁止を言い渡すから、身分証明」
幻影の言葉に、姫は顔を上げ大いに目を見開いた。
しかし返す言葉もないが、身分の証明も出さない。
「まあいい。
ここに戻ってくる少年に聞く。
彼は真実を語るはずだからな。
そんな彼を金儲けの道具に使おうとは言語道断だ!
金が欲しければ汗水たらして働け!
今の地位を理由にするな!
お前はお前の道を行け!
間違っているものに巻かれるな!」
幻影の説教は姫の心に響いたようで、「大久保忠隣が娘、将代でございます」と将代は燃えるような目をして幻影をにらみつけた。
「わざわざ彦根からようこそ」という幻影の言葉に、将代たちは大いに驚きの顔をした。
「小田原奪還の資金?」と幻影が聞くと、「…先立つものが必要と、配下が申しましたので…」と将代は苦渋の顔をして答えた。
「それよりもあんたの父ちゃんを改心させて頭を下げさせればいいんだ。
上様が気に入らなければ気に入らないと言えばいい。
中途半端だから嫌われるんだ。
俺はいつも言ってるぞ」
「…琵琶高願様とは条件が違います…」と将代は正論を言った。
「どっちにしても、全てはあんたの親が頑固だったせいだ。
親をぶん殴ってでも頭を下げさせろ。
なんなら、請け負ってやろうか?
知っての通り彦根城主とは懇意にしているから、
何も問題はないぜ。
それに、あんたの親父とは顔見知りだからな。
あいつは俺の顔を知らんと思うが」
幻影の言葉に、「…そ、そんなことは…」と将代が幻影を見入っていうと、「俺って、もう五十だから」と幻影が言うと、四人は目を見開いていた。
「ここに秀忠を呼んでもいい。
秀忠も民衆に紛れて大いに遊んでいるだけだから、
たまには政治の話もいいだろう。
嫡子忠常の死が大いに堪えたことはわかるが、
その真相を幕僚の誰かの差し金だと疑ったわけだ。
その件も聞けると思うぜ」
「…抗おうと決めました…
私も父の道を参ります…」
将代の言葉に、「ああ、それもいいさ」と幻影は笑みを浮かべて言った。
すると背後からの気配を察して、幻影は振り返って、「やあ、負けたね」と言うと、少年はすぐさま走って来て、変装を解いてから、幻影に片膝をついて頭を下げた。
「姫を自由にしたら弟子にしてやろう」
幻影の言葉に、少年が顔を上げると目を見開いていた。
「姫は自由を所望した。
その先をどうするのかは知らんけど、
琵琶家が預かってもいいんだ。
この頑固な姫に見合う男は、
俺の家族には大勢いるからな。
その方が、幸せをつかめる可能性は大いに上がるからな」
幻影は薄笑みを浮かべながら言った。
「かの昔、徳川家康が摂津堺見物に行っていたときに本能寺で大火が起った。
そして災いに見舞われた。
時を同じにして別の現場に、大久保忠隣もいたんだよ。
だから忠隣は幕府を大いに疑っている。
意味が解らんと思うが、あんたらが知る必要はない。
これを伝えるだけで、
あんたの親父は大いに驚くことだろう。
そして俺にあわせろと言ったら会ってやろう。
もしくはすべてを察して考え込むかなぁー…」
「わかりました、必ず伝えます。
草太、お疲れ様でございました」
将代のやさしい労いの言葉に、「はっ ありがたき幸せ」と少年草太は頭を下げた。
「この女官の何がいいの?」という幻影の言葉に、「母も同然ですので」と草太は笑みを浮かべて言った。
「ああ、それは失礼。
そこまでは見抜けなかったよ!」
幻影は謝ってから大いに笑った。
「祭りを楽しんでから、
父と対決してまいります」
将代は真剣な目をして言って頭を下げ、配下を伴って境内に出た。
「…ああ、光秀と間違えて家康を斬り捨てた件か?!」と信長は膝を打って大いに笑った。
光秀は大いに眉を下げて頭を撫でまわしている。
「秀忠の対応がよくわからなかったのですが、
話しているうちになんとなく察しがついてきました。
腐った果実を早々に斬り捨てただけでしょう」
幻影の言葉に、秀忠は大いに眉を下げて、「…家老や老中たちの目がうるさかったからね…」と言った。
よって秀忠にとってそれほど怒っているわけではない。
秀忠も後ろ盾という家康という一大謀略を失くし、もしもここで家光までも亡くしたとすれば、忠隣の気持ちは大いにわかるのだ。
しかも忠隣は幕府の世継の件を大いに疑っている。
もしも幻影の接触する意思を見せたのならば、納得いく真実の話をすると決めている。
もっとも、戦国の世だった十年前よりもはるか昔の話なので、言いふらしたところで誰も信用しない。
ここは余生短い忠隣に納得してもらった方が誰にとっても気持ちがいいのだ。
「しかしあの忍びの草太はいい」と幻影は笑みを浮かべて言った。
「どれ」と信長は言って立ち上がると、弁慶も立ち上がったのでお供をするようだ。
信長は笑みを浮かべて弁慶と肩を組んで、機嫌よく部屋を出て行った。
「…あんな息子も欲しいんだけど…」と秀忠が懇願の目を幻影に向けると、「気に入ったやつを養子に取れ」と幻影はつれない言葉を放った。
「…君が大村にやっちゃったじゃないかぁー…」
「これからはきちんと予約をしておけよ。
だけど、婿入り先は決まっていたようなものだったからな。
その場合はすっぱりとあきらめろ。
できれば、大久保忠隣のようなヤツはあまり出したくないんだ。
消せない訝しさは大きな諍いに発展する場合もある」
「…よくわかってるよぉー…」とここは仕方なさそうに秀忠は答えた。
長春が軽業興業所で動物たちの芸を披露していると、一羽の鳩が乱入してきた。
「あら? お仕事お疲れ様!」と長春が笑みを浮かべて言うと、会場内から大きな拍手が鳴り響いた。
これも出しもののひとつだと思ったのだろう。
ここは幻影が道化師として現れて、長春から書簡と鳩を受け取って消えた。
鳩としては、帰る目標が御殿にいなかったので、少々探してここに飛んできたようだ。
書は松山城主の加藤嘉明からで、大村藩から視察にやってきたという短いものだった。
よって、ただの定期連絡のようなものと何も変わらないが、幻影は笑みを浮かべていた。
勝虎なりの世直しが始まったと思い、幻影は嬉しく思っていた。
するとまた鳩が飛んできて、幻影は右手を上げると狙いを定めて飛んできて素早く翼を休めた。
書は宇和島城主の伊達秀宗からで、こちらも大村藩からの視察の件を書いていて、麺屋を大いに気に入っていたと書かれてあった。
幻影は鳩たちを屋敷の庭に放して水と餌をやってから法源院屋に行った。
そして厚みのある書簡と、麺打ちに必要なものをすべて、大村にある法源院屋に送るように頼んだ。
麺打ち職人も必要なのだが、勝虎はまさに器用で、勝虎自らが説明しながら打つことは可能だ。
少しでも手伝いができればいいと幻影は思っただけだ。
もし店を出さないのであれば、勝虎たちだけの腹に収めればいいだけだ。
「そういえば、駄菓子用の素材を数点、こちらから大村に送りました」
番頭の言葉に、「勝虎はもう始めていたようだね」と幻影は笑みを浮かべて言った。
この生実から北の地からも売り物にならないものを多く仕入れて、幻影たちが加工して数十倍の利益を得ていることもあって、この生実の法源院屋が今は一番忙しい。
よって多くの丁稚たちも笑みを浮かべて働いている。
できれば祭り見物にも行かせてやりたいのだが、客の対応に人手が足りない程なのだ。
幻影は番頭と相談して、臨時の丁稚を雇うことに決めた。
幻影は祭りを楽しんでいる施設の子供たちに臨時の仕事を与えた。
それは短いもので、ずっと働くわけではない。
軍資金が乏しくなっていた子供たちは二つ返事で請け負った。
そして番頭は交代で丁稚たちに少し長い休憩時間を与えて、少しでも祭りを楽しむようにと言いつけた。
幻影も店先で物売りの仕事に従事して、問題は何も起こらず、子供たちの素晴らしい笑みを得ることができた。
琵琶家の家人たちもポツリポツリと法源院屋を手伝いに来た時、「九人抜きが現れました」と源次がうまい餌を幻影に与えた。
「それは惜しいね」と幻影が言うと、「悲しいかな体力切れで、しかも女子です」という言葉に、幻影はさらに興味が沸いたが、「…あ、捕まったようです…」と源次は少し笑いながら街道を見ながら言った。
その女子を蘭丸が連れてきたのだ。
女子のなりは町娘とはいいがたく、まさに男子のようだったが、女子とわかるかわいらしさがある。
剣豪とは思えないほどのかわいらしさを、蘭丸は気に入ったようだ。
「素人剣術もたまには見ておく必要はある」と蘭丸は言って、女子に笑みを向けた。
「そういった目的をもって催してるんだからな」
幻影の言葉に、蘭丸は悔しそうな顔をしたが、女子を抱きしめて隠した。
「…話くらいさせてくれ…」と幻影が懇願すると、「…ひどい男だからたぶらかされちゃダメよ…」と蘭丸が小声で忠告すると、女子は笑みを浮かべて首を横に振った。
「…ふむ… 聞こえてはいるが、声を出せない…」
幻影がつぶやくと、「…うう… もう見破られた…」と蘭丸は言って、また女子を隠した。
「治るかどうかはわからんが、言葉は無理でも声は出せるようになるはずだ」
幻影の言葉に、「…中途半端だな…」と蘭丸は言いながらも、女子を放して背中を軽く押した。
女子は何とか口だけを動かしている。
「…天狗様にお会いできて光栄です…」と幻影が言うと、女子は大いにうれしがったが、蘭丸は大いに地団太を踏んだ。
「じゃ、ちょっと熱いがそれほど気にすることはない」と幻影は言って、ほんの一瞬だけ、女子ののどと額の辺りに手をかざした。
女子は熱さで少し驚いたようだが、「あ―――っ!!!」と大声で叫んだ。
そして黙り込んでから、「…あいあと、おあいあうー…」と幻影に礼を言って頭を下げた。
「あとはきちんと発声練習をすればいいだけだ。
だが、相当な心の重荷があったようだね」
幻影は店先に机を持って来て、女子と筆談を始めた。
女子はお菊と達筆で書き名を名乗ってから、武蔵の国の大店の桔梗屋の娘だったと書いた。
そして、大火で家族を全員亡くしたと、眉を下げて書き上げた。
そしてその下手人の名まで書いたのだ。
「じゃ、お蘭はお菊の警護な」と幻影が言うと、「ふん! 始めっからそのつもりだった!」と蘭丸は言ってお菊を抱きしめた。
幻影は秀忠を探し出して、全ての事情を話した。
秀忠の耳にも届いていて、火盗改めがもうすでに下手人を探しているそうだ。
幻影は筆談でお菊からその下手人の似顔絵を数枚描き、お菊は、「あっ!」と叫んで、一枚の絵に指を差した。
幻影は十枚ほどお菊が示した似顔絵を描き上げ、その名と罪状も書いてから、秀忠に渡した。
秀忠は大いに困惑したが、すぐに飛脚屋に走って行った。
「…てんるはま、ふごいっ!」とお菊は叫んで満面の笑みを浮かべてから、すぐにワンワンと泣きだし始めた。
「…ほらほら、こいつは悪者だから、あまり付き合っちゃダメよ…」という蘭丸のやさしい言葉に、幻影は大いに眉を下げていた。
「とと様って悪者…」と阿利渚は言ったが、笑みを浮かべていた。
「まあ事情を知らなくてあれだけ泣かれたら、悪者確定だろうなぁー…」と幻影が言うと、阿利渚は愉快そうに笑って、お菊の頭をなで始めた。
「…ここに来ているかもな…」と幻影が鋭い視線をして言うと、「…忍びたちが行動に移しました…」と源次が小声で言った。
しばらくは穏やかな時間が流れたのだが、軽業興業所の出入り口で騒ぎが起こり始めた。
ひとりの男が飛び出してきたのはいいのだが、巖剛が右前足で男の背中を押さえつけて、得意げな顔をした。
「…巖剛、大手柄だぞ…」と源次は大いに眉を下げて言ってから、男の顔を確認した。
「葛飾の政右ヱ門だよね?」と源次が聞くと、政右ヱ門は唇を紫にして震えながらうなづいた。
源次は役人を呼んで、手配書を渡した。
役人たちはすぐに政右ヱ門に縄を打って、騒ぎは終わった。
「いやぁー、巖剛! 大手柄大手柄!」と騒ぎを聞きつけてやってきた幻影は大いに褒めて、巖剛を抱きしめた。
「…見つけたって言ったのぉー…」と長春が眉を下げて言うと、「…その声が聞こえたのはいいけど、意味が解らなかったよね?」と幻影は眉を下げて言った。
長春は眉を下げたまま、こくんとうなづいた。
幻影が事情を説明すると、「お尋ね者の極悪人を捕まえたのよ!!」と長春は大声で叫んで、巖剛を抱きしめた。
もちろん大勢の見物客もいたので、誰もが巖剛を褒めたたえた。
「ですが、似顔絵を見ていないと思うのですが…」と源次が困惑しながら幻影を見ると、「動物たちが巖剛に伝えたんだろうな」と答えた。
「…小鳥たちは、似顔絵を見ていたんですね…
察知できるわけがありません…」
源次が眉を下げて言うと、「安心しろ、俺もだ」と幻影は答えて、愉快そうに笑った。
祭りは最高潮に達し、現在は中規模の花火大会が真っ盛りだ。
琵琶一家は全員御殿に戻っていて、花火を見ながら遅い夕食を摂っていた。
すると来客があり、応対した松平影達がくつろぎの間にやって来て、「江戸の火盗改め頭目の平井八郎兵衛殿がご面会をと」と顔を伏せたまま言った。
「下手人を捕まえた巖剛に目通りさせておけばよい」と信長が言うと、家人たちは大いに笑った。
「それが正しき道のようにも思いました」と影達が言うと、「試してからここへ」と信長が言うと、影達は頭を下げてから裏に回って、巖剛を連れて行った。
「何をなさるか?!」と誰かが叫んだと同時に、家人たちは大声で笑った。
まさに琵琶家は仲が良く平和な家族でしかない。
しばらくやりとりがあったあと、「平井八郎兵衛殿をお連れ申した」と影達は言って、障子を大きく開けた。
「夕餉中に来るとは無粋なヤツ」と信長は言ったが、八郎兵衛は気にすることなく影達が勧めるままに畳に座って、背筋を伸ばしたまま軽く頭を下げ、「江戸市中火盗改め、平井八郎兵衛でござる」と言った。
「要件」と信長がひと言言うと、「この度の下手人の拿捕、まことに感謝しております」とまず言った。
「本人の自白により、下手人政右ヱ門がやったことは認められました。
ですがやつは頼まれたと言っておるのです。
しかし、名も身元もすべてでたらめで、
本来の黒幕は皆目わからぬのです。
できれば、この家に住む者の絵師の腕を見込んで、
お願いに参った所存でござる」
信長は聞き終えて、幻影に目配せした。
幻影はすぐに信長の目配せを察した。
「その前に、平井殿の普段の身の上話を聞きたいと思ったのです」
幻影の言葉に、初めて平井は動揺した。
「もしも平井殿に後ろめたいことがおありならば、
早々にここを出て行っていただきたいのです。
そうでなくても、事情だけは聞かせていただいてから、
ここに来られた本題はお聞きしましょう」
平井はさらに動揺した。
何度も立ち去ろうと思ったが、平井の正義感がそうさせなかった。
だが、平井は家族を守る義務もある。
「家族が罪人だからこそ、動けぬことはよくわかる」
信長の言葉に、「そうなのか、八郎兵衛」と秀忠が厳しい視線を平井に向けて言った。
「…大御所様…」と平井はつぶやいてから、頭を下げ、額を畳にこすりつけた。
「琵琶の家人は鼻がよいらしい。
我には全く見当もつかんが、
キリスト関連のようじゃな」
秀忠は察して幻影を見ると、「本人だけにはそれほど気にならないことだからね」と幻影は言った。
もちろん江戸にも信者は存在する。
特に将軍に近い場所にも大勢いたほどだ。
特に誰にでも厳しい平井のような者の家族に蔓延している場合もあるのだ。
「…家族全員、イエス・キリストに心酔しております…」と平井は頭を下げたまま言った。
「おまえはどうなんじゃ?」と秀忠が聞くと、「夢見話など信じてはおりませぬ」とすぐさま答えた。
「まあ、足抜けは少々厳しいかなぁー…
だけど、こうなることもわかっていてここに来たかもしれないし…
平井殿、どうなの?」
幻影が聞くと、「…わずかばかりにあり申した…」と平井は答えた。
「我らをなめとるな、こやつ…」と信長は鼻で笑った。
「…あまり怒らないでぇー…」と秀忠はできればこの場を穏便に済ませたようで懇願するように言った。
「ワシはキリストなどどうでもよいことじゃ。
じゃが、幻影が許すとは思えんのじゃ」
信長の言葉に、「危険な宗教だと幕府が認定したのですから、快く捨てるべきでしょう」と幻影は真剣な目をして言った。
平井はさらに窮地に追い込まれた。
頭を下げたままどうすることもできなかったのだ。
「じゃ、平井殿の家族と対決しましょう」
幻影の陽気ともいえる言葉に、誰もが目を見開いた。
さすがの平井も面を上げて幻影を見上げた。
「直接信者に触れるのは今回が初めてです。
できれば法に触れていることを認識してもらって、
キリストの教えを捨てていただきたいものです。
改心しないのであれば、知った以上は幕府に突き出します。
平井殿、これがあなたの依頼を受ける条件です」
「…どうか、我が家族の想いを変えていただけますよう…」と平井は大いに懇願した。
「…言っとくけど、俺は神でも何でもねえから。
言い聞かせて聞かないのなら付き出すだけ。
妙な期待をしてんじゃあねえぞ」
幻影の気合の入った言葉に、平井が大いに怯えると、家人たちは大いに眉をひそめた。
「それから、俺を神と崇めるのもなしだ。
俺はキリストの代わりじゃあねえからな。
この場合、俺が斬り捨てるから」
「斬り捨てはご法度だと言った」という信長の言葉に、「はっ 申し訳ございません」と幻影はすぐさま謝った。
「斬り捨てることと拷問にかけること以外で、
夢を見させてやればいい。
神は本当にいるのだと確信させてやれ。
そして神は全てを救うわけではないことも思い知らせろ。
個人相手ならば、
今の幻影ならば簡単にできることだと、ワシは思っておる」
「はっ お言葉通りに」と幻影は答えて頭を下げた。
「ところでそのご家族だけど、花火見物中だよね?」
幻影が気さくに平井に聞くと、大いに顔色が変わった。
確信はないし会ってはいないが、来ているはずと思っていたからだ。
幻影は試しとばかりに平井に家族の特徴を聞いて描き上げて、平井を大いにうならせた。
すると、庭から書が舞い込んできた。
「もう見つけて、監視中だ」と信長が言うと、「…恐れ入りました…」と平井はまた頭を下げて額を畳にこすりつけた。
「我らの忍びが優秀なだけだ。
神の力でも何でもないことだ。
…ここにお連れしてくれ…」
信長が言うと、平井はまた大いに戸惑った。
まさかこのようなことになるとは思ってもいなかったのだ。
すると玄関先で陽気な声が聞こえてきた。
「明るいご家族のようだ」と幻影が明るく言ったが、平井は頭を下げたままだ。
幻影は素早く二枚の絵を描いて秀忠に見せた。
「…うわぁー… そっくり…」と言ってからすぐに気づいた。
幻影がにやりと笑うと、「…精神的拷問だと思う…」と秀忠が言った。
「その程度はやむなし」と信長が言うと、秀忠は賛同するように頭を下げた。
女官が三人やって来て、まずは目を見開いた。
一家の主である平井が、頭を下げていたからだ。
「ささ、どうかご主人のお隣にお座りを」と影達が急かせた。
三人は大いに動揺して、平井を見ていたが、幻影が紙を掲げると、三人は、「…ああ…」と一斉に声を上げた。
そして幻影は一気に和紙を破ったのだ。
「…ああ、何を…」と平井の妻が大いに嘆いた。
「俺がキリスト教徒ではない証明だ。
だからあんたらにも同じことをやってもらう。
そうしないと、平井の家は閉門だ」
幻影の厳しい言葉に、平井の家族たちはすべてを察した。
「幕府がお触れとして出している禁止事項は知っているはずだ。
だがあんたらはその禁を破っているはずだ。
まずはそこから聞きたい。
キリスト教徒かそうでないのか」
幻影のさらに厳しい言葉に、三人はうなだれたまま何も言わなかった。
「答えないのならばそれでいい。
キリスト教徒でないのなら、
違うとすぐに言ったはずだからな。
では、なぜキリスト教の信者になったのか、
そこから説明していただきたい」
幻影の言葉に、真っ先に反応したのは、平井の母親だった。
幻影はその母親に顔を向けて、「説明を」と言った。
ここは正直に、その経緯を話し始めた。
宣教師は訪問販売のように、家長がいないことを見計らって訪ねてきたという。
始めはご法度であると知っていたので、もちろん断ったのだが、「神を信じないと災いがあります」と脅してきたそうだ。
そして和訳された新約聖書を大枚叩いて購入したそうだが、始めは物語を読むようにして楽しんでいただけだったのだが、読み続けると、心の安寧を感じたそうだ。
そしてロザリオなどもまた大枚叩いて買い、心の底からイエス・キリストに魅力を感じた。
「…心の安寧を得られた…
だが、世間はそれほど良くなったとはいいがたいんだけどな…
我ら琵琶家がここに来た時、
食うや食わずの子供たちが大勢いた。
俺たちは大いに働いて、
子供たちの笑みを見るためだけに尽力したと思っている。
だがキリストはどうだろうか。
俺にはそこまでやったとは思えないんだけどな。
ただただ心の安寧を訴えるだけで、
何も救えていなかったと思うんだ。
夢など追わずに現実から目を背けるな。
俺はあんたらのような人たちと会えば、
必ずこういうだろう。
さらには、幕府も頭ごなしに禁止を言っているわけではない。
キリスト教が危険だと、理由を述べて禁止している。
そろそろ夢から覚めて、現実を見た方がいいんじゃないの?」
「さすれば琵琶様の奇跡を!」と平井の母親は叫んでから幻影を見て目を見開いた。
幻影は座った姿勢で宙に浮いていたからだ。
「キリストは水面を歩いたというが、宙には浮かなかったらしい。
俺はこれができるようになる前に、琵琶湖の湖面を走ったぞ。
俺の方が、キリストよりも上だよな?」
幻影の言葉を信じるしかなかった。
そして、現実の世界で琵琶家が多くの人々を救っていることは、この江戸近隣の者たちはすべて知っていることだ。
「言っとくが、手品じゃないぞ」と幻影は言って、平井の母親を宙に浮かべて庭に出て、所狭しと飛び回った。
そして部屋に戻って、元いた場所に座らせた。
「ま、手品ではないことだけは証明できたと思う」
幻影の言葉に、「…私もぉー…」と長春が言い始めたので、幻影は眉を下げながらもその言葉に従った。
まさに、キリスト教の信者よりも面倒な女官なので、ここは素直に聞き入れた方がいいからだ。
幻影はキリスト教に携わる宣教師の真実を語った。
出世のためにキリスト教を広めていると聞かされると、今まで何をやっていたのかと大いに後悔することになる。
「では、誰もが気づいていない重要なことを言っておこう」
幻影が真剣な目をして言うと、誰もが真剣な目をして見入った。
「キリスト教に限らず、すべての宗教は、人間が作ったものだ」
真っ先にうなづいたのはやはり信長だった。
そして妙栄尼も追従した。
「これはかなり重要なことだと思う。
神の言葉のように聖書には書かれているが、
書いたのは人間なんだ。
特に、神だ仏だという者が、我を信じろなんて言うはずがない。
それはなぜか。
それを言う神や仏は、何らかの思惑があるからだ。
本当に誰もが幸せになってもらいたいのならば、
何も言わずに自分勝手の常識をもって正すものなんだよ。
だから俺たちだって神じゃない。
琵琶家と堂々と名乗っているからな。
しかも家まで自分たちで建てたんだ。
そんな質素な神はまずいないはずだろうな。
どんなものでも術を使って一瞬で作り上げるだろうし。
…人間が作った宗教なんぞに振り回されてるんじゃあねえ」
幻影の説教は、三人には大いに突き刺さったようで、首から細い鎖を出して畳の上に置いた。
「…信仰ではなく、琵琶高願様がおっしゃったことを信じます…」と平井の母が言って頭を下げた。
しかし平井の娘は怪訝そうな目を妙栄尼に向けた。
「…妙栄尼様は仏教徒でおられるはずですが…」と娘は少し怯えながら言うと、妙栄尼は、「おほほほ!」と高笑いをした。
「それは米沢に住んでいた時のお話です。
今は正確には仏教を信仰する僧ではございません。
仏陀という仏教の始祖であろうその人の
思惑を知りたい探求者と言っておきましょう」
妙栄尼の言葉に、「…失礼、いたしました…」と娘は言って笑みを浮かべた。
「…だから、宗派に所属しないんだ…」と秀忠が言うと、「私の考えに見合う宗派はございませんから」と妙栄尼は言って頭を下げた。
「ですので祈りや願いを捧げるにしても、決まった作法はございません。
それはその方の希望でもあることですので、
欲さえ持たずにお願いすれば、
叶う願いもあるやもしれませんね」
妙栄尼のやさしい言葉に、三人の女官は、「ありがとうございます」と言って頭を下げた。
「じゃあ、欲のない願いを言ってみてくれない?」と幻影が娘に聞くと、「浮気すんな!」と幻影の背後から蘭丸が吼えた。
「話をしてるだけじゃないか…」と幻影が言い、「口出しをするでない…」と信長が眉を下げて言うと、蘭丸は大いに恐縮して頭を下げた。
「…女を引っかける、そこいらに落ちてる手だもぉーん…」と蘭丸がつぶやくと、長春と政江は大いに賛同して慰めた。
平井の娘は蘭丸たちを見ながらも、「高願様にはすべてを救う力がおありのはずです!」と叫んだ。
「あー… それ、よく言われるんだよ」と幻影はうんざりしながら答えた。
「…誰もがすぐに思いつくことなのに、
誰にもその答えがわからない…」
娘の言葉に、「人間だからね、まずは限界があるってことが第一だ」と幻影が言うと、「…あ、はい…」と娘は理解して返事をした。
「第二に、全てを達成しようと思えば大勢の仲間が必要だ。
そして、俺たちの想いを引き継ぐ若い力も必要だ。
極力多くを救いながらも、次代を担う子供たちの育成も重要なんだ。
だからこそ、今のように場所を選んで住みついて、
徐々に平和を広げていく手を取っているんだよ。
第三に、俺たちは権力者であってはならない。
武力は何も救えないからね。
琵琶家は公称商人だから。
さらには、銭でも本当の人助けにはならない。
だから少しでも子供たちに仕事を与えて働いてもらって駄賃を渡すんだよ。
親がいなくても少しずつでも世間を知ってもらいたいから。
だからと言って、頭でっかちだけでは人を救えない。
自分の身を守る意味でも、俺たちは肉体を鍛え上げているんだ」
「…はい… 納得できたと思います…」と娘は言って頭を下げた。
「はは、納得してもらって助かったぁー…」と幻影が少しおどけて言うと、誰もが愉快そうに笑った。
「今はこの日の国だけだが、
いずれは大陸に渡って、
この世の全てを平和にしたいと思っているんだ。
それが我ら琵琶家の悲願なんだ」
幻影の言葉に、琵琶家の家人たちは胸を張って幻影を見た。
「ちなみに大陸の北の露西亜に行ったことあるよ?」と幻影が秀忠に言うと、「…そんなとこまで行ったのね…」と秀忠は眉を下げて言った。
「蝦夷の地に行ったついでにね。
露西亜でも多くを知ったよ。
まさに、清国などを第三者の目で見ていたことで、
この日の国の悲惨な事実も、
それほどでもないと思うことも数々あったよ。
その絵、描いてやろうか?」
幻影の言葉に、秀忠は勢いよく首を横に振った。
「仏教には死すれば地獄があると説いているが、
この現が地獄だと俺は思っているんだよ。
だから地獄を見たくないのなら、
それを少しでも良くして行けばいい。
今のこの生実や安土、松山には地獄はないと思いたいね」
幻影は言って庭を見て、空に上がった大きな花を見て笑みを浮かべた。
秀忠は平井一家をお咎めなしとしたが、平井に厳重に見張れと命令することは忘れなかった。
四人が立ち去った後、鎖がついている三つのロザリオが残された。
「持って帰ってくれよ…」と幻影が眉を下げて言うと、「…うう、それはきちんとしとかなきゃね…」と秀忠は言って三つのロザリオを拾ってから、側用人に渡そうとしたが拒否された。
「おまえが責任をもって待って帰れよ…」と幻影が眉を下げていうと、「…ほんと、めんどくさい…」と秀忠は言いながら懐に仕舞い込んだ。
「あとははだ、参勤交代、なんとかしろ」と幻影が少し厳しく言うと、「…質素にしろって言ってるよぉー…」と秀忠は眉を下げて言った。
「じゃ、藩主がひとりで江戸城に登城してもいいんだよな?」
「まあ… 腕に自信があれば…」と秀忠は言ってすぐに気づいた。
「大村藩の、酒井勝虎…」と秀忠は言って頭を抱え込んだ。
「異論がないのなら伝えておくけど?」
「…それで全然いいよぉ―…」と秀忠はすぐに許可した。
「これで銭が随分と助かりそうだ。
だがさすがに、ひとりだけでは行かないだろうけど、
百人が十人になれば随分と助かる。
課税も十分に抑えられるはずだ。
勝虎は見栄は張らないから何も問題ない。
家族のよしみで、ここから何人か付き添わせてもいいし」
幻影は言いながら書を認めて鳩を飛ばした。
「ああそうだ。
どうして平井の家族がキリスト教徒だってわかったんだよぉー…」
秀忠が眉を下げて聞くと、「体に染みついた蝋のにおいだよ」と幻影は簡単に種明かしをした。
「もちろん始めは平井殿もキリスト教徒だろうって疑ったけど、
違うと感じた。
だったら家での生活はどういう感じなのかと考えた。
もちろん隠れて信仰しているから、
奥まっている狭い部屋、もしくは地下室で、
明かりはろうそくを使って拝んでいたはずだ。
西欧には牢台というものがあって、
ろうそくを三本とか五本とか立てる贅沢な器具があるんだよ。
狭い部屋でそれほどのろうそくに火を灯すと、
蝋のにおいが衣服やら肌に染みついてもおかしくないからだ。
平井殿は信仰や勧誘されていたわけじゃなく、
付き合わされていたはずだって、
少し話をしていて確信したんだ」
「…はあ、納得…」と秀忠は言って、愛想笑い的な苦笑いを浮かべた。
勝虎は早朝に城の中庭でふらふらになっている鳩を発見した。
「やあ、お疲れ様」と勝虎は言って、鳩に水と餌と寝床を与えた。
そして書を読んですぐに笑みを浮かべた。
どれほど質素にしようかと考えていたのだが、『参勤交代は殿様ひとりの登城でも可』と書かれていたので、勝虎はほっと胸をなでおろした。
「あら? 朝早くからどうされたの?」と純葉が長い廊下から聞くと、勝虎は書の内容を説明した。
「…ふたり旅…」と純葉がホホを赤らめて言うと、「ああ、それもいい!」と勝虎は機嫌よく答えた。
「…朝も、お蕎麦がいいんだけど…」と純葉が少しねだると、「ああ、いいぜ」と勝虎は威勢よく答えて腕まくりをして厨房に行った。
出汁づくりはほかの料理人に任せて、勝虎は一心不乱に麺を打った。
一度打てば二十人前ほどできるのだが、それを十回ほど繰り返した。
城の役人全員に与えても余るほどだ。
これにも思惑があって、城の外に作った小さな店に出すことにしたのだ。
麺打ち職人が育てば、あとは店を任せることにしている。
人気が上がれば、手伝うことも決めている。
今はできることを少しでもしていこうという表れだった。
「…小耳に挟んだんだけど…」と厨房にやってきた純葉は言いにくそうに言った。
「ああ、冷やし蕎麦かい?」と勝虎が聞くと、「夏なのに井戸水よりも冷たいって…」と、視察に出ている役人からの文から得た情報を話した。
「お師様にねだってみるよ」
「…さすがに勝虎様でも無理なのね…」と純葉は眉を下げて言った。
「この世にまだ四台しかない機械で、
お師様も大いに苦労して作られたそうなんだ。
特に夏場は大いに重宝するそうだ。
俺もいただいたが、
また違ううどんや蕎麦だったなぁー…」
「あなただけずるいわ」と純葉は言ってホホを膨らませた。
「すぐにはできないだろうから、
参勤交代中に松山に寄ってもいい。
そこでたらふく食わせてもらおう」
「…今日から旅に出たいところだわ…」と純葉は言って瞳を輝かせた。
「お熱いこって」と料理長がふたりを冷やかすと、ふたりとも大いにホホを赤らめていた。
一夜明けて、幻影は朝餉を済ませてから江戸に向かって飛んだ。
そして火盗改めの建物の前に立って、「たのもー!」と叫んでから腹を抱えて笑った。
平井はもうお勤めに出てきてて、幻影に丁寧にあいさつをした後、火付けの実行犯と面会した。
幻影は初めは気さくだった。
そして、黒幕の顔を書き上げた瞬間に態度が豹変した。
もちろん、焼け死んだ者が大勢いたのだ。
その恨みを込めてにらんだと言っていい。
「ま、火あぶりの刑は決まっていることだからな」と幻影は言って男に向かって手を合わせて立ち上がり、似顔絵を平井に渡した。
「…残念… 心当たりはござらんかったか…」と平井は言葉通り、かなり残念に思ったようだ。
「多少は期待したんだけどね。
残念ながら知らない顔だ。
だがな、気づいたこと、あるだろ?」
幻影が聞くと、平井は絵を見入ってから、「…身なりが武士なのに、髷が武士じゃあねえ…」とうなった。
「素人考えで言えば、
桔梗屋さんの商売敵は動かねえと思うんだけど?」
「…いえ、ありがとうございました、早速」と平井は言いながら駆け出していた。
幻影が部屋を出ると、見張りの者たちが頭を下げていた。
そして、「お見それしました!」と叫んでから、部屋に入って行った。
幻影の仕事はもう終わってしまったので、まっすぐ生実に帰ろうと思ったが、四カ所に増えた寺子屋の見学に行くことにした。
一番初めに幻影が建てた寺子屋には、信幻と家光も通っているので、様子を見たいと思っただけだ。
遠いところから順番に回って、何も問題はないのだが、やはり武家の子は通っていない。
しかし、信幻の通う寺子屋は、半数が武家だった。
もちろん、本来ならば会えることがない将軍候補と、徳川の姓を持つ者がいればこうなるだろうと、幻影は納得するしかなかった。
ここだと城も近く警備も楽なので、気兼ねなく通うことができる。
幻影は警備の者に、秀忠からもらった札を見せると、「…琵琶、高願様ぁー…」と警備の者が恐れおののいていた。
「…俺の子と言っていい信幻様が通っているからね…
普段とは違ういい顔をしてるなぁー…」
幻影が小声で褒めると、「…学士様もよく眉を下げられておられます… …とんでもなく物知りだと…」と警備の者が感心するように言った。
「…あ、なるほどなるほど…」と幻影はいいながら、妙案を思いついていた。
もちろん寺子屋の回りには、信幻の配下の者たちが警備に当たっている。
真っ先に武蔵が幻影に気づいて素早く頭を下げた。
「…昨日の件で来た帰りだ…」と幻影がつぶやくと、「…黒幕が捕まればよいのですが…」と武蔵は眉を下げて言った。
「…桔梗屋さんの商売敵の番頭ら、かなぁー…
…顔立ちはまさに武士のようだったが、髷が商人だった…」
「…そこまでは偽装しなかったのですね…
…もっとも、自分で自分の髷を見ることは、
それほどありませんから…」
「…鏡は高価なものだからね…
人に言われなきゃ気づかないと思う部分だ…」
武蔵と話しているうちに、今日の勉学の時間は終わりのようで、「ありがとうございました!」と威勢のいい声が境内に響き渡った。
幻影が信幻に手を振ると、「高願様! お疲れ様でございます!」と信幻が叫んで頭を下げた。
すると学友たちも一斉に頭を下げたが、怪訝そうな顔をした。
今日の幻影の姿は遊び人にしか見えないからだ。
「身なりでしか人を判断できない愚劣なヤツら」
幻影の言葉に、学徒たちは大いに反応したが、さすがに何もできないし、幻影の言った通りでもあった。
「おまえらは寺子屋に通う必要はねえ。
邪魔だからもうくんな」
「…あーあ、言っちゃったぁー…」と信幻が眉を下げて言うと、「よいよい」と家光は機嫌よく言った。
「ま、この子あってこの親ありってやつの子なんだろうから、
大したことのない家の子だろうな。
ここは勉学を習う場所で、社交場じゃあねえ。
帰ってから、使えねえお前らの父ちゃんにも言っておけ」
「…なんだとぉー…」とひとりの少年が言って柄をつかんで太刀を抜く瞬間に、『キィ―――ンッ!』と子気味いい音がした。
幻影が太刀の根元に手刀を当てて、太刀を折ったのだ。
「ふん、安物の太刀を買うから簡単に折れたな。
やっぱ、大したことねえ。
お前の親もお前も多分打ち首だぜ。
私闘禁止令、知ってるよなぁー」
幻影の言葉に、少年は頭を抱え込んで泣き叫び始めた。
「こんな愚かなやつをここに来させるんじゃあねえ!」と幻影が叫ぶと、「だって、怖いじゃないか…」と顔見知りの牧田左衛門が眉を下げて言った。
「…まあいい、秀忠に言っておくから…
…かわいい子の様子を見に来ただけなのにまさかの事態だ…
…まあ、俺がそろそろ気づくとでも思っていたんだろうけどな…」
「そろそろ言いつけた方がいいかなぁーって、思ってもいました」
信幻の明るい言葉に、「ま、勉学と仕事の邪魔になってなかったようだから別にいい」と幻影は言って、信幻の頭をなでた。
「あはは! ありがとう、父ちゃん!」と信幻は満面の笑みを浮かべて言った。
武家の子たちはこの間にすごすごと境内から消えていた。
「今だから言えるけどね、左遷ぎりぎりの家」と家光が幻影に言いつけると、「左遷決定、だな…」と幻影は眉を下げて言った。
「あーよかった。
これでいい子たちを呼べる!」
左衛門は陽気に言って、寺子屋に入って行った。
「それなりにいい学士だったんだな」と幻影は言って苦笑いを浮かべた。
ここまでは信幻の戦車できていたので、幻影はふたりを見送ってから、素早く高く宙に浮かんだ。
そして江戸城を中心にして見ていると、捕り物が起っているようで、役人たちが町人らしきものを追いかけている。
―― 掏りか? 女のようだが… ―― と幻影は思い、逃げる者だけを目で追った。
すると、女は左の辻を曲がって屋根に飛び上がった。
―― 俺も、やったなぁー… ―― と幻影は別府の掏りの件を懐かしく思い出していた。
幻影は素早く女の背後に回って、女に向かって網を投げ、すぐに綱を引っ張って宙づりにした。
「おーい! ここだここ!」と幻影が空から叫ぶと、役人たちは目を見開いて幻影と、網に絡まっている女を見入った。
幻影はゆっくりと地上に降りて、女の首根っこを押さえつけて、役人に縄を打たせた。
「この女、何やったの?」と幻影が気さくに聞くと、「女?!」とひとりの役人が叫んだ。
「こいつは忍びだ。
忍びの俺が言うんだから間違いない」
「…あんた… 一体…
あ、いや、こいつは押し込み未遂犯です」
役人の言葉に、女は口を開かないので、その通りなのだろうと幻影は察した。
「取り調べるのはいいけど、
知り合いの忍びにも立ち会ってもらった方がいいぜ。
確実に逃げる手を持っているはずだ。
ほら、打ち縄が緩んでいるぞ」
幻影の指摘に役人は大いに慌てて、別の縄を打って縛り上げた。
「俺は琵琶高願、知ってる?」と幻影が名乗ると、「…えー…」と役人は言って、ぼう然とした顔をした。
「用があったら生実の琵琶御殿に来てくれてもいいぞ。
やはり悪いヤツはきちんと捕まえて、
それなりの罰を受けるべきだ。
もう、帰っていい?」
幻影の言葉に、「はっ 本当にありがとうございました…」と役人は夢見心地の顔をして言った。
「逃がすとお咎めだぞ?」と幻影が脅すと、役人たちの顔に気合が入っていた。
幻影は手を振って見送ってから、また宙に飛び上がった。
さすがにもう騒ぎはないようで、江戸城をかすめて飛んでいると、秀忠が天守にいて手を振っていた。
見えなかった振りをして通り過ぎようとすると、「なんでだよ!」と秀忠が大声で叫んだ。
「あ、いたんだ」と幻影が大いにとぼけると、「いいから、入って来て!」と秀忠は叫んで、幻影を天守に招き入れた。
「面白い話でもあるのかい?」と幻影が座りながら聞くと、「まずは桔梗屋の火付け押し込み強盗の件はもう終わったよ」と秀忠は真顔で言った。
「そりゃよかった。
ほかは?」
「…大御所様、暗殺計画…」と秀忠が神妙な顔をして言うと、「それ、面白そうだな…」と幻影は大いに興味を持った。
「…面白くないよぉー…」と秀忠は言って大いに眉を下げた。
「ま、ほかの藩の役人の悪事を、
全て秀忠の仕業に置き換えているようなものだからな。
秀忠の本当の想いは世間一般には届いていないのだろう。
息子に将軍の座を譲った今、家光は修行の身のようなものだからな。
秀忠を亡き者にすれば、色々と徳をする者もいるはずだ」
「…大いにあるだろうね…」と秀忠はため息交じりに言った。
「…まさかだけど、その試験?」と幻影が考え込みながら言うと、「…何かあったの?」と秀忠がすぐに反応した。
女忍びの件を話すと、「…昼間っから押し込み強盗…」と秀忠はあきれ返って言ったが、すぐに真剣な目をした。
「…腕前を確認していたんだね…
その線は大いにあるね…」
「あとはついさっきあった、寺子屋の件」と幻影が言うと、「…今、家光が…」と秀忠は大いに動揺した。
「もう問題がないからここに座ってるんだ」
幻影の言葉に、秀忠は目が覚めたように目を開いて、「…そりゃそうだ… …信幻だっているんだもの…」と言って、安堵の笑みを浮かべた。
「武家は明日から全員くんなと言ったら、
太刀を抜こうとしたガキがいたから、
太刀を折っておいた」
「…ついに、やったな…」と秀忠は目を光らせて言った。
「ま、それを狙っていたことは、家光が少し話してくれたから、納得している」
「面倒になる前に飛ばそう」と秀忠は楽しそうに言って、隣室に行って机の前に座った。
幻影は何も言わずに側用人たちに頭を下げてから外に飛び出した。
話を聞いた以上、少々警護の手伝いをと思い、城下をゆっくりと見て回った。
騒ぎらしいものはないのだが、やけに広範囲に人だかりがある店を発見した。
―― 押し込み、か… ―― と幻影は思い、擬態布をかぶって、地面すれすれを飛んで店に侵入した。
―― 敵はひとりか… いや、奥にもいるかもしれない… ――
幻影は思って、刃物を構えて丁稚たちを大人しくさせている男の意識を断ってから、奥に続く廊下もすれすれに飛んで奥の間に行った。
するとこの店の主人を思しき者が倒れているが、怪我はしていないし生きている。
そして、部屋を物色している者にあて身を食らわせて意識を刈った。
幻影はほかにいないか探ったが、人の気配を感じなかった。
幻影は意識を断ったふたりの帯をもって外に出て、役人の前に放り投げた。
「押し込みはふたりで間違いないのか?」と幻影が聞くと、「いや、三人だと聞いている!」と役人のひとりが叫んだ。
「店の中に三人でいいの?」と幻影が聞くと、役人たちは相談を始め、「ひとりは外に出たそうだ」と答えた。
「だったらそれはさっき捕まえて引き渡した。
女の忍びだ」
「忍びが押し込み?!」と役人が言うと、「忍びだからこそやるんじゃあねえの?」と幻影はすぐさま答えた。
「じゃ、帰るぜ」と幻影は言って擬態布をかぶってから、素早く空に向かって飛んだ。
下界では、「消えた?! 消えた?!」と役人たちもやじ馬たちも大いに騒ぎ始めていたが、幻影は気にすることなく、琵琶御殿に戻った。
「ほう、大御所様抹殺計画」と信長が言ってにやりと笑うと、女性たちは一斉に手のひらを合わせた。
幻影は女性たちを横目で見ながら、「世間一般の希望でしょうか?」と幻影が信長に聞いた。
「ほとんどの一般人はそう思っていることだろう。
さらには大御所様に気に入られていない武家の半数」
「はは、多いですね」
「藤十郎の親父もそのひとりじゃないか…」と信長が眉を下げて言うと、「まだ和解はしていませんね」と幻影は現実を口にした。
「私たちが手を出し過ぎていると思われますか?」
「いや、それはない。
毎日ここに来ている秀忠は、
ここにいることを気に入っているだけだ。
家光のひとり立ちを確認したら、
自分は死んだことにして、ここに住みつくだろう」
信長が鼻で笑って言うと、「その幽霊は役に立たないんですけどね…」と幻影が眉を下げて言うと、「もっともじゃ!」と信長は膝を打って大いに笑った。
「暗殺計画の方は、候補が多すぎるので定かではありません。
昼間っからの押し込み強盗があったのですが、
ひとりだけ忍びがいました。
雰囲気から察して、服部の元部下かと」
「それは半蔵が何とかするだろう。
…そういった危ないやつらを抱えていたわけか…」
「実は押し込んだ時は三人で、
忍びの女は途中で店から逃げ出したそうです。
きっと作戦が失敗したと判断してのことでしょう。
ですが残っていたふたりのうちのひとりは意地になってお宝を物色していました。
ひとりは店にいて、もうひとりは奥。
多少は打ち合わせをして連携を取っていたように思います。
速やかに犯行を及ぼそうとしたんでしょうが、
客が店に入ってくれば、犯行を気づかれますから。
きっとの客はすぐに外に逃げたんだと推測します。
よって、忍びは作戦失敗を言い渡して逃げたんだと推測します。
多くのやじ馬が遠巻きに店を囲んでいて、
役人は手を出せず、下手人の出方を見ていたように感じました」
瞳を閉じてその状況を瞼の裏に見ている信長は深くうなづいた。
「忍びは、店に残っていたふたりを見捨てる算段を取っていたのかもな。
実は目的のものは、もう忍びの手の中にあるのかもしれんぞ」
信長の言葉に、「心当たりがあるので、ちょっと行ってまいります」と幻影は言って姿を消した。
長春たちが一斉に拍手をすると、「褒めるのは幻影が返って来てからじゃ」と信長は少し照れて言った。
幻影は女を捕まえた家の上空から瓦を見つめている。
―― あれか… ―― と幻影は思い、少し浮いている瓦を持ち上げると、小さな像を見つけた。
―― こりゃ、持って歩けないなぁー… ―― と幻影は思い、思案した。
幻影は瓦を元に戻して江戸城に飛んで、秀忠を連れてきて、「ほら、回収係、拾ってくれ」と幻影が言うと、「…こんな役ばっか…」と秀忠は言って、小さなマリア像を手に取って懐に入れた。
幻影と秀忠は江戸城に戻って、今回の押し込み強盗の目的の予測を語った。
「強盗犯を雇ったのは、大店の内情に詳しいやつだろうな。
クリスチャンであることの証拠をつかんで
戻ってくるように言いつけていたんだろう。
そしてその黒幕は、秀忠に自慢げな顔をする、とか…
さらにはその場で、秀忠を亡き者にする。
忍びの女は大人だったが小柄だった。
大男の衣服に忍び込んで、頃合いを見計らって飛び出して、
秀忠の首をかき斬る、とか…」
幻影が手刀で自分の首を落とす姿を見せると、秀忠はすぐさま首を抑え込んだ。
「身体検査は十分にした方がいいが、
半蔵は?」
幻影の言葉に、「…ここにいるよ…」と秀忠はため息交じりに言った。
「ふーん…」と幻影は言って、側用人を見るとひとり増えていて、そのうちのふたりが双子のように見えたので、大いに笑った。
「こりゃ気づかなかった!」と幻影は叫んで大いに笑った。
「…えー… どこだよぉー…」と秀忠が幻影に聞いてきたので、「おまえ、マジで言ってるの?」と幻影は大いに目を見開いた。
「ここにいるとだけ聞いていたわけだ。
だったらこのままで全然かまわないし、
説明しなくても、暗殺の手口はよくわかったと思う」
幻影の言葉に、側用人たちは一斉にうなづいた。
そして秀忠が気づかない理由もわかった。
幻影がいる場所からは六人いるが、秀忠のいる場所だと五人にしか見えないのかもしれないと考えたのだ。
よって側用人たちはこの事実は知っているわけだ。
「半蔵が夜這いに出るかもしれんから気をつけろよ。
思わぬところからご落胤が現れるかもな」
幻影が言うと、「するかっ!!」と誰かが叫んだ。
声色を使っていたので、誰だかわからない。
「忍びなら、この程度の仕打ちには耐えた方がいい」
幻影は言って、秀忠に別れを告げて外に出ると、笑みを浮かべている竜胆がいた。
「よう、久しぶりに姿を見せたな。
さすがだ、竜胆」
幻影は言って竜胆の頭を大いになでた。
「うふふ! うれし!」と竜胆は満面の笑みを浮かべて喜んだ。
「話、聞いたか?」
「うん、ちゃんと聞いたよ!」と竜胆は陽気に答えた。
「母ちゃんがちょっと頼りないから、
お前がきちんと頑張る必要もありそうだ。
だから油断はするなよ」
「うん! がんばるよ!」と竜胆は答えてから幻影を抱きしめてから、すぐさま消えた。
―― かわいいなぁー… ―― と幻影は目を細めて考えてから、琵琶御殿を目指して飛んだ。
「半蔵と竜胆も知ったので、
夜以外は問題なさそうです。
できれば竜胆も今は秀忠に付かせた方がいいかもしれません」
幻影が現状を説明すると、「信幻もこの件を知るはずだから、信幻の意向に任せる」という信長の言葉に、「御意」と幻影は答えた。
「さらには警護は忍びでなくても構わん。
寅三郎でも武蔵でもよい。
殺気に気付かぬ者たちではないからな」
「となると、信幻はしばらくは帰ってこないかもしれませんね」
幻影の言葉に、「…うーん…」と信長はうなって眉を下げた。
信幻も信長のかわいい我が子のようなものなので、想いは幻影と同じだった。
「…お志乃の相手でもするから別によい…」と信長はさらに眉を下げて言った。
その頃竜胆は幻影と同じほど久しぶりに信幻の目の前に姿を見せた。
もちろん連絡は取り合っているので何も問題はない。
「…やあ、久しぶり…」と信幻は大いに眉を下げて言った。
「…高願様にも言われましたぁー…」と、竜胆は嘆くような言葉を大いに照れくさそうに言った。
「…高願様に頭をなでていただきましたぁー…」
「…あ、うん、そうか、よかったね…」と信幻は大いに苦笑いを浮かべて言った。
「…あ、それと… 抱きついちゃったけど、
とっても穏やかな笑みを浮かべてくださいましたぁー…
…叱られなくてよかったですぅー…」
「…叱られることなんてほとんどないじゃないか…
…でも、よかったね…」
信幻はこの催しは何だろうかと大いに考え込むと、「実は」と竜胆はがらりと雰囲気を変えて、幻影と竜胆が知りえたすべてを順序立てて信幻に説明した。
すると家光が大いに怯えてしまい、信幻にすがるようにして寄り添った。
「…となると…
秀忠様を狙っていると見せかけて、
実は家光様が目当てということも考えられるね…
竜胆はしばらくは隠形しなくていい。
俺たちを守って欲しい」
信幻が真剣な目をして頭を下げると、「…この上なき幸せ…」と竜胆は穏やかに言って、信幻の左後方に座った。
「竜胆、では高願様は御殿に戻られたんだよな?」
「はい、そのように感じましたが、おかしいですね…」と竜胆は言っていぶかしげな顔をした。
「…高願様が放っておくはずのない緊急事態なのに、
どうして、御殿に戻られたのか…
弁慶兄と源次兄も来ていてもおかしくない状況だけど…
…あ…」
信幻はあることに気付いた。
もちろん今は信長に報告しているはずだが、幻影は戻ってこないと踏んだ。
「俺たちだけで何とかしてみろ」と信幻が言うと、寅三郎と武蔵に大いに気合が入った。
「正しくないかもしれないけど、
援軍は来ないとして、このあとどうするかを話し合うよ」
信幻は心の中で大いに幻影に頭を下げていた。
この大役を任される日がようやく来たと思い、全神経を集中させた。
「家光様、ご心配には及びません。
我ら家光様の旗本としての出番がようやくやってまいりました。
我ら一同、萬幻武流の全てを用い、
家光様をお守りいたしましょうぞ」
いつもの雰囲気とまるで違う信幻の言葉に、「心配など何もない」と家光は笑みを浮かべて言った。
「…君は刺客じゃないよね?」と秀忠は大いに怯えながら武蔵を見ている。
「信幻様の命令でやってまいりました。
必要はないと存じますが、
万が一を考えて、こちらで待機していた方が何かとよろしいかと。
家老様たちは慌てるばかりですので、
信幻様と将軍様が喝を落とされておりました」
「…あははは… それは頼もしいね…
ということは、幻影は来ないわけだね?」
「もしも私であれば、遠くから状況を見る役目をするでしょう。
それが一番の安全策かと。
ですが話の内容から、今日明日に来るとは限りませぬ。
よってしばらくは、厳戒態勢で待機させていただきます」
「…う、うん… よくわかったけど…
腰のものを持ってきた方が…」
「いえ、それには及びません」と武蔵は言って、両腕の小手から鉄の棒を出して、一気に広げた。
「円形の鉄扇でございます。
どのような攻撃であろうとも、
お守りすることはたやすいこと」
秀忠は目を見開いて、「…頼りになるぅー…」と大いに感動して言った。
「それもらってない!」と女子の声がしたが、その姿はない。
「また後日にでも請求すればよい」と武蔵は姿なき声に言った。
「…半蔵がどこにいるのかわかってるの?」と秀忠が聞くと、「我が師匠はお話にならなかったご様子」と武蔵が言うと、「…内緒なわけね…」と秀忠は大いに肩を落とした。
「ある意味、一番効果的な防御と言えますので。
確実に相手方に隙ができ、
窮地であろうとも簡単に逆転いたすことでしょう。
服部家は攻撃にも長けた忍びですので、
私の出る幕はないことでしょう」
「…い、いや、いてくれたら百人力だから!」と秀忠は大いに焦って言った。
本来ならば幻影にいてもらいたいところだが、それは甘えというもの。
その幻影の弟子たちが大勢で守ってくれていることで、秀忠の不安はなくなった。
この日から三日間は何事もなく過ぎて行った。
すると血相を変えた家老が秀忠に面会に来て、「琵琶高願様、ご病気のご様子!」と一声叫んだ。
―― 今日だな… ―― と武蔵は考え、大いに気合を入れた。
「…お見舞い、行くぅー…」と駄々っ子になった秀忠が懇願の目を武蔵に向けた。
「あとでお話が」と武蔵が言うと、「…あ、うん…」と秀忠は武蔵の様子から何かあると感じた。
「あいわかった!
こちらから見舞いの品を届けるように!
一日も早いご回復をとな!」
秀忠は大いに声を張って言った。
家老はすぐさま頭を下げて、天守から降りていった。
「今夜、襲ってくる可能性があります」と武蔵が言うと、「…やっぱ、仮病かぁー…」と秀忠は言って大いに眉を下げていた。
「ですがわれらの出番もないような気が…」
武蔵が眉を下げて言うと、「いてくれるだけでも心強いから!」と秀忠は気を吐いて叫んだ。
夕餉が終わった後、その時が来た。
「本多正純殿がご登城でございます!」
老中の言葉に、「わかった、通せ」と秀忠はすぐさま指示を与えて、上座で胡坐を組んだ。
武蔵は秀忠を守るようにして、廊下に近い場所に陣取っていて正座をしている。
すると、武蔵は少し笑ってしまったが、何とか堪えて噴き出すことはなかった。
見てはいけないものを見てしまったという感情だ。
本多正純が部屋に入って来て、武蔵を一瞥してから秀忠の前に座って頭を下げ、にやりと笑った。
「何をするかぁ―――っ!!」と護衛らの控室で叫び声が聞こえて、ちょっとした振動があった。
武蔵は素早く中腰の姿勢で秀忠の前に出た。
「来ませんな…
それに、やけに静かです」
武蔵の言葉に、正純はガタガタと震え始めた。
「なにがあった!」と秀忠が叫ぶと、奥の障子が空き、大男と小柄な忍びらしき女が縛り付けられていた。
その周りには信幻たちがいて笑みを浮かべて立っている。
その背後に、満面の笑みをうかべている家光もいる。
「暗殺は失敗のようじゃ」という秀忠の言葉に、正純が立ち上がろうとしたが、武蔵に肩を押さえつけられ、さらにはそのまま畳の上に強制的に叩きつけられた。
「寝たままでよい、事情を話せ」と秀忠の言葉に、正純は言葉を発することはなかった。
「琵琶高願がいなければ、簡単な仕事なんじゃなかったのか?!」と縛り付けられた大男が話し始めた。
「具体的にはどうなるはずだったのだ?」と秀忠が大男に聞くと、「この忍びが、秀忠の首を狩るだけだった!」と大男は小柄な忍びを見て叫んだ。
「ここに伏せているやつはお前の主ではないのか?」
「銭で雇われてきただけだ!」と大男は叫んでそっぽを向いた。
「忍びを隠す入れ物として雇われたわけだ。
正純、何も言わぬならそれでよい。
主は武士としては死なせん。
ただただ首を落とすだけ。
門を閉じ、沙汰を待て」
役人たちが大勢やって来て、正純を立たせて連れて行った。
「忍びは、伊賀者か?」と秀忠が聞くと、「はぐれた忍びでしょう」と半蔵は姿を現して言って、片膝をつけて頭を下げた。
「これで終わったわけではないと考えます!」と信幻が叫ぶと、「それは大丈夫だ!」と幻影が天守の外から叫んで、ゆっくりと浮かんできた。
「大久保忠隣の手のものを捕まえた。
もう役人たちに引き渡したから」
幻影の言葉に、「…仮病、使ったよね?」と秀忠が言うと、「誰にも見つからずに消えて調べまくるのはほんと面倒だった」と幻影は言ってにやりと笑った。
「鉄扇を出しなさい!」と半蔵が叫ぶと、「ああ、やるのを忘れてたな」と幻影は言って、小手から二本の鉄の棒を半蔵に投げた。
半蔵は鉄の棒を受け取って見入ってから一気に広げて、「うふふふ…」と機嫌よく笑ってから、元の鉄の棒に戻して、自分の小手に仕舞い込んだ。
「礼ぐらい言え」と幻影が言うと、「心はこもってないわよ、ありがと」と言って頭を下げた。
「…お母さん… 恥ずかしいから、きちんとお礼言ってぇー…」と竜胆が嘆くと、さすがの半蔵も少し焦って、きちんと正座をして、「ありがとうございました」ときちんと頭を下げて礼を言った。
「子供には弱いな」と幻影は言ってから、秀忠を見て、「今のところは問題ないと思うぜ」と言ってから、秀忠と内緒話をして夜空に消えた。
信幻たちは秀忠と家光に頭を下げてから、四日ぶりに琵琶御殿に戻った。