赤い幻影 akaigenei ~安住の地編~ 赤洞窟 akadoukutu
赤い幻影 akaigenei ~安住の地編~
赤洞窟 akadoukutu
この土佐の大灘に近いこの辺りは薩摩芋の産地でもあるので、売り物にならない芋はかなりあると思って信長の進言でやってきた。
やはりその通りだったようで、さすがに腐らせて肥料にするのはもったいないので、農民たちの腹に収めていたそうだ。
そして幻影たちは芋羊羹などの菓子などをかなり作って、ここでは祭りのようになっていた。
そしてこの村の作物で作ったことをここの殿に進言して、税を押さえてもらうことも伝えてから、高知城に登城した。
忠義はわずかこの短時間でここまでの成果を上げたことに、もろ手を上げて喜んだ。
そして製品を買うのではなく、税を押さえることを書面にして確約した。
製品が土佐藩で捌けなければ、ほかの藩に向けて輸出をすることも今までやっていたことなので、何も問題はなかった。
だが、かなりうまいものになっているので、奥が少々騒がしいらしい。
「あの琵琶家がっ?!」という話になって、奥の方からも税を下げるようにと進言して来たそうだ。
幻影たちは今回行ったふたつの村の件を法源院屋の店主にも伝えた。
もちろん乗り気になって、また別の村からも必要になるものだけを仕入れると確約した。
まさに、琵琶家とともに働けることを喜んでいた。
そしてそろそろ本題に入りたいところだったが、焦りは禁物だ。
その翌日は息抜きとして、長春の願い通りに、高知城から十里ほど東にある龍河洞に足を延ばした。
お布施もしっかりと支払って、幻影たちは反射鏡付きの提灯をかざして、素晴らしい鍾乳石などを堪能した。
まさに自然界の贈り物に、誰もが大きなため息をついた。
それほど広いわけではないが、所狭しと鍾乳石が生えているようにそびえているので、大いに堪能してから外に出た。
すると馬に乗った役人がいて、「車が目立ちますので助かり申した」と言って馬から降りた。
どうやら城の役人ではなく、この近隣の番屋の者たちらしく、気さくにあいさつをした。
そして役人は、忠義の悪口を並べ立て始めたのだ。
「どこもそれほど変わらぬわ」という信長の言葉に、役人たちは大いにうなだれた。
「ほんと、ここはまだ税だけだからいい方ですよ。
九州に行けば命まで奪っているそうですからね。
もちろん、見せしめです」
幻影がさらにあおると、役人たちは頭を下げて馬に乗ってこれ見よがしに駆け出した。
「思い通りにならんから怒りおった」と信長は言って鼻で笑った。
「…まあ、わからねえわけでもねえんですけどね…」とこの洞窟の管理人が言うと、「殿に聞いたから知ってるさ」と信長はすぐさま言った。
「…はあ… この程度ではまだ普通だということなのですねぇー…」と管理人は言ってうなだれた。
「だが、大いに栄えている村があってもいいと思うんだが。
特に海の方の漁師たち」
管理人は顔の前で手を振って、「そうでものねえそうなんでさぁー」と答えた。
「この悪循環では、働き甲斐も沸かないのでしょう。
やはり、さらに税を下げさせる必要がありそうです。
子供たちのための平和を勝ち取っておかねばならないでしょう」
幻影の信念の言葉に、「…そうか… 子供のために… だったら、やっぱり、生まれたのは女子…」と管理人がつぶやいた。
「なんじゃ、子供の件で何かあるのか?」と信長は大いにとぼけて聞いた。
まさかこの場所で、お園の話を聞くことになるとは夢にも思わなかったのだ。
案の定まさにその通りで、お園の生みの親はこの村の庄屋だった。
まさに姫として育ったのだが、農作業も大いに手伝っていた。
そして殿様が見初めたことで、一度武家の家に入ってから、城に輿入れを果たした。
しかし子が生まれたと伝わると同時に、城からいなくなったことも伝えられた。
そして正式には、養子先も庄屋にも城からは何も言ってこないそうだ。
もちろん、松平という姓までもらっておいて、恥ずかしくて言えたものではなかったのだろう。
当然これは藩主としての意地という考えでしかない。
しかし、うわさとしてはしっかりと伝わっていたわけだ。
「それはさておき、売り物にならない作物があれば買うぞ」という信長の言葉に、「本当ですかいっ?!」と管理人は大いに喜んで、お布施箱を開けるととんでもないほどの銭が入っていたことにもまた驚いてから、庄屋の家に案内された。
まずは商談をして、納得できたものだけを買い取って、この場で加工をすると、庄屋夫婦は目を見開いていた。
そして味見とばかり、またちょっとした宴会が始まった。
この村は二重に懐が明るくなったことで、庄屋夫婦以外は明るい笑みを浮かべていた。
「なんだ、うれしくないのか?」と信長が庄屋に聞くと、「いえ、滅相もございません!」と答えて、無理をして笑みを浮かべていた。
「何か悩みがあるのなら言ってみればいい。
何とかなるかもしれんぞ」
信長の言葉に、「…へえ、実は…」と言って庄屋は聞き伝えだとまず言ってから、お園の話をした。
「まずは、輿入れの断わりを入れなんだのか?」
信長の少し厳しい言葉に、「…無理やり、ワシらが…」と庄屋は言ってうなだれた。
「であれば、仕方のないことじゃ。
もしも生まれた子が女子ならば、
母と同じ目にあわせたくないと思って当然じゃろ?
だったら子を抱いて逃げても当然じゃろうて。
わかっている不幸をわざわざ背負わすわけにはいかなんだのじゃ。
よって、主らにどんな思惑があったのかは知らんが、
子を守らなんだお前らのせいじゃ」
信長の言葉に、庄屋の妻は手で口を押さえつけて膝から地面に崩れ落ちて泣いた。
「娘はもう死んだとあきらめろ」と信長は大いに怒って、憤慨した勢いで戦車に乗り込んだ。
幻影たちは今後のことだけを庄屋に告げて、信長に倣った。
「…ワシの道は間違っておらんかった…」と信長が笑みを浮かべて言うと、「今更ですね」と幻影が明るく答えた。
「もっとも、本当に死にかけてましたから、
死んだというのも、全くの間違いではございません」
幻影の言葉に、「さあ、最後の詰めじゃ」と信長が明るく言うと、戦車はゆっくりと走り出した。
まずは法源院屋の庭で、うどんの食事を摂ってから、信長を筆頭にして登城した。
忠義は満面の笑みを浮かべて、謁見の席に座ったが、「龍河洞でちょっとしたうわさを聞いた」と信長が言うと、忠義の顔色が変わった。
そして聞いた話をすべて語り、信長が語った言葉も添えると、忠義は何も言えなかった。
「ま、武家社会では当然じゃろうが、
それ以外に無理強いすることはしてはならんことじゃ。
武家は武家の中だけで、ことは済ませるべきじゃ。
妙な欲を持つから大ごとになるんじゃ。
よって、園部という女官はもう死んだとすればよい。
世継がおらんわけではないんじゃろ?」
忠義は力なくうなだれた。
「この件はこの琵琶信影が背負ってやる。
よって、園部とその子は死んだと一筆書け。
もしもお上がうるさく言ったとしても、
ワシらが抑え込んでやる。
上様には多くの貸しがあるからな」
忠義は深くうなだれるように頭を下げて、二通の書を認めた。
一通は将軍に送るもので、一通は信長が持っておく証拠の品のようなものだ。
「ワシらに言伝があるのなら、法源院屋に言いつけろ。
この城の目の前にあるから、よく知っておるじゃろ?」
「…はっ この度はお世話になります…」と言って頭を下げて書を信長に渡した。
「あとはじゃ、
龍河洞で長宗我部らの残党の役人にあった。
色々と言いおったが、
比較的どこでも同じと言っておいた。
やつらは大いに怒っておったが、嘘はいっとらん。
いい政治をしたいのであれば、税をさらに抑えろ。
そうすれば、多くの者に働き甲斐が出る。
多くの税のために、働く意味が見出せんのじゃ。
ここは上の立場の者が、下の者の気持ちを察する必要があるじゃろうて」
「…働く意味が、見出せぬ…」と忠義はつぶやいてからうなだれた。
「働いてもほとんどとられるんだったら、
働いている意味などない。
そろそろ本当の平和の意味を考えるべきじゃと思うんだがな。
競うなとは言わんが、それに確執するな。
その欲があるから、民の全てが苦しむのじゃ。
もしも、農民が全て消えたとしたら、この国はなくなるんだぞ?
まずは、国民の心の安寧を考えろ。
もしも違えるのであらば、
農民をこの土佐からすべて消してやる」
信長の本気の言葉に、忠義は大いに怯えた。
不可能を可能に変える琵琶一族にできないことは何もないのだ。
「…すべてを、一から考え直そうぞ…」と忠義はつぶやいた。
「他には… まだあったか?」と信長が幻影に聞くと、「街道整備、花火大会、新事業開発、といったところです」と幻影が答えると、「…これを言ったヤツ、世間をなめとるな…」と信長が忠義をにらんで言うと、「…望みがやき…」とつぶやいてからうなだれた。
「のぞみがやき?」と信長が聞くと、「土佐の方言で、望みを言っただけという意味です」と幻影が答えた。
「そんな焼き物があるのかと思った!」と信長は陽気に笑って立ち上がった。
そして歩き始めると、幻影たちも一斉に歩き始めた。
「さあ! 帰るぞ!」と信長が機嫌よく叫んで戦車に乗り込むと、「…鯨、見てないよ?」と長春が今にも泣きそうな顔をして幻影に言った。
「呼んで来てくれるのならそうするさ」と幻影が言うと、「さもありなん!」と信長は陽気に叫んで膝を打った。
だが、海辺を走っていると、海が騒々しい。
多くの漁船が一斉に船を出したのだ。
「戦艦、出せ!」という信長の鶴の一声に、戦車はさらに速度を上げて、砂浜に出てから戦艦を下ろして、漁船の邪魔にならないように遠くから鯨漁の見学をした。
だが、もろくも敗れ去った漁船が多く出て、さすがに対抗できずに仲間を拾って陸に戻った。
「よかったぁー…」と長春は言って、勝ち戦とばかりに潮を噴き上げている鯨に明るく手を振った。
「あんま、陸に近づいちゃダメだよぉー!!!」と長春が叫ぶと、大きな尾びれを上げて、とんでもない水しぶきを上げてから、鯨は消えた。
「…鯨肉… ま、諦めるか…」と信長は言って大いに苦笑いを浮かべた。
「…長春様の僕となったようだから、斬るに斬れぬ…」と蘭丸は大いに悔しがった。
「犬や猫たちと同じだよ?」と長春が言うと、「魚ではないのか?!」と蘭丸は叫んで幻影を見た。
「生物の種類としては俺たち人間と同じ哺乳類だ。
魚ではない」
「…知らなかったぁー…」とつぶやいたのは蘭丸だけではなかったので、幻影は大いに笑った。
船を出したことで、このまま水行で帰ることになった。
もっとも、陸地を行くよりも、水上の方がはるかに楽だし早く着く。
戦車二台を戦艦につなぎ、右手に陸地を見ながら船は伊予を目指した。
宿毛の辺りに船が差し掛かったが、何も変わったことは起こっていない。
もしもなにかあれば、法源院屋から言ってくるはずだ。
夕暮れ迫る宇和島城も物見遊山のひとつとして眺めながら、わずかに進んだだけで松山城が見えてきた。
港に戦艦を上げた時、もうすっぽりと夜となっていた。
沙織を城に届けようと思ったが、猛然と拒否されたので、城には寄らずに琵琶御殿に戻った。
琵琶家の雇った者たちに紛れて、少し心配そうなお園と元気そうな甚太の姿もあったので、信長はお園と甚太を謁見の間に呼んだ。
ふたりは大いに緊張したが、誰もが朗らかなので、すぐにその緊張を解いた。
信長は書を出し、「ふたりは死んだものとなった」と信長は言って、蘭丸に書を渡した。
蘭丸はまずは内容を読み上げて、お園に確認させた。
「…相変わらず書はうまいわね…」とお園が言うと、信長は大いに笑った。
「それと同じものを上様にも提出する。
お園と甚太は死んだものと認定されることだろう。
よってふたりは幽霊となるのだが、
それでは忍びない。
おぬしらはどの家に入りたいか?」
信長の言葉に、「どうか、御屋形様の元に」とお園は言って頭を下げたが、甚太はそうではないらしく、幻影を見ていた。
「ではお園はワシの養女に、甚太は幻影の養女としてよいか?」
信長の言葉に、「…えー…」とお園が大いに嘆いた。
「その方が都合がよい場合もある。
別の家に入ったとしても母子の縁が切れたわけではない。
お園は松山城下の法源院屋で働けばよいし、
甚太は寺子屋に通えばよい。
そして夕餉朝餉は席を隣にして母子として過ごせばよいだけじゃ」
信長の言葉に、ふたりは同意して頭を下げた。
信長と幻影はふたりを養子として認める書を書いて、沙織が承認した。
「…織田園部…」とお園が感慨深く言い、「…なんて読むの?」と甚太が幻影に聞いた。
「真田早苗だ」と幻影が言うと、早苗は女の子らしい満面の笑みを浮かべた。
「実は、ワシらも幽霊仲間じゃ」と信長が言うと、もう察していたお園は笑みを浮かべてゆっくりと頭を下げた。
そしてひと通り説明を聞いて、「ぜひとも、世直しの一員として働いていきたいと思っております」とお園は言って、深々と頭を下げた。
「時には物見遊山の旅にも付き合ってもらおう。
旅をするとな、賢くなるのじゃ」
信長が早苗に言うと、「…そうなんだぁー…」と小さな声で言ってから、満面の笑みを浮かべた。
「土佐の海で、でっかい姿の鯨を見たのよ!」と長春が陽気に言うと、「…えー…」と早苗が大いに困惑して言って、お園を見た。
そのお園も目を見開いていて、「…山に住んでたから見たことないぃー…」と大いに嘆いた。
そして鯨漁に失敗したことを語ると、お園と早苗は逆の感情をあらわにしていた。
お園は嘆き、早苗は喜んでいたのだ。
「まだまだ、かわいい子を養子にせねば」と信長が穏やかに言うと、「そういたしましょう」と幻影は笑みを浮かべて言って頭を下げた。
幻影が早速その鯨の絵を描いて披露すると、お園と早苗だけではなく、家族たちも大いに見入っていて感動していた。
漁師の船や漁師の姿なども描かれているので、その大きさがよくわかる。
「…鯨って、こんなにも大きかったのね…」とお園が大いに嘆くと、「この鯨は大きい種類のやつだよ」と幻影は言って、様々な鯨の絵を縮尺を統一して描いた。
誰もが大いに感心していたが、「海豚海豚!」と長春が陽気に言ったので、素早く小さな海豚を書いた。
「大きさの違いがよくわかる。
海豚は人間の大人の大きさとほぼ同じだからな。
さっきのでか物は、まさにこの絵の通りじゃ」
信長は機嫌よく言った。
誰もが大いに感心して、今宵の夕餉が運ばれてきた。
「なんじゃ、幻影はさぼりか…」と信長は言いながらも、機嫌よく料理を食べ始めた。
「たまには誰かに作っていただきたいのです」と幻影は言ってから、「…あー、うまい…」と言って笑みを浮かべた。
うどん屋で働いている者たちにすべてを任せたので、うまいのは当然だった。
まさに、幻影の料理の弟子でもあるからだ。
するとどこでかぎつけたのか、嘉明がやって来て、夕餉の仲間になった。
「…しょうのない奴じゃ…」と嘉明は言って沙織を見た。
「私だって、ある意味お園さんと同じだったもの…
最後まで見ておきたかったの」
沙織の言葉に、嘉明は大いに眉を下げていた。
もちろんお園は大いに興味を持ち、―― 武家の宿命… ―― と思いながらも否定して、やはり辛いものがあったと思い、詳しい事情を聞きたかった。
「私なんて一度もお呼びがかからなかったけど、
もし子ができていたら、お園さんと同じことをしたかもしれないわ」
沙織がお園の気持ちを察して言うと、―― これもつらい… ―― とお園は思って、沙織に同情の目を向けた。
「あ、その理由、伝えたっけ?」と幻影が聞くと、「先代の好みだったってことは聞いたわ…」と沙織は大いに眉を下げて言った。
「…今になってひどいことをしていたと、つくづく思う…」と嘉明は言ってうなだれた。
「お家存続のためじゃ。
そしてさも当然のように探り合いの人質同然の養子縁組などが横行したが、
今はもうそのような古い体制は必要ないことじゃ。
お家など、快く養子を取ればなんとでもなる。
それよりも民のためのよき政治じゃ」
「はっ 御屋形様」と嘉明はすぐさま頭を下げた。
「嘉明はまだおだやかな方じゃ…
高虎と山内は、似たり寄ったりじゃな…
政治を戦に置き換えて、勘違いしておるやつらじゃ…
できれば次がまともであるようにと願うばかりじゃ…」
「…うう… 耳が痛い…」と嘉明は言ってうなだれた。
嘉明が元気なうちならまだいいし、問題があれば他の地への配属となり、政治が大きく変わることもある。
今はできればあまり変えてもらいたくないのだが、江戸からの鳩が、その転封の情報を乗せてやってきた。
「…今更ながらですね…」と幻影は言って眉を下げて信長に書を渡した。
信長は、「ふん」と鼻を鳴らしただけで、書を藤十郎に渡した。
「あら? ご主人様に文が届いたわ!」と長春が陽気に言ったが、藤十郎の顔には困惑が浮かんでいた。
「私の父は、目の前に坐します」と藤十郎は堂々と言うと、信長は満足そうにうなづいた。
「そうであるのなら真意を聞いてこい。
大いに興味がある」
「…ああ… 新婚旅行…」と長春は大いに期待していた。
「護衛も必要だから、また家族旅行になるじゃないか…」と幻影が眉を下げて言うと、「…信濃は行ってないぃー…」と長春は大いに眉を下げて言った。
「…ああ、上野にも行きたいわぁー…」と濃姫まで言い始めたので、「…あえて行かなかったのだがな…」と信長は言いながらも、「旅の準備」と信長はぶっきら棒に幻影に告げた。
物見遊山も若き徳川信幻にとっては大いに勉強になる一大事に近いことだ。
しかも、藤十郎と幻影の幼き日に過ごした場所でもある。
その地に行って何かを感じることもいい経験となるのだ。
藤十郎の父である、真田信之が上田城の再築城を申し出て、秀忠に却下され、さらには別の地に送られてしまったのだ。
噂によると、上田城跡地に居を構えて政治をしていたという。
秀忠にとって、大いに心配の種になるこの件は、幻影には伝えたくなかったのだが、あえて伝えたのだ。
よって琵琶一家が信濃に旅立つ前に、幻影はひとり江戸城に飛んだ。
天守には秀忠がいて、いつもの顔ぶれの側用人が一斉に丸めた和紙と筆を出したことに幻影は笑った。
「…よくも叔父ちゃんを左遷してくれたなぁー…」と幻影が言うと、「…うう…」と秀忠はうなった。
「上田の地はな、俺と藤十郎さんにとって、
誰が聞いても確かに懐かしい土地だと思うことだろう。
だがな、俺たちにとっては地獄でしかなかったんだ」
「…怒り過ぎちゃったかなぁー…」と秀忠は大いに眉を下げて言った。
「そのせいで、信州に物見遊山に出る羽目になった」
幻影が渋い顔をして言うと、「…ますますごめん…」と秀忠は大いに眉を下げて謝った。
「姫筆頭の長春が言い出したら聞かないからな…
へそを曲げるとずっと不貞腐れたままだ。
嫁に行ったのに、まだ実家にいるし…
だからこそ、我が家は平和なのかもしれんけどな」
「…はあ… いいなぁー…」と秀忠は本気で琵琶一家をうらやましく思った。
「きちんと顔を突き合わせて話をしないと納得できんと思ったから来たんだ。
だが、これが最後の秀忠の杞憂だったと思うけど?」
幻影の言葉に、「書を送ってよかった」と秀忠は笑みを浮かべて言った。
「もっとも上田城には行商人として行ったことがある。
関ヶ原の戦いのほぼ前日に」
「…状況を俯瞰で確認できることはうらやましい限りだよ…」と秀忠はその上田城に進軍を阻まれてしまった黒歴史を思い出していた。
「慌てて江戸に戻ったさ。
疑われたくねえからな」
「…楽しかった日々をどうもありがとう…」と秀忠が大いに礼を言うと、幻影は腹を抱えて笑った。
「しかし、秀忠を怒らせたということは、
叔父ちゃんは何か野望を持っていたと思ったわけ?」
「…我への嫌がらせ…」と秀忠が言うと、「…はあ… それはわからないでもないね…」と幻影は眉を下げて答えた。
「だがそれが本当の秀忠の想いだったんだからいいんじゃない?
俺は疑わなけど、ほかの者は大いに疑うだろうね。
なんでも、上田城跡に居を構えていたって?」
「…それも禁止したいほどだったんだ…」と秀忠は眉を下げて言ったが、幻影と語り合えたことで笑みを浮かべた。
「俺たちのお師様からみて、叔父ちゃんは敵となった。
さらには息子である藤十郎さんは、
信長様を父と言った。
生みの親よりも育ての親の方がはるかに大きいからね。
だが、藤十郎さんの産みの親の意見も聞いておきたいと思ってね。
今更上田城ひとつで何かができるわけでもない。
ただの田舎の城でしかないんだ。
だが問題は、上田城周りに住んでいる住民の感情、だよなぁー…
やはり殿様は真田がいいと、特に年寄りは思っているような気がする」
「…頃合いを見て、許可を出して元に戻すよ…」と秀忠は譲歩して言った。
「本来なら大名を解いて旗本でもいいほどだよ」
幻影の厳しい言葉に、「…あはははは…」と秀忠は笑うしか手がなかった。
「上様は、まだまだ器が小さいと言ってよろしいのか?」と側用人が幻影に聞くと、「そろそろ斬り捨てられちゃうよ?」と幻影が眉をひそめて答えると、「…腹は立つけど、いてくれて助かってることが多いから…」と秀忠は大いに側用人を弁護した。
幻影は松山に戻り、家族と合流して、松山の港から堺を目指した。
内海を大いに堪能して堺から一路安土を目指し、大歓迎を受けた後一泊してから、長浜を経由して岐阜を突っ切るようにして走り、戦車二台を宙に浮かべて高い山脈を飛び越えて信濃に出た。
上空からの景色はまさに絶景で、誰も見たことがない景色だった。
戦車は誰もいない場所に降り立って、真っすぐに上田の町を目指した。
ここには法源院屋があるからだ。
店主は大いに驚いたが、対応はどの店主も同じで、早々に戦車を庭に招き入れた。
「…すっごい田舎だわぁー…」となぜか長春が感動していた。
するとこの地に真田信之の代わりに赴任となった仙石忠政が法源院屋を訪れてきて、琵琶家に面会を申し出てきた。
戦車が大いに目立つので、この地の殿様が気づいても当然だ。
店主は信長の許可を得て、忠政を庭に案内してきた。
赴任して早々だが、色々と悩みができたそうだ。
まずはなぜ、信之が別の地に行ったのかを、武士に限らず農民町人から問い詰められたらしい。
まさにいい政治をしていたようで、殿様への信頼は厚かったようだ。
もちろん、店主からも幻影がやんわりと事情を聞いてその確認もできた。
信之はまさに質素で、今以上の地位を欲する気はないようで、最低限の税だけを課していたにすぎない。
この件については、忠政が眉を下げるほどに質素だったという。
よって国の民の信頼を留めるため、課税を変えないことは通達を終えている。
「色々と準備はありましょうが、
仙石様が上田城再建を申し出ていただくと、
更に民たちからの信頼を受けると存じます。
もちろん、上様には直接面会して、
前真田家当主との確執はないと説明してありますから。
幕府もやんわりと対応するはずです。
真田家と何のかかわりもない仙石様が進言されることで、
簡単に叶うことになりましょうぞ」
幻影の説明に、「…噂によると、高願殿は真田の末裔だとお聞きしている…」と忠政はできれば聞きたくなかったことを口にした。
「正確には、武田と上杉の末裔です」と幻影が堂々と言うと、「その母です」と阿国が幻影に追従して言ってきた。
そしてその正体が妙栄尼と知ると、忠政は大いに恐縮を始めた。
松山、宇和島、江戸での寺子屋の件は、大名たちに轟き渡っていたからだ。
さらには松山の現楽涅槃寺にも参拝したので、正確な情報をすべて目にして知っていた。
真田の話はどこかに行ってしまって、寺子屋建設のあっせんに変わってしまっていた。
これからの時代はやはり勉学にあると忠政は思っていたからだ。
さらには今話題の利発な徳川信幻とも挨拶を交わして、忠政は有頂天になっていた。
「…今回は、国のお付きがおらぬようだが…」と忠政が知りえた情報から察して聞くと、「普通に物見遊山ですから」と幻影が眉を下げて言った。
「ですが松山に帰ると、姫のへそが曲がることは必定でしょう。
ほぼ毎回、旅に同行しておりますので。
同行すればしたで、登城することが面倒です」
幻影の辛らつとも取れる言葉に、「…あいや、邪魔をしてしまった…」と忠政は言って、早々に引き上げていった。
「早速のお得意様になってくださいました」と店主が笑みを浮かべて信長に告げた。
「となると、信之はかなりの倹約家だったようだな」
「…はい、そうかと…
お城に出向いてあいさつした一度だけしかお姿を見ておりませぬので。
もちろん、城の配下の方は見えられましたが、
個人消費のものばかりでした」
「その個人消費のものを分けてもらっていたのかもな」と信長が言うと、店主を一瞬驚いたが、「そうやもしれませんなぁー…」と穏やかに同意した。
「暑さも終わりそうだから、残暑見舞いでも持っていくか…」と幻影が言うと、「ああ、それがよい」と信長は機嫌よく同意した。
店主に庄屋を紹介してもらうように言うと、加工のために安い食材を大量に仕入れていたという。
半分以上が米だったので、せんべいを中心に焼くことに決まった。
庭はまさにせんべい屋工房と化して、日が暮れるころに一息つけることになった。
そして仕入れた蕎麦粉で蕎麦を打って、「む! やはりこれも捨てがたい!」と信長は言って、大いに食った。
幻影と藤十郎は信長の許可を得て、上野の国を出て信濃の国に入り、松代城に走った。
まさにこの辺りはふたりにとって遊び場でもあったので、懐かしくも思っていたのだ。
城にたどり着き、「たのもう―――っ!」と幻影が大門の前で叫んだのだが、門番は目の前にいた。
「真田玄武丸と真田幸村が参上したと、殿にお伝え願いたい!」
老人でしかない門番は徐々に目を見開き、「…あの頃の小童かぁー…」とまるで魂が抜けだたように驚いていた。
「爺ちゃんとは面識があったようだね」と幻影が気さくに言うと、「…ま、ま、待っておれ…」と門番は言って振り返ってすぐに転んだが、すぐさま立ち上がって、「殿ぉー! 殿ぉー!」と叫んで走って行った。
「…あー… なんとなく、あの人はいたって思い出しましたよ」
藤十郎が穏やかに言うと、「俺は覚えてないなぁー…」と幻影は答えた。
幻影の伝えたふたりの幼名は、信之であれば確実に記憶があるからだ。
そのどちらも、信之が決めた名だったからだ。
すると、「さっさと参られよ!!」とかなり遠くから門番は手招きをしながら叫んだ。
幻影と藤十郎は一瞬にして門番の前に立って、「爺ちゃん、案内を頼むよ」と、幻影は気さくに言った。
門番は大いに焦ったが、幻影に抱えられるようにして謁見の間に入った。
信之は目を見開いて幻影と藤十郎を代わる代わるに見て、「…ともにあるとは知らなんだ…」とまるでうわごとのように言った。
「叔父ちゃんも元気そうでよかったよ」と幻影が言うと、「こら! お殿様と呼べ!」と門番が叫んだが、「ワシが殿と呼ぶお方じゃったはずだから」と信之は穏やかに言った。
「へ?」と門番は言って、幻影をまじまじと見た。
「高野山の大天狗、琵琶高願の方が名は知られてるよ」と幻影は言って、座ったまま宙に浮いた。
門番は目を見開いたまま動かなくなった。
「昇天した?」
「…何とか生きとる…」と門番は言って、大いに涙を流して、「…御屋形様ぁー…」と大いに泣きだして、畳に頭をこすりつけた。
「信玄公が俺の父親だって知ってる人は少なかったと思ってたんだけどね」
幻影の言葉に、「その少ない生き証人でもある」と信之は笑みを浮かべて言った。
そして、「また父と弟とともに、上田で暮らしたいと思っただけじゃった」と信之はいきなり言った。
「その件は秀忠に直接話して納得させたから」という幻影の言葉に、「…そうだったな… 上様は天狗とは懇意にしていると聞いていた」と信之がいうと、幻影と藤十郎は立ち上がった。
「話すべきことは話して、聞くべきことは聞いたから。
用ができたらまた来るよ」
「…そうか、忙しいところ騒がしくしてすまん…」と信之は言って頭を下げた。
「だが、幸村はできれば、ワシの跡を継いで欲しいのだが…」と信之は欲を出していった。
「我が父は、織田信長公ですから」と藤十郎は穏やかに丁寧の言ってから廊下に出た。
「俺も同じだよ」と幻影は気さくに言って、素早く頭を下げてから廊下に出た。
信之は言い知れぬ倦怠感に、脚を崩して畳に寝転び大の字になった。
―― ワシの選択は違えておった… ―― とつくずく思い知っていた。
幻影と藤十郎がかなりの素早さで走っていると、前方がやけに騒がしく感じた。
するとこともあろうか、与助が幻影の親族の上杉於通を追いかけていたのだ。
よって幻影は、与助に手を貸して簡単に於通を捕らえた。
於通とは言わずと知れた信楽お京や長浜お梅と名乗っていたお騒がせの女中の姫様忍びだ。
今はすっかり年を取っていて、幻影の祖母のように見える。
「お願いだから行かせてぇー…」と於通が涙を流して訴えると、男三人は大いに眉を下げて顔を見合わせた。
「まさかだけど、信之様のことが好きなの?」と幻影が聞くと、於通は深くうなだれたが、その姿のままうなづいた。
「だけどあんた、ただの年寄りにしか見えないぜ?」
幻影のかなり失礼な言葉に、「…それでもいい…」と真剣な目をして言って、目の前にある草をつかんで、少しでも前に出ようと頑張った。
「ま、いっか」と幻影は言って、手のひらを於通の顔と腰に当てた。
「ほら若返った!」と幻影が陽気に言うと、「馬鹿にしないで!」とまさに四十ほど若くなった於通が叫んだ。
若くなった分眼光が鋭く、「…おー怖え…」と幻影は眉を下げて言った。
幻影が与助に向かってうなづくと、与助は於通の拘束を解いた。
於通は何も言わずに、松代城に向かって走って行った。
「叔父ちゃんが少しでも元気になれたらいいかぁー…」と幻影は言って笑みを浮かべた。
「…早く素直になって打ち明ければよかったのに…」と藤十郎が大いに呆れて言うと、「信之様は正室と側室を次々と亡くされてな…」と与助が苦笑いを浮かべて言った。
「…まあ、それなりの年だからなぁー…」と幻影は大いに納得して言った。
「面倒なヤツに付き合わせてしまって、本当に助かった、ありがとう」と幻影は言って、与助も若返らせた。
「若い姿のまま、納得して死を迎えられるから」という幻影の言葉に、与助は大いに納得して、そして感謝して頭を下げた。
幻影は信長に一部始終を説明して、「今回の信之の左遷の騒ぎは、正室と側室を亡くしたことが根本の原因ということでよいのか?」と信長が聞くと、「はっ 間違いないかと」と幻影は答えて頭を下げた。
「…心まで老いたくはないな…」と信長は感慨深げに言った。
「さらには上杉於通にとっても、
信濃の国であれば里帰りのようなものなので、
都合は良かったと」
「…ま、そうじゃな…」と信長は言って、幻影と阿国を見た。
「よって我らが於通に振り回されていた理由は、
ただの時間つぶしで、その間に少しでも忍びの技を磨き上げ、
信之様の連れ合いがいなくなるのを待つという、
修行だったようです」
幻影の言葉に、「…なかなか壮大な意思をもって有意義に生きているようじゃ…」と信長は言って何度もうなづいて濃姫を見た。
「毎日充実してて楽しいわよ?」と濃姫が言うと、信長は大いに笑った。
この上田の地は、大きく目立つものと言えば浅間山が目と鼻の先にある。
このお山は何度も噴火を繰り返していて、最近では約十年前に噴火をしてからぴたりと止んだが、全く油断ならないそうだ。
長い場合は五十年程噴火をしないことがあるようだが、多い時は毎年噴火を繰り返すという記録が残っている。
現在はかすかに噴煙を上げている程度で、全くもって穏やかだ。
よって温泉も多いので、浅間山を眺めながらの入浴もおつなものだった。
「…冷たいごはん… 冷たいごはん…」と長春が呪文のように言い始めたので、法源院屋ごと巻き込んで、信州冷やし蕎麦大会が始まった。
「…まあ、夏限定だし、
夏ばてや夏風邪をひくよりはいいだろう…」
幻影は自分に言い聞かせるように容認した。
旅の第二日目が終わろうとしていた夕刻、一羽の鳩が飛んできて訃報を知らせた。
「讃岐高松城の殿さん、死んだって」と幻影が眉を下げて言うと、真っ先に妙栄尼が手を合わせた。
「…殺しても死なないほど元気だったはずなのに…
人生ってわかんないものだね…」
幻影はつぶやきながらも手を合わせた。
「うまいうどんを食えたんだから別にいい」と信長は言って、弔いの言葉とした。
「高虎が後継の後ろ盾になるそうです。
世継の嫡子高俊はまだ十才だそうです」
「…任せておけばよかろう…
というか、なぜ文が来たんだ?」
信長は大いに怪訝に思って聞いた。
「…んー… 嘉明様の真似ができるからうれしい… とか…
要件はなく、この事実を知らせるだけのものです。
書に仕掛けもありません。
この鳩は、高虎に渡していたものですし…
高虎は世話焼きですので、
慣れたものだと思いますが…」
幻影が不安そうに言うと、「実は、助けてくれとでも書きたかったのではないのか?」と信長がにやりと笑って言うと、「様子だけ探ってきましょう」と幻影は言って、ほとんど暗くなった夜空に紛れて消えた。
まだ残暑が厳しいのだが、日が落ちればかなり涼しくなる。
真っすぐに飛べば、讃岐までは簡単にたどり着く。
さらには西に飛ぶので、ずっと明るいままとなり、あっという間に讃岐高松城を確認できた。
ここは高虎の邪魔はしないと決めて、幻影は擬態布をかぶって、まずは天守に行った。
しかし小姓がいるだけで誰もいない。
よって夕餉時かと思い、城の最下部まで降りた。
―― ああ、そういうこと… ――
幻影は世継の生駒高俊が泣き止まないことに困っている高虎を見て少し笑ってしまった。
だが、さすが善意の人と思い、少々考えてから、工房に忍び込んで様々なおもちゃを作り出し、持っていた駄菓子も箱に入れた。
そして中に入っているものを書に認めて箱に張り、『生駒高俊よ、欲しいのなら開けてみろ 天狗』と書いた。
すると、廊下に現れた女中を驚かせないように話をして、箱を手渡してから、すぐに夜に紛れた。
女中は天狗の存在を知っていたようで、全く躊躇することなく、箱を抱えて食堂に駆け込んだ。
辺りはもうすっかりと夜なので、帰りは勘だけで飛んでいると、明るい光が見えた。
浅間の山の火口がわずかに赤く光っていたのだ。
わずかにある町の灯も目印となったし、法源院屋が煌々と辺りを灯していたので、迷うことなく帰り着いた。
「夜はさすがに飛ばない方がよさそうです」と幻影が眉を下げて言うと、「…よく帰り着いたものだ…」と信長は言って鼻で笑った。
「おかえんなちゃい」と阿利渚が舌足らずの言葉で幻影に言うと、幻影は満面の笑みを浮かべて阿利渚を抱き上げて、「ただいま」と答えた。
阿利渚はようやく首も座ってつかまり立ちができるようになっていた。
そして言葉も、短いものであれば何とかわかるほどに、おしゃべりになっている。
「…高虎様への友情に免じての褒美だぁー…」と蘭丸が何の威厳なのか少々恐ろしい声で言った。
蘭丸としては照れくさいのだが、何とか労いをと考えてのことだったのだろうと、幻影は察した。
「だけど、これで高虎の手伝いをする必要はできただろうな…
だが、何とかしてあの泣き癖は更生させた方がいいと思うんだが…
あの殿さんの教育が不十分だったんだろうなぁー…
年令は才英と同じほどなのに…」
幻影が愚痴を言うと、「…この先の殿様は、そうなっていくもんじゃろうて…」と信長はつぶやいた。
もちろん、誰もがその通りだと思ってうなづいている。
「となると、世襲制は失くした方がいいのかもしれませんね」
幻影の言葉に、誰もが目を見開いたが、「いや、それが、この先の政治の正しい在り方やもしれぬ」と信長が言った。
「だけど、今の武家社会では受け入れられない…」
幻影の言葉に、誰もがすぐさま同意してうなづいた。
様々な杞憂を胸に、幻影たちはこの日は何とか眠って、翌朝早くに安土に飛んだ。
さすがに戦車二台だと幻影が疲れてしまうので、今日はこの安土で休養してから松山に戻る。
すると鳩が飛んできて、幻影に不吉な予感が過った。
鳩は幻影を嫌がったようで長春の腕に止まった。
長春は眉を下げながら書簡を出して、幻影を上目使いで見て書簡を渡した。
「…怒ってるなぁー…」と幻影は言いながらも書簡を開いて、まずは、「…ちっさぁ――…」とつぶやいた。
よくも筆でこれほど小さな字を書けたもんだと大いに感心して、沙織が相当怒っていることをさらに知った。
そして最後の一行に、『罰として藤堂様のお手伝いをなさるように』とほぼ命令の文章があった。
「読まれるのも修行です」と幻影は眉を下げて言って、書簡を信長に渡すと、苦笑いを浮かべながらも拡大鏡を出して読み始めた。
すると数頭の馬が走って来て、「高願殿ぉ―――っ!!」と若い声を上げて、彦根城主の井伊直継がやってきた。
「やあ! 若殿様ぁー!」と幻影は右手を上げて気さくにあいさつをした。
彦根藩主の直継が自らやってきたのには理由があって、来年早々にようやく彦根城が完成するそうだ。
できればその式典に、琵琶家も参列して欲しいという要望だった。
直接銭を払ったわけではないのだが、高額納税者でもあるので、呼ばないわけにはいかないと、若いながらも芯をしっかりと持って言い放った。
「ああ、出るだけならいいよ」という幻影の気さくな返答に、「…ああ、よかったぁー…」と直継は大いに安堵の笑みを浮かべた。
「できれば積もる話をしたいのだが…」と直継が少々戸惑いながら言うと、「…松山の姫様の命令を受けててね…」と幻影が苦笑いを浮かべて言った。
直継は幻影に大いに同情してから、役人たちを引き連れて城に戻って行った。
「…ふむ… 特に用はなかったようだが…」と幻影が考えていると、「次は昼餉の時にでもやって来そうだわ…」と政江が言った。
「ああ、まさか、信幻?」と幻影が言うと、「…それ、家族だからすぐに忘れちゃうの…」と政江は眉を下げて言った。
「だったらこちらから行けばいい。
それが本来の礼儀だからな。
まあ、井伊家としては、心境は複雑だろうからなぁー…」
井伊家は松平に代々支える家老職の者が非常に多い。
よって本家から分家まで意味不明なほど政治にかかわっている。
彦根藩の井伊家は城持ちとなったが、家老職として働いている者が大多数だ。
本来ならば、城を徳川信幻に贈呈したいところらしいが、さすがに秀忠のお気に入りなのでそれもできない。
よって、遠回しに様子を見に来たようだが、物見遊山のようだったので、無理は言えなかった。
その信幻も片付けなどで働いていたので、声をかけるわけにもいかなかった。
そしてさらには、彦根城の落成式にも主賓のひとりとして、信幻にも出席してもらいたいのだ。
本来ならば将軍が来てもいいほどなのだが、警備が異様に厳重となるために、秀忠は出向かないことに決めていた。
城を建てるだけでも相当に銭を使っているので、それ以上に使うことはままならないと言ったところだ。
さらには一カ所行けばすべてに行く必要もあり、差別化をしないためでもある。
だが、それをいえば信幻も同じこと。
しかし信幻は幻影の家族でもあるので、何とか特例として出席してもらえないかと打診したいようだ。
幻影たちが朗らかに庭先で昼食を摂っていると、やはり馬に乗って直継がやってきた。
「徳川信幻は落成式には出ない!」と幻影が叫ぶと、直継は腰砕けになった。
「城ができるたびに、全国行脚をさせるわけにはいかないからな!
理由はそれだけだ!」
幻影の言葉に、直継は大いに落ち込んだ。
「だが、よく考えたら物見遊山でも、藩主には挨拶に行ったから、
食事が終わってから行くことにしてたんだ!
それでいいのなら、帰って待ってろ!」
幻影の言葉に、「昼餉をともに!」と直継は陽気に言って、走ってやってきた。
「…家族団らんの席を乱す無粋なヤツ…」
信長の酷評に、直継は大いに焦った。
「だから帰れと言ったのに…」と幻影が言うと、「申し訳ござらんかった!」と直継は叫んでから頭を下げて、走って街道に戻って、「待っておるぞ!」と一声叫んでから、城に戻って行った。
「…若いっていいねぇー…
だけど、政治的には大いに心配だ…」
幻影の言葉に、「さもありなん!」と信長は機嫌よく叫んで、大いに笑った。
幻影は約束通り、信幻とお付きの佐竹武蔵を連れて彦根城の大門の前に至った。
叫ぼうと思ったが、「ささ、こちらへ」と挨拶なしで招かれてしまった。
城の天守はまだ工事中なので、まさに御殿のような平屋の貴賓室に通された。
「彦根城にようこそ!」という機嫌のいい直継に、幻影たちは一斉に頭を下げると、直継は何かを感じたのか物おじをした。
だが何とか威厳を保って、上座に座った。
そしていきなり謙虚になって、「彦根城主の井伊直継でございます」と信幻に向かて言い、頭を下げた。
「徳川信幻でございます」と信幻は素晴らしい笑みを浮かべて頭を下げた。
「実は、信幻様のことは、幕府から詳しい通達がありまして、
お聞きすることなどないほどに行き届くほどの書簡が届きました。
ですが唯一、記載されていないことがございました」
「ふーん… そんなもの作ったんだ…
こういった機会を与えないためだろうなぁー…
秀忠なら絶対にやるよなぁー…」
幻影の言葉に、直継は大いに眉を下げてから、ひとつ咳払いをした。
「お聞きしたいことはただひとつ。
旗本であれば剣の腕前を上げるために、指南役は必定。
もしよろしければ、どちらの流派を学ばれているのかを
ぜひともお教えいただきたく」
直継は言って素早く頭を下げた。
「なるほどなぁー…
その流派が気に入らなければ、
直継が紹介して懇意になろうという魂胆なわけだ」
「…お願いだから黙ってて…」と直継はいきなり気さくに話し始めた。
「その件でしたらご心配には及びません。
この国は元より、
どこの国よりも素晴らしいおふたりの剣術家の流派に教わっておりますので。
その名は、萬幻武流です」
信幻の堂々とした言葉に、「…よろずげんぶ流… 聞いたことがござらんが…」と直継は怪訝そうな顔を信幻に向けて言った。
「師匠は、真田幻影様と森成利様です」
信幻が堂々と言うと、「…えー…」と直継は言って大いに戸惑った。
真田げんえいという名に聞き覚えがあったが、森成利は知っていた。
その森は、織田信長とともに死んだと聞いていたからだ。
「琵琶高願様は真田幻影という本当の名を持っておられます」と信幻は言って幻影を見た。
「…高願様が、師匠の流派…」と直継は言って、目が躍っていた。
「そう、俺が師匠のひとりだ。
俺の妻のお蘭が二人目。
ふたりでひとつの流派なんだ。
もちろん、奥義まであるんだぜ」
幻影が自慢げに言うと、「…反則ですぅー…」と直継は大いに嘆いた。
「天狗の技はまた別だ。
天狗の技の名は、大陸の清の国の拳法で気功術という。
まあそれも、教えることは可能だし、
日々の鍛錬が教えていることにもなっているからな。
信幻もそのうちできるようになるかもしれないね」
幻影の言葉に、「はい! いつもいつもお世話になっております!」と信幻は笑みを浮かべて大いに叫んだ。
「…出番なしだぁー…」と直継は嘆いて大いにうなだれた。
織田信長と森成利の件はもうすっかりと頭の中から消えていた。
戦乱の世の武将であれば誰もが知っているが、戦乱の世が終わりかけた時に生まれた直継では知らないことでもあった。
「ここでやった日ノ本一喧嘩決定戦に勝ち進んだ七名はすべて俺の弟子だ」
「…弁慶も源次も、弟子だったんだね…」と直継は大いに嘆いた。
「だけど、宮本武蔵は、筑前に仕官しているって聞いたよ?!」
「それは宮本武蔵の名をもらったやつで、喧嘩決定戦で失格になったやつだ」と幻影がすぐさま答えると、「…強者は高願様の思いのまま…」と直継は大いに嘆いた。
「本物の宮本武蔵は、ここにいる佐竹武蔵」
幻影が武蔵を紹介すると、武蔵は素早く頭を下げた。
「…信幻様の佐竹家を継いだんだね…」と直継はすぐさま察して言った。
「はっ 私には重き姓ですが、私の修行といたしました」と武蔵は堂々と言った。
「…じゃ… じゃあ、今の宮本武蔵って…」
「佐々木小太郎というやつだ。
巌流島で武蔵と戦って、
一瞬で負けたやつの弟。
基本は忍びらしいぜ。
だから弟が小太郎で、兄が小次郎という名を背負っていたそうだ。
弟の方が忍び資質が高いから小太郎らしい」
「…こんなとこに呼んでごめんね…
どうか、ごゆっくりご休養ください…」
直継は立ち直れないほどに落ち込んでいた。
幻影たちはそそくさと貴賓室を出て、それほど急ぐことなく、屋敷に戻った。
そして屋敷でもゆっくりしていられなかった。
なんと上杉於通と与助がやってきていたのだ。
「…ふーん… 門前払い…
まあ、信じるやつはいないからなぁー…」
幻影の言葉に、於通はさらに声を上げて泣き始めた。
「叔父ちゃんの眼鏡にかなわなかったんだ。
諦めな」
幻影のつれない言葉に、「姉の面倒くらいきちんと見なさい!」とここで姉貴風を吹かせ始めた。
「ただの血族で、あんたとはほとんど接触がなかったんだ。
俺としては面倒な他人でしかないんだけど?」
「…あんたが妙な術で若返らせたからじゃない!」
「それはほとんど関係ない。
どこの馬の骨かもわからない者と付き合う人はほとんどいないだけだ。
いきなり上杉於通と言って、信じる方がおかしい。
そもそも、叔父ちゃんは於通の名前を知ってるの?
面識は?」
「そこからか?!」と信長は叫んで大いに笑った。
「…うわぁー…」と於通は大いに嘆いて頭を抱え込んだ。
「図星だったようです」と幻影が言うと、誰もが大いに笑い始めたが、長春だけは大いに眉を下げていた。
まさに、於通の気持ちがよくわかったようだ。
「ほんとにめんどくさい奴だ…」と幻影は言って与助を見た。
「若には接触しておりませぬ」と与助は笑いをこらえながら言った。
「俺か藤十郎さんが行かなきゃね…」と幻影が眉を下げて言うと、「僕が行くから」と藤十郎は言って立ち上がった。
「上杉於通の証拠」と幻影が於通に向けて言うと、於通は首を横に振った。
「ま、俺もないんだけどな」と幻影は言って愉快そうに笑った。
「生き証人の与助だけか」という信長の言葉に、「はっ その通りでございます」と与助は答えた。
「もちろん、幻影様の証拠はございますわ」と阿国は言って、懐から扇子を出した。
そして開くと、『命名 幻影』と崩し字で書かれていた。
扇子の端に、武田信玄の花押と朱印が押してある。
「まさかだけど、藤十郎さんと俺が入れ替わってるとかないだろうね?」と幻影が念のために聞くと、「幻影様には首の後ろに黒子がございます」と与助は言った。
「…本人が一番気にしないし見えない部分だね…」と幻影は大いに苦笑いを浮かべた。
「…おー… あるぅー…」と長春が大いに感動して言った。
「それに、信之様が若い僕たちを見て疑いもしなかったからね。
今頃怪訝に思ってるんじゃないの?」
藤十郎の言葉に、「…叔父ちゃんも若返らせるか…」という幻影の言葉に、「それでいいんだろうな」と信長が大いに呆れながら言った。
「じゃ、明日の朝に俺も行くことにしたよ…
沙織様がさらに怒り出しそうだが…
面倒なことはさっさと済ませたい…」
幻影が於通をにらみつけると、於通はそっぽを向いた。
「おい、その態度、許されるとでも思っているのか?」と蘭丸が言って、於通の首に幻武丸を押し当てていた。
於通は声を出すことが叶わず、ガタガタと震えるばかりだ。
「…いい薬だよ…
できれば今すぐに消えてもらいたい…
家族でも仲間でもないのに、
どうして協力してやらなきゃいけないんだ…
しかも礼のひとつもない。
さも当然のように自分の願いだけを言う。
そうか、お前は人じゃないな!
妖怪の類だから、斬り捨ててやろう…」
幻影の畏れの乗った言葉に、於通は大いに怯えて失禁してから口から泡を吹いた。
「自分の都合にいい方向に話しを推し進めるな」と信長が戒めると、「はっ 申し訳ございません!」と幻影は一瞬にして目が覚めてすぐさま謝った。
「…とんでもない旦那を持ってしまったわ…」と蘭丸がうれしそうに言ったことで、誰もが大いに苦笑いを浮かべた。
「ま、手を出さないだけでもまともだということだからな」と信長はかなり呆れながら言った。
「私が兄者でしたら、何も言わずに斬り捨てていました」と弁慶がこめかみを震わせながら言った。
「…まあな… 気持ちはわかるが、無駄駒ではないと思う。
信之は何かと役に立ちそうだからなぁー…」
まさに第六天魔王が出てきて、愉快そうに大いに笑った。
―― …家族にはなれそうにない… ―― とここにいる唯一の他人だと与助は思った。
於通を縛り上げてから今宵は眠り、翌朝幻影が蘭丸を抱き上げ、蘭丸が於通の首根っこを押さえつけて松代城に飛んだ。
そして信之と面会を果たして、全てを幻影が話した。
「…武田の御屋形様と景虎様の娘の子…」と信之は目を見開いて言った。
「双方の面識はないそうだから、お見合いのようなものだから。
気に入らなかったら放り出していいので」
幻影の言葉に、於通は瞳を閉じたまま何の反応も示さなかった。
さすがに幻影の恐ろしさを知って、反抗しないことに決めたからだ。
「…いや、その前に…」と信之は幻影と蘭丸を見入った。
「若返ることは簡単だよ。
ちょっとだけ熱くなるだけ。
でも寿命は変わらないから。
比較的病気にもならないから、
長生きして百二十ってとこかな?」
幻影の言葉に、「…やってほしい…」と信之は腹をくくって瞳を閉じた。
「最近は会ってないだろうけど、
秀忠にも施術をしたから」
幻影の言葉に、信之は目を見開いたと同時に、幻影は顔と腰に術を放った。
「うおうっ!」と信之は叫んでから、「…体に火がついたと思った…」と言ってから、肩の力を抜いた。
そして鏡を見て、「…なんということだ…」と信之は大いに嘆いたが笑みを浮かべていた。
「偽物の若者同士、できれば仲良くなってもらいたいね」
「…ああ、預かろう…」と信之は言って、幻影に頭を下げた。
「じゃ、帰るから。
帰ってもまた出かけるんだけどね…
この女に振り回されっぱなしだから、
できれば縛り付けておいて欲しいところだよ…」
於通は悪態をつきたいところだったが、ここは大いに我慢した。
「これだけ協力しても礼のひとつもない。
さも当然のような態度。
姫として育って、それが当たり前だとずっと思ってるんだ。
本当にめんどくさい奴だ全く…」
「ここは、そのめんどくさいことをワシが引き受けよう」と信之は言って於通を見た。
「おまえの言葉は信じぬ。
それでも良ければここにいろ」
信之の言葉に、それでも一向に構わないようで、於通は深々と頭を下げた。
「じゃあ、叔父ちゃん、頼んだよ。
たぶん、また来ることになるから。
兼続の墓参りとかもろもろ」
幻影が言って立ち上がると、「…直江殿も面倒なことを言ったそうだな…」と信之は言ってにやりと笑った。
「上杉を継げの一点張り。
本来ならば武田の復興に力を注ぐ立場なんだけどね…
でもそっちの方はもう別にいい。
俺たち他人の集まりの家族の方が大切だから」
「…そうか… そうだな…」と信之は薄笑みを浮かべて言った。
「できれば!」と信之は少し声を荒げた。
「いいよ、それほどには急いでないから」と幻影は言って、信之の正面に座った。
「阿国様にもお会いしたい」
この言葉に、於通は阿国に嫉妬した。
幻影は於通を見て、「ほんとわかりやすい」と言って鼻で笑った。
「…ふむ… 寝首をかかれそうじゃが、別にいい…」と信之が言うと、「そのようなことは決して!」と於通はすぐに答えたが、自分の言葉は信用されていないと思うと、大いに悲しくなった。
「いや、そのような自己犠牲は俺が許しても御屋形様が許さないから。
今のような感情を知った以上、
こいつは本当にどこかに縛り付けておくしかいない。
今までは殺しはしていなかったようだが、
この先はわからない」
「忍びの世界にも、できればいたくないのではないのか?」と信之が言うと、於通は涙を流し始めた。
「…まあね… 俺だって人を殺めたくはなかったけど、
戦場に出ればそんなことは言っていられないからね…
出ると決めた以上、目的を果たすためならなんだってしたから。
敵と決めたものすべてを殺す決意で、
お師様の願いを叶えるために」
信之は笑みを浮かべて、「…そうか… だったら、玄武丸はもう平和になったんだな」というと、「うん、そうなるけどね…」と幻影は答えて於通を見た。
「本当に、信繁によく似ている。
邪魔者は何とかして排除しようと常に考えていた。
だがな、それだと誰もついてこん。
だから真っ先にワシが離れたようなもんじゃ…
親父は勝ち戦だけを意識していたから、
それを叶えるために何だってやったからな」
信之の言葉を聞いた幻影は、かなり躊躇した。
信繁は松平元康に個人的な恨みを持っていたのではないだろうかと、ここでようやく気付いたのだ。
「お師様は、松平元康に蹂躙されたのですね?」
幻影の言葉に、「…なんじゃ、聞いておらんかったのか…」と信之は大いに目を見開いた。
「だからこそ、何とかして松平元康を消してしまいたかった…
それを執念に変えていたわけだ…
だから、お師様とは家族にはなれなかった…」
「…そうか…
第一にお前が信繁から去ったわけだ…
そして今の幻影を欲したわけだ…
ワシもようやくすべてが見えた気がしたなぁー…」
信之は昔を思い出すように朗らかな笑みを浮かべて感慨深げに言った。
「…藤十郎さんも不憫だ…」と幻影が眉を下げて言うと、「…まあな…」と信之は大いに眉を下げて言った。
まさに、信之の代わりに藤十郎が慰みものになっていたのではと考えたのだが、その時には松平元康は存在していなかった。
「…藤十郎さんが本当の意味で、命令に背いた理由は何だったんだろ…」と幻影はつぶやいた。
「…む? 信繁と同じ目に遭ったからではないのか?」と信之は怪訝そうな顔をして聞くと、「長篠で、お師様は松平元康の首をはねたそうなんだ」と幻影が言うと、信之は大いに目を見開いた。
そして幻影がその時から今までの全てを信之に話した。
「上様は本物…」と信之は笑みを浮かべて言った。
「あいつ自身も大いに気にしていてね。
そして子でなく孫であることは確認を終えたそうだよ。
だから秀忠よりも後に生まれた御三家は確実にみんな偽物」
幻影の言葉に、「何と滑稽なっ!!」と信之は大いに笑った。
「秀忠はわかっていてそれをやったんだ。
もしも家光の血筋が途絶えたら、
松平元康の想いも途絶えるわけだよ」
「…その瞬間を見極めてから、
してやったり!
と叫んでやりたいな!」
信之が陽気に言うと、「秀忠はかなり敏感だから、あんま調子に乗ったら気づかれてまた左遷だよ?」と幻影が眉を下げて言うと、「…うう… 十分に注意する…」と信之は真剣な目をして言って、幻影に頭を下げた。
「服部刑部半蔵をまた雇ったから、
ここにも来るかもしれない。
あいつ、基本暇だから」
「…十分に気をつけよう…」と信之が言うと、「そのお仕事を!」と於通が叫んだ。
「ああ! そうだったな!
いいものを幻影は持って来てくれたもんじゃ!」
信之がわかりやすい感情で言うと、幻影は苦笑いを浮かべるしかなかった。
於通に仕事を与えることで、ここに縛り付ける算段に出たわけだ。
於通は仕事として、信之の命令には逆らえないことになる。
その褒美として於通にやさしくすれば、於通はさらにここから離れられなくなる。
しかしそれが、本当の恋心に繋がればいいと幻影は策略なく考えて笑みを浮かべた。
「叔父ちゃんは若くなったんだから、
女には気を付けた方がいいぜ」
幻影の言葉に、「世継はもうよいからな」と信之は純粋な気持ちで答えた。
さらに世継を設ければ、大いにお家騒動も起ってしまうからだ。
二十万石を超える大名なので、できればそれは避けたいようだ。
安心したところで、幻影は立ち上がって、「…次は藤堂高虎のお守だ…」と幻影は眉を下げて言うと、「…ああ、讃岐藩か…」と信之は眉を下げて言った。
「うどんのことで少々接触があってね…
まさかあいつがぽっくり行くとは思ってもいなかった…
高虎は面倒見はいいが、
さすがに子供は苦手なようでね。
俺に助けてと言わずに助けを請ってきたんだ。
書簡を読んで、自慢話かと思ってた。
本当に、めんどくさいヤツ…」
「本当にありがとうございました!」と於通は畳に頭をこすりつけて礼を言った。
幻影は言葉を探したが何も言うことはなく、「また来るから」と信之に言って、何も言わなかった蘭丸を抱きしめてからふわりと宙に浮いて、とんでもない速度で彦根城下を目指して飛んだ。
「…お前の師匠、自分自身にも嫌気がさしていたんだな…」と蘭丸が言うと、「ああ、そうだと思う」と幻影は言って、さらに強く蘭丸を抱きしめた。
「…もう少し時が経ったら…
お情けを…」
蘭丸が大いに赤面して言うと、「俺がお願いしたいほどだ」と幻影は答えて、手を振っている家族たちに笑みを向けて地面に降りた。
蘭丸はすぐに幻影を離れて、阿利渚を抱き上げた。
そして、「…弟と妹、どっちがいい?」と小声で聞いて、大いにホホを赤らめていた。
この声が聞こえた信長は、「おまえら、どこで何をやっとったんじゃ?」とさすがに苦笑いを浮かべて言った。
幻影には聞こえていなかったので、まずは信之の身の振り方を説明した。
「その割には早かったな…」と信長は言って蘭丸を見た。
「あ、帰りに、夫婦の営みの話はしました」という幻影の言葉に、誰もが大いにホホを赤らめた。
「…うう… そういうことじゃったか…
いらぬ世話じゃった…」
信長は大いに照れくさそうに言って、「さあ! 出立じゃ!」と勢いよく言った。
そしてなぜだか、幻影以外は讃岐の物見遊山となっていた。
幻影は高松城に登城して見知った面々から歓迎を受けた後に高虎と合流した。
「…天狗のおかげで助かったぁー…」と高虎が小声で言うと、「得意なヤツは、子守りの職についてる奴だけだ」と幻影はごく自然に言った。
「沙織様を怒らせてしまってね…
信州に行ってきたんだが、
今回は家族水いらずと思って連れて行かなかったら、
恐ろしい文が飛んできた。
その最後に、高虎を手伝えと、命令された」
「…さらに助かった…」と高虎は満面の笑みを浮かべて言った。
「天狗さんはなんでもできるの?!」と子守り対象の生駒高俊が聞いた。
「男だから子は産めねえ」と幻影のいつもの決め台詞に、「あ、それはそうだった」と言って、高俊は幻影に笑みを向けて見上げた。
「…殿様の死因に怪しことはなかったのか?」と幻影が小声で聞くと、「…それはない…」と高虎は小声で断言した。
もっとも、家老たちも大いに高虎をあてにしている雰囲気があったので、暗殺などではなかったと、幻影は胸をなでおろした。
「お隣さん同士だからな、やはり仲よくした方がいいだろう。
松山だって地続きだから協力はするぜ。
松山に直結の山道もあるほどだからな」
幻影の言葉に、「そうだったんだ!」と高俊は笑みを浮かべて言って、高虎に信頼の笑みを向けた。
もちろん、天狗と知り合いだった高虎をさらに信用したからだ。
「やってもいいことだったらなんでもやってやるから言ってみろ」と幻影が言うと、高俊は幻影からやっていいことといけなことを素早く学んだ。
「…うう、天狗の力を使ってもないのに、こうもあっさりと…」と高虎は大いに眉を下げて嘆いた。
「できれば躊躇しないことがいいことにつながるが、
たまには考え込むことも必要になる。
大人にだって、決めがたいことがあると教えるためだ。
あまり竹を割った性格というのも、
俺に似てしまうから避けた方がいいんだ」
「あ、学士に教わったんだけどね…」と高俊は言って、現在のキリスト教について漠然と聞いてきた。
幻影は知っていることすべてを並べ上げ、「…まずは決め事を守んなきゃ…」と高俊は無難に正解を導き出した。
「そういうこと。
幕府は無茶なことは言っていないし、
キリスト教は危険と理由をつけて述べている。
だがな、その通達をすべての者が周知しているとは思えない。
字が読めない者も大勢いるからな。
言葉を聞くのは、キリスト教徒の代表者たちからだけだ。
だから、キリスト教にとってあまり良くないことは
説明していない可能性もあるんだよ。
だからこそ、キリスト教はなくならないという悪循環だ。
だから手掛かりになる手立てを、江戸でやってきた」
幻影は、出来事を言葉で伝える商売について説明すると、「…言葉はわかるから、万人が同じことを知る…」と高俊は言って笑みを浮かべた。
「上様がどうするのかは、上様の心次第だ。
できれば、処罰を受けない方が平和だからね」
「…むう… もうそこまでやってしもうたか…」と高虎は大いにうなった。
「さらには幕府直属の事業の寺子屋の普及。
文字を読める者が増えれば、言うことはないからな。
これにもひと悶着あったが、
殺されないために一部見せしめになってもらった。
もちろん、俺たちを殺そうとして、
さらには幕府の事業を妨害した罪だから正当な処罰だぞ」
「…平和のために尽力している天狗様を殺そうとするなんて…」と高俊は体を震わせて怒っている。
「大人たちはな、手柄が欲しいんだ。
手柄を手に入れることで、
今よりもいい生活を送れる。
だが、悪いことをして手に入れたいい暮らしなんて砂の城だ。
悪意がある、罪があると発覚した時点で、
砂の城は壊されて当然だ」
「…昔の法律よりも、庶民に対して随分と優遇してるって聞いたよ?」
「ああ、昔なんて、人は武士だけというような法律だったからな。
さすがにそれはもうやめたようで、
できれば身分関係なく、幸せになってもらおうと幕府も考え始めたんだよ。
だから高俊の政治も、世間全ての人にやさしくあってもらいたいね。
だが、わがままを言っていると判断できれば、
腕力ではなく言葉で撃退しろ。
その道は果てしなく長いから、
できれば専門の学士についてもらってもいいだろう。
推薦できるのは、身分もわきまえて、
伊予松山城の姫の沙織様」
幻影がにやりと笑って言うと、「…おまえ、ひどいな…」と高虎は言って大いに眉を下げた。
「ああ! 松山藩とも仲良くしたい!」と高俊は言って、高虎に満面の笑みを向けた。
―― よっし! ひと仕事終了! ―― と幻影は思って、鳩を呼んで書簡を松山城に送った。
さらに高俊を陽気にする催しもしてから、幻影は快く高松城を後にした。
「…私を道具のひとつに使うとは…
いい根性をされてますわね、天狗様ぁー…」
琵琶御殿についてきた沙織が大いにうなると、「…怖い… 怖いよぉー…」と長春は大いに怯えて藤十郎にしがみついた。
「大丈夫、幻影様も沙織様も仲良しだから」と藤十郎は穏やかに言った。
「…お父様に笑顔で、行け、と言われたことにも怒っておりまするぅー…」と沙織はまたうなった。
「では、高俊にも言ったことを叶えてやる。
まずは希望を並べ立ててみろよ」
沙織は居住まいを正して、第一に旅には必ず同行させることと言った。
「その件は嘉明様と話し合って決める」という幻影のつれない言葉に、「…うう… それで、いいわ…」とここは沙織が譲歩した。
第二に、今までさんざん言っていた、若返りについてだ。
よって、幻影の反論を逆手に取って、問題が起こらないように若返らせろと言ってきた。
「先手必勝のような物言いだな…」という幻影の言葉に、誰もが大いに同意した。
「だったら簡単だ」と幻影が余裕の笑みを浮かべて言うと、沙織は大いに期待した。
「嫁に行け」と幻影が言うと、「…うー…」と沙織は大いにうなると、信長を筆頭にして大いに笑った。
「行かず後家の方が都合がいいの!!」と沙織は自分の都合だけで言い放った。
「ま、ある程度以上に縛られるから、
気楽に旅など行けるはずもない。
だったら、この琵琶家から婿を選べ。
理解のある婿候補ばかりだぞ。
もちろん、嘉明様の許可が第一条件だ」
幻影の言葉に、信長以外の男性は大いに苦笑いを浮かべていた。
「…源次君…」と沙織が大いに照れて言うと、「お! 予想外に選ばれた!」と源次は陽気に言った。
「今はどうしているのか知らないけど、
あの前田の関係者が父親だからな。
それほど身分不相応ではない。
父親の名は、前田利益。
傾奇者とうたわれ、直江兼続の友人だったやつだ」
幻影の言葉に、「…ある意味、良縁じゃない…」と沙織は言って喜んだが、源次を見ていて憂鬱になった。
そして、「婚姻する気、ないよね?」と沙織が源次の想いを察して聞くと、「姫様とはないなぁー…」と普通に笑みを浮かべて言った。
「…私が嫌じゃなくて、姫だからイヤだってことはよくわかったわ…」
「だったら、琵琶家の養女にでもなれば?
もちろん、お殿様の許可は大いに必要だけどね。
だけど、松山藩の後ろ盾を今よりも使えなくなることもあるから、
ある意味都合が悪いことになるかも…」
源次の言葉に、「…うう… 私もやっぱり、お姫様だったわぁー…」と沙織は大いに嘆き始めた。
やはり、『松山の姫』を失うことも、沙織は大いに嫌がったのだ。
「幻影が側室を認めれば簡単なんだがな」と信長が言うと、「御屋形様!!」と異論があるように真っ先に蘭丸が叫んだ。
「私にそのつもりは全くございません」という幻影のまっすぐな言葉に、沙織は大いにうなだれた。
「…女としても魅力がないのね…」と沙織が大いに伏線を張ると、「ヤブヘビになる手にはかからない」と幻影はすぐさま言った。
「むっ! さすが我が夫!」と蘭丸は陽気に言って、褒美とばかり阿利渚を幻影に抱かせた。
「…でもね、かわいそー…」と長春は眉を下げて幻影に言った。
「だからこそ、色々と話し合ってる最中だから…」と幻影が眉を下げていうと、「うん! よかった!」と長春はころりと感情を変えて言ってから、藤十郎に満面の笑みを向けた。
「ほら、長春のような子供でしかない存在感も修行のひとつだ」
幻影の言葉に、「…それもそうだったわ…」と沙織は大いに眉を下げて言った。
「私と同い年なのにぃー…」と沙織が嘆くと、誰もが沙織と長春に背中を向けて笑っていた。
「よって、伴侶の件は今は保留の方がよさそうだ」
幻影の言葉に、「…まだまだ待たされちゃうわけね…」と沙織は寂しそうに言った。
「嘉明様の心情を察すれば、
できれば無謀なことを指導したくない。
だが、沙織様の人生なのだから、
ご自分で決めればよかろう、
という想いも大いにある。
だから自分で決めてくれ…」
幻影が最後は嘆くように言うと、「…迷惑だけはかけないようにするわ…」と沙織は眉を下げて言って頭を下げた。
まずは依頼された仕事をしようと思い、沙織はお供に志乃を選んだ。
もちろん勉学と道徳だけではなく、剣術指南も受け持つからだ。
女性ばかりもどうかと思った幻影は、「志乃様の護衛も兼ねて、誰かひとりつけてくれ」と幻影は信幻に言った。
「姉上の場合必要はないのでしょうが…」という信幻の言葉に、志乃としては大いに文句があるようだったが黙っていた。
「貞之助、見聞を広げてきて欲しい」と信幻の言葉に、「はっ ありがたき幸せ!」と宅間貞之助は高揚感をあらわにして頭を下げた。
信幻が雇った者の中で一番若く、できれば目立つ仕事をさせてたいと信幻は思っていたのだ。
すると、「…おー…」と仲間たちがうなって拍手が起こった。
貞之助は大いに照れながらも頭を下げている。
交流はきちんと取れていると幻影は思って、薄笑みを浮かべて五人の剣士たちを見ていた。
「竜胆も姿をさらして、通いでついて行って欲しい」
信幻の言葉に、「はい! ありがたき幸せ!」と竜胆は心の底から喜んで、志乃の隣に立って、満面の笑みを志乃に向けた。
宿は法源院屋でもいいのだが、高俊が誘ってくれたのなら城でも構わないことになった。
沙織は一度城に戻って、嘉明に許可を取った後、お出かけ用のお付きを選定して、総勢八名は戦車に乗り込んで、源次と寅之介が送り届けた。
幻影たちが今後必要になる製品などの制作をしていると、琵琶御殿に高虎がやってきたのだが、家守に家人は全員工房にいると言われたので、街道を横切って工房に入った。
まさにここは工場でしかなく、様々な製品を作り上げている。
現在力を入れているのは、和紙と油だ。
真っ先に高虎を見つけた信長は額の汗を拭いて、「おう! よく来たな!」と気さくに叫んだ。
すると幻影たちも気づいて次々と挨拶をした。
今は誰もが工員でしかなく、高虎は大いに苦笑いを浮かべた。
「切りのいいところで休憩だ!」と信長が叫んで仕事の手を止めた。
「…まさか御屋形様自らが仕事をされなくとも…」と高虎が大いに眉を下げて言うと、「ワシに早くボケろって?」と信長は言って大いに笑った。
長春と政江がみんなに冷たいものと軽食を配り始めた。
高虎は今回の件で大いに礼を言ってから、「まさかあれほどに人員を割いてくださるとは…」と大いに恐縮した。
「沙織も志乃も護衛が必要じゃからな。
それに連絡係も重要だ」
信長が竜胆を示唆して言うと、「…その竜胆なのですがぁー…」と高虎は大いに眉を下げて言った。
「ふん、高俊が惚れよったか」という信長の言葉に、「…はあ…」と高虎はため息のように息を吐いて肯定した。
「…まあ…
集中できとらん!
と、志乃様にこっぴどく叱られていましたが…」
高虎の言葉に、誰もが大いに笑い転げた。
「高俊殿は二重に志乃様を恐れてしまわれました。
その存在感と、徳川信幻様の実の姉」
「この姉ありてこの弟あり、じゃからな」と信長は機嫌よく言った。
「そばで見ていて、まさに思い知り申した。
もちろん、幻影の指導もあるのでしょうが、
元から持っていた芯の強さが普通ではないと、
ようやく理解でき申した」
「嫁に寄こせと?」と信長が言うと、「申し訳ござらん!」と高虎は言って頭を下げっ放しになった。
「言っとくが、志乃もワシたちも勝手なことはできない。
まずは秀忠にお伺いを立ててからじゃ。
それをしないとあとでいろいろと問題が多く出るからな。
その防波堤の役を秀忠が引き受けてくれるわけじゃ。
もちろん、徳川の姓を持つ弟の姉としてじゃ。
志乃獲得の悲願は、なにもお前だけではなかろうて。
しかも志乃は、わずかだが行き遅れておる。
しかし、志乃はみじんも感じさせぬが…」
信長はここまで言って幻影を見た。
「俺のふたりの弟のどちらかと、
という俺の願いはあります」
幻影の言葉に、「おまえは遠慮しとけ!」と高虎は叫ぶだけ叫んで、すぐさま幻影に頭を下げた。
今のような暴言を吐ける立場ではないからだ。
「もちろん、徳川の名が欲しいわけじゃない。
あれほどの女官はなかなかいないからだ。
もちろん、沙織様も同じような目で俺は見ているけどな。
できれば弁慶と源次が、ふたりとも選んで欲しいところなんだ。
そうすれば、お蘭が三人となる!」
幻影は叫んでから大いに笑うと、「まったくじゃ!」と信長も大いに叫んで大いに笑った。
―― …ダメだ… 入り込む余地がない… ―― と高虎はこの件についてはほとんど諦めてしまっていた。
「弁慶! 源次! お前らはどうなんじゃ?!」と高虎がふたりに吠えた。
「できることであれば、兄者が気に入ったお方と添い遂げたいのです。
私個人の好みとしては、沙織様です」
弁慶の言葉に、「あれ? そうだったの?」と幻影は本気で驚いてから、「祝言祝言!」と陽気に叫んだ。
「私も弁慶兄貴と同じで、お師様の願った方と…
余りというわけではございませんが、
凛とした志乃さんは、まさに好みです…」
源次が大いに照れて言うと、「…あー… もう決まったも同然だぁー… 秀忠に早速文を…」と幻影が言うと、「待たれよ! 待たれよ!」と高虎は大いに慌てた。
「…あー… 源次兄ちゃんが僕の兄ちゃんになるんだぁー…」と信幻が笑みを浮かべて言うと、「…頼むから待ってくれぇー…」とついに高虎は泣き出し始めた。
「ま、あのふたりに異存はなかろうし…」と信長がさらりと言うと、「萬幻武流に入門させます!」と高虎が言うと、「面接で落選」という幻影の言葉に、高虎は大いにうなだれた。
「どうでもいいが、津と亀山の方はいいのか?」と信長が言うと、「…今治に戻ろうかと…」とついに高虎は言い始めた。
まさに忙しい男で、今治城はすでに養子の藤堂高吉に譲って、基本的には津城にいるはずなのだが、最近はほぼ確実に今治にいる。
やはり信長がいることで、できれば今治を離れたくないようだ。
「もしも松山を出るとしたら、
京の亀山と伊勢の津とどちらがよかろうか…」
信長の言葉に、高虎は涙を流して喜んだ。
「伊勢に住むというのもいいですね。
鬼と阿修羅が生まれた地ですし」
幻影の言葉に、信長は大いに笑った。
「ですが、亀山の方は大いに田舎です。
ここのように温泉もありません。
ですので、色々とやりがいはあると思いますが、
…大君が近くにいるのは、ちょっと…」
幻影は大いに渋った。
「ふむ… 伊勢の方がよいが、
ここのように海があり、地形がここ松山とよく似ておる…
信州などはどうじゃ?」
信長の言葉に、「どちらかに決めてくださらんか?!」と高虎は大いに吠えた。
「亀山に住んで、不評だったら伊勢で」という幻影の言葉に、「…それでもよいがぁー…」と高虎は大いにうなった。
「じゃが、備前備後辺りはどうじゃ?
長門や萩でもよいぞ?」
次々と出てくる地名に、高虎はまた泣きだし始めた。
「…私たちの生き甲斐だから…」と長春が高虎に眉を下げて言うと、「…その時は国替えを申し出ましょうぞぉー…」と高虎は蘇って穏やかに吠えた。
夕餉の前に、竜胆が戻って来て、信幻に頭を下げてから書を開いて、今日の報告を読み上げた。
「…初日から大いに張り切ってるなぁー…」と幻影が大いに感心して言うと、「沙織様が期日を切られました。本日から五日間と」と竜胆が報告すると、「妥当じゃて」と信長は言って何度もうなづいた。
「あとは家老たちにお任せだね。
高虎が後継を見守るようだし」
幻影は明るく言った。
「さらには、家老たちが信幻様に謁見などと言ってきましたので、
志乃様が一蹴されました。
ですので期間が短くなりましたので、
さらに短くなる可能性もございます」
「…ま、言うと思ったよ…
ほんと、前の殿と同じだね…」
幻影は大いに呆れていた。
「お宿は法源院屋に決まりました。
もちろん、志乃様が沙織様に進言されたのです」
「ああ、ほかの忍びから報告があった。
夜は警護しろと伝えてある」
信長の言葉に、「…私… 随分と楽をしているような…」と竜胆が眉を下げて言うと、「今は年相応としておけ」と信長は言って、竜胆の頭をなでた。
「はい、御屋形様」と竜胆は笑みを浮かべて答えて頭を下げた。
「…姉上たち、怒ってるんだろうなぁー…」と信幻が大いに眉を下げて言うと、「宅間様が明るくご機嫌を取られておられますので、それほどではございません」という竜胆の言葉に、「…それは重要だよなぁー…」と信幻は大いに感心していた。
「だが、女性ばかりというのも、
宅間さんに悪いことをしたなぁー…」
幻影は大いに同情するように言った。
「ですが、お忙しいようで、
余計なことを考える暇もないようです。
できれば早々に自室で眠ると言っておられました」
「他に手助けとかは?」と信幻が聞くと、「いえ、ございません」と竜胆はすぐさま答えた。
「問題なかろう。
遅くとも四日後には帰還じゃ」
「その日当たりに一度岡山城に参りますが、
よろしいでしょうか?」
幻影の言葉に、信長は眉を下げて健五郎を見て、「…大いに問題がありますように…」と願いを込めてから大いに笑った。
「…えっ? あっ…」と竜胆は小声でつぶやいた。
健五郎は岡山藩主からの預かりものだということは知っていたが、もう離れてしまうことを悲しんだのだ。
さらには才英も、そして近いうちに竜胆も信幻とともに江戸に行くことになる。
竜胆は今のこの穏やかな日々がずっと続けばいいと、子供心に思っていた。
その四日後だが、岡山城の天守には暗雲が立ち込めていた。
本来ならば、ここまで登ってくる必要はなかったのだ。
池田長政は下げた頭を上げられなかった。
ただ長政がついていたのは、今回この場所に信幻がいないことだけだ。
もしも信幻がいて同じことがあった場合、さすがの池田家もお取りつぶしは免れなかったはずだ。
よってそれが起こらないようにと、信幻を納得させて、嘉明に預けてきたのだ。
「…ま、追って沙汰があるだろう…」と幻影は言って書を持った鳩を放した。
幻影たちが岡山城の大門に戦車を止めてすぐに、鉄砲による攻撃があったのだ。
もちろん、それらの者は外にいた幻影が全て捕らえた。
遠距離だったことが幸いして、弾が数発戦車に当たったのだが、わずかな傷しかつかなかった。
かなり強引な暗殺行為に、信長は大いに呆れていた。
「しっかし、頑強だなぁー…」と今回同行した守山は憤慨するどころか戦車の丈夫さに感心していた。
もちろん健五郎をどのようにするのかは、秀忠の心ひとつで決まる。
だが健五郎は子供なりに、信幻と才英と語り合っていた。
「後継の権利を放棄いたします」と健五郎は長政の前で堂々と言ったのだ。
「私の愛する琵琶家の方々に、これ以上ご迷惑をおかけするわけには参りません。
私は一武士として、琵琶家とともにあろうと心に決めました」
健五郎はここまで言って、信長に笑みを向けた。
「どうか末永く、よろしくお願いいたします」
健五郎の言葉に、「わかった。帰ったら早速養子縁組じゃ」と信長は機嫌よく言った。
「元服前だが、名も考えていある。
できれば、喜んでもらいたいもんだ」
信長の言葉に、「ありがとうございます、御屋形様」と健五郎は笑みを浮かべて礼を言ってから頭を下げた。
この事件の場合、狙ったのは琵琶家と言い逃れはできるのだが、幻影が狙撃手を捕らえてすぐに、誰の差し金で誰を狙ったのかは聞き出している。
それを長政にすべて告げてある。
よって逃げを打つわけにはいかないのだ。
しかし秀忠にはそこまで詳しく報告をしていないので、この先は琵琶家の思いのままだし、信幻が同行していないことも告げていない。
まさに秀忠は頭を抱え込むだろうと考えると、幻影は少し笑ってしまった。
幻影たちは早々に戦車に乗り込んで、今回は幻影が戦車を持ち上げて、讃岐へ飛んだ。
まさに別れを惜しんでいる最中で、大いに邪魔をしていると、琵琶家一同は眉を下げてその光景を見ていた。
そしてようやく解放されて、戦車は帰路についた。
讃岐から松山に抜ける山道は道幅を広げたので、幻影は峠までは手伝って、随分と早い帰還となった。
もちろん戦車の中で健五郎が狙われた件を話すと、沙織は大いに嘆いた。
それに信幻がここにいないことを志乃は気にしていたが、この事態が起きることを察知して連れてこなかったと理解して、信長に礼を言った。
翌日の朝餉の後に、江戸から鳩が飛んできた。
書は短いもので、『大君に報告する』という内容だけだった。
よってできれば公にしたくないようだ。
そして翌日の朝にも鳩が飛んできて、『どーしてきてくれないの?』とだけあって、幻影は大いに笑って、信長に許可を得て江戸城に飛んだ。
いつものように、天守の廊下に足をつけると、「信幻は?」と秀忠は開口一番聞いてきた。
「連れて行ってなかった」と幻影が言うと、「…そう… さすがだよ…」と秀忠は言って胸をなでおろした。
「お家騒動のある場所に連れてはいけないからね。
予感とかそういうものではなく常識的な部分だよ」
「…うう… そりゃそうだ…」と秀忠は言って納得していた。
「琵琶家としては口をつぐむから、
何なりと好きにしてくれていい。
それから、実行犯は捕らえてすぐに事情聴取をした。
俺たちではなく、健五郎を狙ったと白状した」
「さすがだよ…
抜かりはないね…
それに、逃げ道も用意してくれてありがと」
秀忠は言って、長い書を認めた。
「持って行ってもいいぞ。
場所は知ってる」
幻影がにやりと笑うと、「飛脚のようなことに使ってごめんね…」と秀忠は言って、幻影に書を託した。
幻影はすぐさま京に飛んで、今回はごく普通に大君と謁見して、側付きに書簡を渡した。
後水尾は大いにめんどくさそうな顔をして書を読み、一瞬にして表情を変え、すぐさま幻影に謝った。
「俺たちは死なないようにできてるからな。
まあ、健五郎も同じだが、
さすがにひとりにするわけにはいかないからな。
戻したら確実に消されることがわかっていたから」
すると後水尾も書を認めてから、幻影に託した。
「次は楽しいことで謁見に来てほしいものだ」と後水尾は言って、そしてまた頭を下げて幻影を見送った。
江戸城に戻ると、「…遠い未来だろうけど、これほどの情報網は確立できてるんだろうね…」と秀忠が言うと、「ああ、ない話じゃないな」と幻影はすぐさま同意して、預かりものを渡した。
秀忠は書を読み終えて、「…穏便に、だとさ…」とため息交じりに言った。
「琵琶家に異存はないし、
交換条件も御屋形様からお聞きしていない。
俺としてもそんなものは望んでいないから、
秀忠の好きなように裁いてくれ」
「幕府から使者を送って、調査が終わるまで閉門」と秀忠は言った。
「謹慎程度で助かったな」と幻影は言って鼻で笑った。
「信幻が無事だからいいんだよ」と秀忠は笑みを浮かべて言った。
「だが、健五郎は琵琶家に残る意思を示したぞ。
後継者争いから離脱すると言ってな」
「…その方が幸せだよぉー…
ほんと、いろんな意味でうらやましい…
だけど、そんなこと教えてないよね?
まだ十才程度じゃないの?」
「八才だ」
幻影の言葉に、「…なんてすごい子だ…」と秀忠は大いに感心して言った。
「大人には言わずに、信幻と才英と話し合っていたそうだ。
子供でも、武士には違いないからな」
「…はあ… 信幻をこっちに頂くのも気が引けてきた…」と秀忠は大いにうなだれて言った。
「小さな旗本だが、内容は濃いぜ。
まさに殿様のために大いに尽力するだろう」
「…うん…
家老の酒井や武蔵を筆頭に、ほんとすごいと思う…
あとは、姉の志乃様だなぁー…」
まさに志乃の存在も、秀忠の悩みの種でもある。
「源次が興味を示したが?」
「…うう… 前田家だったら、何の障害もないよぉー…」と秀忠は大いに嘆いた。
「あちらさんは知らない話だけどな。
知った時、大いに驚くことだろう。
問題は志乃の想いだが、
そこまでは聞いていないからな。
それに、縁談話はすべて蹴るような気がするね。
ただの旗本だったら従うこともあっただろうが、
頂点に近い存在となった今、
大いにわがままを言うことだろう。
もちろん、何かを欲する欲ではなく、
自由を主張する欲だ」
「…その方がずいぶんと平和だから、彼女に任せるよ…」と秀忠はため息交じりに言った。
幻影は有意義な話し合いを終えて、意気揚々と松山に戻った。
すると、弁慶と源次、沙織と志乃が見合いを始めていた。
主催者はもちろん、長春と政江だ。
「志乃様は将軍様が好きにしていいと言ったぞ」
幻影の後押しに、志乃は腰を上げて喜んだ。
幻影は信長にすべてを報告した。
「我らは傍観者でよい」と信長は機嫌よく言った。
そして竜胆を膝に乗せてご機嫌だ。
まさに幼かったころの長春を懐かしく思いながら、竜胆と接しているようだ。
「…お江戸の近くに引っ越さない?」と竜胆が言うと、「…あー… それもいいかなぁー…」と信長は言って、幻影を見た。
「武蔵の国だと、新たに土地勘ができた、川越や八王子なら問題ないかと。
田舎ですが、江戸城が見えるほど近いので。
昔行って好印象だったのは、
さらに江戸城に近い下総や相模でもいいでしょう。
少し離れた方がよく見えることもあるでしょうし。
何よりも、秀忠が喜びます」
「…嘆いている者もいるぞ…」と信長は言って、話を聞いていた沙織を見た。
「今すぐってわけじゃないさ。
早い場合で、信幻に免許皆伝を出した時だ」
「別にいいもん。
勝手について行くから」
沙織の言葉に、「やめてくれ…」と幻影は大いに嘆いた。
「都合のいい場所に、お国替えにならないかなぁー…」と沙織は都合がいいように言った。
家光の元服の儀も滞りなく終わった日、秀忠が幻影にだけ話があると言って、天守に招いた。
「…隠居する…」と秀忠がつぶやくと、「はっやっ!」と幻影は叫んで、大いに笑った。
「われの人生を楽しみながら、政治もやるよ?」
秀忠の言葉に、「ああ、いいんじゃないの?」と幻影は答えたが、秀忠が大いに懇願の目を幻影に向けた。
「江戸に引っ越してこい」と幻影が言うと、「…うん、そう…」と秀忠はすぐさま肯定した。
「少々前だが、その話は御屋形様として、
武蔵の国の辺鄙なところか、
相模、下総辺りでもどうだろうかと話したんだ。
少々広い土地もいるだろうから、ほぼ田舎限定だ。
この条件でお勧めってあるかい?」
「実は、隠居先を小田原か伊豆にしようかと思ってたんだけど、
君たちがそっちに行く?」
秀忠の言葉に、「ああ、伊豆もいいなぁー… だが、もう少し江戸に近い方がいい」と幻影は答えた。
「御屋形様がな、子供たちを手放したくないそうなんだ。
だから信幻に免許皆伝を出したら、
早々に江戸に引っ越そうと思っていたんだよ。
もうその日が近いんだよなぁー…
温泉郷の街道も、俺たちがいなくても十分に営業できるようになったし、
安土から引っ越してほぼ三年経ったから、
そろそろ次の土地をと思っていたんだ」
「調べさせて、いくつか候補地を絞らせるから」と秀忠は大いに陽気に言った。
「ついでに、信幻の江戸の別宅も頼みたい。
ほぼそっちで生活してもらうが、
時には琵琶家の一員として寛いでもらうから。
あと信幻の職だが、なんでもいい」
「…はは、ほんとすごいね…
それってほぼありえないよ…」
秀忠は嘆きながらも喜んでいた。
「琵琶家をなめるなよ」と幻影は自慢げに言った。
「だけど、妙栄尼様はどうするのさ?」
「もちろん話はしてあるし、
月に一度は抱えて飛んで、松山に戻ることに決めているから、
完全に引っ越すわけじゃない。
あとはまた、荒れ寺の再建立でもして住職になるんじゃない?
安土の屋敷もまだあるし、遠出の時には大いに使えるから。
松山も含めて別宅ってところだ」
「…荒れ寺がある土地…
下総生実辺りだったら、江戸に近くて、田畑だらけ…
専用の街道も作ってくれたっていいよ?」
秀忠は極秘として、琵琶家受け入れの地の選定作業を行わせた。
荒れ地でも構わないことで、やはり生実でも辺鄙な場所がすぐに琵琶家にあてがわれることに決まり、生実藩主が大いに驚き大いに泣いたそうだ。
幻影たちは松山に戻り、松山城に登城した。
「…ついにこの日が…」と松山藩主は大いにうなだれた。
「国替えに期待しろ。
縁が切れたわけではないし、
ここの御殿はそのまま残す。
我らが仲間もこの地に残すことになるし、
幻影と阿国は定期的に寺守にやってくることに決まっている」
信長の言葉に、「…おお… よかった…」と嘉明は安堵してから、沙織を見て、「江戸留守居役を命ずる!」と高揚感を上げて任命した。
沙織は笑みを浮かべてすぐさま頭を下げた。
これで完全に繋がったと嘉明は安堵した。
すると沙織は大いに照れながら、「…まだ決めてないんだけど… 弁慶様と夫婦になろうかなぁー… なぁーんて…」と報告すると、嘉明は、「それはまことか?!」と大いに喜んで叫んだ。
弁慶は胸を張って、「第一に兄者のたっての希望でもございます」とお堅く言うと、沙織は気に入らないようで少し不貞腐れた。
そして、「ですが、強要されたからと言って、受け入れたわけではございません」と堂々と言うと、「…ああ、よかったぁー…」と沙織は大いに感動して弁慶に頭を下げた。
「…ああ、まさか弁慶が、我が息子になろうとは…」と嘉明は大いに感動してから大いに喜んだ。
「ああそうじゃ!
であれば源次も、もう決めたのか?!」
嘉明の言葉に、「いえ、しばらくは支える役に徹するつもりです」と源次はこの先を見据えて言った。
支えるのは徳川信幻の家ということになる。
貧乏旗本には違いないので、源次の所有する個人資産を大いに活用して、徳川家と佐竹家をゆるぎないものにする決意を語った。
志乃はずっと照れていて、源次の顔を見ることすらできなかった。
「…ちなみにだが…
どれほど持ってるの?」
嘉明が控えめに聞くと、源次はすぐさま答えて、「…城が建つじゃないか…」と目を見開いて言った。
「私の家族たちはみんな金持ちです。
使う前にどんどん貯まるので」
幻影の言葉に、「…そうじゃろうなぁー…」とこの三年間琵琶家を見続けていた嘉明にはよく理解できた。
「いや、となると…」と嘉明は言って政江を見た。
「秀宗は十分にやっていけますから」と政江は生実に行く決意を示した。
蕎麦とうどんを扱う店だけで、随分と藩が潤うようになったのだ。
面打ち職人は地元住人たちを鍛え上げて店を任せてある。
さらには寺子屋も評判が高く、宇和島に引っ越してきた武家や商人もいるほどだ。
すると高虎がやって来て、「江戸に住むことに決めた」と嘉明に言った。
もちろん大名は江戸に屋敷を持っているので、江戸に住む権利もある。
嘉明も大いに考えたのだが、ここは一歩引いて考えた。
四国で一番大きな町となってしまった松山を離れがたかったのだ。
「…寂しいが、縁が切れたわけではない…」と嘉明が言うと、高虎は大いに照れている沙織を見入って、「…嫁に、出しよったかぁー…」と大いにうなってから、信長にすがるような目を向けた。
「おまえのところは悪ガキたちをまずは何とかしろ」
信長の言葉に、「…あいわかり申したぁー…」と高虎は言って、大いにうなだれた。
この日から早々に、琵琶家は生実に行き、屋敷建設の準備を始めた。
当面の宿は、生実と江戸の法源院屋の庭を借りることになった。
秀忠は江戸城に引き入れたかったようだが、信長が首を縦に振らないのであきらめた。
幻影たちは屋敷の基礎工事を終えてすぐに、街道整備に着手した。
上総から江戸までの素晴らしい街道が出来上がって、交流が一気に早まった。
そして琵琶家がどんな御殿を建てて、どのような事業を起こすのか大いに期待したが、今のところは屋敷建設だけにしか行っていない。
幻影は広大な土地を大いに活用して、全ての店舗に大きな工房付きの建物を設計した。
まずは生実の法源院屋が支店を出してすぐに、讃岐うどんと仙台蕎麦の店を開店させた。
この店が、生実琵琶御殿の回りで働く者たちの食堂と化すのだ。
よって、かなり大きな店舗となったのだが、物見遊山で来た者たちですでにごった返し、さらには高評価を得てさらに客を呼んだ。
金持ち相手の高級料理なども出せるので、富裕層から一般庶民までひっきりなしに出入りする。
もちろん、妙栄尼がこの近隣を散策して、労働者の確保を行っていた。
さらには庶民向けから富裕層までを網羅する菓子屋も開店した。
特に松山と土佐で仕入れた食材を大いに活用しているもので、四国から江戸近隣に出てきている者たちは大いに来店した。
もうこれだけで琵琶家は潤うようになって、簡単にこの地の豪族となった。
さらには簡単な作業の求人を出すことも忘れない。
子供から老人まで誰でも働ける廃材の整理作業だ。
よってさらに生実に人が集まるようになり、藩主はこの地に屋敷を構えたいと思ったようだが、確実に景観を乱すと察してそれだけは断念した。
琵琶家に屋敷を発注すると、とんでもないカネが必要だと知ったからだ。
荒れ寺の再建立はしたのだが、妙栄尼のたっての願いで現楽涅槃寺を新たに建立することに決まった。
寺社奉行所では大いに話題になっていて、奉行所からやって来て、承認を受けたほどだ。
松山まで行かなくても、全く同じ空気を体感できる雰囲気を持つ寺となった。
もちろん幻影が子細に再現したので、松山の現楽涅槃寺を訪れたことがある者は、大いに戸惑いを覚えたようだ。
さらにはここでは新たに鍛冶屋を置くことになった。
刀剣はもちろんだが、包丁研ぎまで受け持つ、少々大きな店舗となった。
幻影が偶然、その資質がある者を十名ほど見つけたことで、これを現実化したのだ。
やはり江戸には人が多いので、人材には事欠かなかった。
さらには別の得意分野を持つ、からくり師や建具職人、宮大工を五人ほど雇い、『からくりの館』を開館した。
この館は鍛冶屋と密接に関係していて、鍛冶屋で軽金属を生産して、からくり館で消費するようになった。
よって特に時を刻むものに関しては、大きいものから小さいものまで、所狭しと置かれるようになった。
さらにはからくり人形の浄瑠璃や、自動人形なども展示、実演された。
まさに人を集めるために作ったような館に、誰もが物見遊山にやってくる。
そしてさらに銭を回すため、特別の催し物として、高額の氷菓子の出し物までやって、金持ちから金をふんだくった。
その銭は、身寄りのない子供たちを救うための施設の建設に使われたと公表され、多くの子供たちが大いに遊び、大いに勉学を積む施設となった。
幕府はこの行いに大いに称賛して、感謝状を出したほどだった。
その役割は多くの寺で行っていたのだが、食うや食わずのものだったので、まさにそれを払拭してしまったわけだ。
その中心には妙栄尼がいて、まさに生き仏と崇められるようになった。
その子供たちの中から、法源院屋に丁稚奉公に行く者も数名出たことは喜ばしいことでもあった。
さらには根っからの商売気質に長けていた子供たちは、読み書きそろばんを習得してから、おもちゃや駄菓子を扱う店で働き始めた。
子供ながらに立派に働く商人となったのだ。
琵琶家はわずか半年で、江戸と生実になくてはならない豪商となっていた。
「…敷居が高いです…」と少々身長が伸びた信幻が眉を下げて琵琶御殿にやってくると、「お前の家でもある、寛げばいい」と信長は今まで通り気さくに言った。
信幻は家光に寄り添うと同時に、城での様々な職に就いた。
現在は町周り同心として働いている。
まさに日々充実しているようで、少年ではあるのだが、やっていることはもうすでに大人だった。
信幻は外から見た琵琶家の評判や評価を語った。
その中に、『琵琶家は名ばかりで幕府の事業』というものがあった。
「銭がない幕府にできるわけない」と信長は言って鼻で笑った。
「俺たちは気にしないが、秀忠が余計なことをしなけりゃいいが…」と幻影は大いに杞憂に思い始めた。
「いえ、もうすでに家光様がうわさを流した者を処罰するようにと発令されました」と信幻は言って眉をひそめた。
「どうせどこかの商売人だろう。
しかも、ワシらが江戸に住んでいたことを知らない若い奴だろうな」
「はい、その噂を真っ向から否定する方も多いのです。
ですが今回はかなり手広いので、戸惑っていることも事実です」
「俺たちの家はここで三つ目になったんだ。
手広くなっても当たり前だろ?」
幻影の言葉に、「…中にいた私は、その実感がありませんでした…」と信幻は大いに眉を下げてから頭を下げた。
「その通りだ。
自分のことが一番よくわからないものだからな」
信長の言葉に、信幻は満面の笑みを浮かべた。
「あとは、祭りと花火大会。
軽業興業と言ったところか…」
幻影の言葉に、「そのうわさは大いに流れています」と信幻は笑みを浮かべて言った。
「今はしばし休ませろ」と信長は言って、大いに機嫌が悪い長春と政江を見た。
「行きたいところ、決まったのか?」と幻影が長春に聞くと、「あのねあのね!」とすぐさま機嫌を直して、幻影が作った冊子を開いて陽気に話し始めた。
「…姫筆頭は健在でした…」と信幻が苦笑いを浮かべて言うと、「…もう三十五年間、何も変わっとらん…」と信長は大いに嘆いた。
「それは自分の足で登ってこそ意味があると思うんだが?」と幻影が言うと、「えー…」と長春と政江が同時に嘆いた。
「なんだ、富士にでも登るのか?」と信長が聞くと、「あはははは!」と長春が空笑いしたのでまさにその通りだった。
「いきなり高いところに登ると、病気になること知ってるか?」
幻影の言葉に、「…高山病…」と政江は言ってうなだれた。
「体を慣らしながら登る必要があるし、
体調次第では諦めることも重要だ。
下手をすると死に至るからな。
その手立てはあるが、今回に限りやってやらん」
幻影のつれない言葉に、長春も政江も大いに眉を下げた。
「幻影様、連れて行ってくださいますよう。
もちろん幻影様のお言いつけは守りましょうぞ」
阿国の言葉に、「そうしようか」と幻影は言って、家族の同意も得た。
もちろん阿国としては僧の修行として富士登山を望んだのだ。
今日からしばらくの間は晴天が続き、初夏の風も穏やかなので、早速出かける準備を始めた。
第一日目は駿河の佐竹家の宿に宿泊することにして、翌日の早朝に富士登山をすることに決めた。
特に男性は重装備で、まさに行商に行くかのような大荷物となったが、これも萬幻武流の修行のようなものだ。
もっともその荷物は、女性たちのために使われるものが九割となっている。
どこに行っても、普段の生活を変えないという、まさにお姫様たちでしかなかった。
この琵琶家は、姫たちを中心にして機能している家と言っても過言ではない。
心配なのは、まだ三才になったばかりの阿利渚だが、「問題なし」と蘭丸が胸を張って言った。
最近の阿利渚はすっかり蘭丸の手から逃れて幻影に寄り添うことが多くなった。
そして危険なことなどはすぐに察することができる賢い子となっていた。
よって蘭丸ばかりでなく、乳母のお香も大いに眉を下げている。
もちろん、もっと手がかかる子の方がうれしいからだ。
しかしまだまだ一般生活の中では手はかかるので、お香の出番は大いにある。
「…どんな絵が描けるかなぁー…」と幻影は富士を思い浮かべながら言うと、阿利渚が大いに反応して、「…たのしみぃー…」と言って、満面の笑みを幻影に向けた。
「…あっ 絵を忘れてた…」と幻影は意味不明の言葉を放って、まさに無心になって、様々な絵を描き、弁慶たちとともに、まだ開店予定のない一軒の店舗にすべての絵を飾った。
そして店番も雇って、ちょっとした絵画の美術館となった。
『琵琶高願絵画展』という看板を作って、屈強な武士を店の前に立たせた。
この武士はこの地で雇った浪人で、もちろん幻影が萬幻武流の門下生にした。
実直な男で、年齢は幻影と変わらないので、様々な戦場も経験していた猛者だ。
やはり平和になったこの世界に、戦う武士は不要といち早く察していたようで、刀を腰から抜いて肉体労働に励んでいたところを幻影が見つけたのだ。
そして新たな刀を打って、この男、松平影達に託したのだ。
松平家にあって、全く字を受け継でいない者も珍しい。
まさに末裔中の末裔で、先達が誰だかわからないそうだ。
よって、この影達が将軍候補となってもおかしくないわけだ。
その昔の松平元康のご落胤の可能性も幻影は考えていた。
しかしその証拠はないと思ったのだが、実はあった。
その腰のものには、『村正』の銘があり、元康とも刻まれていた。
まさに形見分けのように、この影達に受け継がれていたようだ。
幻影はこの話をしたが、「そのような窮屈なところは性に合いませぬ」とまさに自然に言ってのけた。
その村正は幻影が心を込めて研ぎ上げると持ち歩くことはせず、その代わりのものを幻影が打った。
まさに太刀の威厳と、元から持っていた影達の威厳が合わさって、今は美術館を守る盾となっていた。
するとどこからうわさを聞き付けたのか、秀忠がお忍びでやって来て、幻影の絵を堪能した。
「絵を買うから、門番もおまけにつけてくれない?」という秀忠の進言を簡単に断った。
もっとも、絵は販売ではなく、全て展示品だ。
この日ノ本の各地の風景の全てがわかる、日ノ本博物館と言っていいものだった。
その圧巻は唯一風景ではなく、入って正面の天井付近に大きな絵画が飾られていて、幻影の師匠、真田信繁の大いに気合の入った横顔だった。
この肖像は、まさに最後の戦いの信繁の横顔そのものだった。
真っすぐに前を見ているその数間先に、徳川家康がいたのだ。
もちろん、この事実を知っているのは幻影だけしかいない。
まさに鬼気迫る絵に、ほとんどの者が入り口を入ってすぐに見上げる。
特に武家はこの絵を欲しがったが、もちろん売ることはない。
幻影の真実の魂を込めた作品という理由もあるからだ。
影達は暇があれば、外からこの絵をにらむ。
この行為も、影達の修行となっていた。
「どちらの殿でおわすか?」と影達が秀忠を見て幻影に聞くと、「隠居した徳川第二代将軍」と幻影が答えると、影達は何も言わずに首を横に振っただけだ。
「戦場ではその軍に巡り合うことすら叶わなかった」とまさに前線で戦い抜いて生き抜いた猛者だったと、幻影は確信した。
「友はすべて冥途のようだね」という幻影の言葉に、「最後の大坂の時は、友はおりませなんだ」と少し寂しそうに言った。
「だが、その戦場を駆け抜けていた、赤い疾風に友を感じた。
できれば、また巡り逢いたいと思ってやみませぬ」
「ほう… それは面白い」と幻影は言って、着衣を脱いで、兜をかぶって手甲をつけた。
まさに深紅の鎧が大いに存在感を見せつけた。
「こんなヤツだった?」と幻影が聞くと、影達は目を見開いていた。
「巡り逢い申した」と影達は言って頭を下げて満面の笑みを幻影に向けた。
幻影は兜と手甲を外して、「もう八年も前のことなんだなぁー…」と懐かしそうに言った。
「兜をかぶった姿を目撃したとすると、真田の軍にいたの?」
「いえ、伊木様の軍です。
ですが真田の殿が飛び出し、見事において行かれてしまい、
我ら歩兵は孤立しました。
その時に遠くで赤い疾風を発見したのです。
もちろん、身を守りながら前進したのですが、
赤い疾風も真田の殿も、家康の軍も消えてなくなっていました」
「あはははは!
家康の軍は、伊達側に向かって逃げたからね。
真田の殿は俺が連れ帰ったんだ。
我が師匠だから、戦場に放ってはおけなかった」
幻影は言って、ひときわ目立つ絵を見上げた。
「…真田、信繁公…」と影達はつぶやいて、手のひらを合わせた。
「琵琶家全員が空の上から戦場を見ていたから。
みんなが生き証人だよ。
影達さんのことを覚えている人もいるかもね」
影達は何の疑問も持たずに、「笑われそうなので聞かないでおきましょう」と言って自然な笑みを浮かべた。
「ああそういえば、投降した時に、
何があったんだと叫ばれて問われ申した。
相手は伊達のガキです」
影達の言葉に幻影は少し笑って、「それ、政江の亭主だよ」と幻影が言うと、さすがの影達も大いに動揺した。
琵琶家の姫は蘭丸を筆頭にして、どの武家の姫よりも恐ろしいことを身に染みて知っていたからだ。
「政宗も、手のかかる俺の弟のようなものだよ…」と幻影がため息混じりに言うと、「お察しします」と影達は言って素早く頭を下げた。
幻影は気持ちのいい友を発見したが、御殿の警備を頼んでから、戦車に乗って一路駿府を目指した。
街道は比較的整備されているので、昼餉過ぎの時間に宿に到着した。
今回の催し物には信幻と志乃も当然のように参加して、そして宿の裏にある道場を懐かし気に見入っていた。
しかし空腹には勝てないようで、一番いい部屋に通された幻影たちとともに、うまい昼餉を味わった。
そして昼餉の後に登山用の緊急時の大八車も造り上げて、砂浜で試すと、「…なんということ…」と弁慶が大いに目を見開いて驚いている。
「速度は出せないが、どんな道でもほとんど揺れないし、車輪を取られない。
何とか頂上までもってくれたらいいんだけどね」
「…お師様、素晴らしい…」と源次も手放しで喜んでいる。
「しかも、車輪は前にしか回らないようになっているから、
坂で手を放しても一気に下ることはないし、
車輪を固定して、全く動けなくすることもできるから、
登山に使えると思ってね。
どうせ男たちが女官たちを背負って昇ることはわかっているから」
「…あはははは…」と弁慶と源次は大いに空笑いをした。
翌朝の早朝、阿国が女官たちを叩き起こして、まだ暗いうちに宿を出た。
そしてもう女官のほとんどが大八車に座っているのだが、誰も注意しなかった。
その中で志乃と沙織は富士だけを見上げていて、阿国は小さな声で経を唱えながら歩いた。
じっくりと時間をかけて登ってきたせいか、誰も高山病の兆候は表れず、普段なら山中で一泊するはずの行程を、昼餉時過ぎに頂上に到着していた。
初夏とは思えないほど寒いのだが、きちんと羽織るものは持って来てあるし、温かい飲み物と食べ物も用意ができた。
「まさか、富士の頂上でうどんを食えるとはな!」と信長は上機嫌でうどんをすすった。
「…あー… 登山っていいわぁー…」と政江が大いに感動しながら言ったが、長春と政江は山を一歩も登っていない。
幻影は早々に食べ終わって、東西南北から見える風景を絵にした。
まさに、富士の頂上でしか描けない絵に、誰もが大いに感慨深く思っていた。
数名の物見遊山の者たちも頂上にたどり着いたが、まさにここに住んでいる者のような目をして琵琶一族に戸惑いながら挨拶をした。
そして熱いお茶や温かい食べ物を振舞うと、まさに生き返ったように元気になっていた。
「…まさかですが、この富士のお山の神様であらせられるのでしょうか?」と男性に真剣な目をして聞かれたので、「いえ、我らも物見遊山です」と幻影は朗らかに答えた。
「あら、このお蕎麦…」と連れの女性が言って目を丸くしてから、目を細めた。
「仙台蕎麦ですよ」と幻影が言うと、「…まさか… 生実の… あの…」と女性は大いに戸惑っていたが、男性はもう確信していた。
「そうです、あの琵琶一族です」と幻影が自慢げに言うと、男女二名は今更ながらに挨拶をした。
女性は岩槻藩藩主の青山忠俊の息女の楓姫で、男性は忠俊の養子に入った、青山良衛と名乗った。
この富士登山は以前からふたりで計画していたもので、特に逃避行というわけではない。
ふたりは義兄弟であるのだが、話が合う間柄で、楓姫が嫁ぐまでに、様々なことを経験させてやりたいという、良衛の兄の心遣いだった。
「…はー… 思い出してしまったわぁー…」と沙織が大いに察したのはいいが、捕らわれの身のような存在だった自分自身を思い出して、憂鬱な気落ちが大いに沸き上がっていた。
「…まさかあなた様も…」と良衛が眉を下げて沙織に聞くと、「…江戸城の大奥におりました…」と言うと、さすがに良衛も楓姫も、「…えー…」と声に出して大いに嘆いて、そのついでに驚いてもいた。
そして沙織がその正体を明かすと、ふたりは大いに納得していた。
「だけどね、いい思い出があれば、ある程度は耐えられるから、
十分に今を楽しんでほしい」
沙織の懇願の言葉に、「はい、そういたします」と楓姫は真剣な目をして沙織に言って頭を下げた。
あとは女帝の伊達政江を紹介すると、さすがにふたりは大いに戸惑い、最後の極めつけに、徳川信幻を紹介すると卒倒しかけていた。
「…だからこその、琵琶一族の威厳…」と良衛は自分に言い聞かせるように言った。
「偶然ですよ偶然!」と幻影が気さくに言うと、ふたりは何とか笑みを取り戻していた。
しばし語らってから下山することにしたが、楓姫が足を少々悪くしたようだったので、長春、政江、阿利渚とともに、大八車に乗って下山することになった。
まさに素晴らしい景色を堪能していると、もう麓にたどり着いてしまったことを大いに悲しく思ったようだ。
足をしばし休ませたことで、平地ではほぼ普通に歩けるようになったので、楓姫と良衛に別れを告げた。
琵琶一族は宿に帰ってから、ゆったりと湯に浸って、うまい夕餉にありついた。
翌日の昼餉時に生実に戻った琵琶一族は、街道の様子がいつもと違うことにすぐさま気づいた。
信長が指信号を送ると、至る所で盗り物が始まった。
「ふーん… そんなに絵が欲しいんだ…」と幻影が言うと、「門番が怖いからな」と信長は言って影達を見た。
幻影は気さくに影達に挨拶をして、富士の頂で描いた四枚の絵を展示した。
「…見たままだから、やっぱ一番出来がいいなぁー…」と幻影は機嫌よく言って外に出ると、新作だとばかりに大勢の者たちが店内に入ってきた。
幻影は取り押さえられた忍びのものと思われる者たちを見入って、「…ふーん、伊賀者か… 俺とはお仲間だな…」とつぶやいた。
よって、多方面から雇われていると思い、事情聴取をしている藤十郎の書付を見入った。
「…秀忠…」と幻影はつぶやいて大いに笑った。
「隠居の身を楽しんでおられるようです」と藤十郎は眉を下げて言った。
もっとも、盗むわけではなく、誰かに売らないか監視を頼んだようだった。
しかし忍びが忍んでいていい気はしないので、捕らえられることは当たり前のことだ。
よってこの街道に忍びが訪れることは少なくなるはずだ。
「…田舎に帰って、農作業に勤しめ…
あんたらに、忍びの資格はねえ」
幻影の厳しい言葉に、捕らえられている者たちは大いにうなだれた。
「では、さらに手ごわい奴を捕まえようかぁー…」と幻影が言うと、「お任せを」と藤十郎が言って、その姿が消えた。
藤十郎は駄菓子屋の裏の工房の屋根の上に姿を見せ、忍びと思しき者の腕を持って振り回しながら降りてきた。
「おみごと!」と幻影は叫んで、大いに拍手をした。
「何かの試験でしょうか?」と藤十郎が幻影に聞くと、「この忍びたちの試験なんじゃない?」と幻影は答えた。
「ああ、そっちの方でしたか…
我らが試されているわけではない。
だけど、やっていることはどちらもさほど変わりますまい」
「ああ、そうだね。
ここに忍びを送り込んだ親玉たちはこの先門前払いだ」
「では、秀忠様も?」と藤十郎は言って目を回している忍びの者を見た。
「ああ、屋敷には招かない。
だけど、こっちからは行くかもな」
幻影の言葉に、藤十郎は納得して頭を下げた。
そして幻影は書を認めて、「雇い主に渡せ」と命令して、忍たちに書を渡した。
藤十郎たちは忍びたちを開放すると、まるで蜂の巣をつついた勢いで四散して行った。
そして幻影は、同じ書を同じ数だけ認めて、飛脚小屋に行って配達を頼んだ。
ほとんど近場なので、飛脚の方が早い場合もあるからだ。
もちろん、『詫びも受け入れない』とも書いてあるので、わざわざ生実にやってくることはないはずだ。
「…城でいじめられるかもしれません…」と笑みを浮かべて信幻が言うと、「家光には全て逐一書いて送ったから」と幻影が答えると、信幻は愉快そうに笑った。
「…殿からのお叱りもあるんだろうなぁー…」と信幻は大いに同情して言った。
「余計なことをせずに堂々としていればいいだけだから。
戦じゃないだけ全然ましだ」
「はっ そうでした」と信幻は真剣な目をして言って頭を下げた。
するととんでもない行列が現れて、信幻が血相を変えて迎えに出た。
「…親子そろってなにやってんだか…」と幻影が大いに嘆くと、「平和だということでしょう」と藤十郎は笑みを浮かべて言った。
ほどなくして、側用人と信幻を引き連れて家光がやって来て、幻影に笑みを向けて見上げた
幻影はまた書を認めて、「出入り禁止としましたので」と言って書を側用人に渡した。
家光はすぐに書に目を通して、「面倒かけちゃった… しかも、御前様まで…」と家光は言って大いに眉を下げた。
「御前様は慣れたものですから。
用があればこちらからまいりますので」
幻影の言葉に、「うん、よかったよ」と家光は言ってから、「絵画の鑑賞をと思ってやってきたのじゃ!」と明るく叫んだ。
ここは幻影自らが案内して、質問があれば説明もした。
やはり富士から見た四枚の絵をかなり気に入ったようで、ずっと見入っていた。
「…神の俯瞰の眼じゃ…」と家光はつぶやいたが、「鳥たちも同じものを見ておりましょうぞ」と幻影は言った。
「…あー… それもそうだよなぁー…」と家光は言ってから、幻影に笑みを向けた。
「そもそもは、これを見に来たのじゃ」と家光は言って、最後に真田信繁の横顔の絵を見上げた。
「戦場での、私が一番印象に残った記憶をもとに描きました」
「…御前様もそうだけど、高願殿も戦場を何度も体験されているんだよなぁー…」と家光は絵を見上げながら言った。
「私の場合はそれほどでもございませんが、
旅の途中で何度も出くわして、
何度も身を守りました。
正式に参戦したのは、ほんの十ほどです」
「…それでも、十も…」と家光は言って、眉を下げて幻影を見上げた。
「この先は、そのような戦いがないよう、
上様がきちんと見張らなくてはならないのです。
まさにこれは戦を起こすよりも難しいことなのです。
現在の平和は、上様の肩の上にだけあるのですから」
幻影の力強い言葉に、「家老になんない?」と家光が秀忠と同じように言ったので、幻影は大いに笑って、事実を述べた。
「…御前様も、不安だったんだよなぁー…」と家光は言って幻影を見てから、信幻に顔を向けて笑みを浮かべた。
「信幻様には何なりとお申し付けいただきますよう。
爵位が必要であれば、ぶんどって参ります」
幻影は本気で言った。
「…あはは… 天狗様だもんね…
大君とは何度も?」
「はい、三度ほど。
一度など、軽業興業の件でした。
政治とは全く関係ございません」
「そうだぁー…
それもあったぁー…」
家光は言って辺りを見回した。
「現在はまだ計画中でございます。
もしも次に行うとすれば、
松山になるでしょう。
夏祭りもほどなく執り行われますので」
「…少し前に、随分と無理を言っちゃったからなぁー…」と家光は江戸で行った台場の花火大会と松山の軽業興業の特別観覧の件を示唆して言った。
「前回ほどではありませんが、
小規模のものなら引き受けても一向に構いません。
ですが費用は、今回はさすがに頂戴いたしますので」
「…ここからは政治だぁー…」と家光は大いに嘆いた。
「…おっきい花火、見たいよ?」と長春が言うと、「千両箱に金を詰めて、三つほど積んでくれたらやってもいい」という幻影の無碍な言葉に、「ダメだってぇー…」と長春が悲しそうに家光に言いつけた。
「小さい打ち上げ花火をやるからそれで我慢しな」と幻影が言うと、「今夜、するぅー…」と長春は一瞬にして機嫌が直った。
そして、「今夜、小花火大会やるよー!!」と叫んで宣伝を始めた。
「…困ったやつだ…」と幻影は大いに眉を下げて言った
「小花火大会とは…」と家光が大いに興味を持て聞くと、弁慶がその実物を持って来て、ひと通り説明した。
「…この近隣しか見えない…」と家光は言ってうなだれた。
「ですが、この近隣に住む子供たちは大いに喜びますから、
決して無駄なことではございません。
不幸を背負った子供たちの希望の光となればいいと思っております」
「…そうだね…
武力や権力や銭や宗教ではないことで、
希望を見せることが重要なんだ…」
家光の言葉に、側用人たちは一斉に幻影に頭を下げた。
「…まさかと思えば、やっぱり上様ぁー…」と小声で柳生三厳が言ってやってきた。
三巌は隠居して、嫡子に名前ごとやったので、今は宗矩と名乗っている。
宗矩はお家の引き継ぎなどが忙しく、この生実には初めてやってきた。
「少しははかどったかい?」と幻影が聞くと、「…絵を見にここに来たいと言って、全く進みませぬ…」と宗矩は大いに苦笑いを浮かべて言った。
「…三巌… 宗矩も天狗様の弟子なんだよね?」と家光が聞くと、「ようやく本格的に弟子として鍛えていただくことが叶い申した」と宗矩はやけに堂々と言い放った。
「…平和を維持するために、抗う武力も必要…
決して、日々を怠ってはならぬ…」
「はっ 微力ながら、その時が参りました暁にはお力になりましょうぞ」
「天狗様も?」と家光が幻影に聞くと、「人ではない者は、それほど手を出すべきではないでしょう」と幻影が言うと、「…頼ってばかりじゃダメだ…」と家光は言って、幻影に笑みを向けて見上げた。
「信幻様も、そして私の弟子たちも、
どこに出しても恥ずかしくない武芸者ばかりです。
どうかうまく使っていただきますように」
「…うん、本当に、いろいろとありがと…」と家光は笑みを浮かべて礼を言った。
「…ですが花火大会や軽業興業をしない代わりに、
第二回日ノ本一喧嘩決定戦でもやろうかと思っているのですが、
観覧されますか?
幻影の言葉に、「…それは見たいぃー…」と家光は大いに興味をもって答えた。
「私と胡蝶蘭は流派の頭目ですので出場は辞退しますが、
門下生はほぼ全員出しますから。
むろん、信幻様にも出ていただくことになります。
今のところ、免許皆伝を出したのはわずか五名ですが、
我が流派の恐ろしさを大いに知っていただきたいと思っているのです。
今日のように大勢の忍びがまた来ると面倒ですので、
忍び除けのような催し物でもあるのです」
「…御前様にも伝えておきますぅー…」と家光は眉を下げて言ってから、信幻に笑みを向けた。
「では早速宣伝をしておきましょう」と幻影は言って、すらすらと書を書いて、法源院屋に持って行った。
「…はあ… なんて達筆な…」と家光は目を見開いて言った。
幻影が戻ってくると、家光は丁寧に挨拶をしてから信幻の戦車に乗って上機嫌で江戸城に戻った。
日ノ本一喧嘩決定戦の宣伝は大いに功を奏して、前回の数倍の出場要望者が名乗り出た。
生実に来て予選に出るだけで、旅費が軽く浮くほど礼金が出ると聞けば、腕に覚えがあれば誰だって来るだろう。
よって、観覧者もそれなりに多くなる。
幻影たちは全天候型の巨大な演舞場を作り上げた。
収容人数は一万人を超えるほどで、客席からの景色が素晴らしいすり鉢状のものだ。
完成した記念に、早速ここで鍛錬を始めた。
試合はまだ数日先なのだが、多くの武士たちが生実にやってきている。
そして今にも喧嘩になりそうに睨み倒しあっているのだが、さすがに暴れることはなさそうだ。
その中で、やけに優しそうな顔をした男が弁慶に向かって歩いてきたが、のそりと体を起こした巖剛がその道をふさいだ。
「何か話でも?」と弁慶が聞くと、「…いや…」と男は言っ、て巖剛を大いに畏れている。
だが巖剛には小動物がまとわりついていて、その威厳は地に落ちている。
すると幻影がやって来て、「…あんた、ここで布教活動をされると困るんだがな…」と男をにらんで言った。
男は言葉が出なくなり、―― なぜ気付かれた… ―― と思い、大いに焦った。
「まずはだ。
金属製の鎖が見えてるぜ」
幻影の言葉に、男はすぐさま首に手を当てた。
「おまえ、なかなか素直だな…
俺は首だなんてひと言も言ってないぜ」
幻影の言葉に、「…兄者、すごい…」と弁慶は大いに感心していた。
「さらにはだ。
この熊の巖剛はこの街道にいても誰も驚かない。
巖剛は何もしないからだ。
禁止されている宗教を信じているのなら、
もしも熊が襲ってきても、笑みをもって許すんだろ?
熊は罪深きことをしたが、
熊自身に罪はなく、
怪我をさせた行為にのみ罪はあると、
あんたの宗教では説いているはずだ。
だったら堂々とそばに寄ってしかるべき。
だがあんたは熊を恐れた。
あんたは、あんたの信じる宗教の本当の信者じゃねえな」
幻影の言葉に、男は振り返り立ち去ろうとしたが、まったく体が動かない。
「俺たちはな、様々な場所に行って、あることに気付いた。
この大自然の一部はまさに地獄だ。
特に火山はとんでもねえ。
更に大地震も何度も経験した。
あんたが崇拝している宗教の前の神が、
火山や地震に嵐などを起こしていると俺は考えている。
しかも、この日の国の神話も同じようなことを言っている。
神は、大地や国そのものだと。
だが、あんたの崇拝している宗教は、
人にやさしい神だと聞く。
だがそれは大きな間違いだらけだ。
人にやさしい神などどこにもいないし、
できたら会わせてもらいたいものだ。
神話などに神が出て来るのに、
誰も見たことがねえ。
よって、神などはどこにもいねえ。
あんたの神もまだ姿を見せてねえな。
だがな、
ほんの十年前までこの日の国は戦だらけでまさに生き地獄だった。
その地獄を穏やかに収めたのは、
いうまでもねえ、徳川の初代将軍様だ。
だったら、その将軍様が神なんじゃねえの?
その神が、あんたの崇拝する宗教は危険だと言った。
きちんと理由を述べて禁止している。
その神が禁止したことを、あんたは無視して布教するのかい?」
幻影が語り終わると、男の拘束が解けた。
そして何も言わずに来た道を戻って行った。
「…キリストに疑いを抱いたはずだ…」と幻影は小声で言った。
「だけど、兄者を狙ってまた別の者が来ます。
もちろん、攻撃ではなく友好の使者として」
「同じことを言うまでさ。
あんたの信じる神を呼べ、とな。
いくら思想を語っても、平行線をたどるだけだ。
よって結局は、諍いに発展するものなんだよ。
だが、純粋に宗教戦争だったらいいんだけどなぁー…」
弁慶は眉をひそめて、「そうはならないと?」と聞くと、「一揆のひどいやつが起ると思う」と幻影は答えた。
「根本的には多くの税を徴収して、
反抗した者たちを糾弾し武力的に懲らしめる。
そこに宗教も絡んでいた場合、
それにかこつけて皆殺しという顛末だ。
過税に苦しめられている人々は知っての通り多いからな。
江戸から離れている場所、
九州辺りでは起こりやすいと思うぜ」
「…我らが長崎に行けば…」と弁慶がつぶやくと、「…反キリスト教を唱えるのも問題だよ…」と幻影は眉を下げて言った。
「もしくは、
俺はキリストだ。
俺の言うことを聞いてキリスト教を捨てろ、
という」
幻影の言葉に、弁慶は愉快そうに笑った。
「その時点で、俺はキリストではなくなるからな。
だがな、本当にキリストが現れた時、
そう言わないとは限らないと思う」
「はい…
諍いを見た時点で、
諍いの元になっている信じるものを放棄しろと…」
幻影は何度もうなづいて、「それが一番平和だと思うぜ」と幻影は言って、弁慶の肩を軽く叩いた。
しかし幻影は鳩に書を託して秀忠に送った。
接触した以上、知らせておくことは幻影にとっては常識だったからだ。
翌日の昼餉前に、「来たよ!」と琵琶御殿の玄関から声がした。
「申し訳ござらん。
あなた様は招かれざる客とお聞きしておりまする」
今の屋敷の門番は松平影達だ。
「影達さん! 庭にお通しして!」と幻影が叫ぶと、影達は幻影の言葉通りに、素晴らしい庭に眉を下げている秀忠と側用人三人を連れてきた。
幻影は白石敷きの庭に大きな頑丈な板を敷いてから畳を四つ並べて、「俺たちはここで食事だ」と幻影は言って、秀忠たちに食事を振舞った。
「…屋敷には入れてくれない…」と秀忠は眉を下げて言った。
「通達した通りだが、
あんたは友人特権で庭には招待した。
いやなら帰ってくれてもいいんだぜ」
「いやなわけない!」と秀忠は叫んで、出汁のいい香りがするうどんを一気にすすり、幸せそうな顔をした。
「捕まえたかい?」と幻影が聞くと、「報告はないよ」と秀忠は眉を下げて言った。
「布教活動は諦めたのかな?
仲間にもほとぼりが冷めるまで控えるように伝えたと思うが…
しかし、布教してどうなるっていうんだ?
全く意味が解らん…
駄々っ子が反抗しているようにしか思えんな…」
「…我にも言ったよね?」と秀忠が聞くと、幻影は腹を抱えて笑った。
「ちなみにさ、布教して信者が増えたら、
宣教師としての身分が上がるそうだよ。
その分徳を積んだってことになるそうだ」
秀忠の情報に、「ああ、そういうこと…」と幻影はようやく納得できた。
「となると、お上の意向などは顧みずに、
せっせと布教に励んでいる宣教師も多いわけだ。
ま、関わり合いになりたくなかったから逃がしたんだけどな。
となると、出世争いのために昨日のことは誰にも言わない、か…
人を集めたらまた来そうだし、
もしも見つけたら役人の前にその証拠を晒して転がすから。
専門家を何人か呼んでおいて欲しい」
「うん、こっちとしてもありがたいよ」と秀忠は穏やかに言った。
「長崎の方は相変わらず?」
「…まあね… 全く何も変わってないほどだから、
信者は徐々に増えてるって思う…」
秀忠の言葉に、幻影は何度もうなづいた。
「ああ、あとで演舞場の観覧席を見るかい?
あんたらを招待したことは言ってねえけど、
悪さをしようとするやつは必ずいる。
そういった芽を摘んでおくことも重要だと思って、
わからないように少々細工をしてある。
その確認だ」
「うん、見に行く」と秀忠は言って、うまそうにして芋の天ぷらをほうばった。
第二回日ノ本一喧嘩選手権当日は、参加者三千名と大盛況となった。
観覧者も五千人は優に超えてきて、まだ続々と観客席に入ってくる。
その特等席で、秀忠と家光は満面の笑みを浮かべている。
もちろんお忍びなので、公表はしていない。
だが、外からは丸見えなので、客席の観客と出場者はある程度の察しはついている。
『どこかの偉い人が観覧に来ている』
この程度だったが、穏やかそうに見えて過激な者はいるものだ。
そして予選が始まってすぐに、そのような野望は吹き飛んでしまった。
蘭丸が演舞場に呼び込まれた五百人を相手に、長木刀を一振りするだけで半数の者たちを倒したのだ。
そしてわずか三回長木刀を振っただけで、決勝進出者の一名が決まった。
当然のように、今回は弁慶だけが生き残ったのだが、大いに苦笑いを浮かべていた。
「…女子、ですよね?」と家光が大いに眉を下げて聞くと、「…高願の妻…」と秀忠も大いに眉を下げて答えた。
「弱ええやつしかおらんのか?!」と蘭丸が吼えると、観客たちは大いに拍手をしていた。
決勝進出者は蘭丸が全て決めて、前回同様に、ほとんど萬幻武流の関係者が残った。
今回はそれ以外に二名残り、一名は藤堂高虎のように雄々しき男だ。
何とかその体重を生かして、蘭丸の剣風をしのいだのだ。
もう一名は細面だったが、比較的楽に生き残りを果たした。
「…なんだかさらに安心したよ…
それに、信幻も残ってうれしい!」
家光が陽気に言うと、「…まだ大人ではないのに、すごいねぇー…」と秀忠は言って幻影を見た。
「そりゃ、免許皆伝者のひとりだからな。
そしてその頂点が決まるが…
まあ、今回も弁慶だろうなぁー…」
ここからは生き残った十名の総当たり戦となる。
しかし道徳違反があった場合は、即座に試合を止めて失格となる。
この日ノ本一喧嘩決定戦に、手加減や躊躇、戸惑いは許されないのだ。
全ての者に対して死力を尽くして戦うようにと説明をして、まずは弁慶と、宮本武蔵こと佐々木小太郎が演舞場の中央に立った。
弁慶は一般的な木刀を右手だけで握っている。
そしてそのまま中段に構えた。
まさに半身を隠すような短刀での戦いの姿勢を取っている。
小太郎は長い木刀を上段に構えた。
幻影は館内に声が響き渡る管を使って、「始め!」と叫んだ。
すると弁慶の姿が消えたと同時に、小太郎の背後にいて、小太郎は脇腹を押さえて片膝をついた。
「それまで!
勝負あり!
勝者、源弁慶!」
幻影の声が演舞場に響き渡ると、大きな歓声とともに大きな拍手が起こった。
「…早すぎてわかんなかったぁー…」と秀忠と家光が同時に嘆いた。
「左足を前に出した瞬間に、右足で地面を蹴って懐に入っていたんだ。
そこにたどり着く前に、木刀を首の辺りに巻き込んでいて、
一応防御態勢を取った。
左足で地面を蹴ると同時に、逆手の右腕を袈裟に振ったんだよ。
角度を鋭角にしていたから、
それほど痛くはなかったはずだよ」
幻影の身振り手振りの解説に、「…はあ… なるほど…」と秀忠は言って納得していた。
「…攻撃と防御が一体になっていたんだ…
…すごーい…」
家光は大いに感心していたが、信幻のこの先の戦いが大いに心配になっていた。
家光は信幻にも剣術を習っているのだが、今の弁慶のような動きを見たことがなかった。
できれば、怪我だけはして欲しくないと、手を合わせて仏に願った。
その信幻と、大男の高力清房が演舞場の中央に立った。
「…うわぁー… 本当に大丈夫なのぉー…」と家光は大いに眉を下げて、幻影を見た。
まさに大人と赤子のようで、どう考えても信幻に勝ち目はないようにしか見えなかった。
「問題ないさ。
さすがに捕まえられるとひとたまりもないだろうが、
相手はただの大木だから」
幻影は気さくに言ったが、家光は大いに心配していた。
「始め!」という幻影の開始の合図に、まず出たのは高力で、体が大きい割には俊敏だ。
しかしその速度に合わせて信幻は退いているので、全く間合いが詰まらない。
だが次に動いたのは信幻で、のろりと前に出て、高力の振り下ろした木刀の餌食になる瞬間、素早く身をかわして、突きで高力のみぞおちに木刀を軽くいれた。
「それまで!
勝負あり!
勝者、徳川信幻!」
まさか徳川の名前を持っている者が出場者にいたとは知らなかった観覧客が多く、大いにざわついたが、大きな拍手も沸き上がった。
「…徳川の… 強さの象徴…」と秀忠は涙を流しながら言った。
「そういえばそうだな…
政治家は多くても武芸者はいないだろうからな。
すごいやつを見つけてよかったな」
幻影が秀忠に言うと、「…天狗様が強くしたんじゃないの?」と家光が聞いた。
「変わったことなど何もしてないさ。
もしも天狗がそのような術を使えたとして、
強くなったとして、
信幻様は嬉しいのだろうか?」
幻影の言葉に、「…信幻は絶対に嫌がる…」と家光は真剣な目をして言った。
まさに緊迫した試合が続いたが、負けを積み重ねるのは小太郎と高力だけだ。
そしてついに、無敗を誇る弁慶と、同じく無敗の信幻が日ノ本一をかけた最後の戦いに臨むため、演舞場の中央に立った。
これだけ優れた戦いが続くと、名前などは関係なかった。
徳川を勝たせるなどと思っている者は、秀忠と家光しかいないほどだ。
そのようなことなどあとでいくらでも証明できる。
弁慶はこの手合わせでも変則的な木刀の持ち方をする。
今回は木刀の中央を左手で持って、まさに短刀の戦い方のように、極端に左を前にして右手を隠すようにして少し腰を落としている。
信幻は全く変わらず基本的な中段の構えだ。
「始め!」
開始の合図が飛んだがふたりともまんじりとして動かない。
まさにどちらもが強いと思わせる威圧感がある。
「ふたりとも失格にするぞ!
動け!」
幻影の厳しい声が飛んだと同時に、ふたりはまっすぐに間合いを詰めた。
真っ向勝負であれば、素早く突きを出した信幻が大いに有利だ。
だが弁慶も突きを出し、木刀が信幻の額を襲った。
「それまで!
勝負あり!
勝者、源弁慶!
弁慶の姿は異様だった。
木刀を手で持たず、右の手のひらで押して、信幻の額に当てたのだ。
ふたりは向き合って素早く礼をしてすぐに、「すまん、手加減できなんだ」と弁慶は信幻に謝った。
信幻の額には薄っすらと血がにじんでいる。
「いえ、本気で戦っていただけたこと、
本当にうれしいです!」
信幻の清々しい言葉に、ふたりは肩を組んで、控室に戻った。
第二回日ノ本一喧嘩選手権は、またもや源弁慶が一番手と決まり、表彰式の後、これ見よがしの賞品贈呈の儀があって、大盛況の中、催し物の幕を閉じた。
「…徳川が源に負けたぁー…」と秀忠が大いに嘆くと、幻影は愉快そうに笑った。
「大昔の亡霊のような家だ。
ここは我慢しろ!」
幻影の陽気な言葉に、「…どっちにしても幻影の弟子じゃないか…」と秀忠はすべてが気に入らなようで、ずっとぼやいている。
しかし家光はふたりを陽気に招き入れ、まずは弁慶の健闘を称え、そのあとに信幻を大いに褒めて労い、そして怪我を気遣った。
血が流れるほどの怪我をしたのは信幻ただひとりだったのだ。
よって、それほどに真剣に向き合っていたことがよくわかる。
「見世物だからな、煽って悪かった」と幻影は言って、ふたりに頭を下げた。
「あのまま見合って戦わせた場合、
勝ったのは信幻だったかもしれない。
持っているすべてを出し切っていなかったはずだからな。
しかし、勝負は非情。
あの瞬間強かったのは弁慶の方だったのだ」
幻影のありがたい言葉に、弁慶と信幻はすぐさま頭を下げて笑みを浮かべた。
まさに、萬幻武流の強さを証明した戦いでしかなかった。
もちろん多くの武家も観客席にいて、それぞれの指南役の眉を下げさせていた。
どう転んでも、萬幻武流の底辺にも勝てないと認めたからだ。
その底辺の二度しか勝てなかった宗矩は大いに悔しがっているが、賞品には目尻を下げて喜んでいた。
この中で第三位となった沙織は、姫たちに囲まれて大いに陽気になっていた。
「嘉明様が戻って来いって言ってくるかもぉー…」と長春が脅すと、「…あり得るからイヤだわ…」と沙織は大いに嘆いた。
「ふん! お前らなんかまだまだだ!」と蘭丸は大いに悔しがって言った。
できれば阿利渚にさらにいいところを見せたかったのだ。
「お母様が一番お強いよ?」という阿利渚の気の利いた言葉に、「あら、うれしいわ」と蘭丸はすぐに機嫌を直して阿利渚を抱き上げた。
「お蘭、手合わせ」と幻影が不愛想に言って蘭丸を誘うと、「おう!」と蘭丸は答えて阿利渚を床に降ろして幻影の背中を追った。
何の説明もなく幻影と蘭丸が演舞場に出てくると、客席は水を打ったように静かになった。
幻影は脇に木刀を差して、手には杖を握っている。
蘭丸はいつものように杖よりも長い木刀を担いでいる。
ふたりは槍の間合いで演舞場の中央に立って、すぐに身構えた。
すると、「キェ―――ッ!!!」という気合とともに、蘭丸の長木刀が袈裟に空を切った。
すると幻影の杖の三分の一ほどが、『カンカン、カラン…』と音を立てて床に落ちたのだ。
幻影は杖を背後に投げ、目の前に落ちた杖を左に蹴り飛ばしてすぐに木刀を抜いて、蘭丸との間合いを詰めた。
「くっ!」と幻影の作戦にようやく気付いた蘭丸は躊躇なく後ろに大きく下がった。
ここからは忍者の追いかけっこのような立ち合いに、場内は徐々に沸き上がったのだが、「それまで!」という弁慶の合図に、ふたりは動きを止めた。
「お師様方、お疲れ様でございました」という源次の言葉に、「何とか逃げ切った」と幻影は言って安堵の笑みを浮かべた。
「妻に花を持たせなさい!」と蘭丸は叫んだが機嫌は大いによかった。
第一撃の木刀で斬った杖を客席にいる武士たちは見入っていた。
太刀であっても木刀であっても、蘭丸の前に出ればおもちゃ同然だと誰もが感じて背筋が震えた。
萬幻武流の頭目同士の戦いは、何も語られることなく終わりを告げ、外では夜空を彩る花火が上がり始めた。
客席の半分以上はまさに特等席で絶景だったので、そのまま花火見物となった。
「…花火、上げてるじゃないかぁー…」と秀忠が大いに嘆くと、「それほど長くは上がりませんし、いつもよりも派手ではありませんから」と四番手だった源次が眉を下げて答えた。
派手ではない分、ゆっくりと長時間花火は続き、街道は大勢の花火見物の場になって、店の売り上げも大いに上がった。
ちょっとした祭りを終えて、琵琶御殿では宴会が始まった。
佐々木小太郎と高力清房は居所がないように小さくなってこの場にいた。
特にふたりを勧誘するでもなく、食事を勧められるばかりだ。
「俺の弟子しか残らなかったらどうしようって、
大いに焦ったよ!」
幻影の陽気な言葉に誰もが大いに笑って、小太郎と清房を見た。
「手加減はした。
ふたりともぎりぎりだったがな」
蘭丸の雄々しき言葉に、ふたりはさらに小さくなっていた。
「手加減なしだったら斬られてるからな!」という幻影の言葉に、ふたりは幻影が持っていた床に落ちた杖を思い出して背筋を震わせた。
「…本番は祭りが終わってからだったようだ…」と信長は言って、座敷に飛び込んできた小さな文を読んだ。
「布教活動ですか?」という幻影の言葉に、「今のところ八名が証拠とともに役人に突き出された」と信長は表情を変えずに言った。
「筑前にいれば、色々と聞いてると思うけど?」と幻影が小太郎に聞くと、「キリストが生まれたと聞きました」と答えた。
小太郎がうわさでしかないが耳に入れたことすべてを語ると、「やっぱ肥後で生を受けていたのか…」と幻影は眉を下げて言った。
そして幻影がここだけの話を語ると、小太郎は目を見開いていた。
「言っとくが、関わらない方が身のためだぞ。
藩の問題は、藩と幕府に託すしかない。
とばっちりを受けたら目も当てられないからな」
「…だからこそ、手を出されないのですか…」と小太郎は言って少しうなだれた。
「宗教戦争はこの国だけではなく、外の多くの国でも起こっているんだ。
誰が善者で誰が悪者なのかわからないほど入り乱れるものなんだ。
その顛末は、
責められていた者たちの皆殺しで終わるように決まっているんだよ。
この国の場合は、分が悪いのは確実にキリスト教徒たちだ。
ここでも何人か捕まったことで、
幕府はその根本をにらむはずだ。
天狗教を広めていなくて助かったってところだ」
幻影が苦笑いを浮かべると、小太郎と清房は大いに苦笑いを浮かべた。
するとまた後続の情報が飛んできて、小太郎が言ったことが裏付けされた。
よってその渦中にある肥前の国は、幕府からの監視を受けることになる。
今回の布教問題は江戸では大事に至ることはなく、宣教師たちは拘束されたまま、肥前島原などの江戸留守居役に引き渡された。
小太郎は翌日筑前に戻ったが、清房はこの街道を楽しむようにして様々な場所を物見遊山のようにして楽しんでいる。
家は武蔵の国にあるようで、急いで帰る必要もないようだ。
「いらっしゃいませ」と美術館前で影達が清房に挨拶をすると、まるで立ち合いのようにふたりはにらみ合った。
「なぜ、昨日の試合に出ておらなんだ?」と清房が聞くと、「我は警護役だった」と影達はすぐさま答えた。
「…主にも勝てなんだ…」と清房は大いに嘆いて、美術館に足を踏み入れてすぐに固まった。
武士であれば必ずこうなることは周知の事実なので、影達は何も言わない。
入り口の間口は広いので、後続者は容易に避けて通れるので何も問題はない。
そして清房が戻って来て、「あの肖像、飾っておいて大丈夫なのか?」と影達に聞くと、「敵味方ではないし、崇めているわけではない。ひとりの武士としての尊敬できる雄々しきお方だ」と無表情で答えた。
すると、それなり以上の武家の一団がやって来てすぐに、「…信繁殿…」とうなってから手を合わせた。
「本多様も参られたか」と清房が背後から言うと、「…主は試おうたようだな…」と本多忠政は言って苦笑いを浮かべた。
「さすが、高野山の大天狗。
弟子の育成にも長けておりまする」
「…上様や御前様が抱えると言わないことが怪訝だ…」
「徳川信幻様の件もありましょうぞ」
「…おう… それもそうだ…」
などとふたりは語り合いながら美術館に入って行った。
影達に話は聞こえていて、それなり以上の武家だとは思っていたが、武士としての腕前はそれほどではないと見切っていた。
後にも先にも、琵琶高願以上の武士はどこにもいないと、影達が考えていると、「交代だよ!」と三人の子供たちがやってきた。
三人とも保護施設にいる子供たちで、店番を請け負っては駄賃をもらっている。
時には館内の掃除などをすると、なぜか賃金が上がることも知っていた。
「おう、任せた」と影達は笑みを浮かべて言ってから、琵琶御殿に向かって歩いて行った。
すると道の真ん中で巖剛が待っていて、まるで、『来な』と言ったように首を後ろに振って、まだ空き地のままの、少し街道から外れた場所まで誘って、右の前足で穴を掘り始めた。
「おいおい、叱られないのか?」と影達は動物相手に言った。
すると巖剛はすがるような目をして影達を見てきたので、すぐに工房に行って穴掘り道具を持ってきた。
もう数カ所ほど井戸を掘っていたので、影達にはお手のものだった。
巖剛は穴掘りをやめてただただ影達を見ているだけだ。
そして高身長の影達の頭が見えなくなるほど掘った時、「む、まさか岩盤か」と影達が言って少し力を入れて、『ガキッ!!』と音がした瞬間に、じわりじわりと水が湧いて出た。
しかも少し温いように影達は感じて、そこらにある石などを敷き詰めて、雨水用の溝の近くまで伸ばした。
すると散歩中の幻影と阿利渚がやってきて、「…ここにもあったわけだ…」と幻影は眉を下げて言って、大きな湯舟用の穴を掘って、岩で固めた。
少々温いのだが、湯沸かし装置も設置してから、まさに簡易温泉ができた。
すると匂いで気づいたのか守山もやって来て、湯を手に取ってから、「お! いいねぇー…」と言って巖剛の頭をなでた。
巖剛は湯加減を確認してから湯船に浸って瞳を閉じた。
「湯量はそこそこあるな…
屋敷にも渡すか…」
幻影は言って弁慶たちを連れて来てから大工事が始まった。
すると、温度は上がらないがさらに湧き水が増えてきたので、この場に銭湯を作ることに決めた。
そして湯沸かし装置を四台設置して、大きな湯舟を二カ所つくったあとに、重厚な囲いを作った。
街道から少し奥になるので、道を作り庭も豪華なものにして、店番の老婆を雇って銭湯の営業を始めた。
「温泉、湧いたよぉー!」と阿利渚がかわいらしい声で客寄せをすると、わんさかと人が集まってきた。
その阿利渚を蘭丸がさらって早速銭湯に入って行った。
そして幻影は子供たちに仕事を与えた。
客の体を洗う仕事だ。
男子は男湯、女子は女湯で早速働いてもらうと、これが大盛況となった。
客としては無料なので、気兼ねなく体を洗ってもらう。
もちろん、これだけが幻影の目的ではない。
うまくいけば、里子にもらってくれる者が現れるといいと考えただけだ。
もっとも、施設と言っても待遇はいいので、そう簡単には里子に行くことがないことだけが、幻影の贅沢な悩みのようなものだ。
すると仕事にあぶれた子供たちが幻影と影達を強制的に風呂に引き入れて体を洗い始めた。
もちろん、普段の礼も込めて、心を込めて体を洗った。
やはりこの子たちのためにと、幻影は軽業興業を行うことを決めた。
もちろんその準備はできていて、立派な屋根付きの演舞場を興行施設に変えるだけのことだ。
もちろん材料はある。
まだまだ店舗建設をするつもりなので、抱えきれないほどあるので、何も問題はない。
演者の忍びたちも半数以上がこの生実に来ているので、施設さえ完成すればいつでも興行は可能だ。
長春もすぐさま察して、小動物たちを相手に、遊んでいるのか訓練なのかよくわからないことを笑みを浮かべて始めた。
演舞場は囲いが高く屋根まであるので、外から見ると何かをやっていても誰も気づかない。
そしてこの数日後、この近隣の子供たちだけを招待して、軽業興業を執り行った。
子供たちは大いに喜んで、大いに笑って大いに驚き、そして今の幸せに涙した。
よって幻影の思惑がほぼ叶ってしまったようで、施設に住む子供たちが里子に出ることはなかった。
子供たちは手の足りない仕事を大いに手伝って、暇な時は集まって駄菓子などを楽しんで、広場で遊び、施設で大いに勉学に励む。
よって一部の子供たちは本格的な仕事として、法源院屋で働くことになった。
これが唯一、里子に出したようなことになった。
「里子に取るぞ、二名だ」とひとりの大人が言い出した。
もちろん信長が言ったのだ。
「弥助とお千代ですね?」
幻影の言葉に、信長は満面の笑みを浮かべた。
「今回は、どこかに出すこともないからな。
お千代は嫁に出すことにはなるだろうが、
養子を取れば解決だ」
信長は長春のように婿を取らせることを望んでいるようだ。
「なぜ琵琶家がふたりを里子に取るのか、
まずは子供たちに知らしめろ」
まさにこれが一番重要なことだ。
ふたりがどういったことに長けているのかを説明する必要があるのだが、勉学に対しては誰もが知っていることなのだが、ふたりは法源院屋に奉公に出さなかった。
もちろん、幻影がこうなることを見極めていたので、店主は何も言わないし、逆に気を利かせて人選を幻影に託したほどだった。
そして幻影はすぐに行動に出て、弥助とお千代を、萬幻武流の弟子として取ったのだ。
ふたりは一瞬だけ驚いたが、顔を見合わせて笑みを浮かべた。
弥助は八才で、お千代はまだ六才。
幼いお千代は、弥助よりも筋がいいと、まずは蘭丸が見出し、幻影も認めたのだ。
さらには阿利渚がお千代を姉として慕ったことも大きな原因でもある。
「弟と妹がまたできちゃった!」とまず喜んだのは、ふたりの祖母に近い年齢の長春だ。
そして弥助の存在感は、幼い頃の源次で、当時の源次と重なる面が多かった。
よってお千代は阿利渚に寄り添い、与助は自然に源次に寄り添うと、「お前らはここに来い」と信長が命令して、満面の笑みを浮かべてふたりを抱きしめた。
ふたりは遠慮はしていなかったが、少し怖いと思っていた信長をこの瞬間から好きになっていた。
「源次とお志乃のようになっちゃうのね…」と濃姫は言いながらも、笑みを受けベてふたりを抱きしめた。
このようにして引っ越すたびに、次代を担う若い力を家族にしていくことも、琵琶家の使命なのだ。
この日からはふたりの身なりも変えて、仕事となれば幻影たちに寄り添っては手伝いをする。
三日に一度の軽業興業の日も、裏方として大いに働く。
もちろん、剣術、武術、武器術と特別な勉学も学ぶようになってきた。
「…弟子、取ったんだね…」と、毎日のように遊びに来るようになった秀忠が眉を下げて言った。
「…大人の見極めもしてくんない?」と秀忠が請うと、「それはお前の仕事のようなものだ」と幻影はにやりと笑って言った。
生実の新しい名物を見ようと、江戸から大勢の者たちが毎日なだれ込んでくる。
しかし、騒ぎなどが起ることはない。
まずは街道を堂々と闊歩する巖剛に怯える。
そしてまさに熊のような影達にも怯える。
よって、ただの物見遊山に来た者にとっては、素晴らしいほどの観光地と言ってもいいほどだった。
そしてついに、法源院屋の売り上げよりも、うどんと蕎麦の松太郎の店の売り上げが上回った。
庶民から高貴な武家までが利用する店として、江戸一番と自称する料亭からも視察に来るほどになった。
全てがまさに本物で、できれば料理人を引き抜きたいところだが、この食堂で働く者たちもまさに家族で、まず言い出せなかった。
さらには琵琶家に対して引き抜き工作を行うことは無謀に近いことでしかない。
この先のことを考えると、手を出すべきではないとして、食事だけをして帰ることになる。
「おまえは川越藩に仕官しろ」と妙に上から目線の数名の警護人を引き連れた武家が、美術館の警備中の影達に言った。
「行くわけがない」と影達は一言で片づけた。
「おいおいあんたら、やけに堂々と人さらいかい?」と幻影がまずは喧嘩を売るように言った。
「ワシはこやつと話をしておる。
関係のないお前は黙っていろ」
武家の言葉に、「そうはいかねえ。こいつは俺の弟子だからなぁー…」と幻影は武家をにらみつけた。
「…年取ってる割には威張っているだけで、それほど戦場に出てねえな。
これからは、お前らのような口だけが達者な者が増えるんだろうなぁー…」
幻影の言葉に、「何だと!」と叫んだ護衛の五人が太刀を抜いた時点で、『キンキン!!』という妙に軽い音がして、抜き身の太刀がすべて折れていた。
「ふん、安物の太刀など腰に差しているやつは、侍なんかじゃあねえ」
五人は大いに戸惑ったが、身を呈して武家を守るように前に立った。
「ふん、役立たずが」
幻影の言葉に、ついに武家が太刀を抜いたが、『ビュン!』という妙に軽い音とともに太刀は音もなく折れていて、六人の髷が落とされて、落ち武者と変わった。
幻影が六人に指をさして大いに笑うと、かなり面白かったようで、笑ったことがなかった影達も腹を抱えて笑った。
「天下の往来で物騒なものを抜いてんじゃあねえ!」と一番物騒な蘭丸が言って、幻武丸を鞘に収めた。
「昼間っから辻斬りだ。
ま、未遂だけどな」
幻影は言って待機していた役人を呼ぶと、「武蔵岩槻藩の藩主です」と言った。
「藩主が辻斬りをしようとした。
証人は大勢いるし、まずは生実藩が黙ってねえだろうなぁー…
ああ、そういやあ、岩槻藩の藩主は、徳川の老中だったっけ?
あんた、首を洗っておいた方がいいぜ。
俺と秀忠の仲を知らないようだから、
まさに武家らしく堂々としていたようだが、
知らないことも罪に値することだぜ」
「…ふん… そのようなことができるはずもない…」と武家は不敵に笑った。
「俺はすべてを知っている」と幻影がにらむと、武家は初めて戸惑いの目をした。
「そして、秀忠は本物だという証明もしたから、
あんたが知っていることは、すべて偽情報だ」
幻影の言葉に、武家は体を震わせて地面に倒れ、引きつけのような痙攣を始めたが、幻影が蹴ると震えが止まった。
「…雑な治療ですなぁー…」と大いに眉を下げて影達が言うと、「手でも足でも効果は同じだよ」と幻影は言って少し笑った。
「そろそろこんな奴も出てくると思っていたが、
いまさら何を言ったってその証拠はない。
まあ、こいつがここに来たのは、
秀忠がなぜか今日は来ていないから、
こうなることを期待したようだな」
「…なかなかずるい御仁だ…」と影達は眉をひそめて言った。
すると、「やあ! 今日もきたよ! …やや! 青山忠俊が倒れているではないか!」と秀忠が棒読み風に言うと、源影と影達が愉快そうに腹を抱えて笑った。
ここからは幻影たちは見守ることにした。
秀忠はすでに用意していた医者と江戸の町周り同心を呼んで、青山を運んで行った。
「こんな催しものがあるなら先に言っておけ…」
幻影が少し愉快そうに言うと、「さぁーて、何のことやらさっぱり…」と秀忠は大いにとぼけた。
「…なんとなく察していただけで証拠は何もない…
だが老い先短くなって、真実を知りたかったが、
野望をもってのことだったようだな」
「欲はダメだよ、欲は」と秀忠は明るく言って、まずは美術館に入って行ってから、すぐに出てきた。
そして幻影を大いににらみつけた。
「…なんだよ…」と幻影が秀忠が豹変した意味が解らず聞くと、「…すごいのが増えてるじゃないか…」とかなり怒った口調で言った。
「ああ、家族の肖像ね。
今はここに飾っているけど、
いずれは御殿に持って行く予定だ」
「どうして、この人は絵の中にいるのに我はいないの?!」と秀忠は影達に指を差して大いに叫んだ。
「友人ではあるが家族ではない。
ただそれだけ」
幻影の言葉に、秀忠は大いにうなだれて、美術館に戻って行った。
「家族にしていただいて、本当に感謝しております」と影達は言って頭を下げた。
「弟子は家族同然だからな。
そういう者しか弟子にはとらないからという理由だよ」
幻影の言葉に影達はさらに理解を深めて笑みを浮かべた。
「…影武者の件は、戦場でもいつも話題に上がっておりました…」と影達は小声で言った。
「何人かは本当の話だ」とだけ、幻影は答えた。
「知っての通り、俺たちだって身分を隠しているからな。
裏の情報には詳しいぜ」
「…ですが、徳川と仲良くしていることが…」と影達はここまで言って口を閉ざした。
「もちろんその理由があるからだよ。
あんたが戸惑うほどだからきちんと説明するよ。
茶でも飲みながらな」
「…普通、戸惑いまする…」と影達が眉を下げて言うと、「暴露するのなら、大坂の最後の戦いの時にだったら、大いに効果はあったと思うけどな」と幻影は言って鼻で笑った。