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赤い幻影 akaigenei ~安住の地編~      赤温泉 akaonsen


   赤い幻影 akaigenei ~安住の地編~



     赤温泉 akaonsen



幻影は京の御所の守護者の目の前で浮かんでいて、「天狗が軽業興業の件について話に来たと伝えろ」と重厚な声で言うと、「…承知、仕った…」と守護者はぼう然としてつぶやいて、大慌てで御所の敷地内に走ってその姿が消えた。


反応が異様に早く、かなり離れた場所から、「参られよ!」と守護者が叫んだ。


幻影は宙に浮いたまま御所に入り、困惑している守護者の後頭部を見ていた。


そして謁見の間に通されて、「できれば、頭を垂れていただきたいのですがぁー…」と言ったが、「その必要はない」と幻影は言い切った。


「そもそも、興行を見たいと言ったのはここの大君だ!

 頭を下げるのは大君の方だ!

 それすら飲めんのなら帰るぞ!」


幻影が叫ぶと、「待て! 待たれよ!」と大いに慌てた声が仰々しい簾の奥から聞こえた。


だが、宙に浮かんでいると、中の様子がよくわかってついつい笑ってしまう。


「どうか、地に足をつけてくださらんか?」と大君の側用人が言ったが、「やなこった」と幻影は大いに悪態をついて断った。


そして、「この国の神であるのならば、俺と同じ土俵に上がってこい! この愚か者が!」という幻影の怒りの言葉に、側用人はそのまま後ろに倒れ込んだ。


「よっわ…」と幻影は言って大声で笑った。


「出てこないのなら帰るぞ!」


「…やれやれ、騒がしいのう…」と言って、大君の後水尾がやって来て、一段高い場所に座った。


「騒がしいのは、お前の出来損ないの手下らとお前だ」と幻影は言って鼻で笑った。


そして幻影は書簡を出して、「俺たちはいない者になったのではないのか?」と聞いた。


「そのような書簡は知らぬ」と後水尾は突っぱねた。


「そうか、じゃあ帰る」と幻影は言ってすぐさま振り返って、宙に浮いたまま来た道を戻り始めた。


後水尾は大いにい焦り、―― 従わぬではないかぁー… ―― と大いに頭に血が上っていた。


もちろん、知恵者の言った通りに発言したからだ。


しかし出てきた言葉は、「待たれ! 待たれよ!」だった。


幻影は振り返り、後ろ向きに後退しながら、「さっさと要件を話せ。そうしないとその内、外に出てしまうぞ」と言うと、後水尾は大いに戸惑い、「頼むから戻ってきてくれ!」と叫んだ。


「戻ってきてください、だろ?」と幻影は後退しながら言った。


「…戻って、来てください…」と後水尾が小さな声で言うと、「聞こえねえ…」と幻影は言いながらもどんどん遠ざかっていく。


「ああその前にだ、お前が本当に大君なのか証明してくれ。

 大君だったら、その程度はできるだろ?」


幻影の言葉に、後水尾は大いに戸惑った。


そんな証拠など、どこにもないことはもうわかっているし、誰からもそのような言葉を聞いたことがなかったからだ。


この御所の有識者などに、全てを託していた。


しかし、改めて下賤の者に聞かれて、どう対応すればいいのかわからない。


知恵者は近くにいるのだが、床に座り、拳を握って下を向いているばかりだ。


「俺はこうやって宙に浮かぶことで天狗だという証明ができる。

 お前はこの日の国の大君なのに、その証明ができない。

 おかしな話だよな?」


「…証明はできないし、もう途切れておることは知っておる…」と後水尾は自らが言わなくていいことまで認めた。


「だが、それが本当に日の国の大君の後水尾が言った言葉だとは信用できねえ。

 信用できねえ者のために働く必要はねえ。

 そう思わねえか?」


「…官位を与えれば誰もが頭を下げる…

 だが、天狗を従わせるにはどうすればいい?」


「だからさっき言っただろ…

 俺と同じ土俵に上がれと」


後水尾は立ち上がって、「我だって、こんな場所に閉じこもっているのは嫌なんじゃ!」と叫んだ。


「ふーん、あ、そ…

 だったら出ればいいじゃん…

 後継に譲れば、あんたはそれなりに自由を得られるはずだ。

 だが、それなりに魅力があるからこそ、簾の奥ににいる。

 そこに留まるか、簾の外に出るかはあんたが決めな」


「…興行を、やってはもらえないか…」


「やる意思を持ってここに来たが条件付きだ」


幻影の言葉に、後水尾は顔を上げ、「…条件、とは…」と聞いた。


「公家の十二才以下限定。お付きも認めない」という言葉に、後水尾は目を見開いた。


「純粋に、子供たちには見せてやりたい。

 だが、大人に見せたって、特にうれしくもなんともない。

 これからの若い力に、大いに喜んでもらいたいだけだ。

 どうせこんなことを言うと、人質に取るなどと思うだろうが、

 そんな必要がどこにあるんだ?

 人質に取ろうと思えば、簡単にいつでも取れる。

 その意思がねえから、今までやってやらなかっただけだ。

 そんな行為は平和じゃあねえからな。

 それに頼み込んできたのはあんたらだ。

 それを取り下げれば、この話はもう終わりだ」


後水尾は大いに考え込んだが、「…一旦、取り下げる…」と言った。


「そうかい、わかった」と幻影は言って、書簡を廊下に投げ捨てた。


「次は直接琵琶家に送ってこい。

 中継役に大いに迷惑が掛かるから心が痛むんだ。

 そうしねえと、一切答えねえからそのつもりで。

 もしも中継人をまた使って、

 迷惑行為だと俺が判断した時、

 この日の国の公家社会は終わったと思っておけ」


幻影は言って、振り返ってからゆっくりと飛んだ。


守護者にも聞こえていたようだが、幻影に頭を下げただけだ。


幻影は外に出て少々浮かび上がり、御所を見下ろしていると、手を振っている数名の子供を発見した。


幻影は手を振り返してから、高い場所を維持したまま、子供たちに近づいた。


「降りてきて欲しい!」とひとりが懇願すると、「それをすると大人に叱られるぞ」と幻影が答えると、「…あー… そうなんだぁー…」と言ってうなだれた。


「軽業興業のこと知ってるか?」


すると三人は一斉に顔を上げて、「天狗さんが興行主なんだって?!」と聞いてきた。


「ああ、その話し合いに来たんだが、

 交渉決裂だ」


「…どんなことでもできるっておっしゃったのに…」とひとりの男子が嘆いてうなだれた。


「相手が天狗に限り、それができねえんだ。

 ほかの大人はあんたらの親に頭を下げて官位をもらって喜んでいる。

 そうしないと、政治に携われねえからな」


「…えー… そうなの?」と一番小さい女子が年長者の男子に聞くと、「うん、間違いないことだよ」と胸を張って答えた。


「俺はあんたらの親のやっていることは認めねえ。

 だから公家相手の興行はしねえ。

 最終的にはこういう結果になったんだよ」


「…えー… そんなぁー…」と三人は一斉に大いに嘆いた。


「天狗が空に浮かんでるだけで我慢しな。

 じゃ、帰るから」


幻影の言葉に、「連れてって!」と年少者の女子が心の底からの言葉を叫んだ。


「おまえ、俺を盗賊にでもするつもりなのかい?」


「…そうなっちゃうね…」と中間の男子が答えた。


「だからこそ、下に降りない。

 浮かんだままだと、お前たちをさらうことはできない。

 だがな、浮かべることはできるんだ」


幻影は言って身を潜めている大人たちを一斉に宙に浮かべた。


「うっそぉー!!」と子供たちは大いに叫んで喜んだが、浮かべられた大人たちは大いに慌てた。


「俺がやっている証拠はない。

 その大人たちが勝手に浮かんだんじゃあねえの?」


幻影は少し笑いながら言って、十五人いる大人たちを庭の地面に降ろして正座をさせた。


「じゃ、帰るから。

 次に会える時は、お互い楽しめたらいいな」


幻影の言葉に、子供たちは顔を見合わせてから眉を下げ、幻影に手を振ると、幻影も手を振り返してから、松山に向かって飛んだ。



「中途半端に時間がかかったな」と信長が言うと、「引き留め工作がありましたので」と幻影は答えて頭を下げた。


そして、「謁見した者が本物か偽物かは判断できませんが、大君は神ではないと、血筋は途切れていると発言しました」と幻影が言うと、「ま、言った言ってない論争になるだけだが、ワシは信じるから問題はない」と信長は言って何度もうなづいた。


「依頼はいったん取り下げるということです。

 さらには、次回からは直接琵琶家に言ってこいと伝えておきました」


「ほう、だが、返事はしてないだろうな」


「はい、何も答えませんでした。

 さらには、御所という籠から出して欲しいようなことも言われました。

 まあ、どういうつもりで言ったのか…

 お涙頂戴の手だったかもしれませんが、

 聞く耳を持ちませんでした。

 書簡は知らないと、真っ先に言われましたので。

 その時点で、帰ってきてもよかったんです」


幻影の言葉に、「…なんてこと…」と嘉明は言って握りこぶしを作ってわなわなと震えた。


「書簡を返した方が好感度が上がると思ったので、

 床に放り投げて来ました」


幻影の言葉に、「その場にいたかった!!」と信長は上機嫌で叫んで、大いに笑った。


「なかったことにして、記憶から消してください」


幻影の言葉に嘉明は目尻を下げて、「…今回はそうしよう…」と渋々ながら答えた。


「次は秀忠に泣きつくかもしれませんね。

 琵琶家を抹殺しろ、とか…」


「言いたいところだけど、

 まあ、ワシだったら言わんな…

 だからまたのらりくらりだ」


信長は答えて鼻で笑った。


「命令の必要はないでしょうが、警戒の強化を」


「はは、そうしておくか」と信長は言って手信号を送った。


「ちなみに、公家は忍びを使っていると思われます?」


「常識で考えて使っておると思うが…」


「実は、三名の公家の子らしい子と、御所の中庭で話をしたのです。

 監視人たち十五名を宙に浮かべましたが、

 忍びらしき者はいませんでした。

 ですので、危険を察知して離れていた可能性はあります」


幻影は子供三人の似顔絵を描くと、嘉明は二名の男子の名を教えてくれた。


「この女子が、後水尾の子だ」と信長が言って、その似顔絵を懐から出した。


「あー… なかなか絵心がありますねぇー…」と幻影は忍びが描いた絵に大いに感心していた。


そして出会った者たちの似顔絵を描くと、「…大君に間違いないでしょう…」と嘉明が言った。


「となると、後水尾に化けた忍び…」と幻影が言うと、「さもありなん!」と信長が大いに叫んで大いに笑った。


「服部刑部は生きていたのかなぁー…

 もしくはここにいる竜胆の父親、とか…

 竜胆は内偵者、とか…」


「疑えばきりがないな…

 だが、都合よく竜胆が現れたのは気になるから、

 幻影の読みはあながち外れてはいないと思う。

 だが、巖剛が反応しないな…

 もう年か?」


信長が鼻で笑うと、「悪いことではないと自分自身に言い聞かせれば問題はないはずですから」と幻影は答えた。


信長は何度もうなづきながら、「直接聞こう」と言って、佐竹御殿に向かって歩いて行った。


もちろん幻影もあとを追った。



竜胆は泣きべそを浮かべて、今は志乃から杖の訓練を受けている。


「志乃、悪いが、竜胆と話をしたい」という信長の言葉に、「はっ! 休憩にいたします!」と志乃はすぐに言って、竜胆に向かって頭を下げた。


もちろん竜胆もそれに倣って、「…助かったぁー…」と小声で言った。


信長は竜胆を見下ろして、「公家との関わり」とぶっきらぼうに聞いた。


竜胆は素っ頓狂な顔をして、「…くげって、何ですかぁー?」と聞いてきたので、幻影は大いに笑った。


「…お前、本当に服部の後継ぎか?」と信長は半分笑いながら聞くと、「…証拠証拠…」と言いながら懐を探って、服部家の割符を出した。


「割符があるということは、仲間がいるわけだ」と信長は言って割符を手に取って、表裏の確認をした。


「…ふーん、確かにお前のものだが、

 服部刑部半蔵の証拠はない。

 この割符は竜胆としかわからない。

 お前一体、誰に言い渡されたんだ?」


竜胆は大いに困惑していて、「…半蔵様は離れるからと言って…」と泣き出しそうな顔をした。


「ではその半蔵が本物だという証拠。

 半蔵は変装の名手だ。

 本物の半蔵は別にいると、ワシは思う」


「…ああ、私、うそ、ついちゃったぁー…」と言って竜胆は泣き出しそうだったが、何とか我慢して泣かなかった。


「それが嘘だと自分自身が理解できていたら嘘つきだ。

 だがお前はそうではない。

 ワシたちはお前がうそを言ったとは思っていない」


信長の言葉に、「…はい… 嘘は言っていません…」と竜胆は心を強くして言った。


「おまえは佐竹家に雇われた。

 だがもし、また半蔵が現れてここを抜けろと言えばどうする?」


「主様を裏切りません!」とすぐさま竜胆は叫んだ。


「そうか、わかった」と信長は言って、竜胆の頭をなでた。


「面倒なことを聞いて悪かったね」と幻影は言って、竜胆の頭をなでた。


―― はあ… そういうこと… ―― と幻影はようやく納得できて、竜胆の呪縛を解いた。


しかし竜胆は今までと何も変わらない。


それは精神に関わる術ではなかったからだ。



信長が踵を返したので、幻影も倣った。


「…主様という言葉は、都合のいい言葉です…」と幻影が小声で言うと、「…なかなか疑り深いな…」と信長は言った。


もちろん、信長もすべてを信用したわけではない。


しかし、ここにいても情報を流す程度のことしかできることはない。


もしも人質として狙われるとすれば、一般人のお香と阿利渚しかいないが、蘭丸から離れることは稀にしかない。


もしくはこの近隣に住む村人を無条件でかどわかす程度だ。


しかし、今回は大勢の忍びに守られているようなものなので、派手な行動はできない。


まさに、幻影のように空でも飛べない限り、無理な話だ。


「御屋形様。

 御殿を中心にすべてを調べます」


幻影の言葉に、信長は大いにうなづいて、「…ワシらが留守の間に何かを仕掛けられたかもしれんな…」と言って、信長の指示で琵琶一家を全員呼び出して、御殿をくまなく探った。


幻影が進言した作業の意味はほとんどない。


幻影はこの間に信長に知った事実をすべて話す機会を得るために行った芝居だ。


本物の服部半蔵がどこで見ているのかわからないからだ。


そして幻影は寝ずの番と決め込んだ。



まさに草木も眠る丑三つ時。


幻影は擬態布をすっぽりとかぶって琵琶御殿の屋根の上にいる。


そして忍びたちも近くに待機しているのだが、手を出す必要はないと伝えてある。


―― 海からはない。監視場所は東の山… ――


幻影は全神経を現楽涅槃寺の奥の山に集中させた。


―― やはり、何かいる… ―― と幻影は聞こえるはずのない、地面を蹴る音を体感していた。


さらには気まぐれな風によって、動物ではない匂いがする。


そして何度も誰かをだますような移動方法を取る。


どこにどれほどいるのかを見極めるためだ。


幻影が何もするなと言ったので、忍びたちは全員、見守っているだけだ。


するとまだ見えぬ姿が、音もなく街道に出た瞬間に、幻影は御殿の屋根から消えて、一瞬動いた影に金属を仕込んである網を投げた。


影はかなり驚いたようで、苦無を出して切ろうとするが切れない。


幻影は網の端にある綱をもって、宙に浮かべて一度振り回した。


まさに簡易の牢獄で、中にいる者はもう逃げ出せない。


そして、腹に響く妙に低い音が聞こえた。


中にいる者が何かを鳴らしたのだ。


そして静寂が訪れたが、「…なぜだ…」と網の中の女が声を出した。


「竜胆にかけられた術を解いてあるからだ」と幻影が言うと、観念したのか何も言わない。


「復讐もいいが、間違っていたのはお前らだ。

 逆恨みも甚だしい。

 面倒かけてんじゃあねえ」


女は声を上げる気がないようで何も言わない。


「大君にはどうやって取り入ったんだ?」と幻影が言うと、女が大いに動揺したように感じた。


「まあいい…

 竜胆に術がかかっていた時点で、

 全てがよく見え、理解もできた。

 うまくいけば、俺が大君らをすべて抹殺すると考えた。

 そしてここにも逆恨みがある。

 徳川家康と血のつながりがある女子を送り込んでも、

 まともな子を産ませられない大君が悪い。

 そんな大君など屠ってしまえばいい。

 その汚れ仕事を俺にさせようとした。

 別に俺がやらなくてもお前にでもできたはず。

 だが、昔受けた屈辱を晴らすために、

 俺を罠にかけようと企んだ。

 お前が竜胆とどういう関係なのかは知らないが、

 竜胆を殺せば、俺は必ず大君らの策略と思い、

 大君を殺すだろうと予測をした。

 さらには公家をすべて屠るのではないかとも考えたはずだ。

 そうすれば一石二鳥。

 お前の復讐は達成できたはずだった。

 俺が公家社会を否定していることは、

 公言はしたが特に広げていない。

 よってお前は簡単に知ったはずだ。

 そんな俺にも腹を立てたはずだ。

 官位をもらえば、なんでも思いのままなのに、

 それを受け入れることはない。

 お前にはそれほどの実力がないからだ。

 もしも俺が全てをつぶした後、

 お前が芝居を打ったまでと笑いながら言えば優位に立てる。

 ただただその一瞬だけをお前は手ぐすね引いて待っていたはずだ。

 だが、体調が悪かったようで今回は失敗した。

 面倒なヤツは斬り捨てたいところだが、

 斬り捨て禁止令が出ているもんで、それはできない。

 できれば誰もいないところで、穴でも掘って、

 即身仏にでもなってくれないかなぁー…」


幻影は言って、乱暴に網を振った。


すると網は解けて、黒い影が街道に転がった。


そしてその影は両足を大きく広げて低い体勢で、両手に苦無を構えた。


幻影は両足を肩幅に広げているだけだ。


黒い影は両手に持っていた苦無を両方とも幻影の顔をめがけて投げてきた。


だがもうすでに幻影はそこにはいなかった。


まるで影の影のように、幻影は地面にうつ伏せになっていたからだ。


影はすぐに下がろうとしたが、顔面に痛烈な痛みを感じて、街道を二転三転した。


幻影は前方に円を描くようにして足から起き上がり、その足の裏で黒い影を蹴ったからだ。


「…ちくしょう! ちくしょう!

 服部流忍び術なんて、

 何の役にも立たないじゃないかぁ―――っ!!」


「寝るからさっさと消えてくれ」


幻影はこう言ったが、影は消えることはなかった。


すると影は胸を強く叩いた。


だが何も起こらないことを怪訝に思って何度も叩いた。


「この夜中に爆発したらうるせえだろ?」


幻影が言うと、「ちくしょう、ちくしょう…」と呪文のように言って、踵を返して街道を北に走った。


もちろん幻影は空を飛んで追いかけた。


今は特殊な塗料のおかげでよく見えているので見逃すことはない。


和気温泉郷を過ぎたところで、黒い影は讃岐に抜ける山道に入った。


そして一気に駆け上り、峠に差し掛かったところで速度を落として地面に倒れて、泣きわめき始めた。


「おい、中途半端に逃げてんじゃあねえ」と幻影が上空から言うと、影は大いに身震いして、何とか立ち上がって、転がるようにして峠を降りて行く。


黒い影は素早く振り返りながら幻影を探すがどこにもいない。


そして浜に出て用意していた小舟に乗り込んで、対岸の備前を目指したので、幻影は投げ縄を船に引っ掛けて、猛然たる速度で対岸まで連れていった。


黒い影は砂浜に放りだされて泣いていた。


そして立ち上がろうとするのだが、脚が笑っていて歩くことすらままならない。


この苦痛は三十年ほど前に一度経験していた。


「さっさと逃げろと言っている」という幻影の言葉に、「ひぃ!」と短く叫んで、何とか足を抑え込んで歩き始めた。


しかし数歩しか歩くことは叶わず、頭から砂浜に突っ込んだ。


―― さて… 面倒なことになったなぁー… ―― と幻影は考えて、見つからない場所で監視を始めた。


黒い影はわずかな時間だが眠っていたようで、頭を上げて軽く振った。


そして何とか立ち上がって、前だけを向いて歩き始めた。


「ばかやろう、走りやがれ」と幻影がうなると、背筋を伸ばして、走ろうとしたが、足がもつれて砂浜に顔から突っ込んだ。


「…もう… もう、殺して…」と黒い影が言って泣き始めると、「俺はそれは言わなかった」と幻影が言うと、黒い影の嘆き声が止まった。


「ガキのころの修行の時、

 お師様に何度もこんな目にあわされた。

 そのおかげで、俺は過ぎたる力を得た。

 お前にもひょっとしたらその力があるかと思ったが、

 さすがに無理だったようだ。

 絶望、妬み、嫉妬は何も生まない。

 生きるのなら、前向きな希望を持て」


幻影は言うだけ言って、空高く飛び上がって、松山に戻った。



翌朝、幻影はさすがに寝不足だったが、朝から風呂に入ってなんとか目が覚めた。


しかし体調を維持できる程度の睡眠はとれたので、そのまま食事の間に行った。


「おはようございます」と幻影は言って信長に頭を下げた。


「結局、どこまで行ったんだ?」と信長が聞くと、「備前の浜までです」と幻影は答えた。


「内海では小舟に綱をかけて引っ張ってやりました」


幻影の言葉に、信長は愉快そうに笑った。


「この先、あの黒い影がどうするのかわかりませんが、

 それほどの実力者ではありませんでした。

 次からは、我が忍びたちに撃退してもらうことに決めました」


「そうか」と信長は言ってうなづいた。


竜胆もここにいて、じっと幻影を見ていた。


「竜胆の母親が、服部刑部半蔵を名乗っていたのかい?」


「…う、うん… あ、は、はい、そうですぅー…」と竜胆が答えた。


「昨晩ここに来てな。

 少々悪さをしようとしたから撃退したんだ。

 だが、お前には何の関係もないことだから気にするな。

 気にしないことが、俺からの修行だ」


幻影の言葉に、「…えー…」と竜胆は言って志乃を見た。


「高願様のお言葉に従いなさい」と志乃が厳しい口調で言うと、「…はい… ごめんなさい…」と竜胆はここは何とか謝った。


「松山に行けば面白いものがあるわよ」という、知らない女性の言葉に、誰もが大いに戸惑った。


「などといわれてここにきて、

 御殿に移動中に広場を見つけて、

 ついつい遊んだんだよな?」


幻影の言葉に、「…母様…」と竜胆は幻影に顔を向けて目を見開いてつぶやいた。


「…ちくしょう! ちくしょう!

 服部流忍び術なんて、

 何の役にも立たないじゃないかぁ―――っ!!」


幻影の女性の声色に、「…その報告も聞いた…」と信長は大いに苦笑いを浮かべて言った。


「…声色… すごい…」と竜胆は嘆いたが、すぐに満面の笑みを幻影に向けた。


「実は俺が竜胆の母親だったりして…」と幻影が冗談を言ったが、その首筋に幻武丸の切っ先が寄り添っていた。


幻影は両手を小さく上げて、「…もう冗談なんて金輪際言わない…」と言うと、信長が大いに笑った。


蘭丸はまだ憤慨しているが、穏やかに幻武丸を鞘に収めた。


「…胡蝶蘭様、すごいぃー…」と竜胆が尊敬の目を蘭丸に向けると、「あら? ありがと!」と陽気に礼を言って、また阿利渚に陽気に報告した。


まさに落ち着き払った素早い蘭丸の行動に、誰も気づいていなかったのだ。



すると琵琶家お抱えの飛脚がやってきた。


そしてこれ見よがしと言えるほどのきらびやかな書簡を、恭し気に信長に渡した。


「…馬鹿にされているようで引き受けたくありません…」という幻影の言葉に、「ま、読んでから決める」と信長は言って、書簡を開いて読み始めた。


そして読み終えてから、「たぶん、御所で幻影が言ったことをすべて肯定するように書かれている」とまず言った。


「さらにその移動方法だけは指示があり、

 幻影が直接送り迎えして欲しいとある。

 確かに、待ち伏せなどはまずできないし、

 興行場所に入ってしまえば、

 かなり厳重な警備の中にあるからな。

 そして決めて欲しいことはその報酬らしい」


「報酬は受けるつもりはありません」という幻影の言葉に、「いや、ここは見返りとして受けておいた方が平等だと思うのじゃが?」と信長がさも当然のように言った。


「…お前らの施しなど受けない…

 …国費の無駄遣いをするな…

 など言いたかったんですが…」


幻影のつぶやきに、「…あ、それもそうじゃな…」と信長は言って何度もうなづいて、「報酬を受けない理由を法源院屋から発信させるという報酬でよいか」という信長の言葉に、幻影は賛同した。


「肯定するも否定するも、御所側の自由ですから。

 さらには、本来の報酬をいただく場合、

 観覧費用は駄菓子程度ですが、

 移動費と警備費が破格過ぎて支払えないでしょうから。

 その金額を提示して、受け取りません」


「…確実に安全じゃからな…

 …大君がまた泣きついてきそうじゃが…」


信長の杞憂は幻影のもあったが、後水尾の本心だと思われるものに触れた気がした幻影は、「扱いは秀忠と同じで」という幻影の回答に、信長は大いに笑った。


「返答は、こちらの受け入れ準備ができ次第、

 もしも都合が良ければその当日に開催いたします。

 天候に大いに左右されますので。

 もっとも、雨風に強い布を天井として張ってもいいのですが…」


「…その時の問題は明かりだが、もうあるから心配はなさそうじゃな…

 試しに、夜に明かりを使って演技を見たいもんじゃ…」


「はっ 私も大いに気になり始めました。

 その方が、さらに期待感が増しやすいかもしれないと…」


「今夜は、無料で開放せよ」と信長は機嫌よく言った。



この件は速やかに嘉明に伝えられ、城の門前に看板が立った。


まさに今夜のことなので、情報はこの松山城下にだけしか伝わらない。


だがいきなりのことに、困ってしまったのは演者だった。


さらには急遽照明係も必要になり、そこは確認しながら静々と進めることになった。


夕方になって、まだ客を入れずに簡単に練習を行い、照明については問題なしとなった。


まさに昼の明るさで、手元足元がよく見えた。


そして間髪入れずに客を入れると、真っ先に笑みを浮かべた子供たちが走ってやってきて、大いに期待して席に座った。


ここは面倒な問題が起こらないように、武士とその他として、入り口を別にしたので、問題はほとんど起こらなかった。


しかし武士の心がけが悪いと嘉明に指摘され、誰もが肩をすくめていた。


様々な演技が確認されつつも披露され、特に歓声が多かったのは、動物の出し物だった。


まさに長春の言った通りに動物たちが動くことと、愛らしいその姿に、子供たちの目は釘付けになっていた。


そして出し物の準備の間に天狗がその案内をすることにも、誰もが目を見開いて拍手を送る。


初めての軽業師興業は、大成功として終えた。


さらには夜道を明るく照らす光により、誰もが安心して帰路についていた。


「…うれしいが、逆に不安…」と嘉明が眉を下げて言ったが、「贅沢な悩みに変わってきたな」という信長の言葉に、嘉明は笑みを浮かべて同意した。



この日から数日間は、興行場所を包み込む生地作りに追われ、晴れであろうが夜であろうが、雨であっても対応できる興業所に仕上がった。


そして天気のいい日を見計らって、幻影は弁慶、長春、竹ノ丞、寅三郎を連れて、空中浮遊装置付きの特製の籠を使って、京の御所に行った。


まさに御所の上空に妙なものが浮かんでいるとお祭り騒ぎとなっていた。


公家の子供たちはこの日を待っていたようで、大君の許可を得て、浮遊籠に乗り込んだ。


幻影は大君に請求書を手渡すと、まさに法外な金額が書かれていたが、様々な理由も書かれていて、『費用の受領の義務なし』と最後に書かれている。


「同じことを秀忠にもする必要があるんだ。

 お前らのせいで、こっちは散々な目にあった…」


幻影が苦情を言うと、「…未来ある子供たちのため、だろ?」と大君がさも当然のように言うと、「その分大人が頭を下げやがれ」という幻影の言葉に、大君は素直に従った。


「…我は、征夷大将軍徳川秀忠がうらやましかったのかもなぁー…」と後水尾は誰に言うでもなく言った。


「じゃ、預かったぜ。

 ほら借用書だ」


幻影は言って、今書き終えた書を後水尾に渡した。


『公家のガキ十五名』と適当に書かれているだけだ。


「帰りには確認してからそれ返せよ」


「わかっておる」と後水尾は言って、今までにないほどの陽気な子供たちに手を振りながら送り出した。



まさに空の旅はおっかなびっくりだったようだが、子供たちは常に陽気だった。


そして浮遊籠は小さな囲いに降りて、直結している興行所に竹ノ丞と長春が誘導した。


もちろん辺りは厳戒態勢だが、この興業所内は穏やかな音楽が流れている。


こういった細やかな配慮も必要だし、その分人が働く場も多くなるので、嘉明は大いに感心していた。


ようやく演者たちの緊張も解けていて、それなりに張り切って演目をこなしていく。


やはり動物の芸と、幻影の案内を一番不思議に思っていたが、終始笑顔で、初めての本番の興行は無事にすべてを終了した。


「…肩凝ったぁー…」と幻影がくつろぎの間で言うと、「お疲れさまでした!」と竹ノ丞がすぐさま言って、幻影の肩をもみ始めた。


「…あー… こういうご褒美が一番うれしいなぁー…」と幻影は感慨深げに言った。


「…もっと、手伝えばよかった…」と信長がつぶやくと、「お疲れさまでした!」と言って健五郎が信長の肩をもみ始めた。



この日を境に、日の国中の法源院屋が大いに対応に追われたが、『次回興業は徳川幕府向け』という発表があって、誰もが大いにうなだれた。


さらには費用を全く受け取らなかった事実とその理由に、琵琶家どころか法源院屋も尊敬される側に立っていた。


「お前からはカネを取る。

 大判の千両ひと箱」


幻影の無碍な対応に、「そんなにあるわけないじゃん!」と秀忠は子供のように叫んだ。


「駄菓子をさらに安くしてえんだ。

 ほかの競合する菓子の値も、

 幕府で何とか操作して下げてくれ」


「…うう… 卸には援助金払って、強制的に下げさせるよぉー…」と秀忠は言った。


「じゃあ、今持ってる有り金全部」


「盗賊か?!」と秀忠が叫ぶと、幻影は愉快そうに笑った。


「…そんなもの、持ち歩くわけ」と秀忠はここまで言って、幻影に困惑の目を向けた。


「おまえも大君もそれほど変わんねえ。

 なにしろ、外に出るのにカネを持たなくてもいいんだからな。

 その部分の庶民の心情を考えて、

 政治に反映して欲しいもんだ」


「…大いに、努力する…」と秀忠は真剣な目をして言った。


「…ああ、お師様…

 さらに大きくなられた…」


側用人たちの言葉に、幻影は大いに眉を下げていた。



春と夏の間の季節の梅雨に入ったのだが、雨の狭間を見計らって、規模は小さいが夏祭りの予行演習として、現楽涅槃寺と松山城主催の祭りが執り行われた。


軽業興業も演者を三回入れ替えて、六回執り行われた。


そして露店の売り上げも上々で、最後の最後は規模が小さいが、松山の港に花火が上がった。


この小さな祭りだけで、松山城下は大いに活気立った。


さらにはふた月もしないうちに夏祭りがある。


よってその高揚感は大いに維持されていた。


「では、行ってまいります」と幻影が嘉明に言うと、「…うー…」とうなってばかりで、幻影の腕をつかんだまま離さない。


「嘉明様も駄々っ子ですね」という幻影の言葉に、「あ!」と叫んでからつかんでいた腕を放した。


「…気をつけて行ってこられよ…」


嘉明は涙を流しながら、この言葉を告げた。


しかも今回も嘉明の名代として沙織も船に乗っている。


できれば嘉明が行きたいところだが、宇和島を訪問してから薩摩と肥後にまで出向くという。


さすがにこの長旅に付き合うことは断念したのだ。


梅雨は開け、日差しは暑いが、涼やかな風が辺りを包み込む。


しかし船旅は一瞬で、もう目の前に宇和島城が見えている。


その天守から、秀宗が陽気に手を振っていた。


砂浜に船を止め、戦車を丘に上げて、船を台車に乗せたところで秀宗がやって来て、「ご訪問、感謝いたします!」と言いながら馬を降りた。


まさに親族の気さくさだったが、沙織を見つけてすぐに表情を変えて、ここは城主となって挨拶を交わした。


「…あら? 手を入れた方がいい場所が大いにあるわ…」という政江の言葉を幻影は無視して、秀宗と挨拶を交わした。


「…母者の機嫌が…」と秀宗が眉を下げて言うと、「幕府への報告が先だ」と幻影はさも当然のように言った。


「あら! 道に躓いちゃったわ!」という政江のお芝居に、「それでもダメだ。何でもかんでも、幕府に報告してからだということはわかってるだろ…」という幻影の言葉に、「…勉強家のお兄様の、そういったところだけが嫌い…」と政江は言ってつまらなさそうな顔をした。


武家諸法度という幕府からの法律があって、どんなことであろうとも勝手な真似はできないことになっているのだ。


もちろん、幕府に抗うような武器や施設を作らせないためでもある。


もしも発覚して有害となった時、領地はく奪は免れない。


有害でなくても、破れば最悪、お家お取りつぶしの罰を食らう場合もある。


「…街道の整備の報告と受領は済ませてございます…」という、秀宗の申し訳なさそうな言葉に、「じゃ、やろう」と幻影はころりと感情を変えて言ったが、女性たちには大いに反感を食らった。


「…旅の疲れが…」と濃姫が言ったが、「港を出てから日の位置が全く変わっとらんが?」と信長は言って陽気に笑った。


「女性たちはお庭の散策でも。

 土木作業希望者は、城周りの街道整備だ」


幻影の言葉に、「ワシは働く」と信長は言って腕まくりの襷がけで、大いに張り切っている。


ここは沙織が気を使って、女性たちを連れ立って、秀宗の歓待を受けることにした。


幻影はもう作って管理しておいてもらった巨大な整備用の車を工房から引き出して、家族とともに陽気に引いて、街道を平らにしていく。


まずこれをして、混合床を敷く必要があるからだ。


もちろん、目立ったくぼみは土で埋めて木製均し器を使って地面を均等にして、車で踏みつける。


ほんの一刻程で城の回りは柔らかな路面になり、大いに城が映えて見えるようになった。


誰もがこの道に興味を持って近づいてきたので、人がそれほどいなくなった本街道の整備も完了させて、「昼だ昼!」という幻影の指示に大いに喜んだ。


秀宗が慌ててやってきて、「…もう、七割方終わった…」と大いに嘆いていた。


「だが、狭い道の整備と側溝を掘るからな。

 まだ三日ほどはかかるぞ」


幻影の言葉に、秀宗は笑みを浮かべて頭を下げた。



今回は秀宗の用意した食事を食することにしたのだが、「…こんなもの、よくもお出ししてくれたわね…」と政江がうなった。


「…叔父上のようになど、誰にだってできませんから…」と秀宗は大いに眉を下げて言った。


「まずくはない」と信長は言って、黙々と食事を摂っている。


「…贅沢なのも程々だよ…

 作った方に感謝の意」


幻影の言葉には絶対なので、全員が一斉に手のひらを合わせて感謝した。


「さらに言えばだ。

 なぜ政江が細かく指導しないんだ?

 北の地に行くということはどういうことなのか、

 よくわかっているはずだ」


幻影の謎かけのような言葉に、「…味付けが濃い…」と政江は悪態をつくように低い声で答えた。


「基本的には塩分の含有量が高い料理が多い。

 さらに言えば、鉢の中が異様に黒い」


幻影の言葉に、「…気づいていたのに、改めて言われて、納得した…」という信長の言葉に、誰もが賛同してうなづいた。


「視覚的美的感覚がまずいと思わせてたんだよ」


幻影の言葉に、「…そうだぁー…」と長春は言って、目をつぶって食べて、「普通においしいよ!」と陽気に言った。


「基本、俺たちは安土にいた時のすっきりした味わいと、

 均等に出汁を利かせた淡い色合いの料理が多い。

 だから食材そのもの色を見ている。

 さらには、うどんの出汁はそばの出汁よりも透き通っている。

 特にうどんを食べる機会が増えたから、

 あまり黒い料理は無意識に敬遠していたんじゃないのか、

 などと思ったが、

 それは人それぞれの好みもあるだろう。

 北に住む者たちは、

 無意識に塩分を多く摂取するために、

 濃い味の料理が多いと俺は考えていたんだ。

 多分寒さが、塩分を欲してしまうんじゃないかと思う。

 そして琉球まで行くと、

 今度は油の含有量が非常に多い料理が普通だ。

 これも汗をかき過ぎて体力消耗を妨げる役目としてのことだろうと思う」


「…日の国は狭いのに、それほど同じじゃなかったのね…」と政江は少し嘆いた。


「だがな、越中に行った時のあの真っ黒な出汁。

 見た目よりも塩辛いわけでもなく、

 そばが本当にうまいと思った。

 江戸だって本場と言っていいそばだが、

 あの店ほどうまいと思ったところはほかにないね。

 そば処の信州が近いせいなのか、

 そばのうまさも引き立っていたと思う」


幻影の気合の入っている説明に、「おまえがそこまで言う料理は聞いたことがない」と信長は言って、大いに期待していた。


「叔父上、そば粉なら信州に負けないほどの仙台産のものがあります」


秀宗の言葉に、「松太郎さん、そば打ち体験」と幻影は言って、松太郎とともに調理場に行った。


そして調理場から威勢のいい声が聞こえて来てほどなくして、幻影と松太郎が全員にどんぶりに入っている温かいそばを配膳した。


「…うわー… ほんとに真っ黒だぁー…」と長春は言いながらも一口すすって目を見開いてから、黙々と食べ始めた


ここには、言葉を失った食いしん坊しかいなかった。


「…さすが叔父上です…」と秀宗に至っては泣いていた。


「いやぁー…

 本来なら誰かに作ってもらいたいところだったけど、

 これほどうまいのなら別にいい」


幻影は大いに陽気に言いながらも、どんぶりをみっつ並べて大いに食っている。


そしてまだ足りないようで、今度はつけ麺にして持ってきたが、「あー… 冷えててうめぇー!!」という言葉に、「お前だけ冷やしたものを食ってんじゃない!」と信長が大いに怒ったが、すぐさま松太郎が配膳したことで、またすぐに静かになった。


この部屋には、『ズズ、ズズズ』という、そばをすする音しかしなくなっていた。


「…冷えた方はさすがに無理なことはわかっていますが、

 この城下で蕎麦屋も営んでいただけるよう、

 お願いできないでしょうか?」


秀宗の言葉に、「道後温泉郷街道の店で、麺打ち職人の修行を積ませてから出すよ」という幻影の気さくな言葉に、秀宗は満面の笑みを浮かべて頭を下げた。


「仙台そばっていう屋号でいいだろう。

 それに、醤油も仙台から持ち込んだ方がいい。

 この出汁は、仙台から取り寄せていた醤油を使ったから。

 できれば昆布や出汁雑魚に塩も仙台の近場で採れたものの方がいいだろう」


まさに、地元仙台の味をそのまま宇和島で再現することになり、秀宗は大いに喜んでいる。


「…真っ黒なのに、ほんとおいしい…」と政江は笑みを浮かべて言って、出汁をすべて飲み切った


「だが、夏はやはり冷えものも食べたいから、

 この滞在中に、氷以外で冷やせるように考えてみるよ」


「帰ったら冷えたうどん」と信長がぶっきら棒に言うと、「夕食時にでも打ちますから」という幻影の気持ちいい回答に、信長は一気に機嫌がよくなった。



うまいものを食うと大いに力が出るようで、幻影たちは主だった街道の整備を終え、あとは側溝掘りだけとなって、今日のところは仕事を終えることにした。


そして今夜の夕餉は、幻影たちが厨房に立って、うどんを中心にして様々な料理を作り上げた。


幻影は早々に食事を終えて、今は工房で腕を組んで大いに考え込んでいる。


―― やはり、金属製の管を作るしかないか… ―― と幻影は考えながら、様々な金属を使って管を作ったが、やはり鉄の含有量が多い方がしっかりとしていて問題はなさそうだった。


管を複雑に組み上げて、ゆっくりと取っ手を回したが、音はほとんどしない。


幻影は管に手を触れて満面の笑みを浮かべてから、収入口に水を注ぎこんだ。


満杯になってもまだ入れて、そしてふたをした。


とぐろを巻いている管の中央に、深さのある、水を張った桶を入れて取っ手をゆっくりと回す。


すると、『ピシ、ピシ』と桶から小さな音が聞こえ始めた。


―― この程度ではさすがに凍ることはないか… ―― と幻影は少し残念に思いながらも、井戸水と桶に入っていた水の飲み比べをして、「うぉー! 冷えてるぅー!」と叫んで大いに喜んだ。


もちろん弁慶たちも見ていて、「完成、おめでとうございます」と笑みを浮かべて言った。


「冷却装置の完成だ」と幻影は言って、冷えた水をみんなに振舞った。


「あ、となると…」と幻影は言って桶を装置から出して、桶の回りに手をかざして素早く振り回すと、あっという間に桶の水が凍った。


そしてかき氷大会が始まった。


「あー… やっぱ、みかんの砂糖蜜がうまいなぁー…」と幻影は大いい感動して言った。


少々暑くなってきたので、この冷たさはまさに贅沢だった。


「何をやっているのかと見に来れば…」と蘭丸が言ってにやりと笑った。


もちろん信長も、阿利渚を抱いたお香も来ていて、今回もかき氷大会が始まった。


阿利渚はおっかなびっくりな顔をしていたが、やはり暑いので、冷たいものを大いに欲していた。


もちろん程は知っているので、何とか言い聞かせて、大人たちの楽しい宴会も終えた。


装置を厨房に運び込んで、実際に扱ってもらうと、常人であっても水が冷えることは証明された。


幻影が装置のからくりを料理人たちに教えたが、夕涼みの打ち水のところまでは理解できたが、その先はさっぱり理解できなかった。


だが、取っ手を回すと中に入れた桶の水が冷えることはわかったので、早速冷えた水を秀宗に献上に行った。


「幻影、冷えたうどん」と信長は言って、指で机を叩いた。


幻影はすぐさま準備して、今度は冷製うどん大会が始まった。


まさに誰もが底なしなので、普通の人間の秀宗だけは大いに苦笑いを浮かべていた。


「…おー… 冷えるとさらに、擦ったしょうがを入れるとうまいぃー…」


信長は大いにご満悦だった。


「うどんの細いもの。

 赤穂の辺りでそうめんの生産を始めたそうです。

 そうめんは保存食なので、

 大いに作り置きができます。

 帰ってから真似をして作ってみましょう」


「よきにはからえ!」と信長は叫んで、また新たな楽しみができた。



翌日にすべての側溝掘りと溝の仕上げを完了して、明日は一日物見遊山を楽しむことに決まった。


だが、幻影たちが琵琶一家だと知って、ここでも法源院屋の店の回りは大混雑となっていた。


もちろん、軽業興業の件だ。


ここに琵琶一族が来ているので、この宇和島でも興行をするのかという問い合わせだ。


もちろん、街道工事と物見遊山だと答えると、誰もが大いに肩を落としたが、安くなった駄菓子を買って帰る客が続出した。


同じ伊予藩内だが、松山城下まで歩いて行くには少々遠すぎる。


まさに旅気分で行く必要があるので、先立つものも必要だ。


よって琵琶家が出している求人広告に誰もが飛びついた。


それほど実りのいい仕事ではなく、街道工事で出た廃棄物の仕分け作業だった。


かなりの量の廃材が出たので、人を多く雇えばすぐに終わるとして、来た者は拒まずに従事してもらった。


もちろん子供でもいいのだが、監視人の査定により賃金は変わる。


これが労働の厳しさでもあるので、子供も大人も額に汗して、終わりの見えない作業に従事した。


賃金のほかには、冷えた水が全員に配られ、まさにうまい一杯を飲んで帰っていく。


―― お薬、買えるかも… ―― と、この街道筋の外れに住んでいる甚太少年は、期待に胸を膨らませて、調剤屋に飛び込んだ。


「やあ、甚太君」と調剤師で甚太の顔見知りの弦太郎が気さくに声をかけた。


「あのさ、ちょっとだけ働いたんだけど、

 母ちゃんのお薬買える?」


甚太は眉を下げて言って、机の上に今日の稼ぎを置くと、「こりゃ、たまげた… ああ、琵琶家の仕事かぁー… 俺も行けばよかったなぁー…」と弦太朗は言って、早速調合してから、机の上の銭の三分の一を手に取った。


「これで様子を見て欲しい。

 あとの銭、大切に持っておくんだぞ」


甚太は大いに喜んで、銭と薬を懐に入れて、「兄ちゃん! ありがと!」と礼を言って調剤屋を駆け出した瞬間、侍とぶつかった。


「てめえ! なにしやがる!」と役人風の侍が叫ぶと、「ごめんなさい!」と甚太はすぐに謝って、懐から飛び出した薬と銭を拾い始めた。


「ほう… なかなか持ってるじゃあねえか…」と侍はにやりと笑って、甚太を蹴り飛ばそうとした瞬間、侍は後ろに向かって、とんでもない勢いで回転して、地面にうつ伏せになって倒れた。


甚太は蹴られると思って瞳を閉じて身をすくめていたが、ゆっくりと右目だけを開けて、素晴らしい生地の袴を目の前にしていた。


「よう、危ねえからあんまり急いじゃダメだぜ」と幻影が言うと、「…うん… 母ちゃんにもよく言われてた…」と少し落ち込んで言ったが、今は笑みを浮かべていた。


「…よく回ったなぁー…」と竹ノ丞が大いに感心しながら、まだ起き上がれない侍を見ている。


「じゃあ、ぼうず、俺が護衛して家まで送ってやるぜ」


幻影の気さくな言葉に、甚太は少し考えたが、同年代に近い穏やかそうな竹ノ丞がいることで安心して、「あっち!」と言って指を差して、注意して走り始めた。



甚太の家は長屋で、それほど古いものではないが、質素な作りだった。


甚太は勢い勇んで障子張りの扉を開けてから、「母ちゃん! 薬買ってきた!」と大いに叫んだ。


母親は少しだけ首を動かして、「…薬なんて、あんた…」と言ったが、それ以上は動けないようだ。


「…あんま、よくねえな…」と幻影は小声で言った。


甚太は母親をゆっくりと起こして、水瓶から湯飲みに水を注いで、薬を渡して飲ませた。


「どう? 治った?」と甚太が聞くと、「そんな薬はねえから」と幻影が言った。


幻影の存在に気付いた母親は、「どちらさま…」と言ってすぐにせき込んだ。


「あんましゃべんない方がいい。

 お前も寂しいだろうが我慢しな。

 母ちゃんはいろんなところが悪い。

 のどもそうだ。

 あんま話すと、今のようにせき込んじまうから」


幻影の言葉に、「…おいら…」と甚太は言って、今までさんざん母親に話しかけていたことを反省していた。


「反省したから、いいことがあるかもな」と幻影は言って、竹ノ丞とともに外に出た。


「早業ですね」と竹ノ丞が言うと、「あの程度でちょうどいいんだ」と幻影は言って、元いた街道に戻った。


もちろん、気功術を使って、穏やかに改善に向かうように、自然治癒力を大いに上げたからだ。


そして大いに食べれば、十日後には床から抜け出せるはずだ。



調剤屋の店の前で捕り物があったようで、誰もが役人たちの群れを見入っていた。


「…俺が投げ飛ばしたからか…」と幻影が大いに眉を下げて言うと、「常習犯だったんでしょう」と竹ノ丞は笑みを浮かべて言って、幻影を見上げた。


すると誰もが幻影を見てすぐに、「お役人さーん!」と叫び始めた。


どうやら幻影の一瞬暴れた姿を見ていた人たちのようだった。


すると、数名の役人がやってきて眼を見開いて、「び!」と叫んでから手のひらで口をふさいだ。


「ここに転がっていた侍は俺の仕業です。

 店から飛び出した子供がぶつかって、

 懐から飛び出した銭を取ろうとして、

 さらに蹴り飛ばそうとしたのでね」


幻影の説明に、「…子供相手に、情けないヤツ…」と役人は言ってから、幻影に最敬礼してから走って行った。


「なかなかできることじゃないよぉー」とおば様たちが幻影を大いに褒めた。


「いやー… ただの通りすがりですから!」と幻影は陽気に言って、逃げるようにして法源院屋に入った。


「いい人も多い」と幻影が言うと、竹ノ丞は笑みを浮かべていた。


「いらっしゃいませ!」という丁稚の元気な言葉に、「ほら、割符」と言って幻影が渡すと、丁稚は目を見開いてから、「旦那様ぁ―――っ!!!」と大声で叫んだ。


「…ここでも叫ばれた…」と幻影が苦笑いを浮かべてつぶやくと、竹ノ丞は腹を抱えて笑っていた。


店主が奥から出て来て、「それほど大声を張り上げ」と言って、幻影を見て固まった。


「お安ちゃんも叫ぶのかい?」と幻影が言うと、「…幻影様ぁー…」と店主のお安が涙声でつぶやいた。


お安は女性ながらに、法源院信右衛門に見込まれ、法源院姓を名乗ることを許されている。


もちろん、幻影が法源院と出会ってからすぐに、奉公に出ていた女中だった。


しかし法源院が丁稚として鍛え上げ、今は立派な店主となっていた。


「名はどうしたんだい?」と幻影が聞くと、「安春、ですぅー…」と言ってから涙を拭いた。


「俺の知り合いが何人も店主になっていて鼻が高いよ」


幻影の言葉に、「そう言っていただいただけで、報われた思いです」と安春は言って頭を下げた。


幻影は丁稚に割符を返してもらってから、「不幸な子がいても、そう簡単には手を出せねえのは辛いなぁー…」と幻影が言うと、安春も同意するようにうなづいた。


「銭なら出すから、何か効率のいい仕事を与えてやって欲しい。

 できれば、最低限の人間らしい暮らしをしてもらいたいから」


「はい。

 今回の片付けの手伝いについては、

 本当に助かった思いで一杯なのです。

 ほんの少しでも、何かができたことを、

 本当にうれしく思っているのです」


「…仕事、作るか…

 無駄がなく、きちんと利用できること…」


幻影は考えながら店を出て行こうとすると、「もう帰っちゃうの?!」と安春は叫んだ。


「あ、それもそうだった」と幻影は言って、安春の隣に座って、竹ノ丞を紹介した。


「…まあ、元服して旗本に…

 では、松山城主の加藤様の…」


「それは腰かけ」と幻影は陽気に言った。


「次に会えるのはいつになるかわからねえから、先に話しておく」と幻影は言って、竹ノ丞の正体を小声で告げた。


安春は今の話しは聞かなかったことにして、「本当に、ようございました」と何とか言って、竹ノ丞に頭を下げた、


「はい! ありがとうございます!

 私がひとり立ちできるのは、

 全て琵琶様と、その琵琶様を支えておられる、

 法源院屋さんすべての方々の尽力があってのことです!

 どうかこれからも、よろしくお願いします!」


「…ああ、法源院屋に女中に出て、本当によかったぁー…」と安春は大いに感動して言って、竹ノ丞に頭を下げた。


「あっ」と幻影は小さくつぶやいて、「子守り、なんてどうだろうか…」と幻影は言って、壮大な計画を安春に語ると、「…できない話ではございません…」と小さな声に威厳を乗せて言った。


「現楽涅槃寺の寺子屋の件はお聞きしています。

 そこで読み書きそろばんを教え、

 大きい子は小さい子の面倒を見る。

 そして、少しでもいいからみんなに仕事を与える。

 どこかのお寺のお掃除でもいいと思っています。

 わずかでもお金があれば、大いに助かるはずなのです。

 その中から、できのいい子だけを雇います!」


安春の言葉に幻影は大いに笑って、「無駄に銭を使うことにならないようだからそれでいいと思う」と幻影は言って立ち上がった。


「様子を見ることで、自信をもって雇えるはずですから」と安春は言って、寂しそうな顔をして幻影を見上げた。


「たまには琵琶御殿にでも来ればいいさ」という幻影の気さくな言葉に、「はい、必ず」と安春は答えて、昔と同じあどけない笑みを浮かべた。


「俺の母も同行してるから、近くの寺巡りにでも行ってくるよ」


幻影の気さくな言葉に、「行ってらっしゃいませ」と安春は言って頭を下げ、今の幸せを涙に替えていた。



幻影と竹ノ丞は宇和島城に戻って、阿国を連れ出したのはいいのだが、大勢の家族たちがついてきた。


寺巡りと言ったのだが、腹ごなしも重要だったらしい。


「…お宝、あるかなぁー…」と長春が言うと、「…宝探しじゃないから…」と幻影は眉を下げて言った。


今回、町周りの役人をひとりつけてもらった。


まだまだ駆け出しで、元服して三年程しか経っていない、未来ある若者だった。


前の城主に仕えていたが、秀宗の眼鏡にかかって、それまでと同様に働いてもらっているらしい。


もちろん地理には詳しいし、寺の実状も大いに理解しているので、「問題のある寺からまいります」という山田金兵衛の言葉に、幻影は少し笑った。



安永寺という寺の参道に出てすぐに、「…なげかわしい…」と阿国はすぐに言った。


荒れ放題とまではいわないが、隅の方に落ち葉が固まっている。


掃除をしたというよりも、風が落ち葉を運んだだけだ。


よって、参道は比較的綺麗だが、掃除はしていないということになる。


早速社務所に行くと、ここではお守りの類の配布はしていないようだ。


金兵衛が扉を開けて、「住職はおられるか?!」と声をかけると、「おー」という気の抜けた声がして、赤ら顔の僧侶が出てきた。


「よう金兵衛、それなりに立派になったな」


住職の言葉に、「さすがの和尚でも、背筋が凍るお方をお連れした」と金兵衛が胸を張って言って阿国を見て、「松山城下、現楽涅槃寺住職、妙栄尼様だ」と堂々と言った。


すると和尚は、「ふーん…」と言ってから、阿国を見入ってから顔色を変え、「…現楽涅槃寺…」とつぶやいて目を見開いた。


もちろん伊予の国程度なら、現楽涅槃寺と妙栄尼の名は轟きまくっているからだ。


「妙栄尼でございます」と阿国が鈴が鳴るような声で挨拶をすると、「安永寺住職、琢益でございます」と言って、床に額をつけるほど頭を下げた。


「私、寺をふたつ担当しておりますが、

 どちらも宗派はございません。

 ですので、琢益様とはお話が合わないかもしれませんが、

 本堂で経を上げさせていただきたいのです」


阿国が堂々と言うと、「はっ はい、すぐに…」と琢益は答えて。大いに慌てて何とが立ち上がってから、袈裟を身に着けてすぐに外に出てきた。


そして急ぎ足で本堂に行ってから、雑巾片手に拭き掃除を始めた。


ここは幻影たちも大いに手伝って、なかなか見栄えのある本堂に生まれ変わった。


阿国はすぐに座り込み、居住まいを整えてから、艶のある素晴らしい声で経を上げ始めたが、琢益は声を出せなかった。


まるで、聞いたことのない経だったが、これが本物なのではないのかと大いに考え込んでしまった。


よって今は聞くことに集中して、瞳を閉じて手のひらを合わせると、背筋が震えた。


琢益は心の中で、懸命に経を唱え始めた。



阿国の経は長くなく、最後の一行を唱え終わって、笑みを浮かべてから瞳を開いて手を下した。


「本来ならば、

 ほかのお寺を訪ねてからお願いしようと思っていたことがあったのですが、

 琢益様にお願いしたいと思いました」


琢益は全く戸惑うことなく、「はい、どのようなことでも何なりと」と堂々と言って頭を下げた。


ここからは幻影が説明して、法源院屋の主人との打ち合わせをお願いしたいと伝えた。


「…寺小屋…」と琢益は言って笑みを浮かべた。


「私も幼い頃、琢益和尚に勉学を習っていたことがありました。

 ですが、どうして辞めてしまわれたのか…」


金兵衛の少し嘆きがある言葉に、「仏の道にいなくても簡単にわかることですよ」と幻影が言うと、阿国は穏やかに頭を下げた。


すると金兵衛は大いに焦った。


「侍であればなおさらです。

 ようやく平和だと感じられ始めたのは、

 この三年程ですから。

 特に宗教に携わっている方たちで、琢益様のように、

 少し荒んでしまわれた方は少なくないでしょう。

 神も仏も何をやっていたのかと」


幻影の言葉に、「…ああ…」と金兵衛は少し嘆いた。


「ですから、まだまだまともな方は、

 少し背中を押しただけで、

 また信じてみようと希望と勇気をもらうのです。

 もしくはその逆に、仏を捨てるでしょうね。

 そのどちらでもない方は、根っからのなまぐさ坊主です」


幻影の言葉に、「おほほほほ!」と阿国は陽気に笑った。


「高願様も僧侶にしたいほどですわ!」と阿国が言うと、琢益はまた目を見開いて、「…天狗様とお聞きしておりましたがぁー…」と大いに嘆いた。


「ええ、天狗もやってます」と幻影は言って、ふわりと宙に浮かんでから、ゆっくりと降りてきた。


「ですがこんな能力があっても、

 救える人はほんの一握りです。

 ですので、出会う方をできれば全て味方にして、

 全員でさらに平和な世をつかみ取ろうと行動を起こしたのです。

 もちろん、最近決めたことではありません。

 今から三十五年ほど前に、

 私は日の国全土を巡って決めたのです。

 そしてただひとりのお方にお仕えすることに決めて、

 今日まで行動を共にしてきたのです」


「…確かその頃から、

 戦以外の件で、色々と現れたと風のうわさで聞き申した…」


琢益はそのうわさ全てが、琵琶家を差していたと今ようやく気付いたのだ。


人を救うことは簡単なことではない。


もちろん、天狗の能力をもってすれば、全てを救えるかもしれない。


だがもし、天狗が消えてしまった場合、そのあとを誰が継ぐのか。


大勢の志をともにする者がいれば、それは容易に叶うはずだ。


琢益はその一員として選ばれたことを、今こそ仏に感謝して、穏やかに手のひらを合わせた。



琢益に別れを告げた後、せっかくなので金兵衛に別の寺に案内してもらった。


ついさきほど幻影が言った通り、まともに見えてもほとんどがなまぐさでしかないと、阿国は大いに嘆いて首を横に振った。


お守り類などを充実させて、大いに金儲けに走っている寺が多いのだ。


「…お金だけでは何の解決にもならない…

 高願様のいわれた通りです…

 僧侶になりませんか?」


幻影はまた阿国に勧誘されたが、丁重に断った。



しばらく行くと廃棄された小さな神社があった。


この神社は、今回の城下復興計画に含まれている。


秀宗が決めたのは、調査してから再建立、または整理をするという話だったので、幻影たちは本堂に入り込んで調査を始めた。


神社には様々な考え方があり、本殿の中は何もかもどことも違う別物のように感じる。


この神社は益荒男を神として崇めているようで、全てのものに力があふれてくるような雰囲気がある。


「…僧侶よりも神主向きかもなぁー…」


幻影の言葉に、阿国は少し眉をひそめた。


「巫女が嫁だからな」と蘭丸は自慢げに言った。


「あら、そうそう!

 どうして胡蝶蘭様の鎧は、

 上が白で下を赤にされたのですか?」


阿国が幻影に聞くと、「似合うとなんとなく思ったから、かなぁー…」と幻影は少し考えて答えた。


「なんだ、阿修羅になるのに都合がよかったからじゃないのか?」と蘭丸が聞くと、「それはただの偶然だから」と幻影は言って、蘭丸を肩車してその証拠を見せると、「…仏様、負けそぉー…」と阿国は大いに嘆いた。


「少し離れていれば四本腕に見えるから、

 阿修羅とあだ名がついたんだよ」


幻影は言って、蘭丸を床に降ろした。


「…そのような神がいそうだわ…」と阿国はさらに嘆いた。


「再建立はしたくないから、ここは修復作業に専念しよう。

 なんとなく、神の力を感じるから。

 神も仏も、使えるものは全部使ってやる」


幻影のまっすぐな言葉に、「…その方がよさそうね…」と阿国は穏やかに言った。


「…お宝、ないよ?」と長春が悲しそうに言うと、幻影は愉快そうに笑った。


弁慶たちが材料と工具を持って来て、まだ仮だが、本殿だけは見栄えよく修復ができた。


すると、様々な人たちが鳥居の外から本殿を見ていた。


もちろん本殿だけではなく、荒れ放題だった境内もすっきりときれいになっていたという理由もある。


「やあ、こんにちは!」と幻影が気さくにあいさつをすると、誰もが穏やかな笑みを浮かべて頭を下げて、参拝を始めた。


「やはり荒れ放題だと、足が向かなかったんだろう。

 賽銭箱の件だけは、報告しておかないと」


「それは自分が。

 寺社担当に報告しておきますから」


金兵衛の言葉に、「そうだね、頼んだよ」と幻影は気さくに言って、全員で城に戻ることにした。



「…どこでどう知って、何が起こったのか…」と大いに困惑気な秀宗がくつろぎの間で言った。


連絡鳩の情報によると、高虎に与えた高輝度の照明機材と、氷と、寺子屋の件で、高虎と嘉明と政宗からの連絡が届いていた。


そして今、秀忠との連絡鳩が江戸から飛んできた。


「その内容と同じものが将軍様から来た」と幻影がにやりと笑って言った。


「ついでに、次の軽業興業はいつだ、とね」


「…叔父上は江戸城の家老ですか?」という秀宗の言葉に、幻影は少し笑った。


「…要件が多いから、竹ノ丞を連れて江戸城に行くよ…」と幻影は仕方なさそうに言って、竹ノ丞を抱え上げて、外に飛び出してから、江戸城に向かった。


秀忠は待っていたかのように天守にいて、幻影に気さくに手を振った。


「少しは楽させろ」と幻影は言ってから履き物を脱いで、竹ノ丞とともに秀忠の前に座った。


そしてまずは書簡の件についてすべての説明をした。


そして寺小屋の件だけは、秀忠がいくつも質問してきた。


それは身分差も性別も考えていない、少々危険なことでないのかという杞憂だ。


「ああ、大人はそう思って当然だろう。

 特に武家の姫は大いに嫌がるはずだ。

 だがな、町娘はそう思わない。

 仏様の前であれば、

 仏様が見てくださっているから、

 平常心でいられると」


幻影の言葉に、「…そうだったのかぁー…」と秀忠は心底納得して、すべての杞憂が払拭された。


「神や仏の利用例でもあるということだ。

 さらには、優秀な住職と、

 優秀な学士がいれば、何も問題ないことだ。

 勉学と道徳を大いに説くことも可能だ。

 特に僧侶にするわけじゃないから、

 仏教についてではなく、常識について身につけさせる。

 仏の前ではみな平等だからな」


「…ほかの住職たちは何をやっていたのか…」と秀忠の別の想いが、秀忠自身を奮い立たせた。


「言っとくが、優秀な学士は頭がいいだけじゃないぞ。

 まさに、優秀な僧のような学がある学士だから。

 そして僧も、できればそれほどなまぐさではない方が好ましい。

 任を終えた隠居した僧などがお勧めだ。

 それをきちんと用意しないと、

 大きな問題にも発展する。

 ここは慎重に事を運んだ方がいい」


「…急がず、慎重に、且つ速やかに遂行させる…」と秀忠は言って、幻影に頭を下げた。


すると家光が覗き込むようにして謁見の間にやって来て、竹ノ丞とお見合いのように向き合って挨拶をした。


秀忠はここぞとばかり、幻影に聞いたばかりの理想の寺子屋の話をすると、家光はかなり考え込んでから、「きっと、今よりも楽しいと思います」と穏やかに答えてから、竹ノ丞に笑みを向けた。


「…うう… 想像と違った回答じゃったぁー…」と秀忠は大いに戸惑ったが、さらに納得して、笑みを浮かべて何度もうなづいた。


「仏が身分を上下させて、平等にすると言ったところだね」


幻影の言葉に、「そうそう! そんな感じだよ!」と家光は陽気に答えて、幻影に笑みを向けた。


「だからこそ、子の親の理解も重要なんだ」


幻影の言葉に、「…それは大いにあって大問題じゃぁ―――…」と秀忠は大いに嘆いて頭を抱え込んだ。


「ま、色々と苦悩してくれ。

 そして問題を起こさないようにな。

 じゃ、物見遊山に戻るから、

 あんま、連絡してくんなと、

 それなりの部署にも伝えておいてくれ」


幻影の言葉に、「…十分に配慮するぅー…」と秀忠は言って、大いにうなだれた。


幻影が竹ノ丞を抱きかかえて空を飛んでいる時、「…まさか、親族の件までもあるとは思ってもいませんでした…」と竹ノ丞は言ってうなだれた。


「だから志乃さんの気持ちも聞いておいた方がいい。

 俺が進言したからではなく、

 志乃さん本人の心の内を聞いた方がいい。

 案外、志乃さんは寺子屋を批判していることも考えられるからな。

 だがそこには、まずはお前を守りたいという信念もあると思うから、

 それほど対立せずに、間違っていないと思えば、

 同意して受け入れることも重要だ。

 そして主張もして、できれば程々に納得させられる言葉を放て。

 よってどちらもが歩み寄る。

 そうすれば、全てが平和になって収まると俺は思いたいね」


「はい。

 戻って早々に話し合います」


竹ノ丞は言って、幻影に笑みを向けた。



竹ノ丞は戻ってすぐに志乃と膝を突き合わせて、まずは幻影が秀忠に話したすべてを語り、さらには竹ノ丞を諭した幻影の言葉までも語った。


もちろん、志乃は大いに困惑して、真っ先に幻影を見たが、素知らぬふりをされたので、「…差別意識はございました…」とまずはつぶやいた。


「それは机を並べて勉学に励むことについてですか?

 姉上は、学士の方々の教育方針の確認をされたのでしょうか?」


竹ノ丞が穏やかに言うと、「…えっ?」と志乃は言って戸惑いの表情を竹ノ丞に向けた。


「我ら学徒は同じ部屋にいるだけで、

 私としては個人的に教わっている気もしていました。

 学士の方々は、その場にいる学徒全体を見ながらも、

 個別に指導されておられるのです。

 私は学士の方々を本当に尊敬しています。

 その頭脳もそうですが、

 まさに神のような存在でもあると言い切っても過言ではないのです。

 きっと我らが寺子屋は、

 この日ノ本にない唯一だと、自信をもって言えるのです」


「…そんなに褒めないでぇー…」とその学士のひとりの沙織が大いに眉を下げてつぶやいた。


現在も寺子屋は勉学を教えていて、それなり以上の学士をもう育て上げていたので、留守をしても何も問題はない。


そして妙栄尼の代わりに、存在感に仏を持った隠居した老人たちにも気晴らしとして子供たちに付き合ってもらっている。


妙栄尼がお願いに行くと、胸を叩いて任せて欲しいと自信をもって言ったのだ。


妙栄尼はこの件も含めて、大勢の村人町人たちとの接触を試みていたのだ。


「…だけど… 勉学所を離れて、一緒に遊ぶのはどうかと…」と志乃は大いに自信なさげに言った。


「我らが遊び場はひとつしかございませんし、

 まずは女子らが我らに近づきません。

 武家の女子がいれば話は変わりますが、

 今のところはその女子たちは、

 遊び場にはいらっしゃらないので」


まさに事実でしかないので、志乃は返す言葉を失った。


「志乃、認めろ。

 そして竹ノ丞を褒めろ」


ここでようやく信長が口を挟んだ。


「…はい、御屋形様…

 私の意地でしかございませんでした…」


志乃は大いに反省をして、竹ノ丞に謝ってから大いに褒めた。


「だけどね、竹ノ丞ほどの意志を持っているのは、

 健五郎と才英しかいないことも問題だよ。

 子供でしかないから、ここまで流暢に語れということ自体が難しい。

 そこは親たちが率先して、話し合うべきだと思う。

 全てを寺子屋に頼ることは危険だと思うから」


幻影の言葉も、志乃と竹ノ丞は大いに理解した。


全てがうまく手をつなぐことで、寺子屋事業は成功するはずなのだ。


もちろん勉学費は、お布施として寺に支払われていることも重要だ。


貧富の差があるので、無理のない範囲でと妙栄尼が言い聞かせているので、その部分も円滑に行われている。


「まあよいよい。

 冷やしうどん」


信長の言葉に幻影は大いに笑って、松太郎たちとともに準備を始めた。



少々住み慣れてしまった宇和島城を出立して、琵琶家の船は西にある日向を目指した。


一瞬にしてたどり着いたのだが、目的は日向ではない。


海流の関係で、内海に近い場所を水行した方が楽に薩摩にたどり着けるからだ。


ここからは海流が激しくない陸地沿いを航行する。


そして噴煙を吐く桜島を見入って、「…おー…」と誰もがうなり声を上げた。


「ここも、勇壮だなぁー…」と幻影が言うと、「…すぐに、阿蘇にも行くの?」と長春がお姫様ぶりを発揮して言った。


「鶴丸城に挨拶に行ってからだ」という幻影の少し厳しい言葉に、「…はぁーいぃー…」と長春は渋々答えてうなだれた。



桜島を見上げながら湾内に入り、鶴丸城下にほど近い砂浜に船を停泊すると、法源院屋の店主を筆頭にして丁稚たちがやってきた。


そして幻影たちの作業を見入って目を見開いている。


幻影は気さくにあいさつをして、店主は琵琶家の戦車に、丁稚たちは佐竹家の戦車に乗せて、緩やかに街道を進んだ。


戦車を見つけた丁稚たちがすぐに裏門を大きく開いて戦車を招き入れた。


しかし一息つく暇もなく、ここからは沙織を守るようにして、幻影たちは城に向かった。


もちろん、連絡はしてあったので、全く問題なく、沙織は城主である島津家久に謁見した。


家久はそれなりのことは調査済みだったようだが、目の前にいる松山の姫の度胸に大いに感服している。


「…まさかあの琵琶家と懇意だとは…」と家久はどちらかと言えばうらやまし気に言った。


「本来であればお仕えしたいほどのお方たちばかりですから。

 私を大奥から連れ出してくださったほどですので」


もちろんこの話も知っているので、家久はうなづいただけで何も言わない。


「家久様は武にも長けておられるとか。

 お願いすれば、あの琵琶高願様にお手合わせが叶うやもしれません」


「…うう… 大いに興味があるぅー…」と家久は大いにうなった。


しかし家久と幻影は、大坂の最後の戦いで、一瞬だが顔を合わせている。


当時の家久は、奄美方面の政治に忙しかったのだが、身を守る程度の家臣を連れて、左翼の伊達の背後に陣取っていた。


その背後から、幻影は家康に迫っていたのだが、気づいた時にはもうすでに、真田信繁が家康の目の前にいたのだ。


家久は、「琵琶高願に面会したい」と言って、沙織に頭を下げた。


沙織のお付きの女官が素早く廊下に出て、幻影を連れてきたとたんに、家久は背筋が凍った。


幻影は頭を下げて部屋に入り、沙織から少し離れて座った。


「高願様と私は、幼馴染でもあるのです」という沙織の言葉に、「…えっ?」と夢から覚めたような顔をした家久が言った。


「ほんの一瞬のすれ違いのようなものでした」という幻影の言葉に、家久はさらに鮮明に思い出していた。


「…赤い、疾風…」と家久はつぶやいて、大いに背筋を震わせた。


「本来の名は、真田幻影でございます」


幻影は頭を下げることなく、家久を見入ったまま言った。


「…会った… 確かに会った…」と家久はほんの三年前のことを克明に思い出していた。


「私の師は真田信繁。

 そして私の最後の戦となりました。

 この先のお付き合いもございますので、

 島津様にもすべてをお話しても構わないのです。

 もちろん、全ての真実を上様にも詳しく話しておりますので、

 遠慮をなさることはないのです」


もちろん、家久はすべてを知りたいと思った。


だが幻影の言葉には、『お上が知っていることをお前が知る必要はない』と言っているに等しいと感じていたのだ。


「…い… いや…

 ここは、辞退しておこう…」


家久はこの穏やかな武将に大いに怯えていた。


―― これは、何かの罰なのか… ―― とも思っていた。


「面倒なものを斬り捨てると、

 斬り捨て癖が付きまする。

 よって我が主からは、

 斬り捨て禁止令が出ておりまする」


家久の想いを見破ったような幻影の発言に、家久はさらに怯えて、「…どうか、旅を楽しまれよ…」と言って、家久は何とか立ち上がって、奥の間に下がった。


沙織と幻影は立ち上がってすぐに謁見の間を出た。



幻影たちは城を出て、このまま城下の物見遊山を楽しんでから、法源院屋に戻って昼餉にした。


「…さすがにここでは、無体なことは言えないかぁー…」と信長は大いに嘆いた。


「ここでは少々厳しいと思います。

 ですが熊本は殿様の人柄次第で、

 御屋形様の願いも叶うかと」


幻影の言葉に、「肥後では外で食す」と信長が言うと、幻影は愉快そうに笑った。


「高虎とある程度は懇意にしているご様子ですので、

 希望は大いにあります」


幻影の言葉に、信長は何度もうなづいた。


「凶暴な虎は、凶暴な虎を好む、か…」と信長は穏やかにつぶやいた。


「大きすぎる父親を超える意志とも取れましょう。

 私はひとりの父は越えたと思っておりますが、

 もうひとりの父には、まだまだ頭が上がりません」


幻影は言って、信長に頭を下げた。


「…おだててもなにも出んぞ…

 だが、気分がいいことには変わりない」


信長は大いに機嫌を直して、「暖かいうどん」と笑みを浮かべて言った。



早々に法源院屋を出て、船は傾きかけている陽を追いかけるようにして、有明海にたどり着いた。


「…阿蘇、すっごぉーいぃー…」と長春は大いに陽気に言って、藤十郎に笑みを向けた。


「富士の山よりも標高は高かったそうですから。

 この辺りの島々も、実は阿蘇の山の一部だったともいわれています」


藤十郎の説明に、「…いつもいつも、ありがと…」と長春は大いに照れて、藤十郎に礼を言った


「…まるでふたりの新婚旅行のようだな…」と幻影が言うと、藤十郎は大いに照れて、照れ隠しで大声で笑った。


早々に法源院屋に行き、戦車を格納してから、夕暮れ迫る城へと続く街道を歩いた。


特に謁見の意思はなく、明日の約束として門をくぐったのだが、すぐさま謁見の場に通された。


しかも、琵琶家全員を招き入れたのだ。


「…高虎のやつ…」と信長は小声だが大いにうなった。


「人柄を見て、色々と考えましょう」と幻影は言って、沙織に続いて階段を上った。


城主の加藤清正の息子の加藤忠弘は、妙に落ち着きなく上座に座っていた。


そして真っ先に目に入った沙織に素早く頭を下げて、その後ろにいた幻影にも頭を下げた。


沙織は忠弘の前に座り幻影はその隣。


家族たち全員、ふたりの後ろに座った。


「沙織殿…

 本当にうらやましく思う…

 ひとりひとりが優秀な旗本としか思えん…」


忠弘がつぶやくと、「いいえ、私はお飾りにしかすぎませぬ」と沙織は答えた。


もちろん、謙遜の意味もあるが、沙織の本心でもある。


「しかも今は、佐竹家は加藤家の旗本でもある。

 …同じ加藤でも、今は逆の立場にあるようじゃ…」


忠弘は自分の器が小さいことはよくわかっていた。


よく吠える子犬だとも自分を卑下していた。


「そう見てくださるのは、

 琵琶家の方々の雄々しさに尽きまする。

 今回の居住の地を、

 我が伊予松山に決めていただいて本当によかったと、

 幸運だったと常々思っております」


「…その件については、藤堂殿が大いにぼやいておられたわい…」と忠弘はその藤堂のように大いにぼやいていた。


「では、日も暮れそうでございます。

 ここはお暇いたしたく」


沙織の言葉に、「え?」と忠弘は言ってもう外は夜になっていたことにようやく気付いていた。


「いや、いい経験をさせていただいた」と忠弘は言って、沙織に頭を下げた。


沙織も頭を下げ返して、幻影とともに立ち上がり、大勢のお付きを連れて廊下を歩いた。


城内では何もなかったのだが、大門に差し掛かった時に、「あいや待たれよ!」と叫んで、謁見の間にいた家老が呼び止めた。


沙織が振り返ると、家老はようやく追いついて、「実は会食の準備を」と言ったが、「実は先約がございまして」と沙織は眉を下げて言った。


さらに、「この先の、加藤家の大事となるお方ですので、お断りできないのです」と沙織が眉を下げて言うと、「…あ、ああ… 引き留めてしまって、申し訳ござらんかった…」と家老は簡単に引き下がったので、沙織は頭を下げて、また静々と歩き始めて、街道に出てからは比較的速足で歩いた。


「…加藤家の一大事…」と幻影はつぶやいてから愉快そうに笑った。


「あら? 御屋形様を怒らせると、本当に一大事ですわ」と沙織が信長を見て言うと、「…うう…」とここはさすがに、信長も気が引けていた。


「…沙織ちゃんは特についてくることはなかったんだからね…」


幻影の言葉に、「ご無理を言って申し訳ございませんでした」と沙織は言って、幻影に向けて舌を出して大いに悪態をついた。


「…おまえらぁー… まさか、いい仲なんじゃあるまいなぁー…」と蘭丸がうなると、「その事実があれば斬り捨てればいい」と幻影が言うと、さすがに蘭丸は大いに気後れした。


「…あーあ… あの日、あの時に戻りたいなぁー…」と沙織は言ってから、陽気に笑った。


「…うう… すまん… 余計なことを言った…」と蘭丸は沙織に謝ってから、幻影をにらみつけた。


「どうしてにらむんだよ…」と幻影が大いに苦言を言うと、「…いい男過ぎるからぁー…」とここは女性を大いに出して、蘭丸は少女っぽく言った。


「お蘭とは、ふたりっきりで旅をしないとな…」


幻影の言葉に、「…阿利渚が…」と言ってお香を見ると、お香は身をねじって阿利渚を隠した。


「…まさか、お香は阿利渚を奪う…」と蘭丸が言い始めたので、「全然違う!」と幻影は叫んで大いに笑った。


ここは信長に、「阿利渚はいないことにして旅行に行けということじゃ」と大いに諭されて、蘭丸はお香に謝った。


「…お前らぁー… 本当にややこしいぃー…」と蘭丸がうなったので、誰もが大いに笑っていた。


「高願様が若返らせてくれないのも悪い」と沙織が言うと、「それは全く別のことだ」と幻影はすぐさま突っぱねた。


「俺は別にいいんだ。

 もしそうなった時、

 おいそれとこうやって旅に出ることは叶わなかもしれない。

 様々な藩から、お声掛けがあるだろうからな。

 特に、徳川御三家はうるさそうだぞ」


幻影の言葉に、「…それ、すっごくいや…」と沙織は言って、若返ることもままならない自分自身を呪っていた。


琵琶家と関係が深い、加藤、藤堂、伊達は大いに目立つので、将軍が手放したのならと、御三家が言い寄ってくる可能性は高いのだ。


だがその時は側室のはずなので、やんわりと断りを入れることはもう決まっているようなものだ。


そして今の沙織は出産ができる適齢期は過ぎている。


だが若返れば別で、蘭丸は阿利渚を四十七で出産して、母子ともに大いに健康だ。


この事実がある以上、できればだましたりごまかしたりしない方がいいと、幻影は几帳面に思っているだけだ。


「幻影の養女にでもなって、真田を名乗るか?」と信長が提案すると、「…あー…」と沙織は夢見る乙女のような顔をしてから大いに悩んだ。


幻影は大いに眉を下げていたが、―― それもあり ―― と思っていた。


「ワシの養女でもよいが、

 さすがに織田を名乗るのもな…」


信長の言葉に、「いえ、こうなったら、弁慶様でも源次様でも構いません」と沙織は言い放った。


「…源姓に前田姓…

 誰の養女になっても大いに目立ちそうですね」


幻影の言葉に、「まあよいよい!」と信長は機嫌よく叫んだ。


法源院屋にたどり着いて、ここは庭で調理を行い、冷やしうどんやら冷やし蕎麦やらを大いに食ってから、今日のところは就寝した。



翌朝、早速阿蘇山に昇ろうと思い戦車での出立準備をしていたのだが、―― さすがに山だぞ… ―― と幻影は考え、信長の許可を得て、今回は上空から景色を堪能することに決めた。


しかし籠がないので、なぜか庭に大量にあった廃材を使わせてもらおうと思い、店主に事情を聞くと、昨年あった大地震時の残骸で、使えそうなものを無料で引き取って持ち帰っていたそうだ。


そして忘れ去られて庭に放置したままになっていたことが功を奏して、琵琶家が使うことに決まった。


浮遊籠は戦車とほぼ同じ仕組みで、車輪ではなく回転翼を回すだけのものなので、製作がそれほど難しいわけではないし、基本的には幻影が引き上げて移動するための補助ができればいいだけで、まさに、体力の温存が十分に可能だ。


さらには登山客はそれほどいないだろうと思っていたが、僧侶などの宗教関係者は特に多く訪れると店主が語った。


よって、阿蘇に登るのはいいが、浮遊籠にいたずらをされない場所で管理しておく必要がある。


しかし、人が入れない場所もあるだろうと思い、まずは空に浮かんでから決めることにした。



浮遊籠はほどなく完成して、簡単に試運転をしてから家族全員を乗せて、ひとまずは高く飛んだ。


もちろん籠には擬態布を巻いてあるので、地上から指を差されることはない。


しかし、地上から望遠鏡で見た時、家族たちが眼下を覗き見ると、多くの顔だけが下から発見されることになり、幽霊話のネタにされそうだと、幻影は笑って言って、極力覗き込まないようにとだけ注意した。


景色を眺めていると、やはり熊本城以外の被害は多いようで、遠くに見える城も、ほぼ崩壊していた。


「廃城か?」と信長が南側に顔を向けて幻影に聞くと、「いえ、よくわかりませんが、基礎工事をしているようなので、これから建てるようですが…」と幻影は首をひねった。


幕府からの通達で、一藩につき一城と決められている。


よって熊本城以外に城があってはならないはずだ。


しかし、堂々とごく自然に作業を行っていることから、何らかの理由で許可を得たのだろうと予測した。


有明海は島が多く、その中央辺りで天草列島が鎮座しているために、北と南に城があった方が、海からの敵への防御が容易になるのではと幻影は予測して語った。


「…なるほど…

 だったら城は島にあった方が都合がいいと思ったが、

 やはり天候が悪いと閉じ込められることにもなりかねん。

 陸続きの方が、何かと都合がよさそうだな」


「はい、そうですね。

 それに天草の地は、

 戦乱の世の影響で

 土着の豪族たちが追い出されたそうなのです。

 そういうこともあって、あまり住みたくないのではと考えました」


「…ほう、城が残っておるな…」と信長は言って、西側にある島々を見入った。


「原城です。

 当時の豪族たちの居城だったそうです。

 ですがあの島の管轄は肥後藩ではなく肥前藩です。

 島原城を建設したので、

 一国一城の法律によって廃城となっているはずです」


「…ああ、お勉強になるわぁー…」と長春が感動しながら言うと、幻影は大いに笑った。



幻影はこのようにして案内人を任され、そしてついに阿蘇の山の火口の近くに籠を浮かべた。


さすがに真下に置くと危険なので、火口から少々離れてはいるが、火口の中を十分に観察できる場所に留めた。


「…あー…」と長春がまさに残念そうにつぶやいた。


「…まさか、火口の中に何かあるって?」と幻影が大いに苦笑いを浮かべて言うと、「…うん、あると思うぅー…」と長春が懇願の目をして幻影を見た。


「…多分、近づけないと思うんだが…」とさすがの幻影も大いに躊躇した。


「さすがに賛同できんな」と信長は言って、長春をにらみつけた。


「…はあ… ざんねぇーん…」と長春はまた嘆いてから、今度は藤十郎の懇願の目を向けた。


「おまえが行け」と幻影が堂々と長春に言うと、「…燃えちゃうもぉーん…」と今にも泣きだしそうに言うと、「俺たちは燃えてもいいらしいな…」と幻影は鼻で笑って言った。


「お兄ちゃんは燃えない! 絶対に!」


長春は言い切ったが、口元がひく付いていたので、もちろん幻影であろうとも燃えると思っているようだ。


「今は無理だが、

 何とか身を守る道具を考える。

 氷の鎧、とか…」


幻影の言葉に、「だがまずは長春の予感を現実的に確認しておいた方がいいんじゃないのか?」と信長が言うと、「はい、そうします」と幻影は言って、火口の回りをゆっくりと旋回させ始めた。


もちろん、全員が双眼鏡を出して覗き始めたので、小さなものでも見逃さないはずだ。


そして、「あっ!」と長春が叫んで、火口の中央よりも少し下の場所に指を差した。


そこはわずかばかりに棚になっていて、そこに小さな人工物が埋まっているように見えた。


「…外来製の剣、かなぁー…

 まああとは、十字架…」


幻影の言葉に、「…十字架はまずいな…」と信長が言うと、「あー…」とさすがの長春も大いに嘆いた。


もしもそんなものを持っているとしたら、確実に通報されて、色々と疑われることにもなる。


「正式な手順を踏んでから拾い上げましょう。

 秀忠に伝えておくだけで、お咎めはないと思いますから。

 さらには火口に投げ込んだと思われるのですが、

 どんな理由があったのか知りたいですね」


「昨日会った熊本城主の長政の倅にも伝えておくべきか…」と信長が言うと、「…また江戸まで飛んできます…」と幻影は言って大いに眉を下げた。


ここからは大いに大自然を満喫してから、発見されないように法源院屋の庭に降りた。


まずは腹ごしらえをしてから、幻影はまた江戸城に飛んだ。


秀忠は今回は天守にいなかったので、顔見知りの側用人に声をかけて、秀忠に伝言を頼んだ。


すると、何においても駆けつけるようで、ほとんど待つことなく秀忠は謁見の間にやってきた。


そして瞳を爛爛と輝かせている。


「…長春に俺は死なないと言われた…」と幻影が大いに眉を下げて言うと、「うん、死なない」と秀忠に長春と同じ目をして言われてしまった。


「将軍からの使命として言い渡す」と秀忠は言って、作業指示書を書いて幻影に渡した。


「これで一安心…

 うまく拾えたらここに持ってくる。

 まずは、少々調べるけどな。

 金属らしいから溶けてはないが、

 人間だと多分燃え出す場所だと思う」


「武勇伝を聞かせてね!」と秀忠は大いに陽気に言った。


本来ならば城を抜け出したいところだが、さすがにそれもままならないのだ。


「ああ、ひとつ聞きたいことがある」と幻影は言って、肥後に城がふたつある理由を聞いた。


「普請事業ではないと思ったが」


「…ふっふっふ、どうしてだと思う?」と秀忠がまさに優位に立ったとばかりに、いやらしい目つきをして幻影を見た。


「地形から察して、

 もう一つ城があった方が、

 海からの敵に対応できるからだと感じた。

 本来ならば、肥前の領地の天草の島にひとつあればいいと思ったが、

 やはり陸続きの方が都合がいいし、

 肥前は資金が乏しいだろうから無理は言えないだろうし、

 普請事業にはしたくない。

 まあ、島原城は海に近いこともあって、

 有明の海の北側にはそれほど問題はない。

 だから少々金持ちの肥後に金を出させて、

 幕府公認の特例で、

 有明海の南側の守護の城を設ける許可を出した。

 ってことくらいしか思い浮かばなかった…

 ああ、あとは…

 天草の原城は廃城になっているはずなのに、

 解体されることなく放置されている。

 これも、外来の敵に備えて、その時だけ機能できるように、

 特例を設けて解体をさせなかった。

 ってところかな?」


幻影が語るたびに、秀忠の唇が震えていた。


そして、「教えてやんない!」と秀忠は大いに気分を害して叫んでそっぽを向いた。


「はあ、まあ、別にいいけど…」と幻影が言うと、「…どうしてわかっちゃうのっ?!」と秀忠はさらに憤慨して地団太を踏んで叫んだ。


しかし、側用人たちは幻影に笑みを向けて拍手を送っていた。


「…どうしてって…

 まあ、なんとなく…」


幻影の言葉に、秀忠は大いに落ち込んで、「…また来てね…」とだけ力なくつぶやいた。



幻影はすぐさま熊本に戻って、新しい鎧をどうするか考え始めた。


少々大きめで二重構造にして中に水を入れるだけでも、わずかな時間であれば内側までには熱が伝わらないと感じた。


さらに凍らせておけば、ほぼ問題はないと踏んで、その試作を作った。


しかし、さすがに身に着ける時に冷たいので、内側には布を当てることにして、就寝前に完成して、水を注いで凍らせた。


そして身に着けたのだが、「…あー… ひんやりして気持ちいい…」と幻影が言うと、誰もが大いに興味を持った。


夏に近づけば夜でも寝苦しいので、こんな鎧があればいいなどと思ったようだ。


幻影は弁慶に言って、足の裏に燃えた炭を置いてもらった。


そして暫し炭の上に立っていたが、全く問題なく、脚が熱くなることはなかった。


しかし、火口の中がどれほどの熱を帯びているのかわからないので、速やかに行動を起こすことに決めて、今夜は眠ることにした。



翌日、陽が上がってすぐに幻影たちは阿蘇の火口に移動した。


さすがにこの時間だと、辺りには誰もいない。


手早く準備を終えて、弁慶と源次に最終確認をしてもらってから、幻影は宙に浮いた。


そして狙いを定めて、一瞬にして火口に飛び込み、剣のようなものを不燃布でくるんでから引き抜いて、火口を脱出した。


そして油断することなく、弁慶たちがいる場所に飛んで、素早く鎧を脱いだ。


「あ、まだ凍ってる。

 いい情報が取れたけど、

 まさに自殺行為だからもうやりたくない」


家族たちは一斉に、幻影に労いの言葉をかけた。


そして、取ってきた収穫物を見入ったが、今は布にくるまれていて確認できない。


源次が金属製の長い箸を使って布を解くと、やはり十字架だった。


「…なんだか嫌な予感が過った…

 もしもこの事実を知られた時、

 キリスト教徒は、

 俺をイエス・キリストに仕立て上げようなどと

 考えてんじゃねえのかと…」


幻影は言って辺りを見まわしたが、人の気配はいない。


だが、火口に十字架がなくなっていることは一目瞭然だ。


「…偽物、差しとくか…」という幻影の言葉に、誰もが眉を下げたが少し笑った。



しかしまずは幻影は十字架をもって江戸城に行って、ここにある工房で、十字架らしきものを作った。


もちろん、キリスト教の崇める十字架ではないことを秀忠が認め、幻影はすぐさま阿蘇に戻って、鎧を凍らせてから、元あった場所に手製の十字架を差して、すぐに火口を飛び出した。


「…阿蘇のお山が穏やかでよかった…」と幻影は言って、素早く鎧を脱いでから、手のひらを合わせた。


「秀忠が抜いたことにして、

 我に従ってキリスト教を捨てよ!

 と宣言すれば、みんなキリスト教をやめる」


幻影の言葉に、誰もが同意してから大いに笑った。


「別にそこは幻影がそう言えばいいじゃないか」と信長が言うと、「当事者になりたくないだけです」と幻影は答えて頭を下げた。


「…ま、その方が色々と平和か…」と信長は言って、納得したのか何度もうなづいた。



この阿蘇の回りも温泉が多く、今回は戦車を使って温泉巡りをしていると、阿蘇の火口の中にお宝が眠っているといううわさを聞き付けた。


「…うわさが流れる方が遅い…」と信長は言って鼻で笑った。


もちろんこれだけではなく、持ち帰れば幸せになれる、などという尾ひれらしきものもついている。


よって、琵琶家を狙ってのことだったのだろうと幻影は予測して、この件に関しては触れないことに決めた。


法源院屋に戻ると、店にやって来て噂を流しに来たという。


幻影はその者の似顔絵を作成して、書を添えて、熊本城に送り付けた。


罪にはならないだろうが、騒ぎの元になると考えたからだ。


すると城から使者がやって来て、通報した礼とまた別の噂話を聞かせてくれた。


「…イエス・キリストの復活…」と幻影はつぶやいた。


この噂は初耳だった。


よって噂の伝道師の講釈のうまい下手があるのだろうと思い、今のところは納得した。


今度は、『十字架を抱いて子が生まれた』といううわさが流れた。


さらに、阿蘇の火口の中にあるものと同じもの、といううわさも同時に耳に入った。


「…秀忠が持っているんだが、どうするんだろ…」と幻影が言うと、信長は大いに笑い転げた。


熊本城も、この噂の出どころが肥前にあるということはつかんだようで、島原藩に向けて問い合わせをした。


島原藩内では噂ではなく確信として話が膨らんでいて、もうすでにその対策を始めているようだ。


キリスト教の廃絶として、厳しくキリスト教徒の弾圧を始めているらしい。


幻影は大いに心を痛めたが、「手を出すとろくなことにならん」という信長の言葉に納得して従った。


「…有馬というキリシタン大名は罪なことをしたものです…」


幻影のつぶやきに、「…簡単に切り捨てるから、こんな結果を産んだんだろうなぁー…」と信長もつぶやいた。


よって長崎を巡ることはなく、帰路は阿蘇を戦車で走り抜け、別府で物見遊山をしてから伊予に戻ることになった。


やはり、肥後を離れると、キリスト関連のうわさが流れていることもなく、充実した物見遊山を終えて、松山に戻って旅を終えた。



御殿に戻って寛いでいると、嘉明がやってきた。


いつものならば港に来て出迎えているはずなのだが、物見の報告が遅かったようで出迎え損ねたそうだ。


戦艦が正面からいきなり現れたので、物見が嘉明に報告した時には、幻影たちはもうこの御殿に戻っていて、片付けをしていた。


「上様からのお礼状が届きました。

 素晴らしき贈り物に感謝するとのこと。

 ですが、文の内容が困惑気に感じます。

 薩摩や熊本で、何があったのでしょうか?」


嘉明が信長に聞いて沙織を見た。


「快い同盟関係は結べそうにありません」と沙織が言うと、「それがわかっただけでも収穫じゃ」と嘉明は機嫌よく言った、


「贈り物の件だが、あれ、貴金属か?」と信長が幻影に聞くと、「丁銀を溶かして鋳造したものだと思われます」と幻影が答えた。


「…思われる…

 何か拾いものでもされたのか?」


嘉明が幻影に聞くと、信長がうなづいたので、幻影はすべての話をした。


嘉明は大いに目を見開いて、「…無事に帰られてよかった…」と言ってから、長春を素早く見た。


「…うふふ…」と長春が笑うと、嘉明は居住まいを整えて、「すべての事情から、騒乱を事前に免れたものと」という言葉に、信長は何度もうなづいた。


この数日後に、阿蘇の火口に人工物があるといううわさがこの伊予にも聞こえてきた。


よって多くの場所でもこの噂が流れたが、秀忠がひと言で解決したようだ。


『本物は我が持っておる』


うわさを流した者は、大いに肝を冷やしたことだろうと、幻影は相手の気持ちを察した。



盛大な夏祭りを終えてすぐに、幻影たちは佐竹家の戦車に乗って、江戸に向かった。


ついに、竹ノ丞の元服の日がやってきたのだ。


嘉明は感無量の思いなのか、若い旗本となる竹ノ丞に父の笑みを向けている。


しかしそれと同時に手放すことにもなる寂しさもあるが、信長の方がその想いが大きいだろうと嘉明は察した。


しかし昔のように人質に出すわけではないことは、喜ばしいことだった。


戦車には着飾った志乃と、六名の家来も同乗している。


まさに、顔ぶれが大いに濃い家来ばかりだ。


ほどなく江戸に到着して、戦車は滑るように大門に吸い込まれた。


準備室では、嘉明が花嫁の父のように大いに泣きながら竹ノ丞の面倒を見る。


そして天守に上がって、竹ノ丞は元服の儀の礼を立て板に水で口上し、秀忠を喜ばせ、家光を困惑させた。


そしてこの儀の最後に、秀忠が背筋を伸ばして居住まいを整えた。


「姓は徳川となった。

 だがこんなものはどうでもよい。

 一番肝心なのは、新しい名じゃ」


秀忠は言って、一枚の半紙を手に取ってから素早く掲げた。


「佐竹竹ノ丞は、本日から徳川信幻だ!」


秀忠の声は室内に轟き渡って、そしてかなり長い静寂が訪れた。


まさかの名に、いつもかなり冷静な竹ノ丞すら戸惑った。


決して、徳川家ゆかりの字を使っていないことに戸惑ったのではなく、まさに最高の名前だと思って、大いに感動して胸が詰まって涙があふれて止まらなくなったからだ。


幻影は嘉明を少し突いて正気に戻すと、嘉明は竹ノ丞の背中をやさしく押した。


竹ノ丞は涙を拭いて居住まいを整え、「素晴らしい名をいただきましたこと、本当に感謝感激して、言葉には表せないほどでございます」と告げて頭を下げると、秀忠が自慢げな顔を幻影に見せた。


堅苦しい儀はこれで終えてから、宴会の席に移行した。


「…佐竹家は志乃が背負うことになるが、

 家臣の誰かに継がせてもよいと思うのじゃが…」


秀忠の言葉に、「我が家臣、宮本武蔵を佐竹武蔵といたします」と信幻は堂々と言った。


もちろん聞かされていたことなので、武蔵は素早く頭を下げた。


「…ま、ついに偽物も現れたことじゃし、潮時じゃろうて…」


この話も噂となって流れていた。


武蔵が佐竹家に世話になり始めてほどなくして、『無敵の武蔵』のうわさが流れ始めたのだ。


今は豊前辺りの城で世話になっているそうで、安土から西に流れて行ったようだ。


「どれほどの者なのか見てきたいね。

 まあ、その正体は知り合いなんだろうけど」


幻影の言葉に、「ああ、あのガキか…」と信長は言って鼻で笑った。


「…うー… 何で知ってるんだよぉー…」と秀忠が大いに眉を下げて言うと、「本名は佐々木小太郎。基本は忍びの者だよ」と幻影は簡単に種明かしをした。


そして詳しい事情を話し、「…二刀に加えて長太刀の話も聞いている…」と秀忠は言って、鬼の形相の蘭丸を見入って眉を下げた。


「名ごとやりましたので」と武蔵が言うと、「これは驚いた!」と幻影が叫んで大いに笑った。


「もちろん受け取らなかったのですが、

 考えを変えたのでしょう。

 それなり以上の実力はあるので、

 それほど気にもなりません。

 まさに忍びなので、変幻自在です。

 それに、何とかして佐田家に追いつきたかったのでしょう。

 この次は、本当の忍びを目指すと思います」


武蔵の言葉に、「佐田家って… 佐田与助?」と秀忠が幻影に聞くと、「うん、そう」と幻影は気さくに答えた。


「そろそろ隠居したいだろうに、

 頭痛の種が芽吹かないようでね…

 だけどその分、若返ってるように感じるよ」


「…忍びは殿とともに死ねない、か…」と秀忠は眉を下げて言った。


「ああ、そうそう!

 話すのをすっかりと忘れてた!」


幻影の陽気な言葉に、「…持ちネタ、ほんと多いね…」と秀忠はさらに眉を下げて言った。


服部家の現在の棟梁は竜胆でも間違いなさそうだが、公家が服部刑部半蔵を雇っているという想像の話をした。


もちろん秀忠は大いに食らいついて、まだ子供でしかない竜胆を見入った。


「…同じ徳川だし、手伝ってくれないかなぁー…」と秀忠が信幻に懇願の目を向けると、「はっ しかしまだまだ幼き故。しかし、調査対象が伊予近隣であるのなら、無碍にお断りする道理はございません」と信幻は堂々と言って頭を下げた。


秀忠は大いに喜んで、「ああ、それでよいよい」と機嫌よく言った。


「私は明日にでも家光様とともにありたいのですが、

 元服したといってもまだ萬幻武流の門下生でしかございません。

 お師様の許可を得て、堂々と江戸に参りたい所存でございます」


「…うう… 先手、打たれちゃった…」と秀忠は言って大いに眉を下げた。


「そんなに先の未来じゃないさ。

 基本は志乃さんが十分に積み上げてくれていたから、

 師匠としては楽なもんだよ。

 逆に厳しくしないことが、

 信幻にとって修行になりそうで逆に助かる」


幻影の言葉に、信幻は大いに眉を下げた。


さらに鍛えてもらいたいところだが、真面目過ぎる性格がその妨げになると、信幻はなんとなく理解できていた。


「それに寺子屋。

 話は進んでるの?」


幻影のこの言葉にも秀忠は苦悩をあらわにして、「…作ってくんない?」と大いに懇願してきた。


「宇和島には作ってきたぞ」という幻影の言葉に、「その話は聞いてない!!」と秀忠は大いに憤慨した。


「かわいい甥が管理する地だから、当然だろ…」


「…うう… 欲張り過ぎた…」と秀忠は大いに嘆いて、小さく頭を下げた。


「さらに師匠の欲で、柳生三巌を若返らせたいんだ」


幻影の言葉に、秀忠は大いに感動していた。


「事情は察した通りで、

 第一は、ついにあいつの老いが、

 あいつの技を曇らせ始めたこと。

 この江戸にいることで、弱くなっちまったんだ。

 だからこそ、柳生家は後継に継がせて、

 隠居させてからさらに鍛える。

 そして江戸に戻す」


幻影の言葉に、「…家族にはしてやらないんだね…」と秀忠が大いに三巌を不憫に思って、眉を下げて言った。


「おまえの側用人でいいんだ。

 それは俺が、心情的に楽ができるから」


幻影の言葉に、真っ先に信長が膝を叩いて大いに笑った。


「信幻が江戸に出る前にそこまでやってしまいたい。

 そうすれば、徳川本家は安心して放っておけるからな」


「…そういう意味の楽…」と秀忠は言ってうなだれた。


「用があったら飛んできてやることは今まで通りだ」


「…よくわかってるからもういいよ…」と秀忠は言って深々と頭を下げた。


「じゃ、話は終わったということで、

 この季節の最高の料理を食わせてやろう」


幻影が言って立ち上がると、松太郎たちも立ち上がって、厨房に行った。


信長は大いに喜んで、「大君でもそう簡単には食せない、素晴らしい料理だ」と信長が陽気に言うと、「…そんなにすごい料理をいつも食べてるんだね…」と秀忠がうらやましそうに言った。


「わがままなのはわかっていた。

 だが幻影は笑顔でそれを用意してくれる。

 本当に身に余る家臣を抱えたものだ」


信長が薄笑みを浮かべて言うと、「…うん、その気持ち、よくわかるよ…」と秀忠は身に染みてわかっているので、すぐさま同意した。


すると、大きな桶を幻影たちが運んでくると、信長は手ごねをして迎え入れた。


「…うわぁー… これは、贅沢だぁー…」と秀忠は言って、氷入りの冷やしうどんと冷やし蕎麦を大いに食らった。


さらには今まで以上にうまい天ぷらも味わい、さらに若返った意識を高めていた。


「急いで運んでくれ!」と幻影の一喝が飛んで、大奥の女中たちは急ぎ足で奥にすっ飛んで行った。


「ほら、伊予特産の蜜柑の砂糖蜜をかけたかき氷だ」


幻影の言葉に、「…ああ、なんてことだ…」と秀忠は今日のこの日は忘れないと涙しながら、こめかみを押さえつけながら、かき氷を食らった。


「ついでに奥の機嫌も取ることにした。

 色々と言ってくるだろうが、

 あまりにも執拗に言って来たら、

 もう高願は手は出さないなどと、

 その辺りはうまく操作してくれ」


「…うん、そうするよ…」と秀忠はこめかみを押さえながらも同意して頭を下げた。


冷やしうどんなどは、関係者一同全てが堪能する大盤振る舞いで、この祝いの日を終えた。



幻影たちは江戸の法源院屋の庭で一夜を明かし、一気に北上して正式に伊達政宗と面会を果たした。


もちろん要件は徳川信幻の顔見世だ。


政宗は大いに恐縮して、幻影と信幻を迎え入れた。


その政宗は、今は知らん顔をしている政江を見入っている。


「宇和島に売った蕎麦粉やら醤油やらだけで大いに潤った。

 本当に感謝する」


政宗はまずは政江に頭を下げた。


「お兄ちゃんの前だからって、

 いい顔してるんじゃないわよ」


政江は本気で怒っていたが、これはただの見せかけだ。


怒っておかないと、幻影とともに暮らせないからだ。


よって今は、政江の欲が大いに働いていることにもなる。


「私としては、この距離感を保って生活するから。

 あなたも好き勝手しても構わないけど、

 不幸だけは出さないようにしていただきたいわ」


政江の抉るような言葉に、政宗は何も言わなかったが、頭だけは下げた。


幻影も信長もひと言言いたいようだったが、『夫婦喧嘩は犬も食わない』を貫こうと思い、何も言わずに眉だけ下げていた。



政宗は信幻の名をうらやましく思い、信長と幻影を交互に見た。


「しんげんは俺の父の通り名でもあるからな。

 字は違うけど読みは同じ。

 そんなことも、上様は考えながら授けてくれたんだろう」


「…そうだった… 兄者たちの意思じゃないんだ…

 だからこそ、上様と分かり合えていることがうらやましいね…」


「女を何人も囲うからそういうことにもなる。

 側近も妻も、信頼できるひとりだけでいいんだよ。

 そこに威厳がなく口が立つ方がさらにいいが、

 過ぎたる威厳はあってもいいだろう」


幻影は言って蘭丸を見た。


「…お前、俺を持ち上げただけだろ?」と蘭丸がにらみながら言うと、「本心で真実だ」という言葉に、蘭丸はメロメロになっていて、ホホを朱に染めた。


「生産の本家が販売の分家に支えてもらうことになった。

 本家と分家が逆転する日も遠くはないな」


幻影の言葉に、政江は大いに胸を張ると、政宗はその逆にうなだれた。


「だが、妹を返してもらった礼だけはしよう。

 信幻元服のめでたい日でもある。

 まずはなんでも言ってみろ」


幻影の言葉に、「おお… おお…」と政宗は言って、立て板に水で、現在の問題点をすべて語った。


もちろん幻影はすべてを書に認めていて、駄目出しと保留を言い渡し、理由を添えて一気に詳しく説明した。


「残りは街道整備。

 これはやってもいいから、

 きちんと申請しておけよ。

 もちろん、整備費用は琵琶家負担の文字も忘れないように。

 それも誰もが納得する言葉でだ。

 それをしておかないと、今の秀忠はかなり厳しいから、

 通らないと思っておいた方がいい」


「…ない知恵を絞って認めます…」と政宗は言って頭を下げた。


「中途半端な費用を請求すれば、

 更に怪訝に思われるからな。

 費用無しとした方が、説明は簡単だ。

 秀宗のやつは、本来の街道修復予算を幕府に献上しよったぞ」


信長の言葉に、政宗は大いに心に負担を負った。


そんなことは誰もしないからだ。


よって政宗はすぐさま政江を見た。


「その程度のこと、指示するわけないじゃない」


政江の冷たい言葉に、政宗はほとほと自分が嫌になっていた。


「昔の政宗ならば、秀宗と同じことをすぐに頭に浮かべたはずだ。

 お前はまだまだ修行の日々だな」


幻影の厳しい言葉に、政宗は頭を下げた。


信幻の顔見世よりも政宗の説教を終えて、幻影たちはこの日のうちに、水戸、尾張、紀伊を巡り、信幻の顔見世を終えて、安土の町に行き食事をしてから、この日はこのまま眠りについた。



翌朝起きると、屋敷の前に人だかりができていた。


もちろん、きらびやかな戦車に三つ葉葵の旗が二本差さっていたからだ。


幻影がすぐに気づいて、徳川信幻を気さくに紹介すると、誰もが一斉に街道に正座をして頭を下げた。


信幻は大いに眉を下げてたが、ここで甘い言葉を放つわけにもいかない。


ほかの徳川はこれを当然だとするからだ。


「我が師の前では私はまだ弟子ですから。

 ただの門下生に、ひれ伏す行為はおやめください」


信幻の言葉に、幻影も信長も大いに納得してうなづいた。


よって町人たちは一斉に立ち上がって、朗らかな笑みを幻影と信幻に向けた。


「まだまだ武家中心の世界だからね。

 その辺りはよく考えて楽しく過ごしてもらいたいものだ」


幻影の言葉に、町人たちは納得して解散した。



幻影たちは摂津の堺まで陸路を行って、水行で松山に戻った。


「御三家全てに同じことを言うとは…」


信長は言って大いに苦笑いを浮かべた。


「誰のもとに一番にやってきたのかわからない方がいいのです。

 しかも誰もがいの一番にやってきたと思ったはずですので。

 それは相手の勝手で、我らが気にすることではないのです。

 それを察した者を、多少は信頼してもいいと思っていますので」


幻影は訪問して暇を取る前に、全ての徳川家に、「次の訪問先もございますので」と言って、早々に城を後にしたのだ。


「今はこの伊予が我らが家なので、安土も訪問には違いないので」と幻影がさらりと言うと、「それは間違えてはいないな」と信長は言って大いに笑った。



肥後でひとつの命が誕生した。


幻影が阿蘇の火口から十字架を抜いた時と同時期の出来事だった。


益田貞時というこの男子は、皮肉な運命をたどることになる。


国として発布している法律は守る必要がある。


よって幻影は最後の最後まで、表立っては手を出すことはなかった。


多くの者たちの願いを背負って貞時は生を受けたと言えるのだが、それは悲劇でしかなかった。


やはり宗教にはのめり込むべきではないと、未来の幻影はさらに思い知った、大きな戦いに発展してしまったのだ。



しかし今はコツコツと、いい国になるように尽力する。


秀忠がうるさいので、幻影は妙栄尼と、お付きとして源次を連れて江戸に飛んだ。


そして江戸城に出向く前に、空の上から江戸近辺を探り、「北か西だよなぁー… どう考えても…」と幻影はその方向を見渡して言った。


「どちらもひとつずつ、何とかいたしましょう。

 それに伴って、街道整備は重要でしょう」


妙栄尼の言葉に、「そうなりそうですね… その前に、仙台も早々に済ませますか…」と幻影は少々うんざり感を乗せて言ってから、江戸城の天守に飛び込んだ。


「あはは! 待ってたよ!」とすでに待ち構えていた秀忠は明るく言った。


そして幻影は、この謁見の間にいる者たちを見回してから、妙栄尼を見ると、首を横に振っていた。


「全員不合格」と幻影が胸を張って言うと、「…そんなぁー…」と秀忠は大いに嘆いた。


「欲が沸き過ぎ。

 こんな奴らはいらないから。

 学士は無欲が基本だ。

 師と仰ぐ教わった学士が悪かったと思っておいても構わない」


秀忠に呼び出されていた者たちは今までは大人しい顔をしていたのだが、一気に目を吊り上げて、大いに憤慨して謁見の間を出て行った。


「ほら、正体を見せたぞ」という幻影の言葉に、「…今、理解できた…」と秀忠は大いに眉を下げて言った。


幻影はまだここに残っている若い学士を見て、「君は怒ってないし、ここに留まってるね」と言った。


「はい、退席しろとのご命令がまだございませんから」と学士は笑みを浮かべて答えた。


「そうだね、みんなせっかちだと思わない?」


「極力そういったお話のお仲間にならないようにと務めております」


「あ、気が利かなくて悪かったね。

 君は、独学で学士となったはずだ。

 どれほど旅をしたの?」


確実にこの学士を試している幻影の言葉に、秀忠だけではなく、この学士も目を見開いた。


「…疑うことはいけないことですが…

 悟られたこの件も、天狗様の能力でしょうか?」


学士が眉を下げて聞くと、「いや、たぶん、君は俺と同じ目をしているんだろうと、ただなんとなく感じただけだ」と幻影は答えて薄笑みを浮かべた。


「今の俺になるまでに、まさに君と同じで、

 仕える誰かを探していたんだ。

 君はもう決めたのかい?」


「…いえ、実は…

 今、変わってしまったのです…」


学士は言って誰に下げるともなく頭を下げた。


「…母ちゃんのことが好きになった…」と幻影が小声で言うと、「…もう、茶化さないで…」と妙栄尼は眉を下げて小声で答え、源次が愉快そうに笑った。


ここで初めて自己紹介をして、若い学士は桑田忠親と名乗った。


忠親は幻影の言った通り、日の国中を巡って、様々な知識を得て、将軍秀忠の力になろうと決意して、今この場にいたはずだった。


しかし、『俺と同じ』と言った幻影に仕えたいと想いを変えてしまったのだ。


もちろんこの件は忠親は言葉にして幻影に伝えた。


「ちなみに俺が今仕えているのは俺の妻だ」


幻影の言葉に、妙栄尼も源次も大いに笑った。


「そういえば、御屋形様に暇をもらいたいと…

 婚姻する前でした」


「ああ、本気で言った。

 それほどにお蘭は魅力的だったからな。

 今も全く変わっていない。

 まあ、御屋形様に暇はもらってないから、

 主は代わってないけどね」


幻影たちが陽気に話をしていると、秀忠と忠親は大いに眉を下げていた。


「では研修として、まずは伊予の寺子屋の視察と研修から始めてもらいたい。

 予定としてはどうなの?」


幻影が秀忠を見て言うと、「すべてを任せたから…」と眉を下げて答えた。


「じゃ、今日のところは、

 受け入れてもらえる寺を探しに行こう。

 八王子方面と川越方面に心当たりの寺はないかな?」


幻影の言葉に、「…おいおい、遠いだろ…」と真っ先に秀忠が嘆いた。


「そこに決めるわけじゃないさ。

 その寺の息がかかっている

 この近隣の配下の寺に寺子屋を構えることも考えているから。

 やはり人が多いこの辺りでは、

 鬼が住んでいることも少なくないからね。

 僧たちも、鬼になっている可能性は捨てられないから。

 それを正しく見抜く必要があるから、

 そう簡単には決められないよ。

 それに俺たちは江戸でも生活してたんだぜ」


秀忠は幻影の言葉を全面的に信じた。


「…だけど、宇和島にはもうできたじゃないか…」と秀忠は大いに苦情を言った。


「運がよかっただけ」と幻影が言うと、忠親は腹を抱えて笑い始めた。


「人が多いとな、そう簡単にうまくいくものじゃない。

 さらには、警備の役人の選定もある。

 寺子屋を建てるのはこの江戸が一番面倒なんだよ。

 それに加えて、様々な嫉妬や欲が渦巻くものだ」


「…はあ…

 庶民から経験を積む必要があるよなぁー…」


秀忠は言って大いにうなだれると、幻影は忠親に顔を向けた。


「とはいっても、それほど気合を入れずに行こう。

 旅の続きと思っていればいいさ」


「はい、お師様」と笑みを浮かべて言って頭を下げた。


「そして、妙栄尼様の恐ろしさを大いに知ることだろう」


幻影が雰囲気を出して言うと、「脅してあげないで」と妙栄尼は眉を下げて言った。



まずは忠親は川越にほど近い、武闘派の僧侶がいる妙蓮寺に行くことにした。


「そりゃあいい!」と幻影は大いに陽気言って、早速三人を抱え込んで、川越を目指して飛んだ。


しばらく飛んで、かなり大きな寺を発見して、四人は地面に足をつけた。


「…はあ… 生まれてから一番驚いて、一番いい経験を積みましたぁー…」と忠親は言って、その場に腰を落としたが笑みを浮かべていた。


「…おー… 天狗殿がいらしたぁー…」とまさに武闘派の僧侶数名が声を上げた。


「やあ! 挨拶はいらないようだから、

 ここの住職に顔合わせを願いたいんだ!」


幻影の言葉に、「ささ! こちらへ!」とひとりの僧が言って走り始めたので、幻影と源次もそれに倣った。


取り残されてしまった妙栄尼と忠親は顔を見合わせてから、すぐにふたりを追って走り出した。



四人は本堂に誘われてすぐに、この寺の住職が走ってやってきた。


住職としては大いに驚いて、ただただ慌てていただけだ。


「…やや微妙…」と幻影が酷評すると、「問題ございません」と妙栄尼は薄笑みを浮かべて言った。


「琵琶高願様! 妙栄尼様! 前田源次様のご訪問に感謝だ!」と住職は豪快に叫んで大いに笑ってから、忠親に鋭い視線を向けた。


しかし、少しその眼力を弱めて、「…よくぞ鍛え上げたもんじゃ…」と言って、柔らかな笑みを浮かべた。


「こちらで教わったことも大いに役立ちました。

 大善様」


忠親は笑みを浮かべて答えて、改めて住職の大善を紹介した。


「早々にご挨拶にと思っていたのですが、

 仕事が入ってしまったので、今になってしまいました」


「いや! よいよい!

 その仕事がお三方の案内。

 出世したもんじゃ!」


大善は大いに陽気に叫んでから、大いに陽気に笑った。


忠親が詳しい話をすると、「住職のいない寺はある」と大善は言って、その場所を示唆した。


「ここから数名出してもいい。

 それも修行じゃて」


大善は言って、穏やかに手のひらを合わせた。


早速細かい打ち合わせをして、大善に一筆認めてもらった。


もちろん、寺子屋を建てるという建築許可願いの書だ。


現在は秀忠のたっての希望で、幻影が関わる事業はすべて秀忠の許可制となっている。


飲食や娯楽関係は別だが、できれば報告してもらいたいそうだ。


幻影は大善が推薦した、二名の僧侶とともに空を飛んで、江戸城がよく見える、うっそうとした森の中の境内に足を下した。


妙栄尼は辺りを見回しながら、「あら? 思った以上に綺麗…」と言うと、ひざが笑っている僧侶のひとりが、「決めた日に掃除だけには来ておりますから」と、少し震えた声で答えた。


幻影は寺子屋を建てる場所を決めてから、書簡をもってひとり江戸城に飛んだ。


出迎えた秀忠は、「…予想以上に早かったぁー…」と大いに目を見開いて言って、書簡を受け取ってすぐさま承認した。


「木材くれ」と幻影が言うと、秀忠は、「もう建ったも同然…」と大いに感動しながら、「工房に行って勝手に持って行ってくれ」と言った。


幻影は早速移動して、工房で働いている者たちに許可をもらって材料を分けてもらい、廃棄するものも多く引き出し、さらには廃棄寸前の工具ももらって、すべてをしっかりと縛り付けて、大荷物を担いで空を飛んだ。


「…相変わらずお忙しい…」ともう何度も幻影を見ている営繕の工員たちは、笑みを浮かべて空を見上げた。



寺に戻ってきた幻影は、整地と基礎工事は源次たちに任せて、古い道具の手入れを始めた。


そして一切釘を使わない工法を持ちいて木材に細工を施して、簡単に骨組みだけを建て終えた。


特に大黒柱は廃棄品だったにもかかわらず、大いに存在感がある。


大きい作業から小さい作業までを難なくこなし、寺子屋が完成した。


あとは畳を入れたら完全に終わりだ。


すると畳屋がすっ飛んできて、「…昨日までなかった…」と寺子屋を見上げて大いに嘆いてから、素早く畳を敷いて、銭をもらって帰って行った。


「ここは多くて三十名だなぁー…

 まあ、一カ所だけじゃあ足りないし、

 学士もそろえないとなぁー…

 あ、細々としたものは、

 明日までにそろえるから。

 試しとしてあさってから講義をしても構わないよ」


幻影の言葉に、「琵琶家の素晴らしさをよく理解できたと感服しました」と忠親は言って、幻影たちに頭を下げた。



もちろん、何もかもうまくいくはずがない。


この件を知った江戸近隣の寺の住職たちが、大いに怒りをあらわにし始めたのだ。


しかもこの辺りでは名の知れた破戒僧の大善を琵琶家が指定したことで、どうにかして接触せねばと、怒りと欲が渦巻いていた。


よってこういった小ずるいものは、何とかして足を引っ張ろうとするものだ。


ちょっとしたうわさを流すだけでも、一瞬のうちに信用を無くすこともある。


しかし、そのちょっとしたことをしようとしても、なぜかうまくいかない。


相手に悟られたり、仕掛けがなくなっていたりと、首をひねるばかりだ。


そしてその罠に自分自身がかかって大怪我をしたものまでいる。


まさに、悪いことはできないと、何人も大いに反省した。


もちろん幻影が忍びを使って、妙蓮寺を守らせたのだ。


さらにはまだまだ悪いヤツもいて、浪人を雇って辻斬りまがいのことを仕掛けようとするのだが、肝心の幻影と忠親がいない。


仕方がないので指示通りに妙蓮寺を訪れた。


そして影を見つけてすぐに、太刀を抜いたのだが、「御用だ!」と町周りに叫ばれ、とんでもないほどの明るい光が辻斬りに浴びせられた。


もちろん太刀は瞬時にして奪われ、辻斬りは観念して簡単に黒幕の名を告げた。


未遂とはいえ、辻斬りは即刻遠島。


黒幕は市中引き回しの上、斬首となった。


この情報は一斉に江戸に流れ、『幕府の事業を邪魔した者』として、顛末全てを書き立てた札が様々な場所に上がり、さらには声に出すおふれが現れた。


もちろん、読み書きができない町人も多いという理由で、幻影が進言して簡単に叶ったのだ。


よって、『出来事読み』という職業が新たに現れた。


大店などで就労していた者たちを雇い、職を与え、少しでも銭を回すことにつながった。


法源寺屋の店先では丁稚たちがこれを請け負って、通常よりもよい賃金を与えられる。


これも幻影が考えていた、『江戸世直し』のひとつだった。


高輝度の反射板付き提灯は、幻影が寄付という形で幕府に進呈された。


よって江戸の夜は、夜回りたちも安心して警備に当たることができるようになった。


江戸城の回りは特に、押し込みなども大いに減少して、火災などの早期発見にも役立った。


一時的かもしれないが、秀忠の杞憂は大いに払拭されていた。



よって、「…ずっとここにいてぇー…」と秀忠が幻影にねだることは当然のことだ。


「俺たちの身を守ったに過ぎないんだから、

 我がまま言ってんじゃあねえ」


幻影はにやりと笑って言った。


「…情けないのはご意見番たちだよ…

 何の役にも立ってなかったって、

 よーくわかったよ…」


秀忠が大いにぼやくと、「そいつらには旅をさせて世間を思い知らせる必要があるが…」と幻影は言って少し考えてから、「ほぼ平和になった今では、それほど役に立たないかもな…」と幻影はつれないことを言って、さらに秀忠の頭を抱え込ませた。


「さらにだ。

 今回の件は忍びも使ったから。

 何とかして服部刑部半蔵と接触した方がいい。

 あ、竜胆の母親だって言ってたっけ?」


「…うん、聞いてる…

 …ここに連れてきてくんない?」


秀忠は大いに幻影に甘えている。


「探しても見つかるわけもないが…

 餌を流せば可能かなぁー…

 まあ、かなりわかりやすいから、

 気が向いたら来るんじゃない?」


「…えー… どうすんのさ…」


秀忠が眉を下げて聞くと、幻影はにやりと笑って、ごくごく一般的なことを言った。


「…服部刑部半蔵を江戸城に招待してそのまま雇う…」と秀忠は言って大いに眉を下げていた。


「ま、いろんな忍びもやってきそうだけど、

 俺は知ってるから問題はないぞ。

 せっかくだから、竜胆の実力も図っておくか…」


「…そうだね… 時には手伝ってもらうこともありそうだし…」


秀忠は、―― 信幻が一日でも早く江戸に来られますように… ―― と神と仏に祈った。


もちろん、幻影がずっとほったらかしにすることはないと考えているからだ。


そうすれば、何かにつけて幻影が解決してくれると考えている。


「頭を使わないとすぐにボケるぞ」


幻影の秀忠の考えを見抜いたような言葉に、「…うっ うん…」と秀忠は答えてうなだれた



そうこうしているうちに寺子屋はようやく開校できるようになった。


だが残念なのは、武家の子がひとりもいないことだ。


募集は大勢いたのだが、様々な理由によって合格を得られなかった。


そのほとんどが親との面接で、寺子屋側の意にそわない考えを持っていたからだ。


やはり武家社会は根本から改革しないと平等にはならないと、秀忠は大いに思い知っていた。


しかしここにも信幻に期待を持った。


信幻もまだまだ勉学に勤しんでいるからだ。


寺子屋の件は大善と忠親に任せて、幻影は服部刑部半蔵に集中した。


昨日の昼以降から、日の国すべてに、『雇うから江戸城に来るように』と堂々と通達したのだ。


法源院屋が中心となって触れ回ったので、この情報が耳に入らなかった者はいない程だった。


その期日は今夜で、細かい時間は指定していない。


幻影は暗くなってから擬態布をすっぽりとかぶって、江戸城ではなく屋根付きの半鐘台の上の屋根に乗って辺りを警戒した。


これも訓練のひとつで、暇つぶしというわけではない。


やはり仲間以外の忍びも大勢いるようで、簡単に捕らえてすぐに開放した。


すると、服部半蔵は予想外の行動に出た。


まさに堂々と本来の女性の姿をさらして、大門の前に来て、「服部刑部半蔵よ!」と叫んだのだ。


―― はは、正攻法で来たか… ―― と幻影は大いに喜んでいた。


「…はは、母ちゃん、普通に来たんだね…」と姿を現した竜胆が言うと、半蔵は大いに目を見開いた。


「返り咲けるんだ。

 余計なことをすることなんて何もないさ」


半蔵は堂々と言って、涙を流して我が子を抱きしめた。


「そんなことよりも、あんたがここにいるんだから、

 琵琶高願もいるんだろ?」


半蔵の言葉に、「うふふ… 一戦交えるつもり満々だったのよ?」と竜胆が明るく言うと、「…まさか、それが試験、とか…」と半蔵は大いに困惑して言った。


「ううん。

 余計な人の排除だけだよ」


竜胆の言葉に、「それは当然よね」と半蔵は笑みを浮かべて言った。


「半蔵殿、参られよ」と役人の武士が言うと同時に、大門が開いた。


―― ん? 右足に怪我… ―― と半蔵は男の足を一瞬見ただけで見破った。


よって、戦場に出たこともあるのだろうと、なんとなく考えて、城に入った。


通されたのは天守ではなく、貴賓室なのだが、屈強そうな歴戦の面々が鎮座していた。


この近隣の大名をすべて呼んだというほどの顔ぶれだった。


しかし半蔵は物おじひとつせず、案内の武士に指定された場所に正座をした。


正座をしたが、つま先だけは立てている。


いつでも前に飛び出せる準備だけはしている。


これが忍びの性で、寛げる場所でもこの習慣は抜けない。


そして半蔵は瞳を閉じて、この室内の気配を探り始めた。


―― 忍びはいない? ―― と半蔵は怪訝に思った。


忍び相手に忍びを用意しないのは大いにおかしい。


最低でも、秀忠と懇意にしている琵琶高願はいるはずだと確信していたのだ。


すると、側用人に守られた秀忠がやってきた。


そして半蔵の真正面だが、優に十間ほど離れている場所に座った。


―― いや、さらにおかしい… ―― と半蔵は今ようやく気付いた。


半蔵は全く持ち物の検査を受けていないのだ。


これはどういうことなのかと大いに悩み始めた。


―― これも試験ということか… ―― と考えてから、ここは成り行き任せにすることに決めた。


「久しいな、桔梗」と秀忠が言うと、半蔵は躊躇なく頭を下げた。


もちろん顔見知りで、半蔵がまだ竜胆と同じ年頃の時に、秀忠とは会っていた。


「では、怪訝に思ったことすべてを述べよ」


秀忠の言葉に、半蔵は愉快そうに大いに笑った。


そして疑問に思った全てを語った。


「琵琶高願がな、ただただ呼ぶだけでは詰まらんと言いおって、

 このような大げさなことになった。

 しかし、忍びの者を雇う場合、

 やりすぎなどないと、高願に言われてな」


「さすれば、琵琶高願を雇えばよろしかろう」と半蔵はわずかだが感情が荒れた。


「それができればやっておるわい」と秀忠はにやりと笑って言った。


「ヤツは忍びにあらず。

 その正体は武士じゃ」


この秀忠の言葉に、半蔵は目を見開いた。


「…い、いや… 二度ほど姿を見たが、

 どう考えても忍びだった…」


「武士が特化した忍びだ。

 やつは、ただひとりで戦場を駆け抜けることが可能な、

 唯一の武将じゃ」


すると、今まで黙っていた大名たちが、「…おお…」と小さなうなり声を上げた。


「そのうち、ヤツの詳しいことは知ることになろう。

 さすれば納得もするはずじゃ。

 ワシに仕えれば、確実にその日は来るじゃろうて」


秀忠の言葉に、「我が願いでもあり申した」と半蔵は言って、深く頭を下げた。


「よっし! 終わりだ!

 皆の者、申し訳なかった」


秀忠の言葉に、大名たちはすぐさま立ち上がって、下手に回って部屋を出て行った。


半蔵の回りには、始めに接触した案内の侍だけが座っていた。


半蔵は振り返ってから秀忠を見て、「このような半端者が警護人でよろしいのでしょうか?」と目を吊り上げて言った。


「ほう、半端者じゃと?」と秀忠は言って、半蔵の斜め後ろにいる武士を見た。


武士は全く態度を変えずに前だけを見ている。


「脚が悪いことはわかっています。

 その古傷が、咄嗟の時に災いとなりましょうぞ」


「油断させるため、であればどうじゃ?」


秀忠の言葉に、半蔵はすぐさま振り向いて武士を見たが、全く何も変わらず前だけを見ている。


「言っとくが、そやつはこの日の国だけにとどまらず、

 全ての国を合わせても一番の猛者じゃと、

 我は思っておる」


「なにっ?!」と半蔵が叫んで武士がいる場所を見たが、誰もいない。


武士は瞬間移動したように、半蔵の逆側の後ろに座っていたのだ。


「…琵琶、高願…」と半蔵がうなるように言うと、「私は兄者ほど優秀ではござらん」と弁慶が答えると、秀忠が愉快そうに笑った。


「そうでもないぞ弁慶」と幻影が言った。


半蔵はすぐに視線を左に替えると、さっきまで武士がいた場所に、幻影がいた。


「ここからじゃと、まさに浮き出てきたように見えた」と秀忠が言うと、「褒めてももう何も出ないぞ」と幻影は言って少し笑った。


秀忠は首を横に振って、「今までもこれからも変わらずお前に頼る」と言い切った。


しかし、「さすがに雑用は半蔵を使う」と秀忠が歯に衣着せぬ言葉を放つと、「…暇をもらおうかしら…」と半蔵はつぶやいた。


「それでも良い。

 近いうちに竜胆も江戸に来る。

 下手をすると頭目が娘の手下だぞ?」


半蔵は大いに苦笑いを浮かべて、「参りました」と言って、素直に頭を下げた。


「これをやるから大いに活用しな」と幻影は言って擬態布を半蔵に渡した。


「じっくりと見ないと確認できないだけだから、

 用心して使った方がいいが、夜は大いに有効だと思う」


半蔵は布を広げて足を隠して目を見開いた。


しかしじっくりと見れば、やはり妙だと感じる。


よって、今のように一瞬しか視界に入らない場合は、有効だということはよく理解できていた。


「さらには、敏感な者は、姿が見えてなくても気配と場の空気で察する。

 あえて、全く動かないと決めておけば、気配ごと消える場合が多い。

 雑念が空気を揺らすと思っておいた方がいい。

 先代も同じことを言ったと思うが?」


幻影の言葉に、「…それを受け継いだのは竜胆よ…」と半蔵はため息交じりに言った。


「ああ、そうだったな。

 それなり以上の忍びの存在を察して、一度目は逃げられたから」


「…そう… その素晴らしい子を、私は手にかけようとした…」


半蔵は悲し気にその心の内を晒した。


「できれば殺さずを貫いて、

 何事も対応してみろ。

 様々な世界が広がるはずだ。

 特に忍びはお尋ね者になっている場合も多いから、

 縛り上げて役人に渡せばいいだけだ。

 俺は極力この方法を取って、

 この国の法を守るように決めている」


「…前途多難だわ…」と半蔵は大いに嘆いた。


「やはりお上に付き合うとな、

 守らないわけにはいかないんだ。

 頼られている者が法を破ると同時に、

 頼んだ方も法に触れるんだから。

 ここは几帳面に誠実に考えた方がいいと俺は思っている」


半蔵は答えることもうなづくこともできなかった。


そしてできれば、幻影に鍛え上げてもらいたかった。


だが服部の忍びとしては、伊賀ものに指導を受けるわけにもいかなかった。


「さらに自分に厳しく生きればいいだけさ」


まるで半蔵の心の内を見透かしたような幻影の言葉に、「いけすかないヤツ」と半蔵は言って鼻で笑った。


「もう何度も言われているから慣れている」


「そんなことよりも、お前のあの嫁は反則だろ…」と半蔵が苦笑いを浮かべて言うと、その反則が半蔵の目の前にいて、幻武丸を抜いて半蔵の首に当てていた。


「…もう一度、言え…」と蘭丸が小声だが威厳をもって言うと、半蔵は目を見開いていた。


「…いえ… 粗相をお許しくださいませ、奥様…」と半蔵は言うしかなかった。


蘭丸は幻武丸を鞘に収めて、幻影の隣に座って秀忠をにらみつけた。


「…ここにいた皆にも見せたかったぁー…」と秀忠が嘆くと、幻影だけは大いに笑った。


「俺と同じ、萬幻武流の第二の師匠だからな。

 本人は気付いてないが、

 忍びの心得の方が武士よりも強い。

 だから今のようなことまでできるんだ。

 殺気を放たずに、簡単に首を落とせる、とかな」


幻影の言葉に、「…奥義まであるんだって?」と秀忠が大いに興味を持った。


「見せてやってもいいぞ。

 お前が標的としてなぁー…

 幻武丸が届かなくとも、お前の首など造作もなく落とせる」


蘭丸の言葉に、秀忠は大いに震え上がって、「…見せてくれなくてもいいぃー…」と大いに嘆いた。


「ちなみに、木刀でもやっちまうから。

 腕試しもまともにできないから、

 怒らせることは避けた方がいい」


「…うう… 承知したぁー…」と秀忠が何とか答えると、半蔵が大いに笑った。


「まるで、琵琶一族がこの国の殿様じゃあないかっ!」と半蔵は叫んですぐに気づいた。


「そうだ、心がけが全然違う。

 将軍はすべての平和を願い、

 なんとかその理想に近づけたい。

 俺たちは、俺たちの持つすべてを使って、

 幕府の手伝いをする。

 こういった間柄だ。

 俺たちが殿様になるとな、

 邪魔なものは一掃するという恐ろしいことにもなるんだ。

 それをしないために、

 将軍は必要なんだよ」


「…今、ようやく理解を終えた…」と半蔵は言って、秀忠に頭を下げ、「まだまだ未熟なれど、存分にお使い願います」と言った。


秀忠は満足そうにうなづいて、案内人に指示を出した。


確保していた服部の屋敷に案内するためだ。


ふたりが退席すると、「これでかなり楽になった」と幻影が言うと、「…うー…」と秀忠が大いにうなった。


「だからな、友人として会いに来ることもあるんだぜ」


幻影の言葉に、秀忠は満面の笑みを浮かべて何度もうなづいた。



その頃、宇和島に住んでいる甚太は、松山城下にいた。


今朝、陽が上がる前に長屋を出て、握り飯と梅干しだけをもって、長い道のりを走った。


母親も完治したと医師が太鼓判を押したのだが、大いに首をひねっていた。


わずかなこの期間で治るものではなかったはずなのだ。


もちろん、幻影の後押しが、大いなる薬となっていたからだ。


そして甚太は薬が効いたとは思っていなかった。


「…あんたのお知り合いが、きっと治してくださった…」と母が語ったのだ。


その根拠は何もなのだが、体中に急に力が沸き上がってきたと言ったのだ。


そして寝て起きるたびに体調がよくなって、今では働きに出られるようになっていた。


甚太が稼いだ金はまだあるので、母親は甚太の望むようにしてもいいと言ったことを実行に移したのだ。


母を治してくれた礼、街道で助けてもらった礼、そして甚太の願いを伝えるためだ。


松山城下は夕暮れが迫ってきていた。


まだ宿は決めてないのだが、宿屋に行って、どの程度で泊めてもらえるのかと聞くと、手持ちの半分以下でいいと知って、店の者に礼を言って外に出た。


やはり宿に泊まりたいのだが、野宿でもいいなどと思ったようだ。


そして今話題の軽業興業の巨大な施設が見えて、自然に笑みを浮かべて走って行った。


街道側に入り口がある。


そして様々なことが書いてあるのだが、読めない。


大いに眉を下げていると、「やあ、やっぱりそうだった」と信幻は甚太に笑みを浮かべて言った。


「あ! こんばんは!」と甚太は挨拶をして、母親に言われた通りに自己紹介をした。


「まさか、軽業を見に来たの?」と信幻が聞くと、甚太はすべての説明をした。


「よくわかったよ。

 多分、今日には高願様もお戻りになるはずだから。

 私の家で待っていてくれていいし、

 泊まって行ってくれてもいいよ」


信幻のやさしい言葉に甘えることにして、甚太は健五郎と才英とも言葉を交わした。



御殿に戻る前に、黄昏色に染まった子供たちの遊び場が目に入って、甚太は大いに興味を持った。


信幻はこの陽気で少々力持ちの甚太に大いに興味を持った。


そして甚太はこの小さな体のどこに力があるのか、大いに遊具で遊んだ。


「だけど、ここまでもちろん歩きだよね?」と健五郎が言うと、「…逸材かもしれない…」と信幻は真剣な目をして、甚太に付き合った。



食事を摂るために琵琶御殿に行くと、「えっ! 今朝宇和島を出て今着いたって?!」と才英が大いに叫んだ。


「…ほう…」と信長も子供たちの話に大いに興味を持った。


「山道の方が早いって聞いて…」と甚太が答えると、「ほぼ馬専用の道だよ…」と健五郎は眉を下げて言った。


「高願様が大いに興味を持ちそうだ。

 よかったね、甚太君」


信幻のやさしい言葉に、甚太は満面の笑みを浮かべた。



すると空を飛んで江戸から戻ってきた幻影たちが部屋に入って来てすぐに甚太に気付いて、「やあ、やっぱり来たね」と幻影が気さくに言った。


「どうしてもお礼を言いたくて…

 助けてくれて、母ちゃんを治してくれて、

 本当にありがとうございました!」


甚太は何度も練習した言葉と仕草を幻影に披露した。


「この先色々と大変だけど、

 お母さんが寂しがると思うけど、いいの?」


幻影はすべてを察して言うと、甚太はそこまでは考えていなかったようで、大いに戸惑った。


「日が合う時は、幻影が送ってやれ…

 弁慶でも源次でも構わない。

 甚太のいい訓練にもなるだろうから。

 時にはここに泊まるようにすればいい。

 今日はどうするんだ?」


信長の言葉に、「城下で宿に泊まろうと思いましたけど、もったいないので野宿でいいと思って」と甚太は大いに戸惑いながら言った。


「御屋形様、私に甚太の面倒を見させていただきたいのです」と信幻が言うと、「むっ?!」と信長がうなり声を上げた。


「御屋形様、大人げないです」という幻影の言葉に、「…欲が先走った…」と信長は言って頭を下げた。


「それに、信幻は江戸に出ることにもなるので、

 あとは我らの家族として迎えればいいだけです。

 甚太の成長次第で、信幻に託してもよいものかと。

 やはり母親の件もありますから。

 甚太だけなら問題はないでしょうが、

 母親の説得も必要です」


「…うむ、よくわかった…」と信長は言って、「食事を頼みたい」といつもよりも丁寧に言った。


「はっ しばしおまちを」と幻影は言って、調理仲間たちとともに厨房に行った。


甚太は信幻に誘われて厨房に行くと、幻影たちはとんでもないことをしていると知って、大いに目を見開いた。


ここは調理をする場所だが、まさに戦場だと感じていた。


そして威勢のいい声が聞こえ、手を止めずに雑談まで始めた。


「…すごい…」と甚太は心に思ったことを言葉にした。


「…おいらは、もっともっと、いろんなことに気をつけなきゃ…」


そして今後の見解を述べた。


「…手を出したいのに出せないわ…

 私たち女のお手伝いは配膳だけ…」


志乃が眉を下げて言った。


「…配膳も、気をつけなきゃ…」と甚太はさらに言った。


「御屋形様はね、お寂しいの」と志乃が言うと、信幻が真っ先に眉を下げ、そして健五郎と才英も眉を下げた。


「ご自分の子供として育てた信幻、健五郎、才英は、

 もう間のなく自分の歩むべき道を歩むことになって、

 ここでは暮らせなくなるの。

 だからこそ、甚太にここにいてもらいたいと思っているの。

 だけど普通の子供ではここにはいられない。

 甚太にその資格があるから、

 御屋形様は欲をお持ちになったの」


「えー… そうだったの?」と甚太は言って三人を代わる代わる見て、同意してうなづいたことに甚太の心は揺れていた。


「甚太のお母様に、あなたは武士だって言われなかった?」


志乃の衝撃の言葉に、信幻たちは大いに戸惑った。


「…あー… 言われてないけど…

 でも、武士の性格とか、その在り方とか…

 今になって、勉強していたように思った…」


「武家としての教育ね。

 確かに武士には気をつけなきゃいけないわ。

 今は無理だけど、

 ちょっと前だったらちょっとした粗相で

 切り捨てられても文句は言えなかったから。

 今はお上がそれを禁止したけどね。

 だけど、その土地の藩主の気持ち次第で変わることもあるから、

 旅の途中では十分に気をつけないとね」


「…今になって怖くなってきた…」と甚太は言って、大いに苦笑いを浮かべた。


「まだ松山と宇和島はお殿様が立派だから問題ないわよ」という志乃の言葉に、甚太はほっと胸をなでおろした。


「甚太の母上に面会に行くわ。

 できれば、母上にもこの松山に来ていただきたい。

 あ、甚太はずっと宇和島にいたの?」


志乃の言葉に、「…よく覚えてないけど… 母ちゃん、時々、南の方ばかりを気にしていたような…」と甚太が答えると、「…土佐の出身…」と志乃はほぼ確信していた。


「実はね、高願様も土佐はあまり気に入っておられないようなの。

 御屋形様との接触があまりないお方だということもあるそうだけど。

 この際、その件に触れて、できれば仲良くしたいところだわ…

 さあ、お仕事よ!」


志乃は言って、早速配膳を始めると、甚太たちも大いに慎重になって手伝いを始めた。



「高願様、土佐に参りませんか?」


志乃の挑戦するような言葉に、「断る!」と幻影は叫んでから大いに笑った。


「あら? もしかして泣きどころでした?」と志乃が聞くと、「あの一族とは係わりあいになりたくないだけだ」と幻影はいつもの幻影に戻って行った。


「甚太の件がございます」と志乃が言うと、「じゃ、志乃に任せた」という幻影の無碍な言葉に、―― やぶへび… ―― と大いに思い知っていた。


「源次はどうだった?」と幻影が聞くと、「…暑苦しいです…」と言って大いに眉を下げた。


「…一体、どのような事情が…」と志乃は目を見開いて弁慶を見た。


「私は避けて通りましたので。

 いやな予感、と言っておきましょう」


「…うう… 簡単に察せるほどに嫌な土地なのね…」と志乃は大いに嘆いた。


「あまりにも気さく過ぎてね。

 南国ならではと思うから、

 その逆に迂闊なことは言えないから大いに構える。

 ここまで言えば、できれば関わらない方がいいと思うだろ?

 それに、甚太の世継問題までが本当にあるとすれば、大いに面倒だから。

 まずは甚太の母に詳しい事情を聞いてからだね。

 もしも姓がわかれば、竜胆にでも頼んで、

 情報だけでも仕入れたらいい」


幻影の言葉を聞いて、志乃は甚太を見て、「名のほかに姓も持ってるの?」と聞くと、「あー…」と甚太は言って大いに考え込んだ。


幻影が和紙と筆を渡すと、甚太は満面の笑みを浮かべて、妙に達筆で、『山内忠義』と書いたので、幻影は大いに頭を抱えた。


「…なんて読むの?」と甚太が聞くと、「やまうちただよし、今の土佐藩のお殿様」と志乃が答えた。


「…父ちゃんの名だって、母ちゃん言ってた…

 あ、もうひとつ…」


甚太は言って、『松平忠義』と書いた。


信長は何度もうなづいて、「今はその名だな」と言った。


「…信幻と甚太が親戚になってしまった…」と幻影が言うと、信長は愉快そうに笑った。


「じゃが、甚太には秘密があるが、

 甚太はまだそれに気づく年齢ではない」


信長の言葉に、幻影の兄弟たち以外は大いに戸惑った。


「甚太は女子」と幻影が知っていた事実を言うと、「はあ…」と誰もがため息をついた。


「母者は城を抜け出して、姫を男子の甚太として育てた。

 自分と同じ目にあわせたくなかったからじゃろうて」


信長の言葉に、「…そうだったのかぁー…」と信幻は大いに驚いて、隣にいる甚太を見入ると、確かに女子と言えばその通りと納得もしていた。


「…ああ、女子で姫様…」と竜胆は言って、ふらふらと歩いて、強制的に信幻と甚太の間に割り込んで甚太のお世話を始めた。


甚太はわずかに竜胆よりも年下なので、今は仲のいい姉妹に見えた。


「ところで、母ちゃんはどこで働いてるの?」


幻影の素朴な質問に、「大店の法源院屋さんだよ」と甚太が気さくに笑みを浮かべて答えると、「…こりゃついていた…」と幻影は言って、満面の笑みを浮かべた。



幻影は食事を終えてから、宇和島の王源寺屋に文を送った。


その翌日の朝餉の前に、源次を伴って琵琶家の戦車を走らせた。


法源院屋屋に着くと、大いに感激しているお安と、大いに戸惑っている甚太の母のお園が待っていた。


幻影は自己紹介をしてから、「込み入ったお話があります」とだけお園に言って、ふたりを戦車に乗せて、人通りがまばらな街道を走り抜けた。


まずは琵琶御殿で夢のような朝餉を満喫してから、「あなたと甚太の件でお連れしたのです」と幻影が言うと、お園は観念したように、今日までのすべてを語った。


やはり世継製造機としていやがったことと、そのイヤなことを娘にも押し付けることになることに大いに嫌悪して、名を高知城に代えたばかりの城を飛び出したそうだ。


だが逃げたとしても、追手の影に怯える日々で、ついには体を壊してしまった。


その限界に達していた時、幻影が手を差し伸べたのだ。


「…私たちにも、天狗様が手を差し伸べてくださった…」とお園は言って、幻影に手を合わせた。


「街道で甚太を見かけて、かなりの理由があることがわかっていたから。

 いくら何でも、女子に男子の姿をさせる町人はいないからね。

 そのあとに、俺の弟から甚太の働き具合のことを聞いた。

 男の大人顔負けの働きをして、平気な顔をしていたと。

 特に姫様じゃなくて、殿様にしてもいいほどだよ」


幻影の言葉に、「…えー…」とお園が嘆くと、「その実例は何件もある」と信長が言うと、「…そうだったのですか…」とお園は納得してうなづいた。


「ところで甚太の本当の名前を教えて欲しい」


幻影の願いに、「早苗、です」とお園は言って恥ずかしそうな顔をした。


「お園さんは農家から武家の養女になってから嫁がれたわけだ。

 まあいろいろと、関係者の方がややこしくなったかもね…」


まさにお園の杞憂はそこにもあった。


実の父母や武家も義父母の面子をつぶしてしまったことになる。


「早苗ちゃんは私の雄々しき妻のようにもなれる可能性もあるのです」と幻影が言って蘭丸を見ると、「あら? 何のことかしら?」と蘭丸は上品に答えて、阿利渚を抱いて母の愛を見せつけていた。


しかし、背後にある幻武丸を見つけて、お園はよくわかったようだ。


「お屋敷もそうですが、

 素晴らしい鍛冶職人もお抱えしてしておられるようですね」


お園の言葉に、「すべて我らの仕事です」と幻影は胸を張って言った。


「…お噂と、少々違ってまいりました…」とお園が言うと、「それは金持ちの宿命のようなものです」と幻影が答えると、信長は愉快そうに笑った。


「今回は一筋縄ではいかんな。

 まあ、山内のヤツが幻影と接触を望んだのはこの件もあろうが、

 まだほかにもあるやもしれん。

 よって、それを盾に取ることも可能だろう」


「はっ まずは調べさせましょう」と幻影が言うと、信幻が竜胆に指示を与えた。


この公式での初仕事に、竜胆は大いに胸を張ってから消えた。


「…まだ小さいのに…」とお園は眉を下げて言って、我が子の早苗を見た。


「忍者の宿命です。

 ですが竜胆は忍びが好きなようですね。

 ああ特に、

 世継製造機を好きになれなど言っているわけではありません。

 たとえ命を失ったとしても、

 抗ってもよかったのではないかと思っただけです。

 あなたの場合、

 そこまでは考えていなかったようにも感じるのです。

 後ろめたさを感じながらも、

 娘を息子としてでも、

 縛られない生活を送りたかった」


幻影は少し厳しいと思うほどの辛らつな言葉を吐いた。


お園は抗おうとしたがまさに幻影の言った通りでもあったので、抗い切れずに涙を流してしまった。


「クリスチャン問題とそれほど変わらん話題だ。

 もうやめておけ」


信長の言葉に、幻影はすぐさま頭を下げた。


「だがお園を連れ出し、しかも事情を聞いた以上、

 我らには責任がある。

 よってすべてをお園の思い通りに導く必要があるのだ。

 もちろんだまし討ちなどはせず堂々と。

 どんな見返りになるのかは、竜胆が調べてくるだろう」


信長の重厚な言葉に、誰もが一斉に頭を下げたが、「…おまえ、まさかワシに花を持たせようなどと…」と信長が幻影をにらみつけて言うと、「本心を語ったまででございます」と幻影は真剣な目をして言った。


「…そうだな… お前はそういうやつだ…」と信長は穏やかに言って、幻影の頭を乱暴になでた。


幻影は本当にうれしかった。


どうしても感情が先走ることくらいはあって当然なのだ。


その過ちを、やはり信じた主が戒めてくれることを、心の底から喜んでいた。



お園と甚太は穏やかな時を温泉郷で過ごし、この日を終えた。


翌日の早朝、幻影たちが朝餉の支度をしていると、「…おなかすいたぁー…」とうなって竜胆が床に倒れた。


「飯ぐらいどこかで食え」と幻影は言いながらも、かなり豪華な弁当を竜胆の目の前に置いた。


竜胆は何も言わずに黙々と食べ始め、「ふおいふぉふぉふぁふぁふぁひはいあは!」と叫んだが、当然食べながらなので何を言っているのかわからない。


「あとでじっくりと聞くから。

 今は弁当に集中しとけ」


幻影の言葉に、竜胆は深くうなづいてから、黙々と弁当を食べた。



「ほう、面白い」と竜胆の話を聞き終えて信長はすぐさま言ってにやりと笑った。


「…この四国一の藩、ねぇー…

 とんでもないほど気位が高いですね。

 石高だけを上げればいいというものではないのに…」


幻影があきれ返って言うと、「さて、今回は農業と林業に携わることになりそうじゃ」と信長は陽気に言った。


「さらには長宗我部の残留武士たちとのせめぎあいか。

 これも十分に使えるな」


信長の言葉に、「御意」と幻影は言ってにやりと笑った。


「そのほかに、宿毛の里ですが、やけに剣気の高い者がおりました。

 遠目で探っていたのですが、偶然にも名を知ることができました。

 塚原卜典と」


竜胆がその文字を書くと、「卜伝ではなく卜典…」と信長は言って鼻で笑った。


「塚原卜伝は、今から五〇年程前に死んだ剣豪で、

 その子孫や弟子がはいるのかいないのかよくわからないんだ。

 勝手に鹿島新當流を名乗っている者が多くてね。

 どうやら受け継いでいる者はいないと俺は判断したんだ。

 まあ、武蔵の武勇伝と同じように、

 大いに尾ひれをつけたうわさが多かったようだけど、

 その剣気の強さを感じてみたいものだね」


幻影は言って蘭丸を見た。


「あ、胡蝶蘭様とは比べ物ものになりません」と竜胆は慌てて言って頭を下げた。


「じゃ、大したことないね」と幻影は陽気に言った。


「…忍びにとっては、かなり怖かったですぅー…」と竜胆は言って泣きだしそうな顔をすると、「ああ、悪かったね… ほら、新作だ」と幻影は言って、懐から駄菓子を出した。


竜胆は大いに喜んで、幻影に礼を言って、まずは食事を済ませてから、甘い菓子を楽しんだ。


「だけどその塚原が役人たちの妨げになるようなことを何かしてたの?」


「…多分、琵琶家と同じかなぁー…」と竜胆はそれほど考えることなく答えた。


「そうか…

 色々と利用できて、

 簡単にあやふやにできそうだ」


幻影の言葉に、信長は愉快そうに笑った。



幻影たちは子細に作戦を練って、まずは隣国めぐりとして、戦車二台を出した。


琵琶家のものと、徳川家のものだ。


今回も物見遊山の一環としたので、琵琶家の家族は全員いる。


「…龍河洞… …龍河洞…」と長春が呪文を唱え始めた。


「それもあるし、今の季節なら鯨にも遭遇できるかもな」


幻影の言葉に、「…でっかい、おさかな…」と長春は言って、夢見る乙女になっていた。


土佐の沖合は潮の影響により、多くの小魚や微生物などが流されてくる。


それをひと飲みにする巨大な生物が鯨だ。


比較的目撃されているし、漁師たちはこぞって大物を狙うために船を出す。


もちろん抵抗されると、一巻の終わりとなることもある。



今回は警戒が緩いようで、高知城を見上げられる城下町に入っても、妨げが何もなかった。


二台の戦車は、滑るように法源院屋の庭に乗り込んだ。


そして店主からさらに詳しい情報を得て、早速家族そろって高知城に出向いた。


すると今頃になって、大門は大騒ぎとなっていたが、その騒ぎの元からやってきたので、急に大人しくなって低姿勢で出迎えられた。


そして早速、松平忠義と天守で面会することになった。


もちろん今回も、松山藩の嘉明の名代として沙織も同行している。


謁見の間には、沙織、信幻、信長とその側近の入室が許された。


本来ならば、琵琶家は関係ないのだが、もちろん要件があるからだ。


「この度の元服、誠に目出度いことであった。

 しかも早速登城していただいたこと、

 まっことにうれしく思う」


忠義は大いに有頂天になっていた。


まさかの事態が訪れた時、この信幻が将軍になる可能性もあるからだ。


さらには次期将軍の家光とも懇意だと聞いていた。


だが、現在は加藤家の旗本という地位でしかないことを、大いに嘆いていた。


しかし信幻ははっきりと、現状のまま、何の欲もないと言い切った。


この平和な世には、それほどの武力は必要なく、大名の地位も望んでいないと語った。


そして江戸に出た暁には、徳川家の旗本として従事したいとも言った。


もちろん、この話も忠義は聞いていて、「信幻殿はもう家老になられることは必定じゃろうて」と機嫌よく言った。


そして忠義は居住まいを整えてから、信長を見入った。


「どうか、我が願いを聞き入れていただきたい」と言ったのだが、信長は沙織を見た。


「非公式ではございますが、琵琶家は我が加藤家の旗本のようなもの。

 御用があるのであれば、

 できれば、加藤家を通していただきたいと存じます」


忠義は大いに苦汁を飲んだ顔をした。


「ワシら家族はほとんどが武士じゃ」という信長の言葉に、忠義は大いに目を見開いた。


「加藤家の旗本のようなものとは、交換条件があってな。

 我らが商売での税は一切徴収しないという約束事があるからじゃ。

 よってその見返りとして、

 旗本のようなものに属しているというわけじゃ」


「…うう…」と忠義はうなるしか術はなかった。


「…ですが、それほど難しことでなければ、

 私の一任で許可いたしますが、どうされますか?」


小声で告げた沙織の言葉はまさに甘い蜜だった。


忠義はすぐに家老を呼んで、それほど大ごとではない事案などの検討を始めた。


もちろん、誰もが耳を傾けてすべてを聞いている。


まさに本人たちがいろいろと教えてくれたことで、この先の計画も立てやすくなった。


そして、『園部母子捜索』の案件もあった。


だがどこにいるのかもわからない者を探すことは至難の業と考えて、保留になった。


しかも、妻に逃げられたことはおいそれと外に出すわけにもいかない。


出すとすれば、さらに親密な関係になってからのはずだ。


よって忠義が決めたのは、宿毛に住む塚原卜典の説得となった。


まさに渡りに船のようなもので、できればこの仕事を受けたいほどだった。


そして詳しい事情を聞くと、『これ以上の課税をするのならば、一機を起こしてもやむなし』と脅してくるわけだ。


もちろん、諍いは避けなければならない。


一揆を起した方も咎められるが、起こされた松平家もただでは済まないからだ。


「どこに行ってもこの問題は後を絶たん。

 それほど税を取り立てて何に使っておるのじゃ?

 まさか奥に、豪華なものを贈るためか?」


信長の言葉に、「…うう、それはぁー…」と忠義の歯切れが大いに悪い。


第一の課税が増える原因はこの件が多いのだ。


それがない藩は、飢饉などによってさらに課税をしてくる。


その理由は、ほかの藩から物資を購入するために銭が必要になるからだ。


よって農民たちは二重苦を味わうことになる。


「予防策として、加工物資の供はできるぞ。

 しかも格安でじゃ。

 知っての通り、琵琶家は法源院屋と深い関係がある。

 日ノ本全ての農家から、売り物にはならない作物を安価で買い取って、

 それを加工して売る事業も行っておる。

 売る方もある程度はうるおい、

 仲介として法源院屋も潤い、販売して我らも潤う。

 その好循環で、琵琶家は大きくなったのじゃ。

 どうじゃ、それを安価で手に入れるだけでも、

 課税を留めることはできんじゃろうかのう


信長の提案は二つ返事で賛同されて、必要になる保存食や菓子などを受注した。


その金額を見て、「…なんと、これほどに安価なのか…」と忠義は少し嘆いてから、うまい試供品を食って満面の笑みとなった。


「今回は余裕があるからじゃ。

 じゃが、次が必ずあるとは言えんから、

 理解しておいて欲しい」


「いや! 大いに理解しておる!」と忠義は言って、来期の税をわずかだが下げるように示唆した。


「では、その書状をもって塚原某に会いに行こう。

 なんなら、役人もついてきても構わんぞ。

 ワシらの車には乗せんがな」


忠義は琵琶家の戦車と戦艦の能力はよく知っていた。


馬でも早駆けでなければ追いつけないと報告を受けている。


よってここは、加藤家と琵琶家だけで話し合いをしてもらうことに決まった。



幻影たちは早速、家族総出で二台の戦車に乗って宿毛を目指した。


途中までは城の馬が追いかけていたが、中村に着くまでにはもういなくなっていた。


戦車はそのまま宿毛に到着して、近くにいた農夫に塚原卜典に用があると告げた。


話が終わってすぐに、その塚原がやって来て、二台の戦車の旗を見て満面の笑みを浮かべた。


「言いたいことは色々とあるじゃろうが、

 まずはこれじゃ」


信長は言って、忠義が認めた、次期税の書を読んで、「…これならばなんとか…」とつぶやいてから、信長に頭を下げた。


「つかぬことを聞くが、そなたは塚原卜伝の末裔か?」


信長の言葉に、「はい、いかにも」とだけ、卜典は答えた。


「そなたの腕前なら、

 城に仕官しても問題なかろうに」


「いえ、それでは私は長いものに巻かれることになります。

 あなた方はそうではないとお聞きしていたのですが…」


卜典は言って、沙織を見た。


どこからどう見てもどこぞの姫とわかる姿をしていたからだ。


しかも戦車の一台は三つ葉葵の旗が立っている。


「ああ、あれはな…」と信長は気さくに言って、全てを説明した。


よって幕府などの傀儡ではないと説明と証明をしたのだ。


もちろん、お園と源太の件だけは話していない。


そして卜典は今度は信幻を見入るように変わった。


間近で徳川の姓を持つ者に会うことは珍しいからだ。


「ですが私はまだまだ修行の身…」と信幻は謙遜してから、萬幻武流の流派の話をした。


「…天狗が創始者だと聞いておったが…」と今度の卜典の注目は幻影に変わっていた。


「ええ、天狗です」と幻影は気さくに言って、ふわりと宙に浮かんだ。


卜典は何も言えずに、幻影を見入っているだけだ。


「もしよろしければ、真剣をもって向かい合ってみますか?

 戦うとは言っていませんから。

 まさに言葉通りのことだけです」


幻影の言葉に、「…ぜひとも…」と卜典は言って、広い場所に歩いて行った。


すると当然のようにして蘭丸が距離を開けて卜典の前に至って、幻武丸を片手で抜いて、上段からゆっくりと幻武丸を下げ、切っ先を卜典に向けた。


「参った!」と卜典はすぐさま言い放ったが、なぜ言葉に出たのか苦悩を始めた。


「それほどおらぬ逸材じゃ」と蘭丸は機嫌よく言って、幻武丸を鞘に収めた。


「…なんという… まさに実戦…」と卜典は流れる冷や汗を拭おうともせずつぶやいた。


「何だったら木刀で手合わせします?」と幻影が気さくに言うと、「はっ できれば」と卜典は動揺していた心を落ち着かせるように言った。


今回は幻影が木刀をもって、一本を卜典に渡して素早く距離を取った。


「なんだ、杖を使わないのか」と蘭丸が苦情があるように言うと、「卜典さんの望みがあれば後にでも」と幻影が言った。


―― 槍の方が得意なのか… ―― と卜典は思いながらも、覇者の構えを取った。


木刀をしっかりと握り、顔の横に添える、変形の上段の構えだ。


「始め!」と信長が叫ぶと、幻影は木刀を上段に構え、一気に前に出た。


もちろん卜典は、両手を中心にして滑らかな動きで木刀を振ったのだが、いたはずの幻影は間合いの外にいた。


幻影は踏み込んで着地した瞬間に引いて、また前に出て、卜典の木刀を上から押さえつけたのだ。


「それまで!」という信長の非情な言葉に、「…参りました…」と卜典はうなだれたまま言った。


「ただひとりだけで鍛えても強くなれません」と幻影が言うと卜典は認めるように頭を下げてから、木刀を返した。


「私が強くなったと思ったのは、弟子を取ってからです。

 弟子の手前、負けるわけにはいかないので。

 その想いを加味して、強くなったと思えるわけです」


幻影の言葉に、門下生たちは大いに感動していた。


まさかそんな理由があるとは思ってもいなかったからだ。


まさに雄々しき師匠に、門下生一同は頭を下げた。


「…井の中の蛙とは、まさにこのことです…

 どうか、同行を許していただけませんか?」


卜典の言葉に、「まずはこの村の事があるのですが?」と幻影が意地悪そうに言うと、「…うう…」と卜典はさすがに戸惑った。


「まずは村の方々と話をしてください。

 ここに来たついでなんですが、

 売り物にならなくて食べない作物が余っていたら買いますけど、

 どうです?」


それならばと、村人たちが成長不足などの日持ちがする作物を持ってきた。


ほとんどが芋類で、幻影はすべてを加工して、保存食やお菓子に変えた。


まさに大人も子供も大いに喜んで、せんべいなどの高級品は食べたことがないと言って、少々騒ぎになった。


だが大いに元気にもなって、懐も温かくなっていた。


「高知城下に戻って、さらに作ってから殿に献上します。

 来期の税はさらに抑えてくれるかもしれませんよ。

 というように話を仕向けるので、

 売り物にならないものは、きちんと保存をしておいて、

 法源院屋に話をして買ってもらってください。

 その時々の条件もありますから、

 あまり期待をしないことをお勧めします」


村人たちは幻影に大いに礼を言った。


幻影たちは戦車に乗って、宿毛を離れた。


「…芋羊羹…」と信長がいきなり言った。


「城を少々通り過ぎましょう」と幻影は答えて、弁慶と源次にも伝えた。


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